突然のプロポーズ2
「サヴァルさま! 大丈夫でございますか!?」
「え? サヴァルさま……?」
国王陛下と同じ名前を耳にし、コレットはこくんと息をのむ。
「ま、まさか。零れてしまったミルクの行方は、ひょっとして……」
恐る恐る声のする方を振り返ったコレットは、ショックのあまりに失神しそうになった。
そこにいたのは、ミルクをかぶってずぶぬれになった、黒衣の騎士。長めの銀の髪からミルクがぽたりぽたりと滴っていて、黒い騎士服はまだらに白くなっていた。
紫色の瞳は鋭い光を放ち、微動だにせずコレットを見下ろしている。その様子は、まるで魔神のよう。
この方は、もしや、本物の国王陛下なのだろうか。狼のように恐ろしいと評判の……!?
全身から血の気が引いていくのを自覚しながら、コレットは地面に頭をこすりつけんばかりに頭を下げた。
「も、申し訳ございません!!」
コレットはカメを下に置き、震える手で巾着から布を引っ張り出して差し出した。恐ろしくて頭を上げることもできず、ただただ布を差し出す。
「どうか、これでお拭きくださいませ!」
「娘……君の名はなんという? どこの牧場の者だ?」
差し出した布は受け取られず、返ってきた声は恐ろしく冷ややかなもの。
コレットは背中が凍りつくのを感じながら、返事をすることもできず、ひたすら頭を下げていた。
陛下は噂にたがわずとても恐ろしいお方だ。そんなお方にミルクを浴びせてしまったとは、いったいどんな罰を受けるのか……。
「娘、頭を上げて、サヴァルさまの質問に応えなさい」
別の声に促されたコレットは、おずおずと頭を上げたが、陛下と目を合わせる勇気がない。精悍な顎のラインを見るのが精いっぱいだ。
「はい。わ、わたしは、コレット・ミリガンと申します。向こうの、山の、牧場に住んでいます」
震える指で牧場のある方を示すと、陛下はその方向を一瞥した。
そして、傍にいたメガネの騎士に何やら耳打ちをすると踵を返して去っていく。メガネの騎士は「承知しました」と言って背中を見送ったあと、やおらコレットに向き直った。
「コレット・ミリガン。後程沙汰を申し渡すので、自宅にいてください」
「はい。承知、しました……」
コレットは力なくうなだれる。沙汰、とは……。いったいどんな罪で裁かれるんだろうか。
コレットは震える手でカメを拾い上げ、力の入らない脚をなんとか動かして荷馬車まで戻った。
馬はおとなしく待っており、コレットはそのことを褒めて鼻面を撫でた。その手が小刻みに震えていることに気づき、両手をこすり合わせてなんとか宥める。
陛下にとんでもない粗相をしてしまったことは、彼女にとって、両親を亡くしたのと同じくらいの最悪な出来事。いや、それ以上かもしれない。
両親の亡骸を目にした時と同じように、ヘナヘナと座り込んで悲しみに暮れたいところだが、今はそうはいかない。とにかくミルクを城に納めねばならないのだ。
自分に暗示をかけるように『大丈夫、私は平気』と、何度も心の中で唱える。それでも、身を射貫かれるような鋭い紫色の瞳は目に焼き付いていて離れない。収まるどころか、時とともに恐怖心が増していった。
そんなコレットに、近づく者たちがいた。
「泥棒にあったとは、大変だったなあ。お嬢さん」
不意に横から声をかけられ、コレットが目をあげると、数人の男女に囲まれていた。
「大丈夫かい?」
商店の人たちだろうか、眉を下げて心配そうに彼女を見ている。その中の婦人が「怪我はないの?」と尋ねながら、背中を優しく撫でてくれた。
皆、中年であるニック夫妻と同じくらいの年齢の人たちばかり。『泥棒ー!』という渾身の叫び声を聞いて集まってきたのだという。
人の優しさに触れて孤独感が薄れ、胸の中にぬくもりが広がり、コレットの震えが次第に収まっていく。
「ありがとうございます。怪我はないです」
背中をさすってくれている婦人にお礼を言うと、口ひげを蓄えた男性が感慨深げに言った。
「しかし、騎士団の反応は早かったなあ。お嬢さんの叫び声を聞いた途端、矢のように駆けていったもんなあ」
「俺たちはちょっとの間呆然として動けなかったのに、さすが、精鋭の集まりと名高い騎士団だぜ」
「騎士団が居合わせていて、お嬢さんは幸運だったよ」
口ひげの男性の言葉を皮切りに、皆は口々に騎士団の素晴らしさを褒める。長年続いた内戦を収めた立役者である現騎士団は、人々の誇りでもあり憧れでもあるのだ。その上に立つサヴァル陛下への尊敬の念は、それ以上のものだろう。
集まってきた人たちは、黒衣の騎士サヴァル陛下にミルクを浴びせてしまったことは見ていないらしい。誰も、そのことに触れないのだ。もしもその事実を知ったら、彼らはどんな顔をするだろうか。
「でも、城に納めるものを一個失くしてしまいました……泥棒から取り戻すときに、零してしまって」
コレットが空っぽのカメを指さすと、口ひげの男性がポンと手を打った。
「それならさ、この九個から少しずつ移して、十個にしたらどうだい?」
「えええ!? そ、それは……どうかと」
そんな誤魔化しをしてもいいのだろうかと目を丸くするコレットに、口ひげの男性は笑顔を見せる。
「山から下りてきたんだろう? ガタガタ揺れて零しましたって言えば、少しくらい中身が減っていても文句は言われないさ」
「なんなら、俺たちが移すのを手伝ってあげるよ」
え……とか、でも……とか、戸惑いの声を上げるコレットに対し、男性陣はニカーッと笑って見せる。
「世の中をうまくわたっていくには、ちょっとの狡さも必要だよ、お嬢さん。商売とはそんなもんさ」
「明日、『昨日零し過ぎたお詫びです』って、ちょっと余分に持って来ればいいよ。減っちゃったのは、不可抗力なんだからさ」
背中をさすってくれた婦人までもが、誤魔化すのを進めてくる。
コレットがどうするべきか悩み黙ったままなのを見て、男性陣は了承したと思ったのだろう。ミルクのカメを荷馬車から降ろし始めた。どう移せば自然に見えるかと、あーだこーだと相談している。
その様子を見ながらコレットは考えた。やっぱりどんなに些細なことであっても誤魔化しはいけないことで、ましてやこれは城に納めるもの。
あのサヴァル陛下の住まうところだ。もしもバレたら罪を重ねてしまうことになる。
冷たい声と紫の瞳を思い出し、ゾゾッと身震いをした。
「あの、皆さん待ってください!」
コレットが声を上げると、空っぽのカメの中に、今まさにミルクを移そうとしていた男性は、ピタッと止まった。
「役人さんに正直にお話して、どうすればいいのか相談します。親切にしていただきありがとうございます」
男性たちは顔を見合わせて肩をすくめると、荷馬車にミルクのカメを戻し始めた。
「お嬢さんは、正直だなあ。俺たち、ちょっと恥ずかしくなったよ」
頭をかきながら照れたように笑う口ひげの男性は、手芸店の主だという。ポケットの中から一束の刺繍糸を出してコレットに差し出した。
「ちょっと目が覚めたな。お嬢さんの正直さと勇気を讃えて、これをあげるよ。新色なんだ」
「え、でもいいんですか?お店のものじゃないんですか?」
「いいんだよ、受け取ってくれよ。お嬢さんにあげたいんだ」
「ありがとう……綺麗な色」
男性がくれた糸は、紫色のもの。コレットは刺繍糸をポケットに仕舞い、見ず知らずの自分に親切にしてくれた皆に何度もお礼を言って、ミルクを納めるべく城を目指した。
ぽっくりぽっくりと、荷馬車はゆっくり進む。
それを見送る皆は、一斉に苦笑いをしたのだった。あの速度では、泥棒の標的になるはずだと──。
そんな風にのんびりゆっくりでも城に到着し、でっぷり太った役人にカメが一個足りない理由をたどたどしいながらも一生懸命説明をするコレット。
話を聞いてくれた役人はうーむと唸り苦々しい表情をしていたが、別の役人も出てきて何やら相談をし、明日一個余分に入れることで、どうにか話が収まったのだった。