妃のつとめ3
無言のままスタスタと歩く陛下に運ばれていくコレットは、目の前にある綺麗な銀の髪がさらさらと揺れるのを、不思議な気持ちで見つめていた。
癖のない銀糸のような髪の隙間からは、陛下の耳がちらちらと見え隠れしている。ふっくらとした耳朶には、リング型の金のピアスがふたつあった。
陛下はどうして司祭の宣言を待たずに儀式の途中で退席したのだろう。
そして、どうして、誓いのキスを変えたのだろう。
最初は、あのままキスをするつもりだったはずだ。
言っていた通り、キスをするのを人に見られたくなかったからか。
それとも、偽の花嫁にキスをするのが嫌だったのか。
それとも……と、もう一つの可能性を頭に浮かべて、すぐに、それは違うと打ち消した。
だって、陛下はいつだって強引なのだ。コレットのことを気遣うなど、ありえないことだと思う。
現に、今もコレットの意思もこの後の段取りも関係なく、どこかへ連れて行こうとしているんだから。
リンダたちの待つ身支度部屋の前はとっくに通り過ぎてしまった。
それに、何故か階段を上り始めている。本当に、どこまで行くつもりなのか。まさか、このままお部屋に行くの??
コレットは我慢できずに、おずおずと声をかけてみた。
「あの、陛下? ……今から、どこへ行くのですか?」
「執務室だ」
……執務室。どうしてそこに行くのだろう。
政治や仕事のことが分からないコレットでも知っている。執務室とは、陛下が仕事をするお部屋だ。
お針子だった母にも、お客さまの注文やデザイン画や請求書など、書類を管理する小さな部屋があった。幼い頃は『大事なものがいっぱいあるから』と、立ち入るのを禁じられていた。母の仕事部屋でさえそうだったのに、ましてや陛下の執務室ならば、母の書斎などとは比べ物にならないほどに、見てはいけないものがたくさんあるはずだ。そんな部屋にコレットが入ってもいいのだろうか。
やがてコレットは白い扉の前で下ろされた。金の取っ手が付いており重厚だが、彫刻などは控えめな、わりとシンプルな扉である。ここが、陛下の執務室。
儀式の間からここまで、ずっとコレットを運んできたというのに、陛下は息ひとつ乱れず涼しい顔をしている。さすが騎士王というべきか、常日頃から鍛えているのだろう。すごく逞しい。
「……入れ」
スッと腰に手を当てられて、コレットは導かれるままに中に入った。
執務室の中はとても広いけれど、分厚い背表紙の本が入れられた書棚が、ふたつの壁を覆い尽くしていた。それらのわずかな隙間に、前飾りが茶色い木枠のシンプルな暖炉がある。大きな執務机は窓の方に置かれていた。
机の上には、書類らしきものが何枚かと黒い羽ペンがひとつ転がっている。出したままの状態ということは、儀式のある日でも仕事をしていたようだ。それほどに、毎日が忙しいのだろう。
カタンとわずかな物音がしてたあと、レースのカーテンがふわりと揺れるのを目の端にとらえる。元を見やれば、陛下が窓を吐け放っていた。
朝は濃霧だったが、今は青空。風が吹いていて、さわさわと揺れる樹木の葉擦れの音が、部屋の中まで聞こえてくる。霧の後は、いつも強めの風が吹くのだ。
机の上にある書類が風に吹かれて飛びそうになっており、コレットは咄嗟に手に持っていた宝剣を重石代わりに置いた。
「こっちに来い。今からバルコニーに出るぞ……君は、足元をよく見ろよ」
「え……バルコニーに? どうして……あっ」
履き慣れない靴に着慣れないドレス。その上に陛下を待たせてはいけないと、急いでしまったこともある。それに部屋とバルコニーの段差は思いのほか大きく、コレットはヒールを桟に引っかけてしまっていた。要するに躓いたのである。
「きゃああぁっ」
バランスを大きく崩し、手をバタバタさせてもがいても、どうにもならない。コレットは、先にバルコニーに出ていた陛下の腕の中に、ぽすんと飛び込む形になった。
コレットの頭の上では、ふぅーっと大きなため息が吐かれていた。呆れているのかもしれない。
「まったく君は、世話が焼ける……気を付けろと言ったはずだが?」
「は、す……すみませんっ」
「まあいい。これも慣れてきた」
陛下の胸に飛び込むのはこれで二回目だ。コレットは、自身の体の鈍さに愛想が尽きていた。今までずっと、運動神経は普通だと思っていたが、こんなにどんくさいとは。恥ずかしさに頬を染めながらも体勢を立て直すと、陛下にバルコニーの端に誘われた。下の方から、「わーっ!! 王妃さまだー!」と、歓声が沸き上がっている。
「え……?」
驚きながらもコレットが下を見やると、騎士姿の人やお仕着せを着た人たちが集まっていた。陛下とコレットに笑顔で手を振っている。
「あの者たちは、アーシュレイが集めたんだ。みんな、このガルナシア城で働く者たちだ。一時的な王妃と言えど、君は彼らの上に立つことになる。顔見せだ」
「わたしが、この、あの方々の上に立つ……?」
「気負うことはないぞ。君は、ありのままでいればいい。出来ないことは要求しない」
コレットは、陛下の仕事は『国全体の管理』で、王妃の仕事は『城の管理』だとアーシュレイに教育されている。
集まっているのは、ざっと二百人以上はいるのだろうか。シェフに侍女に作業着。皆様々な服装でいる。
コレットが城に来て出会った使用人と言えば、リンダと給仕係位だ。いつも城内は静かだったが、こんなにたくさんの人が働いているのだ。今までどこに隠れていたんだろうと、驚くやら感心するやら。それでも陛下は、これで全員ではないという。
手を振る彼らの笑顔が、コレットに王妃の存在の大きさを実感させた。これから城内の采配などは、コレットがすることになる。漠然と感じていたことが、少しずつ手ごたえのあるものに変わっていき、思わず身震いをした。
「うむ、もう十分だな」
まもなくして、陛下にぐっと腰を引かれて部屋の中に戻されたコレットは、小さな鍵を渡された。
薬指ほどの長さの小さな物だが、青い石と透明な石が嵌め込まれてあり、日の光を受けてキラキラと光っている。
「わあ、綺麗ー!」
思わず感嘆の声が出た。ただの道具がこんなに美しいなんて。城で使う道具は、いちいち華美だと感心してしまう。ティーセットにしろ羽ペンにしろ、シンプルなものがひとつもないのだ。
「それは、この階の隅にある王の書庫の鍵だ」
「王さまの……? そんな大切な場所の鍵を、どうして、わたしにくださるのですか?」
「君に知識が必要だと判断したからだ。書庫には、今までの歴史や法などが書かれた書物がある。国で起こった事件の記録などもある。閲覧したければ自由にすればいい」
「はい、ありがとうございます」
「それから、その鍵は宝剣同様に大事なものだ。絶対に、なくさないように」
いいな?と念を押す陛下の眼光が鋭い。
宝剣と書庫の鍵。陛下から渡されたものは、どちらも重要なものだ。お沙汰で始まった偽の関係と言えど、何故だかとても信用されていることを感じる。
コレットは、できうる限り役目を果たさねばならないと、硬く決意するのだった。アーシュレイが、心身ともにふさわしい、本物の王妃さまとなるご令嬢を、見つけるまで。
「陛下、わたし、偽物王妃として、しっかりがんばります!」
精一杯の笑顔を作って向けると、陛下は小さなうめき声をあげた。そして、ふいっと背を向けてしまう。
「君は……不意打ちをするな」
「え?」
尋ね返すコレットだけれど、陛下は顔を見せないまま「リンダが迎えに来るのを待て」と言い残して、執務室から出て行ってしまった。
「陛下……まさか、怒ってしまったのかしら? どうして?……不意打ちって、どういうこと?」
だってコレットは、がんばる決意を伝えただけなのだ。もしや、がんばってはいけないのだろうか?
いくら考えても分からない。
コレットは、宝剣と鍵をしっかりと握りしめ、リンダを待つことにした。
この大切な二つを、どうやって管理すればいいかと考えながら。