妃のつとめ2
さて、今日王妃となる噂の“異国の姫君”であるコレットは、ガラァ~ン……ゴロォ~ン……と、お腹にずっしりと響くような鐘の音を聞きながら、震える胸を押さえていた。
鐘は時を置いて十回打ち鳴らされるのが決まりで、今は十回目。この音が鳴りやめばいよいよ儀式が始まる。
「コレットさま。とてもお似合いですわ! 陛下もきっと惚れ直しますこと間違いございません!」
「王妃さま、本当にお綺麗ですわ~!」
「王妃さま、素敵でございますー!」
リンダと他二名の侍女たちは、美しく仕上がった花嫁姿のコレットを見て、頬を染めて華やいでいる。
特に初対面である二名の侍女たちは、陛下のハートを射止めたコレットに対して尊敬とも憧れともいえる眼差しを向けていた。
あの恐ろしい狼陛下の心を揺るがした唯一の女性なのだ。
気の早い二人はもうすでに王妃さまと呼んでおり、くすぐったいような違和感を覚えつつ、コレットはリンダたちに笑顔を向けた。
「みんな、ありがとう」
コレットがいるのは、ガルナシア城一階にある身支度用のお部屋。
儀式の間の近くにあるここで花嫁姿に変身したコレットは、金細工の枠飾りも美しい姿見の前に立っていた。
花の刺繍の入った豪華な純白のドレスに身を包み、羽のように軽いヴェールを頭に乗せた自分の姿は美しく、まったく別人のようだ。平民っぽさがなく、完璧な偽物花嫁になっていると思える。
けれど、純白レースの手袋をしている指先は、感覚がないほどに冷たくなっている。それほどに、緊張しているのだった。うっかりブーケを落としてしまわないよう、気を付けなければならない。
「コレットさま。お時間でございます」
「は、はいっ。今行きます!」
迎えの呼びかけに対して震える声で返事をし、リンダが差し出した純白の薔薇で作られたブーケを持った。
「コレットさま、行ってらっしゃいませ」
リンダたちに見送られて部屋を出ると、硬質な靴音が石造りの廊下に冷たく響き、コレットの緊張感はいや増していく。
何しろ紙に目を通しただけのぶっつけ本番な婚姻の儀式。儀式の証人となる見届け人たちは、大臣をはじめとする国の重鎮方が務める。その中には、あのミネルヴァ大臣もいるはずだ。
彼は、浅はかでないか試すといった理由で、サーラを食べるようにすすめてきた意地悪な大臣。コレットが失敗をすれば、声高々に注意するか、失笑するだろう。そして、城内で顔を合わせるたび、イヤミを言うに違いない。もっと最悪なことに、儀式自体を止めかねない。粗相は絶対にしてはならないのだ。
そんなことばかり考えていると、すぐに儀式の間に着いてしまった。
飴色の重厚な扉を前にして、こくんと息を飲む。目眩がしそうなほどの緊張の中で、儀式の流れを頭に浮かべながら何度も深呼吸を繰り返して怖気づく気持ちを奮い立たせた。
「コレットさま、皆さまがお待ちでございます。そろそろよろしいですか」
「あ、はいっ。すみません! お、お願いします!」
もうなるようにしかならない。コレットは姿勢を正し、まっすぐに前を向いた。
正装を纏った騎士の手によって恭しく扉が開かれると、真っ赤な細長い絨毯が敷かれているのが目に入った。
その両脇に並んだ椅子に国の重鎮方が座っており、祭壇の前には神妙な顔つきの司祭の姿がある。
壁際には金と銀のリボンでまとめられた紅白の花が飾られてあり……でも、肝心な陛下の姿がどこにもない。
まだ儀式の間に来ていないの? そんな不安にかられたとき、陛下は扉の陰から姿を現してコレットから数歩離れた位置に立った。
黒の正装を身に纏い、凛とした立ち姿は狼の威厳に満ちている。
「……陛下、本日はよろしくお願いいたします」
コレットは前に進み出て、ブーケを持っていない方の手でドレスの裾を持ち上げて礼をとった。
そして、差し出されているてのひらに、指先をそっとのせる。
「なんだ、震えているのか?」
「はい……あの……すみません。緊張、しています……」
「言ったはずだぞ。君は、何もかも私に任せておけばいいと」
陛下は震える小さな手をぐっと握って自分の腕に絡ませると、祭壇の前まで誘導した。
神妙な顔つきの司祭が厳かに祈りの言葉を唱え、儀式は滞りなく進んでいく。
やがて司祭は、祭壇の上に置かれている小さなテーブルを手に持った。
赤い布が敷かれたそれには、宝石が散りばめられた懐剣が乗せられていた。
「では、宝剣をどうぞ……」
式次第は頭にいれていたはずなのに、コレットには、これをどうすればいいのか分からない。
大きな疑問符を顔に浮かべていると、陛下に体をくるんと回されて向かい合う形になった。
そして手にあるブーケを奪い取られて、代わりに宝剣を握らされる。
「私は、この身に代えて君を守ると誓う。そして王妃である君に私の命を預ける。不義があれば、この剣で私の胸を貫くがいい」
陛下の鋭い眼光が、宝剣を持つコレットを捕らえる。
コレットは震えながらも、手の中にある宝剣を見つめた。
手のひらよりも少し大きなそれには、透明の石を中心に深紅の石と深い青の石が等間隔に埋め込まれている。見た目よりもかなりずっしりとしており、王妃の責務の重さを感じた。
再び陛下を見上げれば、偽の儀式なのに、見つめてくる紫の瞳はとても真摯で……コレットは不思議な感覚が胸に生まれるのを感じた。それは温かいような、くすぐったいような、言葉には言い表せないものだった。
「はい……陛下。必ずそうすると、お約束します」
小さな声で返事をすると、顔にかかるヴェールが取られ、頬が両手で包まれた。
すっぽりと大きな手のひらに包まれたコレットは、戸惑いつつも覚悟を決め、そっと瞳を閉じた。
今から何をされるのか知っている。庶民の結婚式でも必ずあるもの。
そう、誓いのキスだ……。
覚悟をしていても、睫毛と唇が震えているのを自覚する。
初めてのキスが偽の儀式で、しかもちっとも愛されていない人とするなんて、切なさを感じてしまう。
せめて、自分が陛下を愛していたら、気持ちも違うだろうに。
陛下は、愛してもいない女性にキスをするのは平気なんだろうか。
そんなことを考えていると、頬からぬくもりが消え去った。
「……人前で口づけをするのは、私の性分ではないな。我が妃への愛の誓いは、騎士王らしいものとしよう」
「え……?」
コレットの青い瞳に、陛下の銀の髪がふわりと揺れるのが映る。陛下は、コレットの足元に跪いていた。そして宝剣を持っていない方の手が取られ、陛下の口元に寄せられていく。
「我が妃に、愛と忠誠を誓う」
コレットは、指先に柔らかなものがそっと触れているのを感じた。陛下の、唇だ……。
間もなく、見届け人たちから、ちょっとしたざわめきが起こる。みんなとなりの者と顔を見合わせ、小声で何かを言い合っていた。
そんな彼らを一瞥して口角を上げた陛下に、立ち上がるついでのように片腕で子供抱きにされ、コレットは小さな悲鳴を上げた。
「婚姻の儀式は滞りなく完了した。見届け人たちよ、我らは、これで失礼する!」
そう宣言する陛下に、コレットは、抱き上げられたまま儀式の間から連れ出されてしまった。
呆気に取られている司祭と、眉間にしわを寄せる見届け人たちを残して。
そして儀式の間では、主役がいないまま、司祭はぽつりと宣言していた。
「では……これにて、婚姻の儀式は終了いたします」