妃のつとめ1
婚姻の前夜、コレットはいつもの部屋ではなく、三階にある客間で就寝することになった。今まで使用していた部屋は、婚約者のそれから王妃仕様に変更中で、明日まで立ち入り禁止になっている。
「もう、明日なのね……」
コレットは、ベッドサイドにあるテーブルに置かれた紙を手に取った。
これは明日の予定が書かれているもので、今朝の食事の席で陛下に渡されたもの。
『君は覚えなくてもいい。目を通しておいてくれ。ただ私の横に立っていれば、それで十分だ』
陛下はそう言っていたけれど、そういうわけにはいかないだろう。儀式の最中は、陛下ばかりでなく、コレットがやるべきこともたくさんあるはずなのだ。
コレットは何度も読んで復習し、頭に叩き込んでいく。けれど、読むたびに題名の“婚姻の儀式”という文字がやけに大きく見えてしまう。
「うまくできるかしら……」
いよいよ明日、偽物王妃になる。そう思うと、なんとも表現しがたい複雑な気持ちになる。
陛下に妃となるよう申し渡されてから約一週間。これまでは急激な環境の変化とアーシュレイの教育についていくのに懸命で、先のことを深く考える余裕がなかった。
儀式が明日となった今は、これと言ってすることがないせいか、あれこれと不安なことばかりが頭をもたげる。
たった一週間前は牧場の娘で、牛と鶏に囲まれた生活だったのに、偽の王妃としてうまく立ち回っていけるのだろうか。貴族方との社交なんて、できるのだろうか。
何もかもを放り出して逃げられたら、どんなにいいだろう。
だが、“お沙汰”という状況と、“陛下を守る使命感”が、逃げ出したい気持ちにストップをかける。
余計なことを考えるからいけないと分かっているが、どうにも止められない。
すると、ふと、陛下の言っていたことを思い出した。今朝、食事の間に向かうときに言われたこと。
『君は、今もこれからも、君らしく振舞っていろ』
これは、階段を下りるときにぽつりと言われた言葉だ。
前振りも前後の会話もなく突然言われたのだ。あのときは、何のことを言っているのかさっぱり分からなかったけれど、今思いだせば少しだけ気が楽になったことに気づく。
「あのとき陛下は、わたしが不安になるのをお見通しだったのかも……?」
まだ胸の中では責任と不安と緊張がせめぎ合っている。でもほんのちょっぴり、楽しみな気持ちもある。楽しみなどという感情があることに自分でも驚くが、その根本は分からない。
コレットはふと思い立って窓辺に寄ってみた。カーテンの引かれていない窓からは、月明かりが射し込んでくる。満月が近いのか、夜にしてはたいそう明るく、夜回りの騎士が城の敷地内を歩く姿がよく見えた。
ふとチェストの上にある置時計を見れば、金色の針は午前零時を指していた。
「いけない! そろそろ寝なくちゃ。明日はとても早いんだもの」
コレットは式次第の書かれた紙をサイドテーブルの上に戻し、明日は粗相をしないことを祈りながら眠りに就いたのだった。
──婚儀の朝、都街には冷たい霧が立ち込めていた。
盆地であるガルナシア国によくある現象で、こんなとき都の人たちは、霧が晴れるまで外出を自粛している。
アルザスの山肌から下りてくる雲のように濃い霧は、城下の家並みを覆い隠してしまい、白亜の美しいガルナシア城も白く霞めてしまう。かすかに吹く風が、靄を少しずつ流していき、城の藍色の屋根が現れては消える。
そんな何もかもを覆い隠すような濃い霧の中、ガルナシア城の敷地内では小道を歩く人影がひとつあった。
その人物は白いローブを身に着けている五十代くらいの男性で、ランプを手にし、東の隅にある鐘つき堂を目指していた。
お堂の鐘は、国にとって重要な出来事がある日に鳴らすもの。
男性も一般庶民と同じく、濃霧の中を歩くことなどめったにない。勝手知ったる道ではあるが、数メートル先も見えない状態に辟易していた。ランプがちっとも役に立たず、足元に目を凝らしながらそろそろと歩みを進める。
「やれやれ、昨夜は天気が良かったのに、こんな日に濃霧とはついていない。時間までには晴れるといいが……」
やがて男性の進む先に、白亜の鐘つき堂が見えてきた。
霧の中にうっすらと浮かび上がるそれに、庭の木立から漏れる光芒が幾筋もかかっている。
「なんと……ここだけ、日が届いているとは。これは……」
男性はその光景の美しさに、思わず足を止めて見入ってしまった。
お堂にかかる斜の光は七色に輝き、なんとも神々しい。まるで天が今日という日を祝福しているかのように思える。
「これは、いい兆しだぞ。今日を境に、ガルナシアは今よりもっと発展する。きっとだ!」
男性はそう確信し、微笑みながら天に祈りをささげた。
そして鐘つき堂に入り、思いっきり紐を引っ張って威勢よく鐘を打ち鳴らした。
その表情は、濃霧をも吹き飛ばすほどに晴れやかだ。
男性が鳴らす厳かな鐘の音は、静かな都街に響き渡っていき、アルザスの山の上まで届いていく。
もちろん、ニックの牧場にも。
びりびりと振動するような音の波動で、小屋で眠っていた牛たちの耳がぴくんと動いて、ぱちっと目を覚まし、しっぽをくるんと回す。
眠っていた鶏たちはいっせいに目覚め、けたたましい鳴き声をあげて羽をばたつかせ、羽毛を小屋の中にまき散らした。
そして、赤い屋根の家の中では……。鐘の音が鳴る前から起きていたニック夫妻は、びりびりと窓が揺れるのを見て、キョトンとした表情で互いを見つめ合っていた。
「ねえニック、お堂の鐘を聞くのは久しぶりだねえ。陛下の即位式の日以来だよね?」
「そりゃあ、アリス。今日はあれだろ? 陛下がお妃さまを迎えられる日じゃないか?」
のんびりと会話を交わすふたりの表情が一瞬固まり、何かを思い出したようにパッと輝いた。
あまりの霧の濃さに欝々としており、すっかり忘れていたけれど。そうだ! そうじゃないか! 今日はとってもおめでたい日じゃないか!
「そうだよ、アリス。お相手は、異国のお姫さまだろ!? 陛下が熱望してお迎えになられるって噂の!」
「そうだったねえ! すっごい急で信じられなかったけど。鐘が鳴ってるってことは、やっぱり本当なんだね!!」
急に決まった陛下の婚姻。お触れはあったけれどお相手については公表されていないため、都の人たちは多様な憶測をしていた。
『城に仕える侍女に惚れたらしい』だの『きっと幼馴染の女性だよ』だの『もともと許嫁がいたんじゃないか』だの。
いろんな噂が飛び交う中、一番有力なのが『外交に出かけたときに異国の姫君に惚れてしまい、連れ帰ってきた』だった。
そして誰もが口をそろえて言う。
『狼陛下が惚れたお方だから、きっと容姿端麗で才色兼備に違いない』と。
『無理矢理さらって来たんじゃないか?』などと言う人もいるのは、ご愛敬。だが、ちょっぴり当たらずも遠からずである。
なんにしろ、陛下が妃を迎えることは、国民にとってはこの上ない喜びではあるのだ。
「そうそう、こうしちゃいられないわ。ニック、葡萄の蔓飾りを入り口に掲げなきゃ!」
「そうだ、祝いの葡萄酒もないと! 俺、ちょっと隣の農園に行ってくるよ!」
いそいそと祝いの準備を始めるニック夫妻は、お妃になるのがコレットだとは夢にも思っていない。
だって、彼女が城に連れていかれた翌日に、『コレット・ミリガンには“城で奉仕”のお沙汰が下った』との手紙が届いているのだ。
だから侍女として務めを果たしていると思っており、ニックもアリスも厳しいお沙汰でなくてよかったと、盛大に喜んでいた。
「もしかしたら、コレットは王妃さまの侍女をしているかもしれないねえ……」
アリスは棚から葡萄の蔓で編まれたリースを取り出した。
金銀のリボンを結んだだけの極シンプルな飾りで、陛下の即位式の時に使用したもの。新品じゃないため申し訳なさが胸をよぎるが、急なことだから仕方がないと自分を納得させる。
そしてそれを家の入り口に掲げて空を見上げた。
「今日はきっといい一日になるね!」
霧は晴れ始め、牧場には青い空が顔をのぞかせていた。