狼陛下の婚約者6
庭園には散策用の小道が作られていた。
白いレンガが敷き詰められた道の両脇には、紫の小花や大輪の桃色の花などが、美しさを競い合うように咲き誇っている。
脈絡なく植えられているようで、そうでない。景観のバランスを緻密に計算して造っているのだろう。とても美しい庭だ。
花の甘い香りと、ひらひらと舞う蝶たちのかわいらしさも楽しみつつ、小道をゆっくり歩く。陛下の言っていた通りきちんと手入れされていて雑草はおろか、枯れ葉一枚見当たらない。
しばらくすると、前方に半円状の建造物が見えて来た。地面に近い部分は緑濃く、上にいくにつれて徐々に赤色が強くなっている。
「あれは、なにかしら」
近くまで寄ってみると、それは蔓性の植物をアーチに絡ませて作られていた。真っ赤に見えていたのは全部お花で、コレットは声も出せずに見とれてしまう。
「あ、コレットさま。これですわ。この花が、サーラです」
リンダがハッと気づいたように言う。
「これが、そうなの……」
傍によると、フルーツのような甘く瑞々しい香りが漂ってくる。肉厚な花弁が幾重にも重なっており、形状は薔薇によく似ている。全体的にぽってりしていて、水分を多く含んでいそうだ。
「すごくかわいいお花ね」
「お嬢さん、ご存知ですかな。そのお花は、食べられますぞ」
「……え? なにがですか?」
急に背後から男性の声がして、コレットが返事をしつつ振り返ると、口ひげを蓄えた紳士がすぐ近くにいた。正装を身に纏い堂々とした姿は、身分の高さを感じさせる。
紳士は、コレットたちに愛想のいい笑顔を向けていた。
「その花ですよ。我が国では愛でるだけですが、異国ではサラダやデザートに使用すると聞きます」
紳士はサーラの花を一輪手折り、コレットに差し出した。
「どうぞ、甘いですよ」
コレットは手のひらにある赤い花をじっと見つめた。
甘くておいしそうな香りがするのは事実。けれど、こんなに綺麗な色のお花を食べられるなど、聞いたことがない。野草や葉野菜を食べるのと同じ感覚なのかもしれないが、コレットの中の常識では、緑以外の濃い色の植物は毒があり、食べてはいけないものとなっている。
だが、紳士の言う通り美味しいのかもしれない。他国で食べるのが事実ならば、空腹時に食べた方が美味しさが増すのではないか。今は朝食を食べた後で満腹。口にするのは初めてのもの。どうせなら最高に美味しく感じるときに食べた方がいい。そうだ、教育の合間だ。
花をじっと見つめたまま動かないコレットに対し、紳士は「食べてみてください。どうぞ、どうぞ。さあ早く」と、さらにすすめる。
「ありがとうございます。でも今は、朝食後で満腹なんです。お茶の時間にゆっくりいただくことにします」
紳士に向けて愛らしい笑顔を見せ、コレットはリンダに花を手渡した。
「ミネルヴァ。貴様、そこで何をしている!」
地を這うような低い声が庭園内に轟いた。
植物がビリビリと震えるような凄まじい迫力で、木の枝に止まっていた鳥たちが、羽音を立てて一斉に飛び立った。
声を耳にした瞬間ビシッと姿勢を正したコレットとリンダをよそに、口髭の紳士ミネルヴァは優雅に礼を取っていた。
「これは陛下。ここまでお出ましになるとは、珍しいですな。それに、ナアグル殿も一緒でございますか」
ミネルヴァは笑顔を作りながらも瞳は鋭く、陛下の隣に控えているアーシュレイを見る。
「あなたこそ、庭園にいらっしゃるのは珍しいですね。花を愛でる趣味がお有りとは、存じませんでしたよ」
陛下とアーシュレイは、ミネルヴァとコレットの間に割り込むように立った。
おかげでコレットからは陛下の広い背中しか見えなくなり、アーシュレイを含めた三人がどんな表情をしているのか分からなくなった。それに、どうして陛下がここに来たのだろうと、不思議に思う。
リンダはリンダで、持っていた花をアーシュレイに奪われてしまい、訳が分からないといった表情で、空っぽになった手のひらと陛下たちの背中を交互に見ていた。
「これは、どういうことだ」
陛下の怒りを含んだ声が、ミネルヴァに向けられている。
大の男が失神するという噂の迫力だ。普通の人ならば震えあがってひれ伏すもの。当然、背後にいるコレットたちも腰を抜かすほどに震えてしまい、互いに支え合ってやっとのことで立っていた。
「私はただ、陛下の妃となるお方が、浅はかで愚かではないことを祈ったまでです。私の勧めにのってサーラを食そうとすれば、当然お止めいたしました。全部、陛下のためを考えて、したことでございます」
陛下の迫力に対しても、ミネルヴァは落ち着いた声で受け答えている。相当の権力がある者だと、コレットにも分かる。おそらく大臣以上の位なのだろう。
「それは、ミネルヴァには分が過ぎることだ。今後一切、私の許可なく彼女に関わることは許さん」
「はい。承知いたしました」
「それから、この花は返す。せっかく手折ったのだろう。貴様が食せ」
「は……では、後程に食べることにいたしましょう……失礼いたします」
会話を聞いていても、コレットには何がどうなっているのか、さっぱり分からない。ただ、最初は落ち着いていたはずのミネルヴァの声が、後半は、震えた小さな声になっていったのは聞き取れている。
ミネルヴァの足音が遠ざかっていくとすぐに陛下が振り向いたので、コレットは慌ててリンダから離れて居住まいを正した。
そんなコレットを見下ろす陛下の瞳は、いつもと変わらぬ強い光があるが、ホッと安堵したようなぬくもりがあるように見える。コレットが不思議な思いでいると、陛下は、日の光を浴びて艶めく金の髪をひと房指に絡めた。長い指の間を、コレットの髪がさらさらと零れ落ちていく。
「君は、どうしてサーラを食べなかった?」
「あ……色の濃い植物には、毒があると、ニックに教えられていますので……迷ってしまって……」
髪を触られているのと、先ほどの出来事と相まって、ドキドキしながらもコレットは答える。
すると、陛下の隣にいたアーシュレイがニッと笑った。
「その判断は、正解です。サーラは火を通せばいいのですが、生で食べると腹痛を起こします。毒性はそれほど強くなく、命に別状はありませんが、普通の人ならば二、三日は寝込みます。今食べていたら、おそらく婚姻の儀式は延期となったでしょう」
「まあ、そんな恐ろしい植物でしたの……」
リンダはそう言ったきり絶句し、コレットは心底食べなくてよかったと思うと、体が震えた。
ミネルヴァは陛下の婚約者だから、サーラを勧めたと言っていた。もしもコレットが食べようとしたら、ミネルヴァは本当に止めてくれたのだろうか。
命に別状はないとはいえ、体に異常をきたす物を食べるよう勧めて来るとは……。城は、簡単に人を信用してはいけない恐ろしい場所なのだ。
カタカタと小刻みに震えていると、陛下にぐっと引き寄せられて、腕の中に入れられた。
「大丈夫だ、こんなことはもう二度と起こさせない。だから君は、安心して生活すればいい」
陛下は、大丈夫だ安心しろと、大きな手のひらでコレットの髪を撫でている。頭の上でささやくような低い声は、いつもの威厳あるものと違って優しく聞こえる。それは、コレットに安心感を与えるには十分なものだった。
そう、このお方は狼と呼ばれる陛下。陛下がそう言うのなら、もう大丈夫なのだ。この腕の中にいるように、何も心配することはない。そう確信できる強さがあった。
「……はい、陛下。もう、平気です」
コレットが落ち着いた声で言うと、陛下は腕をスッと離した。
「アーシュレイ、あとを頼む。私は執務に戻る」
「はい、承知しました。お任せを」
アーシュレイは去っていく背中を見送ったあと、コレットに向き直ってキラリとメガネを光らせて言った。
「さあ、教育の時間です。我々も戻りますよ。あなた、ダンスのステップ、覚えていますか?」
「お、覚えています……多分」
コレットは、頭の中で昨日の教育をおさらいした。
そう、今はダンス。今までの教育の中で一番難関な内容なのだ。
頬をパシパシと叩いてサーラの一件は頭の隅に追いやり、コレットはアーシュレイの背中を追う。
婚姻の儀式まであと二日しかない。今日も、みっちりな教育が始まる……。