突然のプロポーズ1
ガルナシア国の都アルザスにある山の上に、緑豊かな牧場がある。
なだらかな斜面には何頭もの牛が放牧されており、ゆらゆらとしっぽを揺らしながら、もっしゃもっしゃと草を食んでいる。大きな牛小屋と鳥小屋があり、都近くにある中では一番大きな牧場だ。
モォ~とのんびり鳴く牛がたむろする柵の外側には、赤い屋根の小さな家がある。その隣にある作業小屋から、一台の荷馬車と一緒に一人の若い娘が外に出た。
豊かなブロンドの髪に透けるような白い肌。桃色の唇はつややかで、青い瞳はキラキラと輝いている、大変美しい娘だ。
「じゃあ、コレット。しっかり頼んだよ。お城に着いたら、ちゃんと手形を見せるんだよ」
「はい。お任せください、アリスおばさま」
コレットは、少し不安顔のアリスに向けて胸をたたいて見せ、がっちりとした体格の農耕馬の手綱を持った。
荷馬車に積んであるのは、しぼりたてのミルクの入った高さ三十センチほどのカメが十個。今からこれを城まで配達するのだ。
いつもは牧場主であるニックのお仕事だが、ミルクの入ったカメを荷馬車に積む際ギクッと腰を痛めてしまい、今はベッドの上で休んでいる。
うぐぅ……と呻いたまま微動だにせず脂汗を流すニックを発見したのは、朝ごはんですよと呼びに行ったコレットで。
これは大変!と悲鳴を上げ、それからはアリスと協力してニックをベッドまで運んだり、治療師を呼んだりと、日ごろはまったりとした空気の牧場が、ひとしきり大騒ぎになったのだ。
軟膏を貼り身動きできないニックには配達の仕事もできないため、急きょコレットが担うことになったのだ。
十四歳の時に両親を亡くし、遠い親戚であるニック夫妻のもとに身を寄せてから四年が経つが、牛小屋の掃除と針仕事が主で配達の仕事など初めてのこと。荷馬車を操るのもおぼつかなく、コレットはでこぼこの道に注意しながら慎重に馬の手綱を引いた。
ぽっくりぽっくりと鳴る蹄の音を聞きながら、コレットは眼下に広がる都の街を眺める。
はるか向こうに見える城を起点にし、整備された街並みが広がっている。これがつい三年前まで、壊れた建物と崩れた道でとても悲惨な状態だったとは、到底思えないほどに美しい。
ニック夫妻のお世話になるまでは、コレットは家具職人の父とお針子の母と都街に住んでいた。
その頃のガルナシア国は政情が不安定で、内戦が国のあちこちで起こっていた。四年前は、都までもがその戦場の舞台となり、家や店が壊され、多くの人が戦いに巻き込まれて刃にかかってしまった。コレットの両親もその犠牲者である。
そんな激しい内戦を収めてバラバラだった国を一つにまとめたのが、今の国王サヴァル陛下だ。狼のように凶暴で恐ろしいと評判で、噂ではひと睨みするだけで大の男が失神してしまうとか、猛り狂う獣も姿を見ただけで腹を見せて降伏するとか。
コレットは一度も姿を見たことがないが、外見も獣のように恐ろしいお方だと思っている。
どんなに恐ろしいお方でも、国中の人々が、国王陛下には感謝し尊敬の念を抱いている。今の国の平和は、陛下の力のたまものなのだから。
でこぼことうねった山道でもなんとかミルクをこぼさずに済み、平たんな道に入ったおかげでコレットの緊張も解けてきた。城に近づいていくにつれて石畳の敷かれた道に変わっており、もう荷馬車が跳ねてミルクがこぼれる心配がないのだ。
次第に景色を見る余裕ができ、道中を楽しみ始めた。さすが都街というべきか。周りの家並みは立派なもので、道行く人も上等な身なりをしている。商店の建ち並んだ通りは、買い物をする人でいっぱいだ。
久々に大勢の人の活気に触れたコレットはわくわくし、お上りさんのようにキョロキョロしながら馬の手綱を引いていた。
『配達が終わったら商店で買い物をしてくるといいよ。都に下りるのは久しぶりだから、楽しんでおいでよ』
アリスからはありがたい言葉と少しのお小遣いをもらっている。洋品店に手芸店など、間口を見るだけで胸が躍ってしまう。早く配達を済ませて、ゆっくり見て回りたいものだ。
そんなうきうきした気分で進んでいると、前方に大きな噴水のある広場が見えてきた。
噴水のそばには、腰に剣を携えた騎士たちがいるのが見える。
「……素敵。見回りかしら」
白い制服に白いマントを着けた姿はとても立派で、道行く若い娘たちが足を止め、頬を染めてうっとりと眺めている。
その白い騎士たちの中に、一人だけ黒衣を纏った騎士がいる。一人だけ服装が違うとは、騎士団長だろうか。
騎士団なんて滅多に見る機会がなく、その団長となれば尚更お目にかかれない。是非ともお姿を拝見したいと思い、コレットは目を凝らしてみる。
だが、どんなに首を伸ばしても、白い騎士たちに囲まれており、ちらっとしか見えない。
「残念だわ。でも少しだけ、綺麗な銀の髪が見えたわ」
コレットも普通の若い娘らしく、凛々しく逞しい人たちを見ればときめくのだ。騎士たちを気にしながらも、人込みを避けながら慎重に広場を通り抜けていく。
店のない小道に入ると、一気に道行く人が少なくなった。これで人にぶつからずに済む。そんなふうにホッとしていると、荷車の方からガツッ!と妙な音が聞こえてきた。それとほぼ同時に、コレットの左脇をすり抜けて、足早に歩いていく若者の姿があった。
茶色いシャツにベージュ色のズボンを履いている男。その腕には、どこかで見たような色のカメが抱えられている。それは、とても牧場のものに似ていて……。
「え、まさか!」
コレットが慌てて荷車を確認すると、十個あるはずのカメが九つしかない。あの男が持っていたのは、牧場のカメ!
「ど、ど、ど、ど、泥棒ーーーーっっっ!!!」
思いっきり腹の底から叫ぶと、石畳の道に大きく木霊した。
「いいこと? ここに止まっていなさいねっ!」
馬に言い残して手綱を放り投げ、コレットは泥棒を猛然と追いかけた。
お城に納入する大事なミルクだ、絶対逃してなるものか! その一心でわき目もふらずに泥棒男の背中をめがけて走る。
カメになみなみと入ったミルクのおかげか、泥棒の足はすこぶる遅い。めったに走ることのないコレットでも、全力疾走すると容易に追いつくことができ、泥棒男の茶色いシャツをがっちり掴んだ。
「なんだこの女!? おい、離せよ!」
泥棒男はコレットの手を振りほどこうとするが、カメを抱えているせいでうまくできない。これは幸いと、コレットは必死にしがみ付いた。
「わたしは、そのカメの持ち主なんです! 返しなさいっ。大事な商品なんだから!」
はあはあと荒い息を吐きながら睨むと、泥棒男はしっかりミルクのカメを抱え込んだ。捕まっているというのに、あくまでも離さないつもりらしい。
「返してください! これは、城に納めるものなんですから!」
コレットが奪い返そうとカメをつかむと、泥棒男はさらに抱え込む。
「うるせえっ、離せよ。これは、俺のだ!」
「違います! もうっ、どうして、そんなに、これがほしいんですか!?」
泥棒に話しかけつつ、一生懸命カメの上部を持って引っ張っていると、白い何かが素早く通るのを目の端にとらえた。同時に、ヒュンッと、一陣の風がコレットの頬を撫でる。
「うげえっっ」
カエルがつぶれたような声がし、気づけば、目の前にいる泥棒の腹に、拳で一撃を食らわせた格好の騎士がいた。
力を失くした泥棒の腕からすぽっとカメが抜け、力任せに引っ張っていたコレットはそのままカメに振り回されるようにして背中から倒れていく。
「きゃあああっ」
頭の上に振り上がっていくカメをどうにも制御できず、もう駄目だ倒れる!と覚悟した瞬間、彼女の背中は何者かにしっかりと受け止められていた。
「すみません。助けてくださりありがとうございます!」
背後にいる誰かにお礼を言い、カメを取り戻したことを喜んだのも束の間、肝心の中身が空っぽなことに気がついた。
なんと、今の勢いで全部零してしまっていたのだ。
「どうしよう……城に届けるものがひとつ減っちゃったじゃない。困ったわ」
規定通りに収められないとは、いったいどうしたらいいのだろう。
空っぽのカメを見つめながら途方に暮れるコレットだが、このあとすぐ、それ以上に困った事態に陥っていることを知る。