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そして彼女は

そして彼女は全てになる

作者: 山下ひよ



「娘は死んだ」


 努めて軽く聞いた「リーナ嬢はお元気ですか」という言葉に、伯爵は淡々と答えた。

 最初は言っている意味が理解できず、徐々に理解するとともに手足の感覚がなくなっていく気がした。


 リーナが死んだ。


「それは、…お気の毒です」


 声は震えていなかっただろうか。

 これ以上聞きたくない。

 知りたくない。


「気の毒なものか。あれは自業自得だ。我が伯爵家の恥」


 リーナが恥だなんて、そんなはずがない。

 だけど声が出ない。

 俺には何を言う資格もない。


「用が済んだのなら、この地を去るが良い」


 そう言い捨てると、伯爵は部屋から出て行った。

 俺はしばらくその場から動けなかった。




 リーナと出会ったのは六年前だ。

 俺は当時十七歳の、見習い騎士だった。

 自分で言うのも何だが、優秀だったし実力があった。加えて容姿も人並み以上に優れ、女性に言い寄られることも多かった。

 俺は多くの女性と誘われるままに関係を持った。どれも後腐れない関係で、上手くやっていた。

 唯一の女性、リーナを除いては。



 リーナとは城下町で出会った。彼女はその時質素なドレスを着ていて、とても伯爵令嬢には見えなかったのですっかり騙された。

 道に迷って途方に暮れた挙げ句、柄の悪い男たちに絡まれたところを助けたのが俺だった。


 癖のない真っ直ぐな栗色の髪と大きな黒い瞳は、平凡な色合いながらも愛らしく、どこか相手に安心感を与える。

 そして素直で屈託なく笑いかけてくる人懐っこさに、ほだされたのだと思う。

 暴漢から助けた俺に礼をしたいと、食事をご馳走すると言うので一緒に飲み屋に行った。彼女は物珍しそうに周りを見回していたので、不思議に感じたものだ。

 だが会話は弾み、彼女といる心地よさにすっかり慣れた頃、彼女が蒼白になって「財布がない」と言い出した。

 勿論、支払いは俺がすることになる。同時に、彼女はこういうことを生業にしている娼婦ではないかという考えが頭をよぎった。

 軽い気持ちだった。「謝るくらいなら、体で払うか?」なんて言ったのは。

 彼女は不安そうにしていたが、それも演技に見えた。そのまま飲み屋の二階の宿に部屋を借り、なし崩しに関係を持った。



 リーナが伯爵令嬢と知ったのは、それから十日後のこと。

 仕事で、王に謁見を申し込み田舎から出てきた伯爵の護衛に当たった時だった。

 伯爵から娘だと紹介されたのが、あの日関係を持ったリーナだったのだ。

 その時の気まずさといったらなかった。まさか伯爵令嬢を娼婦と間違えたなどと、口が裂けても言えない。

 だがリーナは屈託なく笑顔を浮かべ、二人きりになったタイミングで「あの時はありがとう」と礼まで言ってきた。

 聞けば、初めて王都に来たので嬉しくてつい、お忍びで城下に出たのだという。怖い人に襲われるわ財布は落とすわで、死んでいたっておかしくなかった状況で、あなたに助けられたのが本当に嬉しかったの、なんて言われたら、ますます罪悪感が湧く。

 リーナは、父には言ってないから安心してね、と微笑んだ。

 助かったが心中は複雑だった。



 伯爵の護衛に付いたのはわずか二十日。

 リーナはどこまでも純粋で素直だった。

 二人きりになると、リーナは俺への好意を隠そうともしなかった。いや、隠すという発想すらなかったという印象だ。

 そんなに素直に好意を寄せられた経験がなかった俺も、さすがにほだされたが、俺は見習い騎士で彼女は伯爵令嬢だ。身分違いにも程がある。

 リーナも一時の感情に、周りが見えなくなっているだけだろう。離れれば、冷めるに違いない。

 だから、伯爵が王都を離れる時に「離れたくない」と言って泣く彼女を突き放した。

 今まで色々な女と別れてきたが、これほど胸が痛んだのは初めての事だった。

 それは俺の別れの言葉が彼女を傷つけたことを自覚していたからなのか、それとも俺自身がリーナと離れ難かったからなのか。

 自分の気持ちに決着もつけられないまま、リーナと別れた。



 そして、正騎士になった今も、リーナを忘れられない。

 田舎の領主である伯爵家の噂など、王都には一切聞こえてこない。

 もう嫁いだのか。それとも今も独り身なのか。そんなことすら分からない。

 だが武勲を上げ、正騎士になった今なら彼女と釣り合う身分となる。

 もし彼女もまだ俺を想ってくれているのなら。

 そんな一縷の望みをかけて、俺は田舎にある伯爵家を訪問した。


 そこで、リーナの死を知らされた。


 詳しいことは分からない。

 伯爵は思い出したくもないと言わんばかりの態度だった。

 少なくとも六年前の伯爵は、娘を大事にしていたはずなのに。


 途方に暮れて客間のソファに座り込んでいると、突然名を呼ばれた。


「カイル様」


 ゆっくりと顔を上げると、見覚えのある女性がいた。

 伯爵夫人、リーナの母だ。

 慌てて立ち上がり礼を取ると、夫人は優しく微笑んで座るよう促した。


「リーナに、会いに来て下さったのでしょう」


 夫人は知っている。直感的にそう思った。


「はい」


 誤魔化すこともできず、正直に答えた。


「リーナは六年前、王都から戻ってすぐに勘当されました」


 息を呑んだ。勘当?


「ご存じなかったのね」


 夫人は大きくため息をついた。


「リーナは妊娠していました。相手の男性の名は、一切口にしなかったわ」


「妊、娠」


 今度こそ声が震えた。

 身に覚えがありすぎる。


「夫は激怒し、勘当して家からあの子を追い出しました。あの子は夫が領主をしているこの地に残ることもできず、隣の領へ移り、そこで家を借りて掃除婦として働いていたようです」


 伯爵令嬢が掃除婦に。それはどれ程辛い日々だろう。


「幸い、近所の方々は良くして下さったようで、何とか生活していたようだけど、出産した後にすぐ、過労で亡くなったそうです」


 過労。

 どれ程苦労し、どんな想いで子どもを産んだのか。

 たった一人で。


「カイル様、泣かないで」


 そう言われて初めて、自分が涙を流していることに気がついた。

 あの時、無理を承知で彼女を妻にと望んでいれば、リーナは死ななかったのだろうか。

 あるいは、あんな突き放し方をしなければ、もしかしたら彼女は俺を頼りに来てくれたかも知れない。

 少なくとも、過労で死なせることなどなかったはずだ。


「申し訳ありません」


 その詫びが、泣いたことに対してではなく、リーナに関することだと夫人は理解していたのだろう。


「カイル様。あの子が産んだ子どもは今、救貧院で育てられています」


 思わず顔を上げた。


「いずれはどこか良いお家に養女に出せればと思っているけれど、夫が意地を張るものだからなかなか進められなくて」


 夫人はにっこりと微笑んだ。


「カイル様にそのつもりがあるのなら、すぐに救貧院に紹介状を書きますよ」


「お願いします」


 すぐにそう答えていた。




 その救貧院は、想像よりずっときれいだった。

 聖職に従事する修道女たちが、数十人の子どもたちの面倒を見ている。

 救貧院の敷地である広い草原で転げ回る子どもたちを横目に、若い修道女は突然訪問した俺を嫌な顔一つせず案内してくれた。


「嬉しいこと。リルもきっと喜びますわ」


 リルというのが、娘の名らしい。


「それにしても、ふふ、リルの髪はお父様譲りでしたのね」


 俺の髪は金茶色で、少し癖がある。伸ばすとうねるので今では短く切っている。

 どうやら娘はそれを受け継いだようだ。

 そんなことを言われて、にわかに緊張してきた。

 娘は俺を、受け入れてくれるだろうか。


「ああ、いました。リル!」


 修道女に呼ばれて、小さな女の子が振り向いた。

 赤いエプロンドレスを揺らすその女の子の姿に、瞳が熱を持つのを感じた。

 金茶色のふわふわした髪が風に揺れる。

 大きな黒い瞳が俺を見つめる。

 リーナとそっくりの、黒い瞳。

 俺の頬を、熱いものが伝った。


「だあれ?」


 とことことこちらに歩いてくると、舌足らずの愛らしい声で、そう問うてくる。


「リル、この方は、…あら、大丈夫ですか」


 修道女が、俺の涙に気づいてハンカチを差し出してくれるが、それを受け取らず膝をついた。

 リルと目線が近くなる。


「どうしたの? どこかいたいの?」


「大丈夫だよ。ありがとう」


 それでも涙が止まらない。

 どうしてだろう。

 リルの小さな手が、俺の頭を撫でた。


「リルがいたいときね、せんせいがなでなでしてくれるのよ。そしたらリル、げんきになるの」


 修道女が微笑んでいる。

 俺はリルの頬を撫でた。


「ありがとう」


 リルは満面の笑顔を浮かべた。


「リル。俺はお前のお父さんだ」


 リルの瞳が、こぼれんばかりに大きくなる。


「おとうさん?」


「そうだ。来るのが遅くなってごめんな」


「ほんとに、おとうさん?」


「そうだよ」


 リルが飛び付いてきた。


「おとうさんだ! リルのおとうさんだ!」


 朗らかな笑い声に、俺の口許にも思わず笑みが浮かんだ。

 そして小さな体を力いっぱい抱き締めた。



  * * *


 リーナが立っていた。

 森の中に、白いドレスを着たリーナがぽつんと立っていた。

 その手に、大事そうに何かを抱えている。


「リーナ」


 そう呼ぶと、リーナは顔を上げ、微笑んだ。


「カイル」


 この声が、ずっと聞きたかったんだ。

 優しく、穏やかな声。

 俺の好きな声。


 リーナはこちらへ向かってきた。

 歩いてはいない。

 まるで滑るように、浮かんでいるようになめらかにこちらへ近づいてくる。

 怖くはなかった。

 ただ、リーナは本当に死んだのだと、そう理解した。


 俺の前で止まると、リーナは抱えていたものを差し出した。

 恐る恐る受け取ってそれを見ると、白いおくるみの中には赤ん坊がいた。

 金茶色の髪の、女の子。


「可愛いでしょう? 私とカイルの宝物」


 優しい、優しい声でそう言うリーナは、とても美しかった。


「リルをお願いね、カイル」


 手の中にある愛しい命を、大事に大事に抱き締める。


「約束する」


 リーナは幸せそうに微笑んだ。


  * * *



 目を覚ますと、まだ夜明け前だった。

 頬が濡れている。

 最近はずいぶんと涙もろくなった。

 腕の中には、俺にしがみついてぐっすり眠っているリルがいる。

 その幸せそうな寝顔に、思わず頬が緩んだ。


 リーナ、約束は必ず守るよ。

 この子を絶対に、幸せにする。



 そしてリルは、俺の全てになった。



読んで頂き、ありがとうございます!

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