ピエロ
ホラーです。
青い空に、色とりどりの風船が飛んでいく。
私はひとり、Welcome!!と書かれた楽しげなゲートをくぐった。
初めて来る遊園地だった。
明るい音楽に惹かれ、私はゆっくりと光の方へと近づいていった。園内では小さな子どもたちが無邪気に走り回っている。ただ、いくら子供向けの遊園地とはいえ、周囲に大人が1人もいないことに少しだけ違和感を覚えた。
私はまっすぐにメリーゴーランドへと歩いていく。煌びやかな光、賑やかな音楽、メリーゴーランドに乗っているピエロが笑顔で手を振っている。一緒にぐるぐると回る笑顔の子どもたち。
平和で和やかな風景だ。
けれど、メリーゴーランドが一周する間にみるみる日が沈み始め、空が闇色に染まると全てが様変わりしていく。
音楽が大きくなり響き、メリーゴーランドはギラギラとした光を放ち、ピエロの笑顔が禍々しく歪んだ。
ふと気づけば、子どもたちが1人もいない。
私はいつの間にか、廃墟と化した遊園地でメリーゴーランドの馬に乗り、ぐるぐると回り続けていた。
降りたくても眼下には奈落のような暗闇が口を開けている。
突然、視界が反転した。
メリーゴーランドから落ちてしまったのだ。
首にぶら下げていたポーチが絡まり、私の体は宙吊りになった。絡まった紐がギリギリと締まっていく。私の乗っていたはずの馬からピエロが顔を覗かせ、転げ落ちた私を見下ろしていた。
鮮やかな赤。果実が裂けた様な口が、視界に入る。
『助けて!』
声にならない悲鳴をあげても、ピエロは私を見下ろしているだけだ。ぶちぶちと首の繊維が悲鳴をあげたところで、私の意識が暗転した。
*
慌てて跳ね起きる。全身に汗をかいていた。
夢。
安堵した私は、思いきり息を吐き出した。
なんだ、今の夢は。
両手で首をさすってみると、私の首はもちろん無事だった。暗闇の中、緑色に点滅している目覚まし時計の数字が目に入る。
AM2:00
よりにもよって丑三つ時に目を覚ましてしまったようだ。首を押さえながら溜息をついた。
今夜は台風の影響で、外では夕方から激しい風と雨が吹き荒れていた。木々が風に煽られている音が聞こえてくる。
部屋は窓を締め切っていたせいで蒸し暑く、私は手さぐりで枕元のリモコンを押して、エアコンを起動させた。じっとりと汗ばんだ体に、涼しい風が当たって気持ちいい。
嵐のせいなのか、部屋の中には街灯が届かず真っ暗だった。ピエロの張り付いた笑顔が脳裏に浮かび、小さく身震いする。
あんな夢を見てしまったのは、つい先日聞いた話のせいだろう。自然と父から聞いた話を思い返した。
父の会社には、熱心な廃墟マニアの人がいるらしい。
つい先日、その人が廃墟の遊園地に行ったらしく、そこで拾ったピエロのキーホルダーを『お土産』と言って持って来たのだそうだ。父がもらったキーホルダーはボロボロで、しかも少し赤茶色に変色していて気味が悪かった。
その遊園地は、メリーゴーランドで子どもが転落死したのをきっかけに客足が減り、閉園に追い込まれたのだという。
父の話を思い出していたら、話を聞いた時に全身がゾワゾワした事まで思い出してしまった。
よくない兆候だ。
今日、両親はうちにいない。
母の実家に1週間ほど帰省していた父と母は、本当なら今日の昼に帰ってくる予定だった。
しかし台風のせいで飛行機の運行がなくなり、明日の夜帰宅することになったらしい。
夏休み期間ではあるが私は部活があり、大会も近いので一緒に行けなかったのだ。
ちょっと心細い。
あんな夢を見た上に、話を思い出してしまったら尚更だ。目を閉じて眠ろうとしたが、なかなか寝つけず、ごろごろと寝返りを繰り返す。
眠れないまま目を閉じていると、突然部屋の気温がぐんと下がり、同時に空気がずしりと重くなった。
これはまずい。
寝たふりをしないと、面倒なことになると本能的に身構えた。
人に話したことはないが、私にはたぶん霊感というものがある。と言っても、今まではっきり見たり聞いたりした事があるわけではない。(両親が言うには小さい時は見えていたようだが、覚えていない。)
なんとなく気配を感じることがあるだけだ。
せいぜい、見た目はごく普通なのにゾッとする場所があったり、一緒にいる人の背中になにかいるな、とか、その程度。
それも体調によって感じたり感じなかったりするので、とても曖昧な感覚だ。
疲れている時に感じることが多いので、もしかしたらこれは軽い精神疾患なのかもしれない、とも思っている。
けれど。
たとえ自分の脳が作り出している幻覚だったとしても、とても濃い気配を感じることがあるのだ。
今夜のように。
そんな時、私は寝たふりをしてやり過ごす。
気配に反応すると、得体の知れない『そいつら』は寄ってくるからだ。
現在、私はなんとかエロい事を考え、恐怖をやり過ごそうと奮闘していた。
恐怖と快感は使う脳の部位がかなり重なっているので、エロい事を考えれば恐怖を打ち消せるらしい。
なんとか妄想で悪霊退散できないだろうか。
おっぱい、おしり、細マッチョ!
…うん、ムリ。
階下で明らかに台風とは別の、ガタゴトという音がし始めている。しかも金縛りになってしまった。
唐突に、エアコンが停止する。
この裏切り者!と心の中で罵っても、エアコンは沈黙したままだ。
思わず、寝たふりも忘れてエアコンを睨みつける。
AM2:17と示していた目覚まし時計の光も消えた。
時計、お前もか。
体に乗せた自分の腕が異様に重く感じるのに、どけられない。瞼だけは動いたので閉じてみると、そのまま開けられなくなってしまった。
とすっ、とすっ、とすっ
いきなり、二階に向かって階段を登ってくる足音が聞こえてきた。空き巣?強盗?幽霊?
…どれも嫌だ。
なんであれ、私は指一本動かせない。
呼吸がうまくできなくて苦しい。
足音は、階段を上りきった所で途切れた。
階段の踊り場は、私の部屋の扉までは少し距離がある。そのまま引き返して欲しい。
耳を澄ましてみても、家の中は静まり返っている。
でも、『何か』が廊下にいるのを感じる。
瞼が自由に開けられないのはよかったかもしれない。この状況で、恐怖に怯えながら目を開けず我慢しているのは辛かっただろう。
…あれ?
廊下から、気配が消えた?
『おい』
突然、耳元で喉が潰れてるような声がした。
絶叫したいのに、体が微塵も動かない。
『おいおいおいおいおいおいおい!』
部屋中からバン!と壁を叩くような音がする。
心臓が痛いほどに脈打ち、耳の奥でもドクドクと血流を感じた。息ができない。
『おきろ、おきろおきろおきろおきろおきろ!』
バンバンバン!
至る所から同時に音がする。
到底、人の仕業とは考えられない。
あまりの恐怖に内臓がすくみあがった。
『おきた?おきた?おきた?あそぶ?あそぶ?おきた?あそぶ?ころす?ころす、おきたらころす』
「…っ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
『おきた、おきたおきたおきた』
突然、金縛りが解けて私は絶叫した。
真っ暗なのに、見えないはずなのに、目の前にまるで真っ赤に裂けたトマトのようなピエロの笑いが迫っているのがはっきりと見えた。
『あそぶ?』
ふと目覚めると、部屋は真っ暗だった。
ガチャガチャと階下で鍵の開く音がする。
「ただいまー。……きゃあぁぁぁぁ!!」
「母さん、どうした…って、うわ!」
「あの子は?!皐月!皐月!」
バタバタと階段をあがる音がする。
突然明かりをつけられたので、周りがよく見えない。
「皐月!!何があったの?!ケガは、ケガはない?!」
思考がついていけずにぼんやりと両親を見上げる。
そのうしろ、天井や壁の至る所に、赤褐色の手形や足跡がついている。
「ケガは…ないみたい。ちょっと、ごめん」
ひどく重い体でのろのろと起き上がり、足を引きずるように歩く。
鏡に映っている自分の、口の周りにべったりと赤い跡がつき、口が裂けているように見えた。
まるでピエロのようだ。
ピエロは、本当にいたのだろうか。
それとも私が狂っているんだろうか。