異世界へ
あ……?
場違いな場所に立っていた。俺が立っていた場所は台所だったはずだ。――宮殿?
室内を見渡してみると、まずその広さに驚く。天井も高そうだ。そして、そんな大きな部屋だというのに、清掃が行き届いているのが分かる。俺の七畳の部屋とは、何もかも大違いだった。
「よくぞ来られた、異世界の者よ……」
さらに、やたらに広いその場所は、何もかもが豪華だった。足元には真っ赤な絨毯が敷かれ、背後の開かれた扉の先まで続いている。扉の先の通路には、見るからに高そうな壺や甲冑が並んでいた。
「うぉっほん。よくぞ来られた、異世界の者よ……」
一体、俺は何でこんな所に。まだ寝てるのか? ここは、夢の中なのか? でも、これほどハッキリと思考出来る夢は見たことがない。
「ん、んっんん! あぁ、落ち着くのだ皆の者。我の喉の調子がよくないだけだ。んん! よくぞ来られた、異世界の者よ……」
意識しないようにしていたが、さすがに無視出来なくなってきた。どう考えても、俺に向かって言っている。異世界?
「はい。私の事でしょうか?」
「いかにも」
ずっと俺に喋りかけていたと思われる、偉そうなおっさんがいた。この宮殿の主だろう。宮殿というか城だなこれは。間違いない。
おっさんは、RPGの中でしか見ないような偉そうな髭を蓄え、最上段のこれまた偉そうな椅子に座り、こちらを見ていた。朗らかな顔をしているが、周りを囲んだ部下っぽい人達は、少し怒っているように見える。
「突然だが、お主はこの国、いや、この世界の人々を救う勇者として召喚された者だ」
本当に突然だな。よくぞ来られた……って、別に俺は望んじゃいねえよ。
あれだろ? これ、やっぱり夢だろ。俺はこれでも、日々電子の世界で戦うエンジニアだぞ。こんな、何もかもめちゃくちゃな状況、信じられない。随分と、色々な感覚がしっかりとしている夢だが、そういうことなら勇者ごっこを楽しもう。
「勇者ですか……? 俺が?」
「いかにも」
「おっさんは?」
「わしも勇者じゃ。名をシュガー・バルムクーヘン。お主と共に、魔王討伐の旅に出ることになっておる。よろしくの!」
え、このおっさん仲間なの? 王様っぽいけどいいのか?
いずれ覚める夢、俺はどうでもいいけど、随分と平均年齢の高いパーティ編成になりそうだな。というか、今バウムクーヘンって言った?
「嘘じゃ」
嘘なのかよ。仲良くも何でもないのに、こんな状況で分かりづらい嘘つくなよ。
「わしはこの国の王、シュガー・バルムクーヘンじゃ。そして、わしの横におるのが娘のメルトという。一緒に行くのはこの娘じゃ」
「バウムクーヘン!?」
そっちは嘘じゃないのかよ。
「む。何じゃ? 何かおかしなことでも?」
お菓子? シュガーにバウムクーヘン……。ああ、全ては繋がった。ここまでヒントを貰えば、誰でも分かる。俺は、何か手頃なものはないかと探す。あった。
俺はおもむろに、近くにあった黒い椅子を、舐めた。
「な! 何をしておるんじゃ!?」
おっさんの慌てふためく声が聞こえてきた。どよどよと、その周囲もざわめいているのが分かる。――ふん、なるほどな。
「わ、私の国の……挨拶です。その、親愛の証を示しています」
マジかよ。お菓子の国じゃなかったわ、ここ。周りからは、至って冷静に振る舞っているように見えているだろうが、そんなことはない。夢の中ではない、それに加えてのあり得ない行動。俺の脇と尻には汗が吹き出していた。
「そ、そうか。そうなの? ……まあいい。勇者として旅立ってくれるのなら、何も言うことはない。それと、細かな説明を始める前に、もう一つ聞いておきたいことがある」
「何でしょう?」
「お主の、その手に持っているのは何じゃ? 卵?」
そう、俺は卵を持っていた。会社からの帰り、寄ったスーパーで買ったのだ。そこまではよかったのだが、自転車で荒い道を通って、家に帰って確認したら割れていた。近道しなけりゃよかった。
そして、その中で唯一生き残った卵がこれだ。ちなみに、反対側の手は割れた卵の黄身でベッタリと汚れている。しょうがないだろ? そんなタイミングで呼ばれたのだから。俺は、汚れた手を、側にあった椅子で拭った。
「これは卵ですね。何でもない、ただの食用の」
「食用の? と、とりあえず、この世界の状況から話しておこうと思う」
何も言わず、頷いておく。おっさんの話は続く。
「今、この世界は危機にさらされておる」
「ふむ」
適当に相槌を挟む。おっさんの話は続く。
「ここまでが、我ら人間の置かれた状況だ」
「なるほど」
知ったかぶりをした。おっさんの話は、まだ続く。
「そんな訳で、こちらの都合に巻き込んでしまい誠に申し訳ないとは思うが、お主を召喚させてもらった」
「はい、分かりました」
さらっと流した。先程の椅子の件で、恥ずかしさと後悔から、あまり集中できなかった。まぁ、ゲームなんかは結構やっていたので、何を言われたのかは大体予想がつく。
「お主、聞いておったか?」
「はい! それはもちろん!」
「本当か? 上の空だったような気もするが?」
「何をおっしゃいますやら! 王様! 今日もお髭が偉そうですね!」
焦って、今度は意味が分からないことを言ってしまった。もういい、異世界から来たということで、大抵の粗相は許されるはずだ。
「髭……。というか、お主と会うのは今日が初めてなのじゃが、それもまあいい。では、やってくれるかの?」
「委細、承知しました」
地球ではないどこかの世界に、謎の力で呼び出され、勇者としてこの国を救えとか、そういう話だろ?
国を救う、か。出来る出来ないはともかく、そういう余生もいいか。地球に帰りたい、ということもない。断りなく連れてこられたことは少々不快だが、特に向こうに未練はない。それに……俺の先はもう、閉じているのだ。
これが俺の、悪夢の二年間の始まりだった。