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恋愛じゃないやつ

井の中の蛙大海を知らず。だけど、それが幸せか、幸せじゃないかは、蛙が決めればいいことでしょう?

 一つの井戸の中は、一つの世界が構成されていた。その世界の王は、緑の色をした大きな蛙。この世に生を受けた時から、その井戸から出たことのない蛙は、他の誰よりも強く、賢かった。周りの生き物たちが畏怖する存在。

 物事を決めるのは、すべて蛙だった。周りは当たり前のようにそれに従う。蛙に意見をするものなど、この世界の中にはいなかった。

 けれど、蛙は知っていた。周りが裏で何を言っているのかを。

「井の中の蛙、大海を知らず」

 この深い井戸を抜け出した外の世界はこの井戸より広いらしい。そんな噂を聞いたことがある。この広い、広い井戸よりも広い世界。 

 井戸の中には何もかもがあった。それなのに、それでもこの井戸は狭いという。にわかに信じられない話。

「親父、俺は外の世界を見てみたい」

 そう言ったのは、蛙の長男。

蛙はこの井戸の中で、妻と18匹の子どもたちに囲まれていた。長男は、歳こそ若いが、見た目は蛙と大差ないほどに成長している。

 長男の言葉に、蛙はただ、頷いた。

無口な蛙は声を出すことはあまりない。その動作だけで、すべてを伝える。

「あなたの人生だから、あなたの好きなように生きればいいわ」

 補足をしたのは、蛙の妻だ。蛙の妻は、長男に笑顔を向けた。

母の言葉は、父の言葉だと、子どもたちは理解している。

「じゃあ、行ってくる」

 そう言って手を振った長男に、蛙は小さく手を挙げた。

「気を付けて」

 母の言葉に長男が頷く。小さい弟や妹も同じように手を振る。

「ああ。行ってきます」


「親父!!」

 懐かしいその声を聴いたのは、それから一年後のことだった。ふと上を見上げると、壁伝いに降りてくる長男の背中。

「ただいま」

 蛙と対面した長男の変化に、蛙は多少なりとも驚いた。

蛙とそっくりだった姿が、たった一年で大きく変わっていたのだ。優しかった目元は鋭くなり、体中いたる所に、傷があった。古い傷から新しい傷まで、数えていたらきりがない。

「大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、母さん。ただのかすり傷さ」

 そう笑う長男の顔は、やはり以前のものと違う。蛙の妻は心配そうに夫を見つめた。

けれど、蛙はただ、黙っている。

「親父、聞いてくれ」

 帰ってきて早々、蛙と向き合う長男。蛙は、体の向きを少しだけ長男に向けた。

「親父」

「…」

「親父は、弱い」

 その言葉は、一瞬で周りの空気を凍らせる力があった。周りが動作を止め、蛙と長男を見る。けれど、2匹にそれを気にする様子は見られない。

蛙はただまっすぐに長男の顔を見つめ、長男は睨むように蛙を見ていた。

「世界は、広いよ。この井戸の中は狭い」

「…」

「本当に、狭くて、狭くて、驚くくらいだ。…それに、親父より強い奴らがいる。数えきれないくらいだ。俺が今まで生き延びてこられたのは、奇跡だと思っていい。…蛇に、鳥、人間…本当に何でもいた。カエルはその中で、もっとも弱い部類に入ると思う」

「…」

「今まで親父が追っ払ってきたものなんか、比べ物にならないくらい強いんだ。そいつらを追っ払えたくらいで強いなんて言えない」

「…」

「それから、海。海は広かった。この世のものとは思えないほど」

「…」

「俺は小さい。それを認めなくてはいけないほど、圧倒的に広かった」

「そうか」

 初めて蛙は口を開いた。父の声を聴いたのは何年振りだろうと、ふと長男は思う。

こんなにも小さな声だっただろうか。

「親父、外に出よう」

「…」

「お前らもだ」

 そう言って、周りを見渡す。小さな弟、妹はこの一年ですっかり大人になっていた。外の世界に出て行っても大丈夫なほど。

 長男の言葉は蛙たちだけではなく、この井戸に住む他の生き物たちへの言葉でもあった。

外は広い。そこで、自分たちがどのくらい通じるのかやってみようじゃないか。そう周りに問いかける。

「行きたければ、行けばいい」

 蛙は長男に、自分を囲む周りの生き物たちにそう告げる。

「親父は?」

 そう問うたのは次男だった。

「俺はここにいる」

「なんでだよ!この井の中は世界なんて呼べるほど、大きくはない。ここで一番だからって、意味ないんだ!」

 長男は叫ぶように訴えた。

「周りがなんて言っているか知っているか?井の中の蛙、大海を知らず。…親父、親父はすごくない。強くもない。ただ、世界を知らないだけだ」

「…」

「ちっぽけなこの井の中を世界だと勘違いして、粋がっているだけ」

 周りがなんと言っているかなんて知っていた。

 けれど、蛙に粋がっているというつもりはなかった。

生まれた場所がここだった。気がつけば、ここで一番強くなっていた。

「もう一度言う。俺は外に出る気はない」

 その目には鋭さがあり、長男はたまらず息をのんだ。

蛙は長男に背を向ける。道がさっと開いた。周りに見送られながら、自分の寝床に戻っていく。

「あなたの人生だもの。あなたの好きなように生きればいいわ。外に出て、一番を目指してもいい」

「母さん…」

「あなたたちもよ。したいことをすればいいの。それについて文句なんて言わないし、誰も止めはしない。だって、もう、私たちが止めることができないほど、大きいから」

 そう笑った母の顔に長男以外の子ども全員が頷いた。

しかし、長男に納得した様子は見られない。

「母さん。やっぱり、俺は親父が間違っていると思う。外に出て、戦うのが、一番になるのが人生じゃないのか?」

「そうね。それが人生ね。でも、それはあなたの人生よ」

「…」

「海を知ったから?この井戸の中は狭いから?だから、なんだっていうの?」

「それは…」

「井の中の蛙、大海を知らず。そう言われていることなんて、知っているわ」

「…」

「それでも、あのひとは、ここにいる。ここにいて、皆の幸せを守っている」

「…」

「それが強いと言わずに、なんと言うの?」

「でも、母さん。この井の中がすべてではないんだ。この世にはいろんなものがある。いろんな生き物がいる。それを知らずに、自分が一番だと思うことは不幸なことじゃないの?」

「それを不幸だと思いたければ、そう思えばいいのよ」

 そう言う母に、長男は応えのわかっている問いを投げかけた。

「母さんはどうするの?」

 

「外に出ていくもの、出ていかないもの、半々くらいだと思います」

「…」

「この井戸の中もさみしくなりますね」

「…」

「でも、また、すぐに増えると思いますよ。だって、みんなあなたのことを尊敬しているんですもの」

「……お前も」

「え?」

「お前も出ていきたいなら、出て行って構わない」

 顔を見ることなく告げたその言葉に、蛙の妻は笑ってしまった。

その笑いに気分を害したのか、眉間にしわを寄せた顔を妻に向ける。

「ごめんなさい。あまりにも、意味のないことだと思ったから」

「…?」

「その質問に意味なんてありません」

「…どういうことだ?」

「私が、あなたから離れるわけないでしょう」

 そう笑う妻に、蛙は無表情のまま頷いた。少し考えれば出た答え。それもわからないくらいには、動揺していたのだ。長男の言葉に。

「海がどんなに広いとしても、私は、それ以上に広いものを知っていますから、外に出る必要なんてないんですよ?」

「…」

「私にとって、あなたの背中が世界で一番広いものですから」

「…」

「ただ、この井戸の中で一番強かったというだけで、いろんなものを背負わなくてはならなくなったその背中が。それでも、私たち家族を、そして、この井の中の住人を必死で守ってくれるその背中が、私には一番広いものなんです」

「それこそ、お前が世界を知らないせいだろう」

「ええ。でも、それさえ知っていれば、私は世界で一番幸せですから」

 そう笑う妻に蛙は微苦笑を浮かべた。

常に無表情の夫のその顔に、妻は満面の笑みを浮かべる。

「あなたのその広い背中と、時々見せてくれる笑顔があれば、私は幸せなんですよ」

 そう幸せそうに言った。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 蛙の妻の言葉に感動しました。
[一言] とっても沁みました。 ありがとう。
[良い点] 蛙の弱き自分を認めて、それでいて守るべき道義や責任を果たそうとする気構えは目を見張るものがあります。 自信ね。これから大人になる若者の良き訓辞です。 [一言] 17さ
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