虚構の現実
目覚める前の不完全なまどろみは、そこに人を心地よく油断させようという強い意思が働いているかのようだ。柔らかく、温かく人を包み込み、そして急激に現実へと意識を浮上させる。
「遅刻だぁー!」
差し込む朝日に頭が覚醒する。そして現状を理解し、俺は飛び起きた。
枕元にあるはずの目覚まし時計はそこになく、いつの間にかベッドの下に転がり落ちている。しかもその上には、蹴り飛ばした毛布が乗っていた。
そのせいでアラームの音が聞こえず、今は8:00。昨日夜更かししたのが完全に裏目に出た。
…でも仕方ないだろう? だって、推しのライブ配信があったんだから。
バスの発車時刻は、8:15分。すばやく支度しないと、もうバスを逃してしまう!
心ばかりが急いて、寝起きの体のトロさに足を引っ張られる。俺は精一杯素早く着替え、身なりを整え、そして冷蔵庫の中にあったパンをひっつかむ。
昨日、最後の一枚を食べずにおいた俺、ナイス!
そんなことを考えつつ、俺は靴を履く。そして弾丸のように、走り出した。
頭の中では、バス停までの最短ルートを考えている。でも心は、絶叫中だ。
——現在時刻、8:13分。あと二分でバスが来る! いつも十分かけて歩く道を、二分で行くのは無理ぃ!! だがそれでも、新人のくせに遅刻とか、絶対にダメだ!
唯一の望みは交通機関が遅延してくれてることだ…。日本の正確すぎる交通ダイヤよ、今日ばかりは、俺のために、狂ってくれ。
そこまで考えたところで、俺の耳は、「カチっ」という音を捉えた、気がした。
つい足を止め周りを見回してしまうが、そんなことをしている暇はない。一刻も早く、会社に向かわなくては。はっと気づいてまた、走り出す。
——あと30秒! このバスを逃したら電車に間に合わなくなって、乗り換えが狂うから結局十五分くらい遅刻しかねない。
それは、まずい!!
俺はさらにスピードアップして、二つ目の角を曲がる。
そして定刻から五分後、8:20分。大通りのバス停を目が捉えたところで、そこにバスは止まっていない。きっとすでに、目覚ましをしっかりかけた大人たちを乗せて、駅に向かっているところなんだろう。
終わった…。
足が止まり、意図せずとも視線が地面に向く。荒くなった息を整え、スーツの上を脱ぐ。体が、暑い。
とぼとぼと歩いてバス停に向かい、次のバスの時刻を確認する。それが来るのは、十分後。
これは遅刻確定コースだな。
そんなことを思っていると、もう十分たったようだ。
バスが来た。
なんと言い訳しようか。そんなことを考えながら乗り込み、車内を見渡す。二人掛けの席が、ひとつだけ空いている。隣のおじさんに会釈をしてから椅子に座り、そしてはたと思い立って電車の運行状況を確認する。
「あ…」
◇
【運行・運休情報(私鉄各線>神橋線全線>運行状況>現在)】
8:13分ごろに起きた人身事故の影響により、ダイヤが大幅に乱れております。
復旧の見通しは立っておりません。ご利用のお客様にはご不便をおかけしますが、ご理解とご協力をよろしくお願いいたします。
◇
俺はそこまで話して一息つくと、お茶を口に含みながら隣に座った友人を見た。
佐倉大輔。俺の同期で、ガタイが大きい小心者。でも俺とは気があった…のだと思いたい。なんせ学生時代は俺、友達なんてほとんどいなかったから、人付き合いがわからない。
入社したてで誰か友達を作りたかった俺は、唯一の同性の同期であるこいつに、勇気を出して話しかけてみたんだ。
そしたら、意外と楽しくて、それからはなんだかんだ一緒に話すこともあったりする。今日は社食で一緒になったので、雑談がてら今朝の武勇伝を話していた。
「それはよかった」
相槌を打ちながら話を聞いていた大輔が、にっこりと口を開いた。相変わらず、子供が泣きだしそうな笑顔だ。これだから、あだ名がツキノワグマになるんだよ。
「電車が遅延とは、言い訳ができてよかったね。まさにタイムリー」
「まあでも、『余裕を持って出社するべきだ』とかなんとか、課長にねちねちと怒られたけどね。俺のせいじゃないだろってんだ」
「普通に寝坊で遅刻してたらもっとひどかったでしょ、きっと」
まあね、と言って俺は立ち上がる。
もうそろそろ、昼休憩の時間が終わる。
大輔も立ち上がると、お弁当を仕舞ってついてきた。
何を隠そう、大輔は彼女がいる。この熊みたいな見た目のくせして、どっから見つけてきたのか美人で小柄な彼女が。妬ましい限りだ。
彼女と言えば、だ。
実は、俺には好きな人がいる。
彼女は凛とした立ち居振る舞いが美しくて、話の端々に知性が滲むような人だ。
部署の先輩で、名を、静香といった。
俺は入社したての頃幾度となく告白し、そのたびにフラれてきた悲しき経歴を持つ男。
もう、学習したさ。彼女に脈なんてない、ってことを。
だから今は、ただ見るだけにとどめている。決して、変な虫が付かないように監視しているわけじゃない。そんな厄介で粘着質なものではない。
…そんな下心は、ないったらないのだ。
まぁとにかく、俺の熱心な祈りが通じたのか、今のところ彼女に近づく不埒な輩は、一人の先輩が告白して撃沈したのをのぞいて、現れていない。
そして彼女をちらちらと見ていれば、あっという間に退勤時間。なんと有意義な一日なのだろうか。
そして、帰り道。
俺は、思い出した。
「まずい…」
こぼれた言葉を、律儀な大輔は拾ってくれる。
「どうした?」
俺は、大きすぎる独り言にならなかったことを安堵しつつ言う。
「今日急ぎすぎて、カギ閉め忘れたかもしれない」
「まずいね。一刻も早く帰りなよ」
そうだね、というのもそこそこに、俺は駅へと急ぐ。
一刻も早く帰れるように、泥棒が入っていないようにと一心不乱に願いながら。
歩いていく俺の耳に、また、「カチッ」という音が聞こえた。
今度は、朝よりは周りを見る余裕があった。早歩きをしながら周りを見わたしてみるも、おかしなところはないように思える。
いたって普段通りの日常。名も知らぬ人とすれ違い、初めて見る顔のカップルが仲睦まじく歩いている。そんな、駅前の風景。
でも、俺の中には確かな確信があった。この音は、無視してはいけない類のものだ。
何となく不安な気持ちにかられながら、俺は駅の改札を通過する。階段を上ってホームに降り立つと、タイミングを合わせたように電車が止まった。
朝の影響でまだダイヤが乱れているのだろう。類を見ないスムーズな乗り継ぎに成功し、俺は一路、家へと向かう。
信号機は青。これは走ればわたりきれるな。そう判断して、少しの距離を走る。
結果として、かなりいいタイムで、帰宅することができた。俺は恐る恐る、家のドアノブを握る。動かない。
何だ。鍵を、閉めていたのか。
そう安心したのもつかの間。俺は鍵を取り出そうとして、持っていないことに気が付いた。
いつもなら左の内ポケットに入っているはずの鍵。今日は、それがない。内ポケットに、ハンカチしか入っていない。慌ててポケットの中をまさぐっても、硬い感触は感じない。
慌ててカバンをあさり、スーツのあらゆるポケットをひっくり返す。でも、カギは見つからない。
背中を、冷たい汗が流れる。
——まさか俺は、カギを忘れたのか?
だったら、なんでカギが締まっている…?
そんな馬鹿なことがあるはずがない。ただ、見つかっていないだけだ。
そう心に言い聞かせながら、俺はもう一度カバンをあさり、内ポケットに手を入れる。
ありますように、と願いながら。
「カチッ」。今回は確かに、聞こえた。否、聞こえたように感じた。
体が、硬直する。
勘違いなんかじゃない。今度はわかる。この音は、頭の中で鳴っている。
まるでパズルのピースをはめたような、スイッチを切り替えたような音。
でも、その正体を確かめるすべを、俺は持たない。
この音は、何か病気の兆候なのではないか。
底なし沼のような不安から逃れようと、俺は一刻も早く家に入りたいと思った。
そして内ポケットに入りっぱなしだった右手を出そうとして、もう一度、硬直する。
——何か、ポケットに入っている。
恐る恐るそれを取り出して、開いた右手。そこには、鍵が握られていた。
結論から言えば、確かに、それはうちの鍵だった。ドアノブは、ゆっくりと回った。
俺は、安堵した。そのまま、電気のついていない暗い家に入る。
「何だ、ただハンカチにくるまってただけか」
わざわざ口に出して、言う。そうすることで、その事実がこの世に定着する気がしたから。
決して、認めたくなかった。頭の中で鳴る音が、本当に病気の兆候で、そのせいで内ポケットに入っていた鍵に気が付かなかったなどという事は。
だが、心では、思っていた。
——この鍵、さっきは、ポケットの中に入っているように思わなかった。
つまり、やっぱり…。 明日必ず、病院へ行こう。
——重大な病気が見つかったらどうしよう。俺はもう、死んじゃうのかな。生きていたいよ。24で死ぬなんて、冗談じゃない。
そんな不安に包まれるようにして夜を過ごし、そして翌日。
ちょうど仕事が休みだったのもあって、朝から病院へ出向いた。有名な大学病院の、脳神経外科へ。
そこで素人にはわからないようないろんな検査を受け、そして結果——。
異常なし。いたって健康体。
「…………」
いや、そんな訳あるか。確かに音が聞こえるんだ、俺には。
釈然としない気持ちを抱えたまま、一か月がたった。
例の音は、ときどき聞こえてきた。
ある時は、音が鳴って、信号機がことごとく青になった。おかげで大事な商談に遅刻しないですんだ。
ある時は、確かになくしたと思っていた資料が出現した。会議前に、あることを願って探したら、カバンの中に入っていた。確かに昨日は、なかったはずなのに。
ある時は、課長の小言が呼び出しによって短くなった。先輩には、「運のいいやつだな」と笑われた。
他にも覚えていないようなこまごまとしたことが何度かあった。
懸命に、その結果が到達することを願ったときにだけ、例の音は鳴った。
そして全部において、願った通りの結果が、訪れた。すべて、俺にとっていい方向に傾いたんだ。
最初は、ただの偶然とラッキー、くらいに思っていた。でも、こんなにラッキーが繰り返されることが、ありうるのだろうか。
そう考えたとき、俺は、音の正体に気が付いてしまった。
カチっ、というあの音は、きっと、この世を俺の思い通りに変えるときの音だ。
そういえば、と俺は思った。
あれは、大学の入試の時だったか。問題がわからなくて悩んで、そして当てずっぽうで書いた答えが全部当たっていたことがあった。
それも、この力のおかげだったんじゃないか?
思い返せば、子供のころの俺は転んでも怪我の一つもしなかったし、ほしい給食は必ずじゃんけんで勝って手に入れていた。
そこまで考えて、俺は、この能力を、世界を少し変えるという力だと定義づけた。
翌日。俺は大輔に、この発見を喜々として話していた。
「なぁ大輔。聞いてくれよ。俺は昨日、すごい発見をしたんだ」
「なに?」
「実は俺——」
そこまで言ったところで、ふと思った。
俺、頭のおかしいやつ扱いされかねないな、と。
でも、大輔は興味津々にこちらを見ているし、話していいか、と思った。こいつなら、俺を変人扱いして距離を取ることもないだろう、と。
その瞬間、俺はあの「カチッ」という音を聞いた。
「…?」
でも待っても何も起こらないので、気のせいだったんだろう、と結論付けた。
最近あの音を聞きすぎて、ついに幻聴でも聞こえるようになったか。
「どうしたの?」
大輔にせっつかれて、俺は口を開いた。
「実は俺、世界を思い通りにできるみたいなんだよ。
何かを願ったら、耳にカチって音が聞こえて、そして願った結果になるんだ」
「あっはっは、そんなことあるわけないじゃないか。
何を言うかと思ったら。エイプリールフールは先週だったぞ」
「いや、…そうだよな」
「何があったのかは知らないけど、たいていそういうのは偶然で片付けられるんだよ。ただ音が聞こえるってのは少し心配だから、耳鼻科とかで見てもらいなよ」
「そうだな!」
大輔の言葉は、説得力があった。もしかしたら、俺がそう思いたかっただけかもしれないけれど。
それでも確かに、俺は耳鼻科を受診していない。前に病院に行ったときは、頭の病気しか疑っていないからだ。
俺は、そんなことあるわけないよな、全部気のせいと偶然か。そう、思った。
目が覚めた気分だった。
「…そういえば俺たちが入社して一年、あの高嶺の花、静香さんとは進展あったのか?」
話題が変わり、俺は大輔のほうを見た。
彼女のことを思い出しながら、俺は言った。
「それを聞くかい? …実をいうと、進展は全くないんだけど、朗報もある。
この半年間、きざな先輩が静香さんに告白したのをのぞけば、誰も静香さんに近づいてない!
…ただあの先輩は、まだ彼女をあきらめてないみたいだけどね」
「それをずっと観察してるのかい?」
大輔の口調には、あきれが滲んでいた。
うん。自分でも、ちょっと重いかなって思うよ。
「進展はありそうなの?」
大輔は、あきれた口調を取り繕うように言った。
「俺は今でも好きだけど、向こうに気がないんじゃぁね。
彼女が俺を、好きだったらいいのに——。」
「カチッ」と、また音が鳴った気がした。
俺は、思い出した。
この前車にひかれそうになった時も、この音が立て続けに鳴っていた。
きっと、命にかかわるようなことについては、願いとか関係なく音が鳴って、未来が変わるんだろう。
——つまり、あんな恐ろしい体験をもう一度するのか、俺は。そんなカウントダウンみたいなマネをするんだったら、この音なんて消えてしまえばいいのに。
…あ、また、音が聞こえた。
そして。
案の定、ずっと不安定で危なそうと思っていたスチールラックが、ついに倒れて崩れる、という事件が起こった。先輩が一人、ラックの角で足を切って、縫うような大怪我をしたらしい。
救急車がきて、大騒ぎに発展してしまった。
家に帰って俺は、巻き込まれなくてよかった、これも音のおかげかな、と思いながら眠りについた。その日、それ以上あの音を聞くことはなかった。
翌日、俺は珍しく早起きして、俺にしては早い時間に出勤することができた。
事故のショックもあって、昨日早く寝たのがよかったらしい。…だからと言って今日もまた早く寝るかというと、怪しいが。
静香さんは俺より先に出勤していた。
真面目な彼女のことだ、きっと誰よりも先に出社して、仕事を始めているんだろう——。
そんな想像をしていると、珍しく彼女のほうから声をかけてきてくれた。
「今日は早いね」
想定外の出来事に、心臓が早鐘を打つ。
「あ、ああ、おはようごじゃいましゅ!」
いや、もっとましな返答があっただろう。社会人にもなって、俺は何をやっているんだ。噛んでしまうなんてもっての外…
そんな風に自己嫌悪に陥っていると、彼女は笑って、
「見事に噛んだね」
と言ってくれた。うれしい。俺の心は結構高くまで舞い上がった。
でも、夢のような雑談は、それでは終わらなかった。
好きな食べ物の話から発展して、今度カフェに一緒に行く約束を取り付けることができた。今迄からは考えられないようなとんとん拍子レベルである。
俺はそのことを、大輔に報告した。喜んでくれるだろうな、と思いながら。
「よかったじゃん。ついに静香さんとの関係が進展だ。
長かったぁ…」
大輔はオーバーなくらい喜んでくれて、彼女持ちとして、男としての先輩として、的確な助言をくれた。
そのかいあってか、初めてのデート(デートでいいんだよな!?)は、大成功をおさめた。
帰り際、勇気を振り絞って次もどこかへ行こう、といった俺に、彼女は「ぜひ!」と返してくれた。
嬉しい。
◇
そして、月日は流れ、初めてのデートから一年がたった。
俺は今日、彼女にプロポーズをする。
そのための準備は、整っている。彼女を夜景のきれいな温泉旅館に誘うこともできたし、ちゃんと温泉で体を念入りに洗って清めた。
あとは、彼女が受け入れてくれるのを、誠心誠意、体の隅々までを使って願うのみだ。
部屋に戻った俺は、椅子に腰かけて外を見ている静香の前に、ひざまずいた。
手に持った指輪を掲げて、俺は、震えそうになる声を必死に抑えて、言った。
「静香さん。俺と、結婚してください」
刹那。音が、消えたように錯覚した。
OKと、そういってくれと、願った。これまでにないくらい、念じた。
彼女は、永遠にも思える時間の後、言った。
「はい。喜んで」
俺は、その天使のような笑みに、心を奪われた。この女性を、生涯愛すると誓った。
もう、ほかの人が目に入らないくらいには彼女に夢中になれると、確信した。
俺たちは、すぐに籍を入れ、新居に引っ越した。
そこは、2LDKのマンションの一室だった。
二人で暮らすのには少し狭いけれど、新婚の甘い愛をはぐくむにはいい場所だと、思った。
新婚生活は、上々だった。
静香は料理上手で、俺の好物ばかり作ってくれた。
俺がカレーが食べたい気分の時はカレーが、グラタンが食べたいときにはグラタンが、食卓に並んだ。
何も言っていないのに、俺の嗜好を先回りするようにメニューが最適化されていた。
俺は、不思議に思って静香に聞いた。
「なんで俺の食べたい料理がわかるんだ?」
静香は、ほほ笑んだ。プロポーズしたときと、同じ笑みだった。
俺は何度見ても、この笑みには勝てないな、と思った。
「別に私は、その日作りたい気分だったものを作っているだけだよ。
こういうのを、以心伝心っていうんだよね!」
静香の言葉は、俺の心に染み入っていった。
何か、大切なことを忘れている。そう主張する心の声には、蓋をした。
この甘い気持ちに、もっと浸っていたかったからだ。この空間に、雑音は、いらない。
その日、俺は夢を見た。
その夢のなかで、俺は、小さなステージの上にいた。
ほかのみんなは人形で、俺がその体についた糸を操って動かしていた。
夢の中の俺は、繰り返し言っていた。壊れたように、笑っていた。
「俺、世界を思い通りにできるんだよ。
何かを願ったら、耳にカチって音が聞こえて、そして願った結果になるんだ。モノも、コトも、ニンゲンですらも」
俺は飛び起きた。汗をびっしょりとかいていた。
——もし、俺が願ったことが、全部現実になってしまうなら。人間の行動ですら、全部、俺の考えの鏡写しになってしまうのか…。
ちょっと待て。俺は、いつから、「かちっ」という音が聞こえていなかった?
いや、そんなわけない。
そう気を持ち直して、洗面所へ行った。顔を洗い、キッチンに立つ静香に後ろから抱き着いた。
テーブルの上にはもう、愛情のこもった料理が並べられていた。
俺は不安で仕方がなかった。彼女が確かに存在する一個の人間だという事を、確認したかった。
静香は、優しく言った。
「どうしたの?」
俺は、震える声で、聞いた。
「お前は、幸せか?」
静香は、ほほ笑んだ。プロポーズの時と、そして昨日と、同じ笑みだった。
今日はその微笑みを、美しいとは思えなかった。
その笑みはまるで、俺の好みに合わせて作られた、オーダーメイドのお面のようだった。
「ええ。この生活が、人生の全部が、幸せです」
その言葉を聞いた時、俺は、全身から冷たい汗が噴き出すのを感じた。
自覚したのだ。
心の底で、静香がそう言うことを願っていた、と。
それからの一日、俺は何をしていたのかを覚えていない。会社に行ったのかすら、怪しい。
気が付いたら、自室の隅にうずくまっていた。
考えることは、たった一つ。自分が、何も願わず、何も考えず、ただ空っぽにあるように。
この世界に、これ以上、願いというインクをこぼさないように。
ずっと、そればかりを願っていた。
でも、一人でうずくまっていると、どうしても頭は何かを考え始めてしまう。
もし、俺の周りにいる人たちが、俺のイメージでしかなかったら。彼らは本当に、存在するといえるのだろうか。
課長も、大輔も、静香ですら、俺が願って生み出した、空想なのか?
それを確かめるすべは、…ない。俺がその存在を、ニンゲンであると思っている限り。
そこまで考えて、俺は、恐ろしい考えに行きついた。
——あいつらが俺に操られているなら、俺はいったい、誰に操られているんだ?
そもそもあいつらは、俺に操られているという自覚があるんだろうか。
全部自分の意思だと思っているとしたら?
「俺は、俺が、誰かに操られていたとしても、絶対に気づけない…」
気が付いたら、俺はそう口に出してしまっていた。
言葉が拡散し、空間に溶ける。慌ててかき集めようとしても、もう遅い。
俺は、自分の手を見た。手のひらを、手の甲を凝視した。
そこに、糸はついていなかった。
でも、頭脳は止まらない。
俺は今まで、願ったことが現実になると思っていた。でもそうじゃなく、現実に起こることしか願えなかったのだとしたら。
俺を操るやつがいて、そいつは未来を見通せて、だから俺は、自分で願ったことが世界に反映されると考えてるけど、実際は、俺を操っている奴が知った未来のみを、断片的に”願い”にしているのではないのか?
そう考えだすと、もう止まらなかった。
何時間がたっただろうか。あるいは、何日間がたったのだろうか。
男は、暗い室内でカッターを取り出した。震える親指で、鈍く光る鉄の刃を出す。キチキチという音が、部屋の中に響き渡った。
男は右手でカッターを持ち、そして。その刃は、何も切ることなく、男の左腕の上の空間を滑る。
それは果たして、糸が付いていないからなのか、それとも、糸の存在に気づくことができないからなのか…。
日は巡り、朝が来る。
操るものがいなくなった日常は、これまでと変わらず動き続ける。
今朝も変わらず食卓では、料理が湯気を立てている。




