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 朱里の家の離れや蔵には平気で入り浸っているものの、大地が母屋に入るのは幼少時以来だ。他にはちょっとお目にかかれないような立派な大邸宅である。

 チャイムを押すと、朱里の母親が今日も綺麗な身なりで出てきて(こういうところがこの辺りの農家のおっかさんたちとはちょっと違っている)、大地は家から持って来た見舞いの梨を手渡した。大地の家は農家である。米も野菜もあれこれ作るが、父親一番の自信作はなんといっても梨である。母親に朱里の見舞いに行くと告げたところ、早速出来のいい梨を選別され、持たされた。

 「あれ、気遣わねでくろよ」そんなことを言いながら、母親は朱里の部屋へと案内してくれた。

 「ぶっ倒れちまった時は心配したが、ようやぐ今朝方はずいぶん熱も下がってきでな。いがったよ(注:良かったよ)。明日にも起き出せんべ。」

 廊下の天井を走る見事な丸太梁は、立派な年輪を刻んでいる。さすが江戸時代からの名家と言われる鈴木家である。ガラス戸も逐一見事な装飾を施しており、大地は物珍し気に目線をあちこちにやりながら、母親の後を追った。

 「朱里、飯は食えでんのが?」

 「食わねなぁ。元々食が細いがらこういう時はからきしだ。でも熱下がってきたから、少しは食えんべ。後でおめが持ってきでくれた梨さ剥いて持ってってやっぺよ。朱里、おめんどごの梨大好物だかんな。おっ母さんによぐよぐお礼言っておいでな。」

 母親が朱里の部屋の戸を開ける。朱里はベッドの中で、口元まで布団をかぶって眉根を寄せながら寝ていた。

 「シェリーちゃん、大地来たで。」母親が顔を覗き込む。うっすらと、朱里が目を開く。

 「大地が梨さ持ってきてくれだけど、食べっか?」

 はっきりと頷いた。

 「わがっだ。今剥いてきでやっがら。いい子して寝でろ。」と言って母親は部屋を出た。

 大地はベッドの傍に歩み寄り、朱里を見下ろした。

 目が合う。

 なんだか以前より一回り小さくなったような、今にも消え去ってしまいそうな儚さがあった。

 「……だいじ(注:大丈夫)か?」

 だいじではないけれど……。目は語る。

 「ルアン、バンド続けていけっこどになったのは、知ってっか?」

 朱里は小さく頷く。

 「おめのお陰だ。ありがとな。……じいちゃんに助け頼んでくれで。おめがいながっだら、全部おしめえ(注:お終い)だった。何もかんも。俺ら全員、もう二度とルアンとも会えながったかもしんね。」

 朱里はぼうっと大地を見つめていた。

 その目は微熱のためかじんわりと潤んでいた。肌もいつもよりもなんだか青白く、冷たく輝いているようにも見えなくもない。少し苦し気に開いた唇は赤みを帯びて、奥が少しだけ乾いてひび割れていた。大地は朱里を見つめながら、胸が切なく締め付けられるのを覚えた。

 なんだろうか、この感情は。可哀そう、というだけではない。よくやってくれた、頑張った、というねぎらいの気持ちだけでもない。もっと違う、何か。そうだ。朱里に触れたいのだ。朱里を自分のものとしたいのだ。

 大地はおもむろに朱里に顔を近づける。

 一瞬、朱里は怪訝そうな顔をした。

 口元を覆っていた毛布を大地は下ろす。朱里は不穏な感情を読み取って、なんとか毛布を引き上げようとするが、力では到底大地には叶わない。顔を右に背け、左に背け大地との距離を保とうと苦心したが、ついに大地に両頬を抑え付けられ、なんとそのまま口づけられた。朱里の目が見開かれた。

 その瞬間、部屋の扉が開いて母親が絶叫した。

 「何してんだっぺー!」

 むんず、と大地は髪を引っ掴まれ後ろにひっくり返る。

 「おめ! うちのシェリーちゃんに! 何つうことを!」

 大地はひっくり返ったついでにテーブルの脚にぶつけた頭を抱え、悶絶する。

 「こーんの、悪たれが!」母親は梨の乗った盆をテーブルに置いて、さらに大地の頭をぶった。

 「おめ、よぐも、シェリーちゃんことさ、傷物にしてくれだな!」

 「き、傷物?」大地が母親を見上げながら、情けない声を上げる。

 「ほだっぺ! 口吸いなんてしやがって! どう落とし前つける気だべ!」

 「落とし、前?」大地は混乱する。

 「落とし前は落とし前だっぺよ! とんでもねえ悪たれだ!」

 「ごめんなさいごめんなさい!」

 「謝って済むことであんめ! おめ、シェリーちゃんとめおど(注:夫婦)になる気はあんのが?」

 「め、めおど?」

 「おめ、めおどになる気もねえのに口吸いしたんが?」般若のような母親に凄まれ、思わず大地は激しく首を横に振った。

 「何つう悪たれだべ! 下妻から出てげ! 二度と筑波山拝むんじゃね!」

 「いや、……いや! めおどになります!」思わず大地はそう叫んだ。

 「……めおどになんだな?」急速に母親の声はやや沈静した。

 「なる。」そう答える他にない。「なります。」大地は二度も三度もうなずいて見せた。

 母親はようやく怒りを収め、「めおどになるっつうんなら、しゃあんめ(注:仕方ないだろう)。今回のことは特別に目をつぶっでやってもいい。でも、……これ以上のことはめおどになるまで許さねがんな!」

 朱里は布団の中でぶるぶると震えていた。


 これで朱里の将来も安泰だ。

 朱里の母親は部屋を出た瞬間、ほくそ笑んだ。

 昔から綺麗でかわいいものが好きな朱里は、十中八九女の子の心を持っている。おそらく恋愛対象も男であろう。それは別にいい。本人の趣向なのだから。でも、さらに言葉が出ないとなれば、伴侶を見つけるには難儀をするに決まっている。そこにおいて大地は適任だ。物心つく前からの幼馴染で気心は知れに知れている仲だし、おまけに大地はああ見えて面倒見もよい。朱里のことを大切に思っている節は随所に見られるし、顔だってなかなか可愛い顔をしているし悪くはない。大地のところに嫁がせてやれば朱里だって嬉しかろうし、親として安心できるというものだ。なに、戸籍の性別変更なんざ夫や義父に言えばすぐだろう。じいちゃんなんぞルアンの戸籍だって取れるのだから、それよりは簡単にできるはずだ。

 ああ、一つ朱里の問題が片付いた、とばかりに朱里の母親は鼻歌交じりにキッチンの片づけをし始めた。


 一通り恐怖が去るや否や今度は明らかに不機嫌になった朱里に、それでもなんとか慰め慰め梨を食わせると、大地は明日からまたバンド練習をしようと伝え朱里の家を辞した。


 ——俺は将来、朱里と結婚するのか。

 帰り道、ふと、澄みわたる青空を見上げながら大地はそんなことを考える。そこには別に恥じらいも落胆も、喜びも期待も何もなかった。あえて言うならば、普通の流れのように思われた。まあ、そんなものか、と思った。

 中学生の大地にとって、当然のことながら今まで結婚などということは考えたことがなかったし、結婚なんて改めて言われても、なんだか物語の最後のめでたしめでたしの場面を彩る、どこか空想めいた話にしか思えない。

 でも、まあ朱里ならいいだろう、よく知っているし、と思いのほか容易に大地は自分の中で納得する。

それよりも練習だ。いよいよルアンが戻ってくるのだから、次回のライブに向けてしっかりバンドの音を固めていかなくては。

 大地は家に向かって笑顔で駆け出した。

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