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 海里は始発と共に東京へと帰っていった。

 朝は早く、町はうっすらと靄に包まれている。

 ーーこんな時間に出歩くのは久しぶりだ、と朱里は思う。小学生の頃、夏休みに毎日八幡神社の境内でラジオ体操をしてから、その足でよく海里や大地、大河、ルアンとカブトムシ取りに行ったっけ。砂沼の裏手にある観桜苑はその時はまだそれほど整備されておらず、樹齢数百年といわれる樹木が立ち並び、そこがカブトムシの穴場だった。海里は特に夜こっそり家を抜け出して、そこに蜂蜜塗りに行っていたっけ。だから翌朝ラジオ体操が終わると、立派なカブトムシが数えきれないぐらいに集っていたものだ。大地たちは大喜びで、手持ちの虫かごをすぐ満杯にして、その後はカブトムシ相撲大会だった。そんな時にも海里は特に自分が昨晩蜂蜜を塗ったからだ、なんてことは言わない。もしかすると、今も大地は勝手にカブトムシが取れたと思っているかもしれない。今度聞いてみよう。

 朱里はそんなことを考えて、ほほを緩ませた。

 幻想的な街を足早に歩く。時折新聞配達のバイクの音が聞こえるばかり。そこに、何やら女の悲鳴やら子供の泣き声やら、騒がしい音がするのに思わず足を止めた。ーールアンの住むアパートの方である。

  無論ルアンの家などとは思いもしなかったが、あまりにも早朝に似つかわしくない騒々しさだったので、ふとなんとはなしに朱里はアパートの方に足を向けてみた。騒ぎの中心はすぐに知れた。

 アパートの前にシルバーのバンが停まっており、そこに十人程の黒い人だかりが見えたのである。そして、その中心には遠方からでも見紛うことのないルアンがいた。

 ルアンは左右を男たちにしっかと囲まれ、堅く腕を掴まれたまま途方に暮れたようにアパートの階段を降りていく。そしてその前方には見たことがある、ーーあれは、ルアンの母親だ。そして母親の手に縋りつく小さな子どもたち。ルアンの弟と妹だ。そして最後尾に見たことのないジャージ姿の男性。項垂れていて顔は見えないが、父親か誰かであろうか。

 朱里の心臓がどくり、と鳴った。ルアンをどこに連れて行くつもりなのか? 帰ってきたばかりの大切な、ルアンを。

 あんちゃん! 心中そう叫んで思わず振り返り、海里の乗っている電車はもうとうに出ていることに思い至る。

 朱里の頭は真っ白になった。

 ーーどうすればいい? どうすればルアンを助けられる? ルアンはどこに行ってしまう? 帰ってきたばかりなのに!

 昨夜の海里の声が頭の中で反芻される。「頼んだ」

 朱里は頭を振ってから一目散に駆け出した。

 全力で、走り出した。

 自分の家に向かって。

 時折足がもつれそうになる。つんのめっては再び上体を起こして、再び全力で走る。肺と心臓がもはや千切れそうだけれど、呼吸ができているかできていないのかもわからないけれど、とにかく力の限り走った。一秒でも早く。靄を切り裂く。

 母屋の雨戸が開いていた。しめた。誰かは起きている。

 朱里は勢いよく玄関の扉を開けた。土足のままリビングへ駆け込む。

 そこには祖父と父がテーブルに新聞を広げつつ、母が朝食を並べていた。

 ただならぬ様子に、三人はぎょっとして朱里を見つめた。

 朱里は真っ赤な顔をし、肩で息をしながら立っていた。しかも足元はスニーカー。

 怒るよりも何が起きたのか問うよりも、恐懼した。こんな朱里の姿は今まで見たことがなかった。

 だから、なんと言っていいのかわからない。三人共に言葉が出ない。しばらく沈黙があった。

 朱里は今自分が直面してきた危機的状況をどう伝えるべきか、考えた。そして、

 「ルアン」

 声、ではなかった。けれど、口はそうはっきりと大きく開いたし、そこから漏れ出る空気はたしかに、そう、発された。祖父も、父も、母もきちんと解した。

 「たすけて」

 次いでそう絞り出した朱里の目から涙が零れ落ちる。

 朱里の母親は手に持っていた茶碗を落とし、朱里の両肩を強く握りしめ叫んだ。

 「ルアンがどうした?」

 「ルアン……、ルアンっちゃあ、おめの友達の、あの、白人の子があ?」父は新聞放り出して立ち上がる。

 祖父も真顔で立ち上がる。

 「ルアンがケガでもしたんか?」母親は顔を蒼白にしながら尋ねる。

 朱里は激しく首を横に振った。

 「ぶっ倒れだのが?」

 違う、違う。

 「じゃあ、……どうしたんだべよ?」母親は泣きそうになりながら問う。

 その時、「ルアンが、……連れてがれだんだな!」祖父が響き渡る大声で言った。

 朱里は今度は激しく頷いた。

 朱里は涙も拭わず、母親の手を肩から引き剝がし、そうして引っ張って外へと連れていこうとする。

 「朱里、待で!」

 祖父が朱里の涙に濡れた頬を両手で包み込んで覗き込んだ。

 「朱里。祖父ちゃんに、任せろ。」

 朱里は苦し気に何度もうなずく。

 「おめの祖父ちゃんは老いぼれても元・衆議院議員、鈴木万里だ!」

 それは正に、部屋が震撼する程の信じられないぐらい大きな声だった。

 「じいちゃんに任せどげ!」

 朱里は悲鳴めいた声を喉の奥から鳴らしながら、その場に倒れこんだ。


 だから、朱里がこの後ルアンがどうなったのか、そしてルアンの一家に何が起こったのかを知るのは数日経ってからのこととなる。

 朱里は大熱を発し、数日間寝込んだ。あれだけ全力を尽くして走ったのも、言葉を紡ごうとしたのも、全てが産まれて初めてのことであったので、体が追い付かなくなったのに違いない、とは母親のほぼ正確な見立てであった。

 だからルアンについての情報を得たのは大地や大河の方が先であった。

 ルアンの母親の現恋人が、やはりというか案の定というか、犯罪に手を染めていたのである。詐欺、暴行、窃盗、それから違法薬物等にも絡んでいたらしい。メディアにも報道されたので、かなり正確な部分まで大地たちは知ることとなった。

 何日も前から警察がルアンのアパートに出入りする、ルアンの母親の恋人に目を付けていて調べていたのである。近隣への聞き込みによれば、不特定多数の外国人が出入りしているとの情報もあり、今後更なる犯罪も明るみになりそうであるということが判明した。

 男と女が自宅にいる時に、踏み込む。その計画であったが、警察はすっかり背が伸びた、そして顔のあちこちが腫れ正体不明の風情となったルアンの帰宅を、目を付けていた母親の恋人の帰宅であるとすっかり勘違いしたのであった。

 一晩待って、事前準備を整え、現場に踏み込んだところに、たまたま朱里が出くわしたのであった。

 入国管理局による入念な調査の結果、早々に母親とルアンの弟妹たちは国に帰されることとなった。そしてまもなく母親の恋人は居場所を特定され、逮捕されることとなった。そして、ルアンは?

 未成年であるので、本来であれば母親らと共に故郷へと強制送還されるはずであった。不法滞在の身である。戸籍もない。そんな自分が我儘を言えた義理ではないのは重々承知していたが、ルアンはそれでも言った。言わざるを、得なかった。ーー日本にいたいと。

 ルアンの脳裏に浮かんだのは他でもない、大地と大河と、朱里と、それから海里の姿であった。せっかく見つけた自分の居場所たるバンド、それを奪われることは身を切られるよりも耐え難かった。

 ーー日本にいたい。みんなとバンドを続けたい。

 その願いを叶えるべく登場したのが元県会議員、衆議院議員の鈴木万里であった。議員を勇退して数年経つが、まだまだその威光に翳りはない。

 ルアンは呆気ないほどすぐに釈放された。鈴木万里氏自身が身元引受人となり、成人まで面倒を見る、ということでこの上なくスムーズにルアンは釈放された。

 「部屋なんぞ元の母ちゃんらと住んでだアパート借りどいだっていがっぺし、うぢにだって離れもあんべよ。他にだって、いぐづだって賃貸に出してっどごはあんだし、母ちゃん済まねが飯だけ用意しでやっでくれっか?」

 朱里の母親は涙をこぼしながら、その提案を有難く、この上なく有難く受け取った。ここに嫁いできて本当によかった、そんなことも思った。


 ルアンの問題はもうすっかり片付き、朱里の体調面の方がいささか禍根を残していた。大地は何度か朱里にメッセージを送ったが、なかなか帰ってこない。数日たってようやく、

 ——熱があるから部屋で寝てる

 朱里からのメッセージが来た。朱里が言う「部屋」、というのは母屋の二階にある朱里の部屋で、離れの寝室とは別である。朱里がどういう基準でそれらを使い分けているのはわからないが、今回はおそらく母親が看病をするのに都合がよいため、母屋で寝ているということなのだろうと、大地は解した。

 ーー見舞いに行ってもいい?

 ーーいいよ

 大地は朱里に会いたくて仕方なかった。毎日顔を合わせているのに不思議なことであるが、それでもなぜだか猛烈に、会いたかった。


 朱里が祖父を動かした。

 その事実はにわかには信じがたいものであった。朱里が言葉を発し、ルアンの危急存亡の時を助けたというのは。でもやった。大熱発してぶっ倒れたが、やった。

 その様を思うと大地は否応なく、胸が熱くなるのを感じるのである。

 でもそのおかげで、ルアンは強制送還を免れた。そしてルアンは朱里の家に住まうこととなった。バンドが継続できることとなった。

 もし朱里がいなかったら……。

 バンドは終わっていたし、それ以前にルアンはもう二度と日本の土を踏むことなく、不再び相まみえることもなく、すれ違うことさえない完全に別々の人生を歩むことになったろう。

 だから大地は朱里に会いたかった。会って、どうしても感謝の念を伝えたかった。

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