16
外は暗く、既に肌寒かった。
海里は自分の着ていたArch Enemyのパーカーを脱いでルアンに着せる。そして、その顔を隠すようにフードも深々と被らせた。ルアンは鼻を鳴らしながら泣いていた。
つくば駅から下妻に向かう車中、ぼこぼこに顔を腫らしたルアンを真ん中に、海里、大地、大河、朱里がそれぞれ左右に座った。客席はまばらで、車窓からはぽつりぽつりと建つ家々の寂しげな灯りだけが見えた。
「あんちゃん、……今日は家に泊まんでぇ(注:泊まるのか)?」沈黙に耐えかねて、大地がそう訊ねた。
「でも、まあ、……じいちゃんと父ちゃんには二度と敷居跨がせねえって言われてっかんなあ。」
「じゃあ、どうすんで?」
朱里が寂し気にちら、と海里を見た。
「朱里の離れなら、敷居跨いでねえことになんでねの?」大河が言った。
「……何言ってんで?(注:言っているんだ)」
「敷居っつうのは襖どが障子どがすーっと滑らせる溝のこと言うんだど? 和室にしかねえべよ。んで、朱里の離れは洋間だけだっぺ。」
大河の妙な知識によって海里はそんなものかと納得し、親には内緒で帰宅し、朱里の部屋に泊まることとなった。
朱里は期待に満ちた眼差しで、きちんと背を延ばして真っ暗な車窓を見据えていた。
下妻駅に着き、ルアンを実家に送ると四人はそれぞれの家へと戻っていった。
朱里の離れのベッドはダブルベッドであって、大人二人が寝転んでも十分な広さがある。
おまけに寝室の隣には簡易的なシャワーまで付いているのだから、それはルアンが入り浸るのもやむを得ないというものだ。
ルアンを家に帰し、大地、大河と別れた後、朱里の離れに久々に戻ってきた海里は、シャワーを浴びて早速ベッドに転がった。朱里は何食わぬ顔して母屋の台所から飯だの味噌汁だの、残っていたおかずだのを拝借してきて、海里に食べさせつつ自分も少しだけ食べた。
久しぶりの母親の味は海里に大きな満足の種を撒いた。懐かしく、心が満ちていく。その幸福な感情のまま布団の中に潜り込む。その海里の隣に、朱里もそっと身を横たえた。
「懐かしいもんだなあ、ちっとも下妻は変わらねえし母ちゃんの味もそのまんまだ。なんもかんも、記憶ん中のまんま。……きっとここいらは砂沼ができた江戸時代からなーんも変わってねえんだべ。」
そんなことあるものか、と思いつつも朱里は今にも微笑みだしそうになりながら半ばうっとりとして、その声を聞いている。
「おめらはいいよなあ、こっちさでもバンドできて。俺ん時はよお、周りにバンドやるっつう奴がだーれもいなぐで。東京さ出るしかあんめって、ずーっと思っでだんだよ。」
外では低く山鳩が鳴いている。
「でもどうなんで? おめは、こっからどうしてんで? もう今年で中学終わりだっぺよ。」
海里はそう言って朱里を見た。朱里は甘えたように海里を見返す。
「……バンド、続けんのが。ほだよな。……でもまず、高校さ行って、その後東京来たらいがっぺ。おめは頭もいいし、悠里(長兄の名)程でねえにしだって、いい学校さ上がれるべ。でも大地はなあ、高校どっか引っかかるといがべが……。それよかルアンか。」
朱里の眼差しがはっきり、曇る。
「……あいづ、帰り道に『自分は戸籍がねえがらどうにもなんねえんだ』っつってたっぺよ。……あれ、本当なのが?」
朱里はこっくり頷く。確証こそないが、既に何度も本人からは聞いていた話だ。でも自分ではどうしていいのかわからない。どうしてあげられるのか、見当もつかない。
「ほが。……それ、父ちゃんかじいちゃんに言ったら、何どかしてくれえねべか?」
朱里は目を大きくした。
「あいづは、正直、危うい。これから一緒にバンドやってぐってなっだら、まず、きちんと生き方見直してやんねど、まだ女んどこ転がりこんだり、下手すっともっと悪いやつらに捕まりかねねえ。そしたらあいづの人生も滅茶苦茶になっちめえし、おめらのバンド活動もそこでしめえ(注:おしまい)だ。」
朱里はじっと目を閉じて、瞼を震わせた。
「しゃあねえどこあんのはわかってる。母ちゃんにも邪険にされて、父ちゃんもいねえし、金もねぐって小学生の頃っからてめえで稼いで生きでんだもの。学校にもろぐすっぽ行かしてもらえねでさ。……でも、あいづはな、巧いど。おめも大した才能あんが、ルアンもなかなかだ。これ、お世辞でねえど?」
わかっている。朱里は鼻息を漏らす。だからこそ何とかしてやりたいのだ。それが自分の力の及ぶ範疇を超えているとわかってはいても。
「だからしみじみ(注:きちんと)さしてやんなきゃだい(注:だめ)なんだ。……でも、俺らにできっごどっつっても限界がある。もしあいづが危ねえごどになったら、おめ、じいちゃん父ちゃんに助け求められっが?」
朱里は決意を込めて再び頷いた。それができるのは自分しかいない、そんな使命感もあった。
「頼んだど。……もちろん今日みてえなのなら俺でいいけどな、戸籍がどうのだのって言われっちまうと、俺には学もねえしそっちの伝手もねえ。でもうちのじいちゃんと父ちゃんは、ああ見えでなかなか力あっから。……おめ、ルアンごど頼むぞ。」
朱里は安心しきって眠りについた。自分の背後には兄もいれば祖父、父もいる。もちろん母もいる。自分は守られている。だからこそ仲間に手を差し伸べられる。どんなことがあっても。深い深い夢の中に落ちて行った。
ルアンが暫くの間いなくなったことで、日本語のできない母親は生活に大きな負担を強いられることになっていたのを、ルアン本人は知るべくもなかった。
ルアンの母親は元々日本に労働のためにやってきたベトナム人であるが、在留資格は何年も前に喪失している。つまり不法滞在になるが、だからと言ってどうすべきであるのかもわからない。国へ帰るべきか、日本にいるべきか、選んだ結果が現在であるというのでは無論ない。どうするべきかわからないままずるずると過ごしていた結果が現在なのである。役場だの入管だので渡される書類なんぞ一文字だって読めはしないし、読んでもらえる日本人の知り合いもない。そこを今まではルアンを頼りにしてきたが、ルアンだとてすべての日本語を解せるわけでもないし、彼は遂に家を出て行ってしまった。
ルアンの母親だけあってルアン同様彫の深いきれいな顔立ちをしているので、若く見えるから恋人は途切れない。ルアンの父親、それからその下の弟の父親、さらにその下の妹の父親は全て違う。それから今の恋人も。
ルアンの母親はいよいよ本格的にルアンが帰って来なくなったことに無論気をもんではいたが、恋人は何も気にしないばかりか、かえって都合がよいと言う。年頃のルアンがいない方が、自分たちの暮らしには邪魔が入らずに済む、というのである。その恋人は自分と同じ故郷出身の不法滞在者である。だから仕事らしい仕事もないし、できようもない。それでも時に大金をもって帰ってくるのは、おそらくは犯罪に手を染めているのではないかと思いつつも、もちろん追及することはできなかった。それはあまりに恐ろしいことだ。ルアンの母親にとって、言葉も通じない異国の地で子供を抱えて一人ぼっちになってしまう、などということは何があっても考えられなかった。それは絶対に避けねばならない。
だからルアンのことを考えることは、やめた。どこかで元気に生きているだろう。体は丈夫だし、昔から周りに好かれる子だ。大丈夫。
自分に半ば強引にそう言い聞かせ、母親はルアンが置いていった制服だの教科書だのを押し入れの奥に押し込んで、ルアンについて考えることを一切、放棄した。
警察や入管におびえつつも、それでもルアンの母親は一応平凡な日々を送っていた。近所のベトナム料理屋で手伝いをしたり、それから時には故郷からやってくる遠い知り合いを泊めて飯代をもらったり、それから恋人が入手方法不明の金を持ってきたり、で日々の生活はどうにか成立していた。ルアンのことは忘れはしなかったが、あえて口にはしなかったし、時には忘れたふりをした。
ーーそんな時にルアンが帰ってきた。
酷い顔をしていたが、母親は喜んだ。
恋人が不満そうに睨みつけていても、やはり我が子はどうしたって可愛い。
顔に消毒液を塗ってやって、氷を作ってやって、それからしみじみとその愛おしい顔を眺めた。少し背が伸びて、少し大きくなったようだ。何度も何度も抱きしめ、それから家にあるだけの飯を食わせた。
質素であった。貧相、と言ってもいい。リサの家で食べていた飯と比べると、とても美味とは言えなかったが、それでもやはり故郷の味を踏襲した母親の味は何にも代え難かった。ルアンは涙を零さぬよう慌てて搔っ込んで、それから狭い弟たちと共同の煎餅布団に身を横たえた。
たとい大地らと共に高校には行けなかったとしても、——ルアンはぼんやりと考える。働きながらバンド活動を続けていけばいい。大地や朱里が高校を卒業するころになったら、きっと東京で活動することになるだろう。あんちゃんがそうであったように。そのタイミングで自分も仕事を辞めて、大地らと一緒に東京に出て行こう。青写真、とはとても言い難いものではあったが、それが今のルアンにとっては精一杯の希望であった。未来であった。
「ルアン兄ちゃん」隣で寝ていた十歳年下の弟が、甘えるようにルアンの横腹に顔を押し付ける。「明日うちにいる?」
「いるよ。」
「そん次は?」
「いるよ。」
「そん次もいる?」
「ああ、いるよ。」
「約束?」
「ああ、約束。」
安心しきった弟の寝息を確認して、ルアンも深い夢の中へと落ちて行った。
しかしその約束は、夜明けを待たずに無残にも破れ去ることとなった。




