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『毒親も教師も正義だったので、言葉を音にした』 ──母は神を信じ、先生は規則を信じ、僕は言葉を信じた

作者: 月白ふゆ
掲載日:2026/02/26

「正しいこと」を言われているはずなのに、息ができない。

誰かを殴られたわけでも、罵倒されたわけでもない。

ただ、逃げ道のない言葉が積み重なっていく。


母は神を信じ、先生は規則を信じる。

どちらも悪意じゃない。むしろ善意だ。

だからこそ、余計に苦しい。


これは、そんな場所で黙っていた少年が、言葉を音にしていく話です。


ただ、自分の言葉を使える場所を選ぶ――

そのために、ひとつ名前を名乗るまでの物語です。

朝、台所にはいつも同じ匂いがした。味噌汁の湯気に混じる線香の甘ったるい煙と、母が毎朝つける小さなアロマの柑橘の匂い。混ざると、どちらにもなりきれない匂いになる。松永翔真は、それを嗅ぐたびに、今日も同じ一日が始まるのだと分かった。


母は白い湯呑みを両手で包みながら、食卓の端に置いた小さな神棚に向かって目を閉じていた。神棚といっても、古い木の棚の上に教団でもらった札と、光沢のある冊子、それから透明な水の入ったコップが並んでいるだけだ。父は新聞を開いたまま、時々、紙面の上からちらりと母を見る。何か言うでもない。止めるでもない。視線だけが行って、戻ってくる。


翔真はトーストを口に運びながら、母の祈りが終わるのを待った。母は目を開けると、すぐにいつもの明るい声になった。


「今日も感謝から始めようね。朝に整えると、一日が荒れないから」


荒れない、という言葉だけが、少し引っかかった。荒れるのはいつも、朝の外にある。教室で、廊下で、職員室の前で。家の中では、まだ、荒れていないだけだ。


「翔真、昨日のこと、ちゃんと整理できた?」


昨日のこと、と言われても、母の言う昨日と翔真の言う昨日は違う。母の昨日は、夕食のあとに教団の配信を一緒に見せられたことだろう。翔真の昨日は、放課後、三年の先輩に廊下で呼び止められ、学年の空気を悪くしたと説教されたことだ。


「別に」


それだけ返すと、母は小さくため息をついた。怒る前のため息ではなく、諭す前のため息だ。


「別に、はよくないな。言葉ってね、雑に使うと自分に返ってくるの。否定語も多いし。今は試練の時期だから、言葉を選ばないと」


父が新聞をめくる音がした。母の言葉を遮るには弱すぎる音だったが、翔真にはそれで十分だった。父は新聞を畳み、立ち上がって冷蔵庫から牛乳を出し、翔真のコップに足してくれた。何も言わない。母の話の途中でも、気にせずいつもの動作をする。その無神経さに助けられることがある。


「遅れるぞ」


父がそれだけ言った。母はまだ何か言いたそうだったが、時計を見て口を閉じた。翔真は立ち上がり、椅子を戻し、鞄を肩にかけた。玄関で靴を履いていると、父が後ろから近づいてきて、すれ違いざまに、ほんの一秒だけ頭を撫でた。雑で短い、確認みたいな触れ方だった。


振り返ると、父はもう台所に戻っていた。


学校までの道は、住宅街の細い道を抜けて、川沿いの歩道を十分ほど歩く。イヤホンは挿しているが、音楽は流していない。耳に何か入っていないと、誰かに話しかけられた時にすぐ反応しなければいけない気がするからだ。無音のイヤホンは、返事を遅らせるための道具だった。


校門をくぐると、正門横の掲示板に「服装週間」「生活指導強化」と書かれた紙が貼られていた。赤い太字で、規律ある学校生活を、みたいな言葉が並んでいる。言葉だけが立派だな、と翔真は思う。誰が、どの口で、何を規律って呼んでいるのか、誰も気にしていない。


二限目の現代文で、担任の相沢が教卓の前に立って出席簿を閉じた。四十代の男で、髪は整っていて、スーツはいつも皺がない。怒鳴ることはない。感情を出すこともない。けれど、クラスの誰よりも空気を止めるのがうまい。


「松永」


名前を呼ばれて、翔真は顔を上げた。


「先日の件だが、まだ提出物が出ていない。事情はあるのかもしれないが、規則は規則だ。全員に同じ基準で運用している。君だけ特別扱いはできない」


先日の件、というのは、宗教の集会に半ば強制で連れて行かれ、帰宅が遅くなって提出が間に合わなかった課題のことだった。事情を説明しようとした時、相沢は「家庭の事情には立ち入れない」と言って話を切った。そのくせ、提出遅れの指摘は公の場でやる。


「……分かりました」


「分かった、で済ませるのは簡単だ。高二にもなって自己管理ができないのは困る。進路にも響く。君のために言っている」


君のため。教室の何人かがノートを見ながらやり過ごす顔をしていた。誰もこちらを見ない。見ないことで参加していないことにする。相沢の言葉は、いつも逃げ道を全部塞いでから、最後に「君のため」と書いて終わる。


翔真はシャーペンを握りながら、その言い方だけを頭の中で分解した。きみのため。きみのだれ。きめるため。音だけにすると、意味が少し剥がれる。


昼休み、弁当を持って屋上階段の踊り場に行くと、途中の窓から校庭の一角が見えた。サッカー部が円になって笑っている。教室のざわめきから一段離れた場所で食べるのが癖になっていた。嫌われているわけではない。好かれてもいない。ちょうどいい距離を保つには、見つかりにくい場所を選ぶのが一番だった。


弁当の蓋を開けたところで、上の階から足音が降りてきた。硬いローファーの音。三年の生徒会副会長の黒田だった。髪をきっちり分け、ネクタイも校章バッジも正確な位置についている。教師に好かれる顔をしている。本人も、それを自覚している。


黒田は翔真の前で止まり、手すりにもたれた。


「またここで一人?」


返事をする前に、黒田は続けた。


「別に一人が悪いって言ってるわけじゃないよ。たださ、松永、お前最近ちょっと周りとズレてるって言われてる。先生も心配してるし」


言われてる、先生も、心配してる。主語を増やして自分の責任を薄める言い方がうまい。


「……何かしましたか」


「そういう言い方。今の。喧嘩腰に聞こえるんだよ。分かる? 俺はお前のために言ってる。後輩が孤立してたら声かけるの、普通じゃん」


黒田は笑いながら言う。笑っているから周りは暴力だと思わない。翔真は弁当の卵焼きを箸でつまんだまま、黒田の靴先を見ていた。光っている。朝、ちゃんと磨いてきたんだろう。


「空気ってあるから。みんなでやってく場所で、一人だけ反応薄いとか、感じ悪く映ることもある。お前、悪いやつじゃないのは分かるし。だから直した方がいいって言ってる」


みんな。空気。感じ悪い。言葉が軽いのに、使い方だけは正確だ。翔真は頭の中で、みんな、って何人だろうと数える。教室三十六人。今ここにいるのは二人。黒田が言うみんなは、いつも数えられない。


「返事」


黒田が促した。


「気をつけます」


それを聞いて、黒田は満足そうに頷いた。


「そうそう。素直なのはいいとこだから」


去っていく足音を聞きながら、翔真は弁当を閉じた。食欲がなくなったというより、今この場所で何かを噛む音を立てたくなかった。スマホを出してメモアプリを開き、数語だけ打った。


みんなのため/誰の目見て

空気悪い/空気で殴る

素直=反論しない


放課後、家には帰らず、駅前の古い商店街を抜けて祖父母の家に向かった。母には「図書館」とだけ送っておけば、むしろ勉強熱心になったと思って喜ぶ。祖父母の家は築年数の古い平屋で、玄関の引き戸を開けると、畳と醤油と洗濯物の匂いがする。匂いに説明がない。そこが好きだった。


祖母は居間でみかんを剥いていた。翔真を見ると、驚くでもなく、ちょうど来ると思っていたような顔で笑った。


「おかえり、じゃないか。いらっしゃい。ご飯は?」


「まだ」


「じゃあ先に何か入れな。おにぎりあるよ」


祖父は奥の部屋で小さなテレビを見ていた。ニュース番組で、どこかの政治家が頭を下げている映像が流れている。祖父はテレビを指差して、翔真に言った。


「また正しいこと言ってんな」


それだけで、少し笑えた。


台所でおにぎりを食べていると、祖母が湯呑みを置きながら言った。


「学校、しんどい?」


しんどい、という言葉は便利だ。何がどうしんどいかを説明しなくてもいい。翔真は頷くだけにした。祖母はそれ以上聞かなかった。


「ここじゃ喋らなくていいよ。腹減ってる時は、言葉まで痩せるから」


祖母はそう言って、味噌汁を温めに立った。翔真は、その言い回しを頭の中で繰り返した。言葉まで痩せる。いい言い方だと思った。痩せる、であって、死ぬ、じゃない。戻せる余地がある。


祖父は夕方になると、庭先に出て小さなラジオをいじるのが習慣だった。翔真もなんとなく外に出て、縁側に腰掛けた。少し風があって、洗濯物の端が揺れている。


祖父はラジオのダイヤルを回しながら、唐突に言った。


「変だと思ったなら、変だぞ」


「え」


「学校でも家でもよ。みんな正しいって言い出したら、大体めんどくさい時だ。誰も責任取りたくねえ時」


祖父は翔真を見ないまま言う。説教の形じゃない。ただそこにある言葉みたいに置く。翔真は返事をしなかった。返事をすると、何かが確定してしまいそうだった。


「黙るのはいい。楽な時もあるしな」


祖父はダイヤルから手を離し、少し間を置いた。


「でも、黙らされたのは違う」


その一言だけ、やけにはっきり聞こえた。ラジオのノイズが少し強くなって、祖父はまたダイヤルに手を伸ばした。話は終わったらしい。翔真の中では終わらなかった。


その夜、自室に戻ると、ベッドの下から黒いノートを引っ張り出した。表紙には何も書いていない。開くと、左ページに日付と、言われた言葉。右ページに、音の分解。最近はメモアプリに取ったものを夜に写している。


左に書く。


「君のために言っている」

「みんなのため」

「空気を読め」

「感謝から始めよう」

「言葉を選びなさい」


右ページに、母音と変形を書く。


きみのため/きみのだれ/きめるため

みんなのため/んなのため/名のため

くうきよめ/空気で読め/空気で止め

かんしゃ/がんしゃ/反射

ことばえらべ/折れば選べ


意味がばらけると、少し楽になる。言葉はまだ刃だが、持ち方が変わる。


ノートの後ろの方には、四行だけのページが増えていた。


助けてって言った

正しい言葉が返ってきた

だから覚えた

黙る方が安全だって


書いてから、最後の一行に線を引いて、少し考えた。安全だって、の「って」が逃げている気がした。断言を避けている。今の自分にはまだ必要な逃げだが、いつか消すかもしれないと思った。


週末、駅前の小さなクラブで高校生も出られる昼のバトルイベントがあると、同じクラスの田辺が教えてくれた。田辺は教室では目立たないが、夜は友達とサイファーに行っているらしい。誰にも言っていなかった翔真のノートを、たまたま放課後見られてしまってから、無理に距離を詰めずに声だけかけてくるようになった。


「見るだけでもいいし。ゲスト、Nagi来るらしい」


その名前に、翔真の手が止まった。ペン先がノートに小さな点を作る。


「……Nagi?」


「え、知らない? 高ラ優勝してる人。めっちゃ静かなのにえぐいよ」


知っている。いや、知らない名前の方で知っている。中学の時、三年にいた大島麻那。文化祭で校舎裏の駐車場みたいな場所で、数人集まってラップしていた先輩。教師に見つかって注意されても、言い返さずに笑っていた人。卒業してから、数年に一度、動画のおすすめで見かける顔になった。


翔真は、行くとも行かないとも言わなかった。田辺はそれ以上聞かなかった。そういうところがありがたかった。


当日、昼の駅前は買い物客で騒がしかった。クラブの入り口は雑居ビルの地下で、薄暗い階段を降りると低い低音が壁越しに響いていた。受付で千円を払って手首に紙のバンドを巻かれる。中は想像していたより狭く、照明も明るい。高校生向けの時間帯だからか、怖い大人の空気はなかった。フロアの前には小さなステージがあって、壁際にDJブース。スピーカーの前に人がかたまって、思い思いにスマホを構えていた。


田辺は知り合いらしい男たちに声をかけに行き、翔真は後ろの柱の近くに立った。ステージでは一回戦が始まり、初対面の高校生同士が、照れと虚勢を混ぜた声でマイクを投げ合っている。うまいやつもいるし、勢いだけのやつもいる。共通しているのは、みんな、言葉を出していることだった。当たり前のことが、少し遠く見えた。


途中、MCがゲストを呼び込んだ。拍手と歓声の中で、黒いキャップを浅くかぶった女がステージに上がった。肩までの髪、細い体、飾りの少ない服。大島麻那だった。画面越しより小さく見えるのに、マイクを持った瞬間だけ、空気の密度が変わる。


「どうも、Nagiです。高校生の頃ここみたいな場所でボコられてたんで、今日は平和に見ます」


客が笑う。言い方が軽いのに、どこまで本気か分からない。翔真は目を離せなかった。


イベントの終盤、フリー参加のエキシビションが始まった。飛び入りで名前を書けば一人一分、ビートに乗ってマイクを回せるらしい。田辺が戻ってきて、翔真の顔を見て言った。


「出ない?」


「無理」


「無理って言う人が一番出た方がいいやつ」


田辺は笑って、受付の紙を翔真の胸元に押しつけた。名前欄とラップネーム欄がある。翔真は紙を見たまま動けなかった。ラップネーム。まだない。ノートにしか言葉がない。


「本名でいいって」


田辺がそう言い、勝手にペンを握らせてくる。翔真はしばらく固まってから、名前欄に「松永翔真」と書いた。ラップネーム欄は空白のまま提出した。


三人目で呼ばれた。階段を上がってステージに立つと、照明が思ったより熱い。前に人の顔がある。近い。逃げ場がない。DJがビートを流し始め、MCが肩を叩いた。


「松永、いける?」


いけるかどうか分からないまま、マイクが手にあった。最初の一小節、何も出なかった。喉が固くなる。客席のざわめきが少しだけ大きくなる。終わった、と思った瞬間、祖父の言葉が浮かんだ。変だと思ったなら、変だぞ。続いて祖母の声。言葉は使う場所、選ばないと折れる。


翔真は息を吸って、ノートの四行をそのまま出した。


「助けてって言った

 正しい言葉が返ってきた

 だから覚えた

 黙る方が安全だって」


ビートにぴったりではない。けれど、嘘はなかった。フロアがしんとする。翔真はその静けさに、初めて乗れた気がした。


続けて、頭の中に溜めていた言葉を置いた。


「君のため みんなのため

 その“ため”って誰の目で決めるため

 空気読めって 空気で止める

 正しい順番で並べて 人を折れる」


韻は雑だった。けれど、言いたい形にはなっていた。最後の一行を出したところで、客席のどこかから「おお」と短い声が上がった。拍手が一拍遅れてついてきた。翔真は時間いっぱい使わずにマイクを返した。膝が少し震えていた。


ステージを降りると、田辺が顔を真っ赤にして笑っていた。


「やば。何あれ。怖」


褒め言葉だと分かった。怖い、の意味が学校で聞くのと違った。


出口に向かおうとしたところで、壁際にいたNagiと目が合った。向こうも一瞬だけ目を細めて、手で招いた。心臓が変な音を立てる。


近づくと、Nagiは紙コップの水を持ったまま、翔真の顔を見た。


「松永?」


中学の時の記憶が向こうにもあったらしい。翔真は頷いた。


「……大島先輩」


「その呼び方、久しぶりに聞いた」


Nagiは笑いもしないで言って、少し首を傾げた。


「今の、書いてるでしょ」


「え」


「頭の中じゃなくて。ちゃんとノートある顔してる」


翔真は返事に詰まった。隠していたつもりだった。Nagiは責めるでもなく、ただ確認しただけの声で続けた。


「見せて」


家に帰ってから、かなり迷った。けれど、次の週に田辺経由で渡された連絡先に、短く「ノート見せたいです」と送ると、Nagiからすぐに返事が来た。駅前のファミレス。昼。人の目がある場所。


約束の日、翔真は黒いノートを鞄の底から出して持っていった。Nagiは先に来ていて、ドリンクバーのコーヒーを飲みながらスマホをいじっていた。テレビで見る時より、ずっと普通の二十歳そこそこの女に見える。けれど、翔真の前に座ると、目の奥だけが集中していた。


「ありがと」


それだけ言ってノートを受け取り、最初のページから順にめくる。読むのが速い。たまに指が止まる。右ページの母音の列を見て、小さく頷く。左ページの母の言葉で眉が少し動く。翔真は水しか頼んでいないのに、喉が乾いた。


十数分かけて半分くらい見たところで、Nagiがノートから顔を上げた。


「これ、怒りじゃないね」


翔真は言葉を探したが、何も出なかった。


「記録だ」


Nagiはそう言って、右ページを指で軽く叩いた。


「しかもちゃんと分解してる。韻踏みたいだけなら、こんなに元の文残さない」


褒められているのかどうか分からなかった。でも、今まで誰にも言われたことのない言い方だった。怒りでもない、記録。自分のノートを他人に説明するなら、その言葉が一番近い気がした。


「……怒っては、いると思います」


Nagiは少しだけ笑った。


「そりゃいるでしょ。怒ってないと記録しない。だけど、怒りで殴ってない。そこがいい」


店内のBGMが妙に軽く聞こえた。Nagiはノートを閉じ、表紙を指でなぞった。


「名前ないんだ」


「つけてないです」


「まだいらないなら、なくていい。でも、出る場所増えると必要になるよ」


「出る場所」


「高ラとか」


さらっと言われて、翔真は思わず顔を上げた。Nagiは水を飲んで、当たり前みたいに続ける。


「今年高二でしょ。来年出ればいい」


無理です、が喉まで出て、そこで止まった。Nagiの前で言うと、ただの逃げになる気がした。


「勝たなくていいよ、別に。説明しなくていい場所に立つだけで、だいぶ違うから」


その言い方が、祖母の「言葉は使う場所を選ばないと折れる」と重なった。Nagiは誰かの答えになろうとしていない。ただ場所の話だけしている。翔真はノートを受け取りながら、小さく頷いた。


家に帰ると、母は居間で教団の冊子を広げていた。翔真の顔を見るなり、心配そうな顔を作る。


「今日遅かったね。どこ行ってたの?」


「友達と」


「男の子?」


いちいち分類から入る。翔真は靴を脱ぎながら、どうでもいいと思った。


「うん」


嘘ではない。田辺もいた。母は少し安心した顔をして、「最近、人の念を受けやすい時期だから、帰ったら手を洗ってね」と言った。手を洗うのは普通だが、理由がいつも違う。翔真は洗面所で手を洗いながら、鏡の中の自分を見た。何も変わっていない顔だった。でも、ノートを見た人が一人増えた。


その夜、父は珍しく帰りが早かった。テレビもつけずに、居間でビールを飲んでいた。翔真が風呂上がりに台所へ行くと、父は冷蔵庫からスポーツドリンクを一本出して、何も言わずにテーブルに置いた。キャップだけ少し緩めてある。


「……ありがと」


父は頷くだけで、目線はテレビの消えた画面に向いたままだった。何も聞かない。学校のことも、母のことも、どこに行っていたかも。何も聞かない代わりに、見ているのは分かる。翔真はその中途半端さを、嫌いになれなかった。


夏に近づくにつれて、放課後の学校は進路の空気が濃くなった。三者面談の紙、模試の結果、就職か進学か。相沢は教卓の前で「現実的に考えろ」と繰り返した。現実的という言葉も、相手を黙らせるのに便利だ。何が現実で、誰にとっての現実かは、だいたい言う側が決める。


母は進路の話になると、急に熱心になった。


「専門学校もいいけど、安定したところがいいわよ。波動が乱れない環境って大事だから。人が多すぎる場所は合わないかも」


翔真は箸を動かしながら、適当に相槌を打った。父は焼き魚の骨を丁寧に取りながら、二人の会話に入ってこない。空気のまま、そこにいる。けれど、母が「翔真って昔から感受性が強いから」と言った時だけ、父が小さく顔をしかめたのを見逃さなかった。


その夜、二階に上がる階段の途中で、父に呼ばれた。


「翔真」


珍しい。父から名前を呼ぶのは。


振り返ると、父は階段の下で立ったまま、視線を上げていた。何か言いたそうで、でもうまく言葉にならない顔をしている。


「……学校、しんどいか」


祖母と同じ言葉だった。父の口から出ると、少し不器用に聞こえる。


「まあ」


それしか言えなかった。父は頷いて、少し間を置いてから言った。


「無理は、するなよ」


それだけだった。アドバイスも、解決策も、励ましもない。ただ、それだけ。けれど、翔真はその一言を、自分が勝手に思っていたより深く受け取ってしまった。父は何もできない。でも、何も見ていないわけでもない。


ノートの新しいページに、その夜のことを書いた。


誰も止めなかった

でも誰も見てなかったわけじゃない

名前も呼ばれず

頭だけ撫でられた夜がある


最後の行だけ、少し長い。リズムが悪い。けれど削れなかった。


秋、文化祭の準備で教室が浮つく時期、黒田にまた呼び止められた。今度は廊下ではなく、昇降口の前。周りに何人かの一年がいた。黒田はわざと聞こえる声量で言った。


「松永さ、最近外で変なことやってるって聞いたけど」


変なこと。曖昧な言葉ほど、人前で使われる。


「ラップだっけ? 別に趣味は自由だけど、学校の名前背負ってる自覚は持った方がいいよ。SNSとかで問題になったら、部活とか真面目にやってるやつが迷惑するから」


また、みんなのため、の形だ。翔真は周りの視線を感じた。見ていないふりの視線。


「学校の外です」


「だから? お前、そういうとこなんだよ。言い方。指摘されてる時に反省より先に理屈で返すやつ、信用なくすから」


黒田の後ろで、一年の男子が気まずそうに目を逸らした。翔真はその子の目の逸らし方を見て、自分が今どんな顔をしているのか急に気になった。怒っているように見えるだろうか。無表情のつもりでも、相手は勝手に「怖い」に変える。


その瞬間、黒田の言葉の音だけがきれいに浮いた。信用なくす。しんようなくす。しんよーなくす。信用は、誰が配る。言い方。生き方。正しさの型。


翔真はゆっくり言った。


「“みんな”って、何人ですか」


黒田の表情が一瞬だけ止まった。周りも静かになる。黒田はすぐに笑顔を作り直したが、口角だけが少し硬かった。


「そういう揚げ足取る感じ、やめた方がいいって」


「名前、出せますか。迷惑してる人」


一拍遅れて、空気が張った。これまでなら、ここで引いていた。今日は引かなかった。言葉を強くしたわけではない。声も上げていない。ただ、質問の形を崩さなかった。


黒田は鼻で笑った。


「話になんねえな」


それだけ言って立ち去った。周りの一年も一緒に動く。去り際に、さっき目を逸らした一年が、ほんの少しだけ翔真に会釈した。見間違いかもしれない程度の角度だった。


その夜、翔真はノートに大きく書いた。


みんな=名前が出ない

正義=主語が多い

指導=否定を先に封じる


右ページには、久しぶりに気持ちよく韻が並んだ。


しどう/指導/私道

しんよう/信用/信仰

みんな/みんな/みんな(空欄)


冬が来る前、Nagiから短いメッセージが届いた。今度、別のイベントで高校生枠があるから出てみれば、という内容だった。場所は同じ駅前のクラブ。前より少し大きい大会で、勝ち上がりもあるらしい。翔真は画面を見たまま、しばらく返事を打てなかった。


出る、と送ると、Nagiからは「了解」だけ返ってきた。そのあとに一通だけ、追加で来た。


「勝ち負けより、誰を黙らせたいか決めときな」


その言葉を読んだ時、黒田の顔より先に、教室の静かな視線が浮かんだ。母の「あなたのため」。相沢の「君のため」。誰か一人を言い負かしたいわけじゃない。あの言葉の並び方そのものを、一回止めたかった。


大会の日、相手は他校の男子で、声が大きく、言葉も速かった。社会問題を扱うスタイルらしく、政治だの大人だのを勢いよく切っていく。うまいし、客も乗っていた。翔真は相手の一節の中から、「俺が言うのはみんなの代弁」という言葉だけを拾った。


自分のターンで、翔真は抑えたまま入った。


「代弁ね

 便利だよな その言い方

 名前のない“みんな”の顔して

 お前の声だけ通すやり方」


客席が少しざわつく。相手の顔が変わる。翔真は続けた。


「正しい言葉を

 正しい順番で並べただけ

 それで荒れたなら

 俺は何も足してない」


最後の行で、会場が静かになった。Nagiが壁際で腕を組んだまま、小さく頷くのが見えた。勝敗は判定で僅差だった。どちらでもよかった。終わったあと、知らない高校生に「今のやばかった」と言われた時、翔真は初めて、怖い、という言葉の意味を自分で選べる気がした。


年が明けて、翔真は高三になった。クラス替えで黒田の影は薄くなり、相沢は変わらず担任のままだった。母の朝の祈りも変わらない。父の新聞と牛乳も変わらない。祖父母の家の匂いも同じだった。何も変わらないまま、翔真のノートだけが三冊目に入っていた。


春のある日、祖母の家で洗濯物を畳むのを手伝っていると、祖母が何気なく言った。


「最近、顔つき変わったね」


「そう?」


「うん。前は、ずっと噛むの我慢してる犬みたいだった」


祖母のたとえは時々雑だ。翔真は少し笑った。


「今は?」


「噛む場所選んでる」


それは褒め言葉だと分かった。祖母は畳んだタオルを積み上げながら、続けた。


「言葉ってね、使う場所、選ばないと折れるって言ったでしょ。あれね、折れるの、言葉だけじゃないから」


翔真は返事をしなかった。返事をしなくても、祖母は分かっている顔をした。


夏が近づき、高校生ラップ選手権――高ラのエントリー受付が始まった。スマホの画面に募集要項を表示したまま、翔真は自室の机に座っていた。応募フォームには、本名、学校名、年齢、連絡先、それからラップネームの欄がある。去年の自分なら、開くだけで閉じていた画面だ。


ラップネーム。まだ誰にも言っていない名前が、ノートの裏表紙に鉛筆で薄く書いてある。ARE。荒れ。在れ。最初に浮かんだ時は、かっこいいと思わなかった。むしろ嫌だった。自分がいるところで空気が荒れる、と言われ続けてきたみたいで。けれど、今は違う。荒れていたのは、ずっと自分の外側だった。正しい言葉を正しい顔で並べる人たちのせいで、教室も、食卓も、勝手に荒れていった。自分はそれを読んでいただけだ。


その夜、夕食のあとに父が珍しく早く風呂から上がってきた。母は居間で教団の配信をイヤホンで聞いている。父は冷蔵庫の前で立ったまま、何か飲み物を探していた。翔真は台所の入口で少し迷ってから、言った。


「父さん」


父が振り向く。


「俺、ラップの大会、出る」


説明はしなかった。高ラのことも、Nagiのことも、バトルのことも。父は数秒、言葉の意味を整理するみたいに黙っていた。それから、冷蔵庫の扉を閉め、近くまで来て、いつものように頭を撫でた。今度は少し長かった。


「……お前が決めたなら」


それだけだった。翔真は、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。父はそれ以上何も言わず、コップに麦茶を注いで居間に戻った。母はイヤホンをしたまま画面を見ている。父はその横を通り過ぎる。相変わらず、何も変えられない人だと思う。けれど、その一言だけで、今夜は十分だった。


自室に戻り、ノートの最後のページを開く。最初のノートの四行を思い出して、ペンを置く。


助けてって言った

正しい言葉が返ってきた

だから覚えた

黙る方が安全だ


前に引いた線の下に、新しく四行足した。


期待はしなかった

でも嫌いじゃなかった

何も言わない手が

いちばん正直だった


そしてページをめくり、真っ白な次のページの一番上に、ゆっくり書く。


全部、音にできる


スマホの応募フォームに戻る。本名を入力する。松永翔真。学校名。年齢。指がラップネーム欄で止まる。祖父の声がふっと浮かぶ。名前はな、呼ばれて腹立たないやつにしろ。


翔真は、AREと打った。アルファベット三文字。日本語の「荒れ」と英語の「are」が、画面の中でどちらでもある顔をして並ぶ。送信ボタンの前で一度だけ深呼吸して、押した。


送信完了の画面が表示される。たったそれだけなのに、教室で何かを言い返した時より、ずっと大きな音が体の中でした気がした。


そのあと、Nagiに短くメッセージを送る。


「エントリーしました」


すぐに既読がついて、返事が来た。


「了解」

「ステージ立ったら、説明しなくていい」

「記録、読ませればいい」


翔真はその文を何度か読み返して、画面を消した。窓の外では、どこかの家のテレビの音がかすかに聞こえる。母は下でまだ配信を聞いているだろう。父はもう寝る準備をしているかもしれない。何も劇的には変わっていない。


それでも、もう前と同じではなかった。


正しい言葉は、これからも教室に溢れる。母は神を信じ続けるだろう。先生は規則を信じ続けるだろう。父はたぶん、最後までうまく喋れない。祖父母は何も解決しないまま、味噌汁を温めてくれる。NagiはNagiの場所で問いを置き続ける。


その全部の外でも中でもない荒れた場所に、翔真は一つ、立てる場所――在れる場所を見つけた。


高三の夏。松永翔真は、AREとして舞台に立つ。

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


この話は、ずっと書きたかった題材でした。

ラップそのものを大きく派手に描くというより、言葉にうまくできないものを、どうやって言葉にしていくか――その過程を書きたかった作品です。


自分はラップをめちゃくちゃ深く語れるタイプではないんですが、地味にずっと好きで、聴いているうちに「強い言葉」より「置き方がうまい言葉」に惹かれることが増えました。

怒鳴らなくても刺さる言葉、正しさを振りかざさなくても残る言葉、そういうものへの好きが、この物語の芯になっています。


だからこの作品では、勝ち負けや派手な逆転よりも、翔真が「自分の言葉を使える場所」を見つけるところをゴールにしました。

全部を変えられなくても、立つ場所を選べるだけで、人は少し救われると思っています。


母も教師も先輩も、分かりやすい悪人にはしませんでした。

むしろ、正しさや善意の形をした息苦しさの方が、現実ではずっと厄介だと思うので。

その中で、父の不器用さや祖父母の短い言葉が、少しでも読んでくれた人の中に残ってくれたらうれしいです。


そして、NagiやAREのラップの描写は、実際のシーンや空気感への敬意を込めつつ、あくまでこの物語の中の言葉として書きました。

ラップが好きな人にも、普段あまり聴かない人にも、何か一行でも引っかかるものがあれば本望です。


また別の話でも、言葉と人の距離みたいなものを書けたらと思います。

読んでくれて、本当にありがとうございました。

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モハマゼンでラップに興味出てきたら、こちらの作品見つけた!ラップのことが少し理解できた気がして嬉しい!
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