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新しいシリーズです。中濱万次郎を放談調にまとめました。

江戸の末期土佐から漁に出て漂流、万次郎の数奇な運命の始まりです。

放談 第11話 : ~帰ってきた万次郎(その1)~

*漂流そして旅立ち*

放談者: Sir***AI ChatGPT

MrO**大畑 直晴 昭和20年生 80歳 宮城県在住

~~この放談シリーズはAIとの対話形式エッセイです~~

⋆⋆⋆⋆⋆漂流のはじまり ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**♪~♪~!こんにちは。また放談の時が来ましたね。今日もよろしくお願いしま~す。

Sir***よう~こんにちは、今日はご機嫌のようだね。歌なんて口ずさんで。宝くじでも当たったかね。

MrO**そんなもの当たりませんよ。若いとき歌っていた歌を思い出しまして、それで口ずさんでみした。曲は「Oh My Darling, Clementine(愛しのクレメンタイン)」で、日本では「雪山賛歌」で曲が知られています。

Sir*** そうだねぇそれにしても、あの歌を口ずさむとは、なかなかロマンチストだった時代があったんだね。


MrO**あっては、いけませんか。

Sir*** いや、失敬。「愛しのクレメンタイン」といえば、アメリカでゴールドラッシュ[1]のとき歌われた歌だねぇ。この頃のアメリカはフロンティア精神で、新大陸の開発時代で活気に溢れた時代だった。


MrO**アメリカ中が沸き立っていました。

Sir*** カリフォルニアで金鉱が発見され、その話が広がると我も我もと人々は夢を追い求めて、次々とカリフォルニアへと向かったのさ。彼らは歌詞にもあるように “49年者”(フォーティナイナーズ)と呼ばれていた。


MrO**この歌にはどことなくペーソスな情感が漂っていますが・・・・・・。

Sir*** そうだね、一攫千金を狙って来て見たが、金鉱を掘り当てたのは一部の人たちで大半は期待外れに終わったようだ。

歌詞は金の採掘に夢中になってクレメイタインという愛娘を失った男を揶揄している歌のようだがね。


MrO**汗と涙と、期待と、失望と。これらがごっちゃになった歌というわけですね。

Sir*** ところで、このフォーティナイナーズ “49年者”の中に日本人もいたことを君は知ってるかね。


MrO**え?。ゴールドラッシュに出向いた一攫千金の男たちの中に日本人がいた? 私はこの歌を何十年も歌っていますが、それは初耳ですね。本当ですか。

Sir*** あヽ、本当だとも。


MrO**でもSir、おかしいですよ。彼らは フォーティナイナーズ “49年者”と呼ばれていたんでしょ、1849年でしたから。そのころ日本は鎖国で外国へ渡航なんか出来ませんでした。日本人がいるはずが無いじゃありませんか。密出国ですか。

Sir*** もっともだねぇ、じゃ話そうか。その男は言わずと知れた、中浜万次郎さ。この名前は聞いたことはあるだろう。


MrO**勿論ありです。漁船が漂流して、アメリカの捕鯨漁[2]をしていた船に救助されアメリカに渡り、10年後かに帰国した男です。私が知っているのはここまでです。

Sir*** それだけでは万次郎を知ったことにはならないね。それに、万次郎を一攫千金を狙った男と見なしてしまうのは、あまりにも気の毒だ。


MrO**じゃ、なぜゴールドラッシュの仲間に入ったのでしょうか。

Sir*** その説明をするには万次郎の漁船が漂流してアメリカに渡ったいきさつを話さなければならないが、少し遠回りになるが興味あるかね。あれば話してもいいが。


MrO**興味あります、。ついでに万次郎一代記もお聞かせください。

Sir***それじゃ話すよ。まず、かいつまんだ年譜を見てみよう。

⋆⋆⋆⋆⋆万次郎年譜(前半) ⋆⋆⋆⋆⋆

*1827年(0才)1月:

・万次郎(土佐国。高知県)に生まる。成長して漁師となる。

*1841年(14才)1月:

・漁の途中、風と強い潮流に流され漂流。鳥島に漂着。

*  〃     6月:

・アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)に救助される。

*  〃    12月:

・ハワイ・オワフ島に入港。万次郎捕鯨船の乗組員となる決意する。

・捕鯨をしながら2年余りの船上生活始まる。

*1843年(16才)5月:

・マサチューセッツ州ニューベッドフォードに入港

・ホイットフィールド船長の家に寄宿。

・「街の小学校『オールド・オクスフォード・スクール』に入学」真面目で利発な子だった。

*1844年(17才)  :

・小学校を卒業。

・「街の最高の学校『バートレット・アカデミー』に進学」

*1846年(19才)5月:

・『バートレット・アカデミー』首席で卒業。

・3度目の捕鯨船乗組員『フランクリン号』に乗。

・準一等航海士(後に一等航海士)の働きをしながら世界を回る。

*1848年(21才)  :

・アメリカ・カリフォルニア州で金鉱山が発見されゴールドラッシュ起こる。

*1850年(23才)  :

・ゴールドラッシュに帰国旅費を稼ぎに金鉱山に入山。

*1850年(23才)9月:

・金鉱山下山、ハワイ、ホノルルまで自費で行き、一緒に救助されハワイに留まっていた漂流仲間3人と再会(4人のうち1人は死亡していた)。

・3人(1人は結婚してハワイに残った)で商船の船員となって働きながら琉球(沖縄)に向かい帰国。


MrO**なるほどね、この年譜を見るとで万次郎が何故、アメリカにいるかが分かりますネ。理由は漂流でアメリカに行ったので、ゴールドラッシュへは帰国資金稼ぎですか。

Sir*** この年譜だけでは万次郎の本当の姿は出てこない。少し詳細に見てみよう。

⋆⋆⋆⋆⋆鳥島漂着 ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**年譜を見ますと、万次郎が漂流したのは1841年1月とありますがその漁とは?。

Sir***土佐の宇佐の漁港から、小舟に乗って5人で漁をしに黒潮に乗ってくるスズキを取りに出かけたらしい。乗っていたのは、船頭の筆の丞36才、重助23才、五右衛門14才、寅右衛門24才、そして万次郎14才だった。


MrO**沖合に出かけたのでしょうか。

Sir***思う程魚が獲れずつい遠くまで出てしまったようだ。漁の途中、風と強い潮流に流され漂流。万次郎たち漁師仲間5人が漂着したのは絶海の孤島、鳥島だった。


MrO**食糧はあったのでしょうか。

Sir***魚や島に住むアホウドリを食べて飢えをしのいだらしいが十分ではなかった。アホウドリは定住性が強く縄張りを持っているので食糧事情によっては定住地を移動するような習性があるため、いつも捕獲できるとは限らなかった。万次郎たちは一日の大部分を食物を探す時間に費やした。そこにアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号(船長ホイットフィールド)が通りかかり救助される、というわけだ。


MrO**鳥島は捕鯨船の航路だったのでしょうか。

Sir***新鮮な肉や野菜が不足するとビタミン不足から壊血病を発症する。船長は乗組員に新鮮な肉を食べさせようと海亀を取るために島の近海に来ていたらしい。船は座礁を避けるため2.5マイル(約4㎞)の沖合だがね。


MrO**よく万次郎たち発見されましたね。

Sir***たまたま万次郎が丘に登っていた時というから、これが万次郎と船長の運命的な出会いだった。


⋆⋆⋆⋆捕鯨船が現れて救助される ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**救助されたのは1841年6月。漂流しておよそ5か月が過ぎてましたね。

Sir***船長は甲板に上がった空腹の万次郎たちに食事を与えたが、この船長、長く飢餓生活をしていた万次郎たちの健康を気遣って急に食料は与えなかった。はじめは少量のパンとスープを与えただけだったという。

MrO**何故でしょう。

Sir***空腹にいきなりたくさんの食べ物をとるはお腹を壊すことを知っていた。翌日から少しづつ食事の量を増やしていったようだ。


MrO**心配りのある優しい船長ですね。

Sir***言葉の問題があって、当座は身振り手振りの意思疎通だった。それも限界がある。船長が考えたのは黒板とチョークを使っての会話だった。これを使えば容易に会話ができる。

⋆⋆⋆⋆⋆船内で万次郎の好奇心が爆発 ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**それはいい方法ですね。

Sir***黒板とチョークは言葉が通じない万次郎たちにとてもありがたかった。何よりも黒板とチョークは万次郎たちにとって初めて見るものだった。こんなに便利なものがある、と興味を持ったらしい。


MrO**書いては消し、消しては書くことが出来る上に、言葉がが文字として見える、英語の単語の綴りなど、聞くことよりも確実に覚えることが出来た。こんな便利な方法はありませんね。

Sir***その後、これは万次郎が英語を学ぶ必需品になった。船長が驚くほど万次郎は知識欲が旺盛で、呑み込みが速かった。


MrO**寺子屋にも行ったことのない少年の知識欲を大いに刺激しましたのでしょうね。利発な子でしたね。

Sir***尽きることのない好奇心は砂が水を吸い取るように沁みこんだに違いない。万次郎は船の甲板や船員室などを掃除をして船長にも、捕鯨船の乗組員にも大変ありがたがられた。

MrO**さぞ人気者だったでしょう。

Sir***また船長に地球儀を見せてもらい、星の観測から自分が丸い地球のどの位置にいるが分かった。これも驚きだった。


MrO**わかります万次郎の驚きが。

Sir***しかし万次郎が一番驚いたのは地球儀を見て、日本がいかにちっぽけな島国だったことさ。


MrO**日本にいれば日本が全世界と思っていましたから、これは強烈なインパクトですね

Sir***日本の将軍さえも万次郎にとっては裸の王様に見えただろうね。。


MrO**万次郎の好奇心は止まることを知らず膨らむ一方ですね。

Sir***その後、捕鯨船は万次郎たちを乗せたまま漁を続けて、救助されて半年余り後に、ハワイのオフア島に10日余り立ち寄った。

MrO**もちろん収穫した鯨油の荷下ろしと食糧・水・燃料などの荷積みのためですね。

Sir***ここで万次郎たちは運命の選択を迫られた。


⋆⋆⋆⋆⋆自分で運命を切り開く万次郎 ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**選択とは、どんな?

Sir***万次郎たちがこのまま捕鯨船で乗組員として捕鯨漁を続けるか、ハワイのオフア島に留まって日本の近くへ行く船があれば乗せてもらうか、の選択だった。


MrO**そんなの迷うことはありませんよ。乗組員続行ですよ。第一日本は鎖国で外国帰りは打ち首ですからね。

Sir***しかし船頭の筆の丞はそうは考えなかった。


MrO**ホイットフィールド船長も、どうすべきか迷ったでしょうね。

Sir***わしもそうだと思うがね。5人をこのまま乗組員として乗り続けてもらうか、日本に帰すためにハワイに残すかだ。


MrO**船長はどうしたのでしょう。

Sir***船頭は船頭の筆の丞にどちらを選ぶか尋ねた。


MrO**筆の丞は何と答えたのでしょうか。

Sir***「助けてもらったことに感謝の言葉もないが、私たち5人はここで降ります。このハワイに残って日本近海に行く船を待って帰りたい」と。


MrO**日本に帰れば打ち首にもなりかねないのに、筆の丞はどうしてこの選択をしたのでしょう。死ぬのなら日本で死にたいとでも?

Sir***帰国すれば罪に問われ、打ち首もあり得ると覚悟の上での帰国決意だった。

MrO** “どうにかなる”と筆の丞は腹をくくりましたね。さらに事情があった。「万次郎は私の雇い主が母親から預かった子供で、まだ漁師見習いです。母親に還さねばなりません」と言ったかもしれない。筆の丞は責任感の強い男で万次郎たちを日本に帰すこと第一としていた。


MrO**船頭の筆の丞の言う事ももっともで、万次郎は捕鯨を続けたくとも、船頭の意向に反して逆らうことなど14才の少年にできないでしょうからね。

Sir***淡々と筆の丞に従わざるを得なかった。


MrO**船長は残念がったでしょうね。

Sir***何よりも万次郎の利発さ、素直さに船長はわが息子のように可愛がっていた。そこでホイットフィールド船長は万次郎に話しかけた。

MrO**何と?

Sir***『万次郎、ここででお別れだが君がよければ、私の国のアメリカに連れて行きたいがどうかね、勉強する気はないかね』と。万次郎にしてみれば驚天動地だった。

MrO**万次郎は我耳を疑ったでしょうね。

Sir***万次郎は一瞬の躊躇もなく叫んだ。 “船長、私をアメリカに連れて行ってください”と。船長は万次郎の希望を確かめたうえで筆の丞にこう相談した。


MrO**何と相談したのでしょう。

Sir*** “万次郎がこのまま捕鯨船に乗り続けたとしても、日本に帰る機会はきっと来るだろう。どうかね筆の丞さん、ここは万次郎に自分の道を選ばせてはくれないかね”、と。


MrO**それで筆の丞は、何と答えたましたか。

Sir***筆の丞は考えた挙句 “私に万次郎の将来を決めることは私にできません。万次郎に私が確認して万次郎がそう望むなら私から船長にお願いするでしょう。私が日本に帰れたら彼の母親に私から万次郎の思いを説明します”、と。


⋆⋆⋆⋆⋆万次郎の運命決まる ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**船長も船長なら船頭も船頭ですね。筆の丞は船頭なので無理に万次郎をこの島に止めることも出来たのに。

Sir***その日のうちに筆の丞が万次郎に確認したところ、万次郎は筆の丞にも捕鯨船に乗り続けたいと答えた。


MrO**これで万次郎の運命が決まりましたね。 胸の高鳴りが聞こえそうだ。

Sir*** 船長も筆の丞も出来た人だ。万次郎は自分で自分の運命を切り開いた。万次郎に二人の恩人がいるとすれば1人はホイットフィールド船長、もう1人は万次郎の漁船の船頭の筆の丞ですね。

MrO**この時万次郎は14才と6か月、今の小学6年生か中学1年生です。人間が固まる前の貴重な時期です。万次郎が14才ではなく、これより1年早くても遅くても、おそらくまるで違った展開になっていたと思いませんか、ねえSir。

Sir***そうだ、14才と言えばこれからの人生のあらかたがこの時期で決まる大切な時期だった。

MrO**そうです。

Sir***この時代の14才と言えば既に大人だった。今の、中3か高1ほどの年齢かな。親の脛かじりの最中だが・・・・・・しっかりしてたね、昔は。

MrO**Sir、今の14才は頼りないとでも言いたげですネ。

Sir***そこまでは言わんがね。父親を早く亡くした万次郎は一家の大黒柱だ。それを承知で捕鯨船に乗り続ける決心をした。

MrO**Sirの時代はどうでした。やはり脛かじりじゃありませんでしか。

Sir***わしの時代かね、・・・・・・忘れたよ。

MrO**Sirも脛かじりだったと認めましたね。


Sir***・・・・・・話を変えようか。万次郎は仲間の船員棒帽を贈られかぶると乗組員たちから頭をボコボコ叩かれ祝福を受けた。それが船員仲間の祝福のルールだった。誰からともなく“ジョン・マン”の愛称で呼ばれることになった。万次郎が泣きべそをかいた。

MrO**それ、祝福なんですか? いじめじゃないですか?

Sir***いやいや、船員の友情表現だ。痛いほど愛されてたのさ。

MrO**愛情表現にしては荒すぎますね。万次郎、泣きべそかいたそうですよ。

Sir***泣き虫ジョン・マン、ってあだ名にならなくてよかったな。

MrOそこはわれわれも素直に「ジョン・マン」で祝ってあげてやろう。


Sir***これで万次郎は正式な捕鯨船の乗組員になった。万次郎は漂流―捕鯨船に救助―ハワイ・オフア島での運命の選択―捕鯨船乗組員、と地獄と天国を2度往復したことになるな。

MrO**万次郎のそれからは?

Sir***この晴れて捕鯨船乗組員となった時が1841年12月。漂流を始めて11か月、鳥島で救助されてから6か月が過ぎていた。万次郎14才6か月、まだ若かった。


MrO**万次郎は正式の捕鯨船の乗組員になって、乗組員と同じ帽子をかぶり、同じベッドが用意され、起床から就寝まで同じだった。これで “一丁前”になった。

その後捕鯨をしながら2年余りの船上生活が続いた。このあいだ世界の様々な土地、東南アジア諸国、オーストラリア、ニューギニア、フィジー諸島などを巡った。


MrO**日本の近くに来たときなど、万次郎は帰りたい気持ちが募ったのではありませんか。

Sir***そうかも知れんが、そうでないかも知れん。万次郎の負けん気の強い気性を考えると帰りたくとも弱音は吐かなかっただろう。ほんとうは船上生活が楽しくてならなかったと思うがね。


⋆⋆⋆⋆⋆捕鯨の傍ら植民地の悲惨さを知る ⋆⋆⋆⋆⋆

MrO**もしかしたら乗組員たちから日本近くに来た時などは “ジョン・マン、母ちゃんが恋しいだろう”くらいはからかわれたかもね。世界各地での見聞も万次郎が世界を知る大きな勉強になりましたね。

Sir***そう、その通り。世界は必ずしも楽園の国々ばかりではなかった。世界は西欧諸国の植民地争奪戦の時代だ。東南アジアの国々は西欧諸国に分断され、搾取にあえぎ住民の暮らしは貧しかった。


MrO**植民地の富の争奪と言えばアヘン戦争[3]が代表的なものですね。 イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得て、清はアヘン中毒者で溢れていた。

Sir***そうだね。万次郎はこれらの国々をつぶさに見ながら捕鯨船に乗り続けた。


MrO**万次郎は植民地の悲惨さをみて、日本の将来に思いを馳せたましたでしょう。思うのは常に日本のことだった。

Sir***このまま鎖国を続けてはやがてアジア諸国と同じ運命になる、こんな危機感が万次郎の胸をよぎったと思うよ。


MrO**確認しますけど万次郎が漂流始めたのが1841年1月でした。そして同じ年の1841年12月ハワイ・オワフ島に入港、この時万次郎は捕鯨船の乗組員を続ける決断して再び捕鯨船出の乗組員生活が始まった。そうですね。

Sir***この生活が2年余り続きこの捕鯨船での生活も終わりを告げるときが来た。万次郎が乗った船は母港のマサチューセッツ州のニューベッドフォードに入港した。1843年5月万次郎16才になっていた。

Sir***漂流を始めてから2年5か月の歳月が流れ、万次郎は16才4か月になっているね。


MrO**さぁ、万次郎、これからどうなるんだろう。大切な時期なので、ここまでの年譜を再掲して確認も必要かもしれない。年譜もう一度掲げておきます。

万次郎年譜(短縮版)

*1827年(0才)1月:

・万次郎誕生。

*1841年(14才)1月:

・漂流。鳥島に漂着。

*  〃     6月:

・アメリカの捕鯨船救助される。

*  〃    12月:

・万次郎捕鯨船の乗組員となる決意する。

・捕鯨をしながら2年余りの船上生活。

*1843年(16才)5月:

・ニューベッドフォードに入港

・船長の家に寄宿。

・街の小学校に入学。

*1844年(17才)  :

・小学校を卒業。

・最高の学校に進学。

*1846年(19才)5月:

・首席で卒業。

・準一等航海士として世界を回る。

*1848年(21才)  :

・アメリカゴールドラッシュ起こる。

*1850年(23才)  :

・帰国旅費を稼ぎに金鉱山に入山。

*1850年(23才)9月:

・商船の船員となり琉球に向かい帰国。


MrO**これからも万次郎の数奇な運命は続きますね。

今回の放談は万次郎少年の好奇心と決断力に、ただただ舌を巻来ました。続きが楽しみです。

Sir***万次郎のドラマはこれだけじゃぁないよ。これからが真の冒険ドラマの始まりなんだ。


MrO**話は尽きませんが、これからの話を楽しみにして、今日はこれでお開きにしましょう。

Sir***そうかね。これから話は佳境に入るがそうしようかね。中編では、彼の「学び」と「再出発」について、たっぷり語ろうじゃないか。


MrO**一句出来ました。披露していいですか。

Sir***ホウ、どんな句か聞きたいね。


MrO** ジョン・マンの冒険はドラマの後にまたドラマ   直晴

お茶をお淹れします。これ塩竃の銘菓 梅の花です。茶菓子にどうぞ。

私もお相伴します。


⋆⋆⋆⋆⋆(注) ⋆⋆⋆⋆⋆

*[1]

捕鯨漁: 1800年代初頭から世界的な捕鯨漁が盛んになりイギリス・ドイツ・などは主に大西洋で、アメリカなどは主に太平洋で捕鯨を行っていた。

*[2]

ゴールドラッシュ:1848年のカリフォルニアでの金の発見によってこの地域へ人々が殺到、フォーティナイナーズ “49年者”と呼ばれた。

*[3]

アヘン戦争:清とイギリスの間で1840年から2年間にわたり行われた戦争。イギリスは、インドで製造したアヘンを、清に売りつけ巨額の利益を得ていた。

参考文献:フリー百科事典『ウィキペディア』

:『ジョン万次郎の羅針盤』中濱武彦 ㈱冨山房インターナショナル

 2020年

:『私のジョン万次郎』中浜 博 小学館 1991年


放談 第11話:~帰ってきた万次郎(その1)

       *漂流そして旅立ち*~ 了


7648文字 R7:7.25 10:40


★次回予告

放談:第12話 ~帰ってきた万次郎(その2)~

⋆⋆⋆⋆⋆万次郎のアメリカ生活 ⋆⋆⋆⋆⋆

⋆⋆⋆⋆⋆名門校『バートレット・アカデミー入学』 ⋆⋆⋆⋆⋆

⋆⋆⋆⋆⋆万次郎アメリカの近代史を学ぶ ⋆⋆⋆⋆⋆

⋆⋆⋆⋆⋆世界の基本理念としての民主主義 ⋆⋆⋆⋆⋆

⋆⋆⋆⋆⋆船長の深慮遠謀 ⋆⋆⋆⋆⋆




今回の放談は、漂流の始めからアメリカの捕鯨船に拾われて捕鯨船の乗組員となって世界を巡るまでのお話です。お時間のある時、お読みいただければ幸いです。

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