待合
とある土曜日の午後、私は歯医者の定期検診に赴いた。
休日ということもあって少しばかり賑やかな院内、申し訳程度に残ったスペースに腰かけて名前を呼ばれるのをただ待つだけの時間が始まる。
棚に並んだ雑誌や漫画にはさして興味はなくスマートフォンをいじる気概もなかった故に、急に人に云うには少々こじらせていて話しがたい思惑が、膝の上でひたりと揃った指先からじわじわと神経を撫でるように立ち上った。
そもそも、このように年齢層の異なる人間がごちゃ混ぜになって集まり―――
いや、押し込められ、というべきでもあるが―――こうして淡々と治療されるのをじっと待っている。そこに感情の入る余地はないわけだ。
実際に、受付で私が診察券を提示した時だって受付の人間は私を一患者として処理したのみだ。
つまり、私が思うところによると待合室で待つという行為には人間味が感じられないということである。最終的には診察および治療という目的があるにせよ、待つことは機械であっても不可能ではない。あまりに待たされて心なしか目から生気がうせているような母親なんかを見ると余計に無味乾燥さが煮詰まっていく。おまけに皆が電子機械に支配されたようにじっと画面を見つめて動かない様…何だか気持ちが悪くなってきた。
もともと大勢の人が集まっているところにいれば様々な表情から裏の感情を思惑してしまい自己嫌悪に陥るというのに、こんな小さな集団においてまで人間味の喪失感を嘆いていては埒が明かないではないか。
然しながら、実際に周りの様子を見ていると唯待つという行為は一見空虚でありながら、それはただ一点を見つめた足りぬ考えともいえる。
暇を持て余した時の過ごし方というのは一番個性が出るものだ。一人ならば、本を読む者、ツイッタ―を覗くもの、はては私のように思考の海に浸るもの。
特に家族のやりとりというモノは顕著に家庭環境を映し出す。
一見すると虚無の塊のようなこの空間も、実は社会の縮図であったりするのだろうか。調和を見ると残念さばかりに嘆く羽目になるけれど、一粒一粒は面白い。
―――少し大げさであったかもしれない。
とかく一人でいると余計な方向で想像が広がっていけない。実際は私だって、このように脳みその中身を公開しなければただの患者であるのだ。個を見よとは言え、そんな面倒なことは合理主義の上では面倒で、しない。
だけれども、世界の何処かに自分を、世界の中で灰色に染まっている自分を、見つけて色付けて呉れる……そんな誰かに甘えたくなる。
まだ自分では何もしていないのに虫が良すぎる―――まだ若い私の愚かさを知れぬ誰かが笑うだろうか。
―――あ、呼ばれた。