終章 ライブ
インジュは、インファと並んで歩きながら、未だ腑に落ちない顔をしていた。
「あのー……ボク達これから何するんでしたっけ?」
「いつまで寝ぼけているんですか?しっかりしてください」
確かここ、音々のオペラハウスだったですよねぇ?とインジュは、関係者の通路を舞台へ向かって歩いていた。なぜ、歌う緑の魚にいるのだろうか。事案が解決すれば、もう関わってはいけないはずなのにと、人間に身をやつしてインフロのインジュの姿でいる自分に、首を傾げていた。
廊下の先に、舞台袖へ続く扉が見えた。その扉が、こちらが開く前に開いた。
「時間ピッタリね。さすがインファ!」
ヒョッコリ顔を覗かせたのは、キリッとした眼鏡のグレーのスーツを着こなした、百合恵だった。赤いルージュを引いた唇が、ニヤリと微笑んだ。
「それは、任せてください。ですが、息子は未だ寝ぼけています」
あらあらと、百合恵は目を丸くすると、フッと息を吐いて二人を中へ通した。
「なんだ?インジュ、寝ぼけてるのか?おーい、大丈夫かー?初っぱな『フローズ』だぜ?」
「選曲変えるかい?」
「しかし、今から変えるとなると――」
舞台袖から見えるステージは、すでに整えられていた。インジュが不調と聞いて、雪夜、ソエル、ノートンが、今から曲を変えられるかと話し合い始めた。それをきいて、インジュは、慌ててインフロバンドトリオを止めた。
「い、いえ!できます!大丈夫です!」
「そぉかぁ?んじゃぁ、オレのギター長めに弾いてやるから、その間に調子上げろよ?」
そう言って、雪夜はインジュの背中をバンッと叩いた。蹌踉めいたインジュの両肩を押さえてくれたのは、ノートンだった。
「大丈夫か?」
ノートンがインジュの顔を覗き込んだ。
「はい!でも、あの、今日って、何の日でしたっけ?」
どよっ!とインジュの言葉に、インファ以外の全員が驚いた。
「百合恵さん!これ、今日ダメじゃないかい?この子、インフロ復活ライブ忘れてるよ!」
「復活――ライブ……?オペラハウスでです?」
インジュは、首をコテンッと傾げた。「それは、個室の席がここにしかないからだよ」と、雪夜に言われたが、インジュはピンときていなかった。一階席は椅子を取り払って、アリーナになってると言われ、ああ、危ないですからねぇと、上の空だった。
皆が、助けを求めるようにインファを見た。インファはフウとため息を付くと、聞きなさいと言った。
「寝てましたからね。あなたが眠った後、オレ達が精霊であることが、大陸中にバレました。それで、解散したんですが、歌の精霊と旋律の精霊が、無茶を言い出しまして」
インファの後を受け取って、百合恵が続けた。
「そうなのよ、エーリュちゃんとラス君。歌わないと大陸が滅びるって言い出して、歌うのはこの大陸いつものことだから、よかったんだけどね。人知れず、インフロは解散しちゃってたわけで」
初めから期間限定だったわけだから、問題なかったんだけどと、百合恵は言った。
「署名活動が起こってしまったんだ。インフロにまた歌ってほしいってね。ボク達も森に戻ってたから驚いたよ」
百合恵の後を、ソエルが引き継いだ。ソエルが、ね?とノートンに目配せすると、彼は頷いた。
「そして、ラスがインファに話すと言って、イシュラースへ行った」
「それで、お父さん、いいよって言っちゃったんです?」
今日で一番機敏に、インジュはインファを見た。嘘ですよね?という目をしていた。
「何を言っているんですか?返事をしたのはあなたですよ?インジュ」
「はい?ボクです?あの、記憶ないんですけど」
インジュはえ?いつの間にと混乱していた。
「完全に寝起きでしたからね。それでも、嬉々として練習してましたよね?」
わかってやっているのだと、思っていたと、インファは呆れていた。遠隔で、バンドの皆とも音を合わせていたし、楽曲リストも作っただろ?と、インフロバンドトリオに、口々に言われた。昨日はリハーサルもしたじゃないかと言われ、インジュは「え?あれリハーサルです?」とすっとぼけていた。リハーサルも遠隔だったために、インジュは全く気がついていなかった。というのは、またインサーフローとして歌う緑の魚で歌えるとは、思ってもみなかったからだ。もう、事案は解決したと思い込んでいたからだ。
もう二度と、インサーフローでは歌えないと思い込んでいた。
確かに楽曲リストがあり、リティルが練習がどうのと、まるで百合恵のような動きをしていた。変だな?とは思いながら、歌えることが嬉しくて言われるままに歌っていた。
「すみません……でも、はい、わかりました。あ、時間ですね、行きましょう」
「明日よろしくって言われたから、変だなって思ってました」と、インジュは普通の表情で言うと、ステージへ足を向けた。あれ、大丈夫か?と雪夜はインファに囁いた。インファは、苦笑しながら大丈夫ですと笑った。
「彼、あれでもプロですから」
ニッコリ微笑むインファに、ああ、そうだなと皆は頷いた。
二日原初の風に戻って、三日目にインジュは目を覚ましたが、それから一週間微睡んでいた。さすがに生まれる前に二日も戻ると、頭に靄がかかったようになった。
一週間の間の記憶は、途切れ途切れで、でも、インサーフローの歌を歌っていた記憶があった。一週間で立ち直ったが、それから一ヶ月、何となく物足りなく過ごした。インジュは殺せない関係上、風の城での仕事は比較的緩かった。暇になるとインジュは、ピアノの置かれた部屋に自然と足を運んでしまっていた。
インファは副官として忙しく、なかなか一緒に歌えなかったが、リティルがインサーフローのすべての曲を録音してきていて、バンドがいなくても歌うことができた。
もう、人前では歌えないんだなーと、寂しいなーとボンヤリ思いながら、費やせる時間のすべてを、歌に無意識につぎ込んでいた。そんなインジュの姿に、皆、復活ライブの為に練習しているのだと勘違いしたのだった。
インサーフローの復活。そんな夢物語が現実になるなんて、なんて未来を導いているのだろうか、あの人は!と、インジュはあれから一度も会っていない友のことを思っていた。
「粋じゃないですかぁ。見直しましたよ?ラス」
グロウタースは、移り変わる世界。いつかインサーフローも衰退する。それでいい。
この地の人々が必要としなくなるまで、歌ってやろうじゃないですか!と、インジュは再びステージに立った。
そんなインサーフローの姿を、二階の個室席で、風の城の皆と一緒にリティルは見ていた。光に溢れる、煌びやかなステージに、インジュの空を飛ぶような声が解き放たれた。
「ハハ、あいつ、翼出てるぜ?」
――君は 光 まばゆい光!
皆がインジュを、そう声をそろえながら指さしていた。
ウケてるウケてると、リティルは会場を埋め尽くした歓声に、楽しそうに笑った。
『フローズ』の間奏の間、ベースを弾くノートンに翼のことを指摘されて、やっと気がついたインジュは焦っていた。そこへ、ギターソロを弾く雪夜が絡み、そのまま行くことで落ち着いたらしく、雪夜の肩に手を置きながら、インジュは笑って天井を仰ぎ、声を張り上げた。空の高みへ一気に飛び上がるような、インジュの裏声――。
それを見ていた、インファの妻でインジュの母親であるセリアが「インジュのくせに格好いい!」と呟いた。そして、インファが裏方で悔しいと身悶えた。それを聞いたリティルは「いやいやいや、おまえ、インファが前面に出てキャーキャー言われてたら、絶対怒るだろ!」と呆れた。
歌うインジュを見つめながら、リティルは手すりに頬杖を付いて、楽しそうにしやがってと笑った。その斜め後ろに控えていたラスが、嬉しそうに眩しそうに目を細めていた。
ゲームが終わった後、ラスはインファに、インサーフローを復活させる話を持って、風の城を訪れた。インジュはインファと共に、広すぎる応接間にいたが、様子がおかしかった。話しかけても、まともな返事が返ってこずに心配したが、インサーフローの復活という言葉にだけ反応して、インファが答えるより早く「やります」と答えた。その直後、インジュは、インファの肩に寄りかかって寝てしまった。華奢で女顔のインジュのそんな姿は、とても儚く見えて、こんな弱っているような、彼の姿を見たことがなかったラスは、大丈夫だろうか?とますます心配になった。だが、インファは気にするなと首を横に振った。
インファはそんな息子をそのままに「ヴォーカルがやるというので、付き合いますよ」と言ってくれた。
リティルと、インファによく似た面立ちの仮面の補佐官も、同意してくれ、インサーフローは、人気のある限り歌うことを約束してくれた。
「霊力乗せないで、あれだけよく歌えるよ。翼は出たけど」
ラスが、ブランク全く感じさせないで、凄いなと呟いた。
「インジュはプロだもの。霊力乗せるなんて、そんな失敗しないわ。いいなぁ。わたしも歌いたい!」
ラスの隣にいたエーリュが、インサーフロー格好いい……と身悶えた。その瞳は、迷いなくウズウズしていた。
「アンコール乱入してこいよ。アンコールでフレストも来るぜ?お祝いだーってな」
ん?ってことは、あの曲だよな?インファ、衣装変えるのか?と、リティルは自分で言って、思わず、セリアを振り向いていた。が、すぐに声を上げたエーリュに視線を奪われていた。
「えっ!聞いてない!アコ、未だにインファさんと繋がってるから!」
狡い!とエーリュは、緑がかった金色の短い髪を振り乱した。
「インファとなんて、おまえ、気軽に会えるじゃねーか。おまえら、今出張中っていっても、裏の丘に住んでるんだからな。あいつ、根っからお兄ちゃんだからな、おまえらのこと気にしてるぜ?」
城に住めばいいのにと、リティルは言ったが、エーリュは「そ、それは……」と言い淀んだ。風の王と副官に攻撃を仕掛けてしまったことを、気にしていることは明白だった。そんなことは、あの二人は気にしないと城の皆は言ってくれたが、けじめだからと、エーリュは風の城の敷居をほとんど跨がなかった。
ラスは、そんなエーリュに付き合って、やはりほとんど来ない。
ボンヤリしていたインジュが、これで復活する。二人はインジュに絡まれて、そのうち城に転がり込んでくるんだろうなーと、そんな未来を想像して、リティルは二人を見上げてフッと微笑んだ。
「ステージ行ってこいよ、エーリュ。おまえも、インジュと歌って踊ってこい!これ、王命な!」
「百合恵に頼んであるから、絶対行けよ?」とリティルは明るく笑った。
戸惑いながら、エーリュは助けを求めるようにラスを見上げた。ラスは穏やかに微笑んで、「王命じゃしかたないじゃないか」と、言った。エーリュは少し泣きそうな顔で、リティルに視線を戻し「お受けします」と言った。
その答えに満足そうに笑いながら、リティルは今度はラスを見た。
「ラス、おまえはインジュに会いに行けよ?もうボケてねーからな。わかってるかもしれねーけど、あいつから、おまえのところには行かねーからな」
あいつ、あんなに意地っ張りだったかな?とリティルは困って笑っていた。
元気になるまでと、会いに行くのを自粛していたラスは、困っているリティルに、インジュだからと、理解しているように苦笑した。
「うん、オレから行く。あれだけ元気なら、喧嘩しに行ってもよさそうだから」
あの曲のあそこと、今の曲のそこ、音程狂ってたから指摘してやる!と、ラスは楽しそうに笑った。
――歌ってくれよ?これからも
歌の精霊と旋律の精霊は、世界にとって必要な力の司ではない。
世界にとって、不要となってしまった音の精霊を助けようと、リティルが無理に用意したものだった。
歌には力がある。
だが、絶対に必要なものではない。それにしては、二人は強力すぎる精霊だった。
歌う緑の魚大陸は、箱庭の時代が長すぎて、今、脅しではなく危険な状態だった。皆が歌う声、奏でる音をエーリュが力に変換し、ラスが六属性を駆使して支えていた。それを行うには、歌う緑の魚に赴くしかなく、二人は否応なく、頻繁に関わることになっていた。
インサーフローの復活は、そんな彼等の、監視の役割も担っていた。
インファもインジュも、グロウタースへの関わり方を熟知している。何事もなく、癒やしきって引き揚げてくれることを祈っている。
そうできなければ、二人を、リティルは今度こそ、斬らねばならないかもしれないのだから。
また、綱渡りだな。と、リティルは自分をあざ笑った。
だが、彼等は我が儘を聞いてくれた。
歌が好きだという、この我が儘な風の王の願いの下、歌い続ける世界を守り続ける。と
これにて、ワイルドウインド7完結です。
お読みくださりありがとうございました。