六章 ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド
ラスティが、自信に満ちあふれていると思い込んでいるインジュも、少し前にリティルとインファのお叱りを受けていた。
瀕死の重傷から目覚めたリティルは、よかったとホッとしているインジュを、ジロリと睨んだ。その瞳に、インジュは何故睨まれているのかと、首を傾げた。
「おまえ、オレに隠れて、トンデモ固有魔法編み出してるだろ?」
「何のことです?」
インジュの目が泳いだ。
インファが知っていたのだ、リティルが知らないわけはないが、このタイミングでのお叱り。これは、勢い余ってトンデモ固有魔法を発動しかけたことを、知っているからだとインジュは青くなった。
「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド。おまえの条件で、オレが発動して見せてやろうか?」
「えっ!」
インジュは、逸らしていた視線を、慌ててリティルに戻した。
なぜ?どうして?リティルがジ・エンド・オブ・ザ・ワールドを使えることに、インジュは動揺していた。あれをリティルが?冷や汗が止まらなかった。
「インファに一回死んでくれって頼まねーとなー」
リティルは起きられない体のまま、頭だけ動かして、枕元の椅子に座るインファを見上げた。視線を受けたインファは、微笑んだ。
「ええっ!まさか、お父さん、承諾しちゃってます?」
インジュは、さらに青くなって、隣に座っているインファを窺った。
「ええ、王の頼みは断りません」
いつでもどうぞ殺してくださいと、ニッコリ笑うインファにインジュは瞳を見開いた。
「断ってくださいよ!マゾなんですかー!みんなを守る為の魔法なのに、お父さんが死んじゃったら意味ないですぅ!」
インジュは本気で泣き始めた。ボクだって役に立ちたいのに!と恨めしげだった。
そんなインジュの様子に、リティルとインファは優しい顔で苦笑した。
「なあ、インジュ、その魔法、改良しようぜ?それ許してくれたら、この固有魔法破棄してやるよ。じゃねーと、オレ、インファ殺すぜ?」
オレがインファ殺すところ、見たいか?とズバリ聞かれて、インジュは青くなった。インジュが命を奪って、暴走状態になり敵と差し違えるこの魔法が、風の王の逆鱗に触れていることは、明白だった。それを、勢い余って無意味に発動させかけ、それは、言い逃れできないほどの失態だった。失態ですんだのは、インファが咄嗟にジャックの首を飛ばしてくれたからだ。もし、インファがジャックと切り結んでいなかったら、インジュは無意味に命を落としていた。ジャックは不死身なのだから。
「改良って、どうするんです?」
「まず、発動条件ですが、リティルが戦闘不能になったら、にしてください」
「え?それ、頻度高くないです?」
殺し解禁です?とインジュは首を傾げた。
「頻度高くねーよ!オレがやられたら、かなり大事じゃねーか!インジュ、透明な力、どれくらい使えるんだ?」
いつもなら、花の姫の無限の癒やしがある!とリティルは動かない左腕をさすった。
「あの力は、発想力次第なんで、危険ですよ?やろうと思えば、太陽を北から登らせたり、海の水を空っぽにだってできちゃいます」
「できるのかよ?」
インジュは慌てて首を横に振った。
「やらないです。世界が壊れちゃいますから。風の精霊の良心で制御してます」
「あなたが使える透明な力は、作り出す方向にしか働かないんですか?」
「え?どういう意味です?」
「すべての魔法の効力を失わせるとか、そういうことできたりするか?」
「え?反属性返しでそれ、やってますけど?」
「魔法自体、発動させない。ということはできますか?」
「うーん、対象は一人です?それとも、範囲?魔法に反応して反属性が勝手に発動するようにすれば、いけると思いますけど、ボクじゃ無理ですねぇ。エンド君なら、いけるかもです」
「エンド君?」
「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールドを作った時、一つ人格を作ったんです。お父さんは会いましたよね?エンド君、オウギワシですけど、大丈夫です。風三人のいうことは、絶対服従ですから!」
風三人とは、風の城の中核を担う、風の王、副官、補佐官の三人のことだ。暴走状態といっても、守りたい者達にまで手を出してはいけないと、ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド発動時の人格の首に、首輪はつけておいたのだった。
「固有魔法、条件が厳しいほど強力にできましたよね?ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド……相手が世界が終わったって、絶望する時ってどんなときなんでしょうか?」
「発想が黒いなー。死が間近に迫ったときだろうな」
「不死身な者には効きませんね」
「死……自分じゃなくなる。理破壊……それなら、みんなを守れるかもですねぇ……」
「何か思い付いたのかよ?」
「はい。ルールを書き換えるんです。例えば、最強の盾があったとします。それを、最弱にしちゃうんです。でも、理をねじ曲げることになるので、凄く危険です。なので、ボクがそばにいるときにリティル戦闘不能で、エンド君と交代、一つの理を破壊して、ボクは二日原初の風に戻ります。エンド君、とことん乱暴なので、お父さんが指示してください」
「二日も宝石の姿になるのかよ?かなり厳しい魔法だな」
「ここまですれば、どんな理も壊せます。お父さん、何を壊すか見極めてくださいね。エンド君、頭はあまりよくありませんから」
存在を生まれる前に一時的に戻すことを自ら決め、そのことを、インジュはまったく気にした様子なく笑っていた。風の王と副官は、おまえが一番マゾだよと、ため息を付いた。
現在、エーリュとラスティが、参の村近くのミューリン遺跡から、インジュ達に助けられて戻って、数時間が経っていた。
インフロバンドトリオから聞いた話では、エーリュとラスティの二人は、かなり様子がおかしいらしい。
様子を確かめに行きたいが、リティルはまだ、一人では歩けない。インファが、しばらくインジュに任せましょうというので、彼が戻るのを待っていた。
そして戻ってきたインジュは、酷く落ち込んで、神妙な顔をしていた。これは、何かあったなとすぐに察することができるほどだった。
枕元にいたインファは、リティルに手を貸して体を起こしてやった。まだ満足に動けないリティルに、インジュは決意を込めて言った。
「リティル、お父さん、ボク、ラスを救いたいです」
「インジュ」
「どうすればいいですか?」
「もう救ってるぜ?」
「まだです」
「インジュ」
「まだですよ!ジャックが、エーリュに願いを叶えてって、言ったんです。その願いが何なのか、わかるんです。他のことは何もわからないのに!こんなことだけ、わかっちゃうんです!ジャックは、今のままじゃ救われません。存在が完全に分かたれてるんで、ラスの中に戻ることもできません。できることは、ジャックがラスを殺して、消滅することだけです。ジャックはこのままだと、エーリュに揺さぶりかけますよ。ラスのセイレーンのエーリュなら、確実に、ラスの息の根止められますから。どうすれば、ジャックを止められます?ジャックは、エンド君と同じです。エンド君がボクの影響凄く受けちゃうのと同じで、ジャックもラスの影響凄く受けちゃうんです。二人とも、単純だから止まらないです。説得は無理です。過去は、なかったことにはならないですから」
インジュは静かに泣いていた。
「ボクは……ずっと、ラスを傷つけてたんですね。凄く強いのに、何でこの人ボクを怖がってるんだろう?って思ってました。その強さなら、一緒にみんなを守れるって思ってました。でも……そんな過去!ボクじゃ絶対にわからないですよ!どうして!特異な力を持って生まれてきただけでそんな扱い受けないといけないんですか!」
週刊誌に撮られたあの写真。あの記事を読み、インジュはラスティに、男色の気があると思われたのでは?と思ってしまった。男性に告白されたり、女性とは友達以上の関係になれずで、世間でボクはそう思われているのかもしれないと、頭をよぎった。
思えばラスティには、出会ったころから避けられていた。
ラスティがボクを怖がるのは、まさか……と過ったりもしたが、コールと飲んだ時、彼には笑い飛ばされた。「あいつは誰にでもあんな感じだ」と言われ、安心した。
安心して、そして、何もしなかった。
「それが、グロウタースなんだ。多種多様。そして、繁栄と衰退。ラスティは、オレ達に出会うまで、そんな扱い受けてきたわけじゃねーよ。別の考えを持つ、グロウタースの民に助け出されてる。それからちゃんとしたヤツの指導受けて魔導士になって、ダークムーンやってた。それが、グロウタースなんだ。おまえ、もう、ラスティに逃げられなくなってるだろ?十分なんだよ」
「十分なわけ、ないです……今もきっと、怖いです」
「あなたは、誰からその話を聞いたんですか?」
「ラスが……どうしても、聞いてほしいって言ったんです。あの人!気持ち悪くてごめんって!そんなことないのに!ボク、抱きしめられませんでした!お父さんやリティルがしてくれるみたいに、そんなことないよって、抱きしめて……あげられなかったです!」
泣きながら頽れたインジュの前に、リティルはベッドから落ちるように降りた。そして、右手だけで抱きしめてやった。
そんな傷があるラスティに、今触れたら傷つけると思って、いつもできることができなかった。その姿に、気持ち悪いから触れないんだと思われて、ラスティが傷ついたんじゃないか?どうしたらいいのか、判断できなかった。やっと、見せてくれたのに、今度はボクが、背をむけてしまったんじゃないか?インジュは、ラスティに答えられなかった。
インジュであっても、自分の性別は変えられない。
男である。ただそれだけのことが、ラスティを苦しめているとは思わなかった。
インジュは、女にしか見えないこの外見に、惑わされているのだと思っていた。男なので、触っても平気ですよ?と思っていた。
知っていたら、あんなに触らなかったのに!と、インジュは悔しかった。
「オレ達は、ラスティから過去を聞いたわけじゃねーんだ。契約者の調査はしなくちゃならねーからな、オレは調べて知ったんだよ」
「オレは、ラスの魔力に触れたとき、不当な扱いを受けていた可能性を、察しただけです」
インファは、インジュの背中を慰めるようにそっと触れた。
「ボクは……そばにいていいんです?いられませんよ!」
怖がられていた理由がこんな!気安く触れるたび傷つけていたと思うと、もう、過去の自分の首を絞めたいほどだった。
「あいつを、見捨ててやるなよ。オレは王だ。インファは兄貴だ。ラスティと対等なのは、おまえだけなんだぜ?」
縋ってきたインジュの頭を、リティルは優しく撫でた。「インファがいるのに、おまえオレに縋るんだな?」と笑った。するとすかさず「ボクが抱きつくのは、リティルにだけです!」とインジュは言った。
「インジュ、二人が道を誤らないように、オレは監視してきます。早く立ち直って、導いてあげてください」
そう言って立ち上がろうとしたインファの腕を、インジュは掴んでいた。
「お父さん!お父さんが、導いてあげてくださいよ!ボクには無理です!ボクは……自分のことしか、考えられないですから!」
また、二人を酷く傷つける!とインジュはボロボロと泣いていた。
「おまえって、ときどき全力で矛盾してるよな。自分のことしか考えてねーなら、どうしてそんなに泣くんだよ?」
「わからないです……わからないですよ!いつも、ボクは遅すぎるんです。ボクが、もっとちゃんとラスを見ていたら、エーリュもジャックもこんなに傷つくことなかったじゃないですか!」
「オレは、何もしませんよ?」
「オレも何もしねーよ。どんな生き様見せてくれるのか、見守るだけだぜ?おまえがラスティを焚き付けたとき、オレ達は止めなかっただろ?」
「あなたは優しすぎます。オレ達はもっと辛辣ですよ」
「リティルはラスを精霊にしたじゃないですか!お父さんはいつもより広い間合いでずっとラスのそばにいたじゃないですか!ボクは……ただ、傷つけただけです!」
ボクは間違った!とインジュは泣き叫んだ。
「インジュ、少し休みなさい。あなたは心を砕きすぎですよ。心を落ち着けて、今は眠りなさい」
セリテーラとインファが呼ぶと、猫はタタッと走ってきた。そして、顔を上げたインジュにそっと口づけした。インジュはスウッと眠りの淵に吸い込まれ、ドッとインファの胸に倒れた。
「……なぜキスなんですか?」
インファに睨まれて、セリテーラは耳を伏せて、小さくなった。
「はは、インファ、嫉妬するなよな。セリテーラにしてみたら、インジュも愛する対象だろ?じゃあ、まあ、行くか?」
インファはインジュを抱き上げると、リティルの寝ていたベッドに寝かせた。そして、頬を流れ落ちた涙の雫を、指で拭ってやった。
「立てますか?リティル」
「ああ、貴重な治癒だ。小出しにするぜ?」
リティルはスクッと立ち上がったが、左腕は未だ力を失ったままだった。
「インファ兄はエーリュな。オレは、ラスティだ」
「無茶してはいけませんよ?」
「わかってるよ」
リティルとインファは、部屋の前で別れた。
カタンと戸口で音がして、ラスティは振り向いた。
エーリュが部屋を抜け出してもわかるように、部屋の扉は開けっぱなしにしていたのだ。
ラスティはそこにいた者の姿を認めて、目を丸くすると慌てて駆け寄った。
「リティル!どうして?オレに用があるなら、呼んでくれたらいいのに」
「はは、どうして一人でいるんだよ?しょうがねーヤツだな」
ラスティは扉を閉めながらリティルの体を支えると、椅子まで導いた。椅子に座ると、リティルはフウと息を吐いた。
ここは、ラスティに宛がわれた部屋だ。間取りはリティルの療養している部屋と同じだが、リティルの部屋はインファとインジュと相部屋なので少し広い。
「エーリュは?」
「……部屋に閉じこもってる。これでも、さっき様子を見に行ったんだ」
閉め出されてるとラスティは首を竦めた。ああなると、てこでも開かないと、ラスティは困ったように小さく笑った。「インファ兄が行ってるぜ?」と言うと、ラスティはあからさまに落ち込んだ顔をした。そして「だと思った。インファなら、開けてもらえるんだろうな……」と少し悔しそうに「せっかく、セドリガーになれたのに」と、項垂れた。
「はは、セイレーンは容赦ねーな。セドリガーはあいつらの前じゃ丸裸だな」
「記憶を覗くなんて、あんなことができるなんて、知らなかったんだ。アコに聞いたら、プライベートがなくなるから見たことないって言ってた。それに、コールには、トラウマみたいな過去はないからって」
それを聞いて「あったら見られてたのか?」とすかさず聞いたコールにアコは、当然と頷いた。「痛みは共有してこそでしょう?」と言い放っていた。「いや、男的には見られたくない!」とコールは抗議していた。そうしたらアコは「だったら傷つかない事ね!」と強気に返していた。
「郷でのこと、エーリュに暴かれるまで忘れてたんだ。こんなことになるなんて……。……インジュは?」
「連日オレの治療してたからな、さすがに疲れて寝てるよ。インジュ兄に話したみてーだな?あいつ、何も聞かなかっただろ?なのに、どうしたんだよ?」
さすがに、おまえの告白が心に突き刺さりすぎて、インファに強制的に眠らされたとは言えなかった。
「インジュが、オレのこと、友達だって言うから。嫌われたかったのかもしれない……」
ラスティは自嘲気味に、力なく小さく笑った。
「嫌われると思ってたのかよ?オレもインファ兄も、何とも思わねーぜ?」
「それは、リティルはなんか超越してるし、インファには、隠せない。でも、インジュはなんていうか精霊っぽくなくて、知られていいのかわからなかった」
「あいつ、間合いが近いからな。オレ達のせいかなー?あいつ、引き籠もりだったから世間知らずなんだよ。それでよく傷ついて、泣いて、慰めるのにハグしてヨシヨシしてたからな。けど、さすがに抱きつかれたことねーだろ?それくらいの分別はあるんだぜ?」
「抱きつかれてたら、たぶん危険人物指定してた」
ラスティは真顔だった。
「ハハ。だいぶベタベタされてたと思うけどな!ラスティ、オレとインファ兄はいいのかよ?」
「インファは急には触らない。リティルは、いろいろ超越してるから」
「何だよ?超越って。ここじゃ、危なっかしい、十九才の少年だぜ?」
リティルは笑うと、こっち来いよと右手で手招きした。ラスティは何だろう?と無防備に近づいた。
「っ!」
リティルは右腕だけで、ラスティを抱きしめてやった。ガタンと、ラスティが膝をつく。驚きは感じたが、ラスティに拒絶の意思はなかった。リティルは、オレとインジュと何がそんなに違うんだ?と思ってしまった。
「大丈夫だ。心配するなよ!オレ達がいるんだぜ?なあ?そんな思い詰めた顔、してるなよ!」
エーリュが言っていた。リティル君は不思議で、思わず縋ってしまうと。リティルの言葉が心に染みこんで、ラスティは泣いていた。
父親の記憶はない。だけど、父親がいたらこんな感じなのかな?と思った。三人の精霊の中で、一番年下の容姿をしているのに、そんな彼に父親を感じるなんてと思いながら、自分が小さな子供に戻ったような気分だった。
「リティル……!オレは、どうすればいい?オレの過去とエーリュの心が同調して、ジャックに影響が出たんだ。この世界のシステムが壊れそうなのを感じる。オレは、本当に忘れてたんだ!それなのに……この過去は、オレを逃がしてくれない!今さら、どうして……こんなものに、苦しめられないといけないんだ!」
悔しい!ラスティは、リティルの小さな体に縋っていた。動かない左腕を気遣う余裕もなかった。
「過去は、消えねーんだ。どうあってもな。おまえ、あれ、忘れてたって?どうして?インジュを怖がってたってことは、その頃は忘れてなかったんだろ?」
それは……とラスティはなぜか、出会った頃の心境を語らなかった。
ラスティは、女の子の様な容姿のインジュが、案外漢だったことに臆してしまったことを、言えなかった。それは、とても、インジュに申し訳なかったからだった。
インサーフローが好きだったから、ラスティは、インジュが作り上げていた虚像に惑わされてしまった。外見女の子のインジュが、歌うと凄いというギャップを使っていることを知っていたのに、ほとんど喋らずにニコニコしている姿に、そういうホンワカした人なのだと、勝手に思い込んでいた。
ミューリンタワーに護衛として赴いて、インジュが内と外ではまるで違うことが、業界では有名だったことを知った。そんなラスティの心を知らず、気安く接してくれるインジュが怖いと共に、後ろめたかった。
「エーリュの護衛について、インジュが近づいてこなくなって、イライラしててそれで忘れた。寂しいのと後悔とどっちがマシなのか、ずっと考えてて、本当に忘れてた。たまに思い出して、インジュに嫌われると思って……近づけなかった。初めは怖かったけど、もう本当に、どうでもよくなってた!インジュに近づかなかったのは、後ろめたくて……嫌われ――たくなくて……」
「うん、うん」と相づちをうつ、落ち着いたリティルの声が耳に心地よくて、ラスティはなかなかリティルを解放できないでいた。背中に置かれた小さな手の温度も、もう少しもらいたかった。
これが、導く鳥、風の王の力なんだと思った。抗いがたい安らぎ。絶対の安全圏。素直にさせられてしまい、危険だなと思った。
「それ、インジュに言ってやれよ?あいつ、おまえが近づいてこないことには、意味があったんだって、罪悪感で泣いてたぜ?」
「えっ!インジュが?リティル!言わない方がよかったのか?オレはインジュを、傷つけたくて打ち明けたわけじゃない!」
「わかってるよ。あいつは優しいからな。おまえを救いたいってそう言ってたぜ?」
「救ってもらったよ。十分だ……インジュが起きたら、会いに行く。今度はオレが行くよ」
そうしてやってくれよと、リティルは笑ってくれた。
「なあ、どう戦う?相棒」
ラスティは顔を上げると、グイッと涙を拭った。「もういいのかよ?充電」と、リティルは明るく笑った。「これ以上甘えたら、生まれる前まで戻ってしまうよ」と、ラスティは返して笑った。
「リティル、エーリュを完全に精霊にできないか?最初のルールは生きてるんだ。エーリュが精霊として覚醒してくれれば、オレ達の勝ちだ」
「今のエーリュ、大地の力が強えーからな。無理にはできねーな。あいつは、世界が狭すぎるんだ。閉じこもったままじゃ、大地にも風にもなれねーな」
「オレは、もう風の精霊?」
「ああ。ただ、まだオレは選ばれてねーな。まだ指揮棒の精霊だな。ラスティ、オレの物になれよ!」
「え?うん」
「素直だよなーおまえ。どっかの誰かに見習わせてーな」
誰に?とラスティは首を傾げた。ああ、城にいるひねくれ者と、リティルは笑った。
「気分は旋律の精霊なんだ。でも、このシステムも見捨てられない」
「ハハ。おまえの考え、怒らねーから言えよ」
リティルには知られているような気がした。怒らないと言われたが、ラスティは告げにくかった。だが、黙っていることもできずに、ラスティは口を開いた。
「……エーリュが精霊として覚醒する以外に、ゲームに勝つ方法があるんだ。それは、オレとジャックが消滅すること。オレ達はこのシステムの要だから、オレ達が消えれば、ゲーム自体消えてなくなる。それが……一番現実的だと思う。でも……使いたく、ない」
ラスティはいつの間にか、セドリとしての記憶のすべてを取り戻していた。それでも自分を見失わないラスティの様子に、リティルはもう大丈夫だなと安堵していた。
「なるほどな。理屈はわかるけどな。確かに許可できねーな。はは、インジュが知ったら、キレるな」
「怖い。絶対に嫌がらせされる」
インジュに抱きしめられたら、反属性ぶちまけるとラスティは冗談めかして笑った。
「ラスティ、自暴自棄になるなよ?おまえを精霊にしたとき、オレとの契約は終わってるんだ。おまえを縛るモノはもう、何もねーんだ。あるのは、風の王とその家臣っていう心の繋がりだけだ。オレは、誰も失う気はねーからな」
「うん。命を無駄にしたりしない。風の王、あなたを裏切らない」
ラスティは、リティルの前に跪いて頭を垂れた。リティルはラスティの頭にそっと触れながら、信じてるぜ?と言った。
ラスティは気がついているのだろうか。漆黒だったその髪が、金色に染まっていることを。
エーリュはノックを受けて、扉を開けないつもりだったのに、なぜか開けていた。
「インファさん……!」
インファが尋ねてくるなんて、予想外だった。インファは、優しい顔で微笑んだ。
「イン――ファさ……」
インファの、控えめな温かな眼差しに、エーリュは思わず泣いていた。泣き崩れそうになったところを捕らえ、失礼しますとインファは断るとエーリュの部屋へ入り、扉を閉めた。
「……落ち着きましたか?」
「はい……ごめんなさい……」
インファは、エーリュが泣き止むまで胸を貸してくれた。エーリュは、唐突に兄がいたら、こんな感じなんだろうか?と思ってしまった。
「セイレーンが、セドリガーを避けてはいけませんよ?」
「……ラスティは、セドリなの?」
「ええ、そうですね。このゲームを止めたくて、風の王に賭けたと言っていました。今のラスは、セドリのこともミューリンのことも知っていますよ?」
「わたしは……ミューリンを思い出せない……」
「あなたの場合、思い出せるとは限りません。魂が同じであるだけで、ミューリンとは別人ですから」
「わたしはミューリンじゃないの?ラスティは……それを知ってるの?」
「ええ。ですが、ラスもセドリの記憶があるだけで、セドリ本人ではありません。あなた達は、たまたま出会って、お互いを選んだにすぎませんよ」
「ラスティは、それでいいの?ミューリンのこと……」
「あなたを好いているように、見えますね。ラスからミューリンの惚気は、聞いたことがありません」
「あの、石碑は本当のことなんだ……セドリとミューリンは、想いがなくなっちゃたのね」
「どうでしょう?二人はそもそも、恋人や夫婦のような関係だったんでしょうか?セイレーンに、セドリガーが翻弄されるような関係を見ると、奔放な姫と騎士のようにも見えなくないですね」
考えたことのなかったことに、エーリュは瞳を瞬いてインファを見た。
けれども……そうなのかもしれない。ミューリンタワーの殿堂入りを表す称号をセドリガーという。それは、セイレーンの選ぶ生涯の伴侶と同じ呼び名だが、音楽業界では、ミューリンの騎士と認識されている。
セドリとミューリンが夫婦だったのなら、そんなふうに今日まで伝わっていないのでは?と今更思えた。
「あの背を向け合った二人の絵。向かい合って手を取り合う絵から変化したため、仲違いしたように見えましたが、背中を合わせて、寄り添っているとしたらどうですか?」
それは仲が悪いとは言えないのでは?とインファは言った。
そして、参の村の石碑を見て、二人は花と風なのでは?とその可能性を見た。
一線を越えられない関係の花と風だとしたら、二人には恋愛感情自体がないと考えるのが自然だった。永遠を生きる精霊としては、恋愛感情がないことは不自然なことではないからだ。むしろ、夫婦関係にある精霊の方が珍しい。リティルとインファが特異なのだ。
「リティルが言っていました。あの石碑は嘘ばかりだと。あの人のことなので、確証はなかったのでしょうけど、オレも違和感を感じていました。ラスを見ていると、とても触れられるようには見えないんです。体は大人ですが、精神はもう少し子供のような気がしますね。あのインジュに、翻弄されているくらいですからね」
インジュの中身は、悪ガキですとインファはピシャリと言い切った。
「それは、過去の――せいじゃ……」
「彼の素直さは、持って生まれたものですよ。オレは、兄のように認識されていますね。そのためか、ラスにとってオレは男性ではないようです。フフ、そのうち兄と呼ばれる日が来るかもしれませんね」
弟がまた一人増えますかね?と、インファは笑った。
「インファさんは、そんなにお兄ちゃん?」
「ええ。たくさん血の繋がらない弟妹がいますよ?」
似合いすぎと言って、エーリュはやっと笑った。
「不思議、リティル君は、本当はいくつなのかわからないの。この前慰めてくれたとき、お父さんがいたら、こんな感じなのかな?って思っちゃった」
「あの人はいろいろ反則ですからね。オレもたまに危ないですよ。ということで、遠慮なく頼ってください。甘えさせてあげますよ?」
「アハハ。ありがとうインファさん。わたしも、風の精霊になりたい……」
「なれますよ?選んでください。あなたはまだ、何色にも染まれます」
「どうやって?」
「心に風を呼び込むだけです」
「それ、風の奏でる歌の歌詞?」
「心に風を 魂に歌を。そういうことですね。ですが、抽象的すぎて戸惑いますよね?これを持っていてください」
インファは、深い黄金色のステップカットのトパーズを手渡した。
「オレの生命力が込められています。オレの妃が作ってくれたモノですが、風を感じるにはちょうどいいでしょう」
それは、身代わり宝石という名の魔導具だった。
インジュが、ラスティを殺すためにエーリュを使うと警告してくれたことを、インファも考えていた。エーリュはおそらく、ジャックに殺されない。しかし、ラスティに何かあれば、大変なことをしでかすかもしれない。
このゲーム、二人のうち、どちらが命を失うかで、真逆の結果を導いてしまう。
感情なく勝つだけならば、今ここでラスティを殺せばいい。
エーリュがラスティを守る選択をすれば、ゲームは三十年後に再び始まることになる。
風の精霊は、自分で自分の死を選べないが、エーリュはまだ風の精霊ではない。自分自身の死を、自分自身の手で導くことができてしまうのだ。
これは保険だ。身代わり宝石は、致命傷を一度だけ肩代わりしてくれる。一度は決断できても、続けては自分を殺す決断はしにくい。
申し訳ないが、ラスティが命を失うとしても、エーリュの命は失わせることはできない。今回でゲームを終わらせることは、ジャックも含め、皆の総意だからだ。
ジャックはいつ仕掛けてくるだろうか。と、インファは考えていた。
オレがジャックなら、エーリュを攫い、安全なところへ閉じ込める。そして、ラスティを誘い出す。ジャックは不死身だ。粘れば、勝つのはジャックだ。
ラスティを殺すその現場に、エーリュさえいなければ、ジャックは消滅という幕引きを、自らの手で行うことができる。
しかし、インファにもまだわからないことがあった。
ジャックにも心が目覚めていることはわかったが、なぜ、消滅することが願いなのだろうか。セドリにとって一番は、ミューリンだったはずだ。彼女の願う通り、この大陸を箱庭にし続けることが、彼の願いなのではないのだろうか。
――早くリティルを、解放しないと……
ラスティに催眠をかけた時、セドリが言った言葉が蘇った。
――それがジャックの願いなのだとしたら父さん、あなたは完全に恋敵ですよ?
リティルの人タラシは今に始まったことではないが、そのことがエーリュとの不和を生まなければいいがと、インファはやれやれと小さくため息をついた。
エーリュをこちら側に引っ張り込むには、風の王との信頼が必要だ。風の王の為、インジュとラスティにはまだまだ働いてもらわなければならないなと、インファは地に足のつかないエーリュを優しく見下ろした。
「エーリュ、この先何があっても、インジュとラスを、信じてあげてください」
インファには、これ以上エーリュを導くことはできなかった。
導けるとするのなら、あの二人。ラスティとインジュだ。
風の精霊となったラスティは、真面目な分だけすでに風の王への忠誠心が高い。
インジュは、言うに及ばずだ。
二人の絶対にリティルを裏切らない精霊が、エーリュを風へと導いてくれることを祈るより他なかった。それができなければ、すでに用済みの精霊であるエーリュは、消滅の危険があるのだ。その結末を、インファも望みはしない。
インファは、相変わらず優しかったが、その優しい微笑みの中に、何か憂うような感情があるような気がして、不安になった。
リティルは未だ動けず、やっと手を繋げたラスティとは冷静になれなくて、逃げてしまっていた。これではいけないと思っているが、何を話せばいいのかわからなくなっていた。
ジャック。あの人も、ラスティなんだなと思った。
そこは、すんなり受け入れられて、とても不思議だ。でも、怖い――
エーリュの背後で何かが壊れる、けたたましい音がした。振り向こうとしたエーリュは、インファに腕を掴まれた。グイと引かれて、背中に隠される。
「ラスの部屋は、ここではありませんよ?ジャック」
逃げなさいと囁かれた。けれども、インファでは今のジャックに勝てないことを、エーリュは知っていた。
「でも!」
インファは、後ろ手に扉を開くと、エーリュを押しやった。
『ボクと戦う?あなたじゃ、ボクに敵わない』
小屋の屋根を破壊して落ちてきたジャックは、ゆっくり顔を上げた。シルクハットの下の顔。今までは見ることのできなかったその顔が、シルクハットを脱がなくても見えた。
その顔は、やはりラスティだった。わかっていたが、エーリュは直視しがたかった。
「あなたの願いを聞いてもいいんですが、風の王はそれを望みません」
『あなたが死ぬことの方が、風の王は望まない』
ジャックは、片手を鋭く振った。その手の爪が、長く伸びた。
『ボクは、手加減できない』
「ええ、知っていますよ?息子が自称殺人鬼ですから。ですが、みすみすエーリュを、わたすわけにはいきません」
「セリテーラ!」とインファが呼ぶと、彼女は硬質な煌めきを発して、空中から現れてインファの肩に飛び降りた。
白い華奢な剣を受け取ったインファに、ジャックは斬りかかってきた。
「インファ!」
インファは、ジャックの片手を剣で受け止めていた。破壊音で気がついたのだろう、リティルとラスティが駆けつけてきた。
それを認めると、ジャックはもう片方の手の爪を伸ばし、インファに感情なく振り下ろしていた。インファは咄嗟に飛び退いていたが、長いジャックの爪に切り裂かれていた。
斬られた衝撃に、膝をついたインファに、ジャックは追撃していた。
「やめて!」
エーリュは、インファとジャックの間に割って入っていた。ジャックの爪がエーリュに届く瞬間、彼は爪を収めていた。エーリュにはなぜか、彼に斬られないという自信があった。そしてそれは、当たっていた。
『エリュフィナ、ボクの願いを叶えて』
ラスティと同じ指が、エーリュの頬を愛しそうに撫でていた。そして、顔が近づく。
彼の口づけは、死の味がした。
――殺したくなかったよ?
エーリュは声を聞いた気がした。その声に、エーリュは無意識に答えていた。
――今まで、ごめんね……
意識を失ったエーリュを、ジャックは抱き留めていた。そして、インファの剣の一撃を躱して、破壊された天井に浮かび上がった。
『ラスティ、ボクは願いを叶える』
「ジャック、どうしても?オレが、大丈夫だって言っても、変わることはないのか!」
この世界を壊すの?ミューリンが愛した世界。今、インジュが愛している世界を、本当に壊したいの?ラスティは、ジャックの瞳を、止まってくれ!と願いを込めて見返していた。
『魔音の郷へ』
その都の名を聞き、ラスティは怯み息を飲んでしまった。ジャックは、そんなラスティの様子に満足そうに、哀しそうに微笑んで空へ踵を返した。
「ジャック!」
翼のないラスティには、彼を追えなかった。
インジュが目を覚ましたのは、深夜を過ぎた頃だった。
あれ?ここどこだ?とインジュは寝ぼけた頭で、しばらく丸太の天井を見上げていた。
セリテーラの魔法で眠らされたことを思い出して、インジュはベッドから起き出した。
リティルを癒すために連日使っていた力と、昼間森を片翼で飛んだために失った力が、最大まで回復していた。
セリテーラ、強力ですねぇと、インジュは、父の事が大好きな、母のことを思い出していた。そんな二人を見ていると、羨ましいなとは感じるんだけどと、インジュは小さく笑った。
部屋を出ると、そこは、共同のダイニングキッチンになっている。このダイニングキッチンを囲むように、部屋が配置されていた。
誰もいなかった。ここに一人でボンヤリしているのもなぁと、インジュは夜の散歩に出掛けることにした。
とても静かだった。この村は、インサーフロー達が滞在しているために、ずっとお祭りムードだった。
こんな時間だからかな?とも思ったが、インジュはすぐに、ああ、違うなと視線を地面に向けた。だって、皆の意識が感じられない。この世界が、終わってしまったとインジュは力なく思った。
「あんたも、俯くことがあるんだ?」
当てもなく、鎮魂像の広場まで来ていたインジュは、像の前にラスティが立っていることに気がついた。
「ボクを何だと思ってるんです?そりゃ落ち込みますよ!この引き金を引いちゃったのは、ボクなんですからね!」
顔を上げたインジュは、ラスティの金色の瞳と自分の視線が交わるのを感じて、僅かに怯んだ。ラスティは、少し寂しそうに微笑んだ。
「インジュのせいじゃない」
「そんな言葉じゃ、ぼくは煙に巻けないです」
「完璧主義者」
「悪いです?そうしないと、勝てなかったんだからしょうがないでしょうが!」
みんな歌上手すぎですよ!と、インジュはラスティを睨んだ。
ここで歌の話?骨の髄まで、インサーフロー?とラスティは、苦笑した。
「この世界が、インジュは、好きだったんだ……」
「はい。楽しかったです。ボクはここで、初めて生きることができました。みんなの為って偽って、死ぬ以外の道があることを、教えてもらいました。兄さんの書く歌詞に、バンドが奏でてくれる曲に、救われてたのは、ボク自身です」
それだけじゃないだろ?ラスティはそう思った。それだけなら、これだけインサーフローは愛されていない。インジュの歌声に、皆は確かに力をもらっていた。癒やされていた。
明るい声で、空を高く飛べるようなその歌声で、みんなを笑顔にしてきた。
魔音の郷での屈辱の記憶から、ラスティを解放してくれたのは、インサーフローの歌だと、今言いきれるから。音々で、不慣れな生活の中でも何とかやってこられたのは、インサーフローの前向きな歌があったからだ。秘められた毒に、共感できたからだ。
あんたの声に、ずっと救われてたよ?と、ラスティは涙を堪えていた。
歌には力がある。ラスティはそれを知っている。
伝わるかな?素人のオレの歌で。インジュの歌声には届かなくても、魅了したいわけじゃない。心が、伝わればいいからと、ラスティは歌い始めた。
――風の声が聞こえたなら 瞳を空へ向けよう
――あなたの背には 金色の翼がある
――大丈夫 ぼくが そばにいるよ――……
ラスティは、インサーフローを、デビューのときから知っていた。
インサーフローのデビュー曲『風の翼』。寄り添うような優しい歌詞が、たまらなく好きだ。
ライブを見に行ったとき、インジュの抱き寄せるような腕の振りが、なぜか凄く気になった。男性だと知っていたのに、インジュに会ってみたいと思った。護衛の任務につけば、会えるかもしれないと淡い夢を抱くほどに。しかし、ハーディンには今まで「おまえは適さない」と言われていた。
風の王・リティルが契約者に選んでくれて、ミューリンタワーに入り込めと言われて、願いが不意に叶ってしまった。諦めていたラスティには心の準備ができていなく、舞い上がってしまって、リティル達の前でインファと、もっと打ち合わせしなければならなかったのにできなかった。
翌日、緊張しながら塔に上って、やっと、インジュに会えた。
なのに、インジュは馴れ馴れしくて、ちょっとイメージと違って、抱きつかれなかったが、触れてくる指が怖かった。憧れていた人を、会いたいと思っていた人を、恐れてしまった。
彼は精霊だ!リティルと同じ、超越した存在だと言い聞かせても、なぜか対等な位置からインジュを引き上げられなかった。友人になりたいと、大それた夢を見た。
――空が狭くとも 背中の翼 はためかせて
――あなたが飛ぶというのなら
――ボクは ボクも 風の翼で飛ぶよ
――一人にしないよ ボクは いつだって あなたといる――……
インジュの抱き寄せるような振り。あれは、リティルがインジュに与えた、慰める仕草なんだと、わかった。
頭をそっと抱き寄せて、肩貸してやるから、泣けよと、リティルはインジュにそうやって寄り添ってきたんだなと、思った。
「ボクの願いは、いつも絶対に叶わないです!」
踊りとは呼べない、ちょっとした腕の振りまで、ラスティは完璧にコピーして見せた。ここにはない、マイクスタンドさえ見えるようだった。インフロバンドトリオとインファのピアノの奏でる曲までも聞こえるようだった。
「インジュ……もうこれしか、この世界を残す方法がない」
リティルに、命を無駄にしないと誓ったばかりだった。けれども、この世界のシステムの一部であるラスティには、これ以上どうしようもなかった。
ジャックがエーリュを攫って行って、数時間後、森の人々は意識を失っていった。アコやコール、インフロバンドトリオも例外なく眠りに落ちていった。
これは、この世界の力を循環させるシステムが、不具合を起こして、力の供給が止まってしまったことで、起こったことだった。
早くゲームを終わらせて、この地を解放しなければ、手遅れになってしまう。ラスティは、追い詰められてしまっていた。
ジャックは「魔音の郷へ」と言葉を残していった。ラスティは、魔音の郷へ行く前に、インジュに伝えてから行こうと決めていた。ずっと裏切り続けた友人に、最後くらい怒られても受け入れられなくても、向かい合ってそれで、死にたかった。
「なら、どうして『風の翼』だったんです?ボクに別れを告げる為だったら、このチョイスはないです!」
ラスティは苦笑した。
「インフロの歌に、別れの歌なんてないじゃないか。この歌は、オレとインサーフローが出会った歌だから」
「そんなの、デビュー曲なんだから当たり前です!この歌、か・な・り売れましたよ?ボク達とファーストコンタクトな人達、大勢います!特別なんかじゃ、ないんですよ!」
そう怒鳴って、でもインジュにはわかっていた。ラスティは完璧にコピーしていた。彼が、インサーフローを好きなことは知っていたが、その中でも『風の翼』が特別な歌だと、大事にしてくれていることを、感じないわけはなかった。これでも、インジュはプロの歌い手なのだから。拙くても、歌に乗せて込められた想いは、受け取りたくなくても、受け取れてしまう。
「オレには、特別だったんだ……歌ってるあんたには、近づけた。あんたの歌声の中でなら、オレは人混みでも平気だった!」
コンサートホールと違って、ライブハウスではどこにいても人と触れてしまう。それでも、インサーフローに会いたくて、壁際の一番後ろから見ていた。遠く、ステージ上の手の届かないインジュを、真っ直ぐ見つめていた。
「腹の立つ人ですねぇ……インフロのインジュは、ボクとは違います。ボク、ミュージシャンですよ?偽って作ってる、虚像です!ラスは、本物のボクには近づかなかったじゃないですか!」
たかが、男だって理由だけでボクだけ遠ざけた!とインジュは、その柔らかな切れ長な瞳で、恨めしげにラスティを睨んだ。「兄さんとリティルは平気なくせに!」とインジュは叫んでいた。本当に、そうだと思う。インジュだけが、対等で、対等だったから、過去が邪魔をして近づけなかった。
「ごめん……でも、あんたの愛した世界、オレが残す。今、ジャックが暴走してシステムダウンしてる。このまま力の供給が止まると、みんな死ぬ。アコも、コールも、雪夜も、ソエルもノートンも!みんなみんな!オレなら、もう一度、みんなを目覚めさせられる!選んで、インジュ!みんなを選んで!あんたは、風の城の中核を担う鳥だろ!」
背中を押してよ!とラスティはインジュに懇願していた。
「ボクは下っ端です!言ったでしょう?ボクは風の王の手足です。ここに来たのは、ただ、歌が上手かったからです。選ぶのは、ボクじゃないです」
だから、嫌なんだ。
風三人の背中を見ているから、あの場所に行きたくない。
風の王の盾なら、その場所にいなくてもいいでしょう?だって、ボクはその場所では役に立たないから。
何もできなくて、ただ傷ついて、風三人に慰められるしかなくて……。惨めで、一人で飛べない半端者で、困らせてばかりいる。
「インジュ、オレは魔音の郷に行く。エーリュを取り戻さないといけないから。インジュ、エーリュに広い世界、教えてあげてほしい。あんたにだったら、託せるんだ!」
だが、インジュは一歩を踏み出すことを躊躇わない。例え、願いが叶わないことをわかっていても、心のままに、その足を踏み出すことを躊躇わない。
インジュは、キッとラスティを睨んだ。
今までは、願っても得られない事が決まっていた。だが、今回は違う。
放さない……放してやるものか!この、死にたがりの友人に、生きたいって言わせてみせる!と、インジュは躊躇わずに、一歩を踏み出した。
「嫌です。だったらエーリュも連れて逝きなさいよ。二人で作った世界でしょうが!二人で終わらせろってもんです。それに、何エーリュの事知った気でいるんです?ただ一回キスしただけでしょうが!エーリュが好きな物の一つでもあなた言えますか?恋愛舐めるなよ!です」
「……初めからあんたなら、彼女を幸せにできた。オレは、ミューリンの騎士でしかない。セドリが、恋愛感情持ってたら、こうならなかったのか?オレが、エーリュを好きにならなければ……セドリだったら!ここに目覚めたのが、ラスティじゃなかったら、よかった……!」
「今度は自分否定です?安いんですよ!ラスは、命の価値が低すぎです。あなた、旋律の精霊でしょうが!十五代目風の王・リティルの配下に下ったんでしょうが!ボク達の王は、救うためなら容赦ないです。ボク達の絶望が、あの人殺しちゃうんです!前向きなさいよ!ジャックを殺したのは、あなたの過去じゃないです。自分を愛せない、その心です。ボクは諦めません!落ち込んでも、泣いても!諦めません!ボク達の王が、諦めない限り、抗います。だって、ボクは風の王の手足ですから!」
「君は光 まばゆい光。ホントにインジュは、光り輝いてる……」
その輝きに、憧れて、救われて、オレが消えてしまっても、その輝きを失わないでと、ラスティは願った。陰ってほしくない輝き。その輝きが、この命が失われたせいで陰らないでと、ラスティは祈るしかなかった。
オレだって嫌だ!でも……もう、どうしようもないじゃないか……。ラスティは言わなかった。喧嘩して、そのまま別れるとしても、それは、インジュとの今までと変わらないやり取りで、オレとインジュらしくていいんじゃないか?とラスティは思って、小さく笑ってしまった。
「不愉快です。戦う前から諦めてる人に限って、そう言うんです。強くあろうとしてるに決まってるじゃないですか!みんな弱さを抱えてます。リティルだって、お父さんだって!君は強いねって、どうして傷つけるんです?バカじゃないですか?ボクが強く見えるんならそれはおまえが、努力もなく弱すぎるんですよ!まだ、信じてくれないんです?弱いんなら、一人で立てないなら、頼ってください。ボク達がいます!さあ、来なさいよ!ラス!」
インジュが怒った瞳で、ズイッと手を差し出した。彼との距離は、ラスティが近寄らなければ触れられないほどあった。
――希望をください。続いていけるという、希望!エーリュと三人で、笑える未来!
エーリュは、インジュにとって友達だ。それは、ラスティに感じるモノと同じで、二人が上手くいくといいなと、思っている。ここでは、決して終わらせたくない願いだ。
友愛――それ以上でも以下でもない。二人が精霊だから、失わずにすむ想い。
ラスティがここで、手を取ってくれなければ終わってしまう。
手を取ってくれなければ、インジュは助けられない。選んでもらわなければ、意味がない。
――終わらせるつもりなら、希望なんて持たせないでくださいよ!期待した分、こっちはダメージが深いんですよ?その点、彼女達は優しかったです。ボクとの未来、決して夢見てくれませんでしたから
インジュは息を吸った。
インサーフローの歌の中なら、怖くない、近づけるというのなら、それが本当なら、この手を取ってと、願いを託して。
──心に 風を 魂に 歌を 君と築く未来が 今 目の前にある
──さあ わたしに 手を伸ばして 掴んだ手が まばゆい羽根に変わる
──恐れるな 傷ついても 誓え 瞳の輝きを失わないと――……
明るく風の奏でる歌を歌うインジュの瞳から、涙が流れ落ちた。
エーリュは、一応敷物が引かれてはいるが、ベッドとしては堅いその場所で目を覚ました。
視線を巡らせると、窓のないこの部屋は、レンガ造りで天井はドーム型であることがわかった。見たことのない作りの部屋だった。
静かだった。まるで、寝静まっているかのように。
窓のないこの部屋では、今がいつなのかわからない。でも、もう、この世界の時が止まってしまったことを、エーリュは感じた。
『システムダウンした』
音もなく、ジャックが舞い降りた。
エーリュは、体を跨いで立っているジャックを見上げた。
『早く、リセットしなければ、このまますべて崩壊する』
「なら、どうしてわたしを殺さないの?」
ジャックは首を横に振った。
『今まで、ミューリンの願いを叶えてきた。だから、今度ばかりはボクの願いを叶える』
「あなたの願いは、何?」
ジャックが、エーリュの上に倒れてきて、エーリュは身を横たえるしかなかった。ラスティと同じ顔が、目の前にあった。
『ボクの願いは、ラスティの願い。教えてくれたのは、あんただった』
「ラスティと戦うの?」
『ラスティは風の精霊だから、自分で死を選べない。ボクは不死身だから、死ねない』
自分自身の死?嘘……ジャックの願いは、世界の終わりじゃなかった!と、エーリュはやっと知った。
「本当に、それがラスティの願いなの?あの人は、未来を夢見てたのに!インジュと、友達になりたいって、だから、辛い過去を、話したんだって、そう言ってたのに!」
『あんたが好きだ』
ジャックの顔が近づいてきた。エーリュは逃げられずに、唇を奪われるしかなかった。
『インジュは友達だ。だから、この世界を守る』
離れたジャックの瞳が、哀しげに笑っていた。
『ボクは、意志のないミューリンの騎士だった。彼女だけが、ボクのすべてだった。それ以上の心はなかった。ボクは、リティルと出会って、変えられた。ラスティは、ボクの反乱の意志。ミューリンから、この世界を奪い取る為の刃だった。抗えるはずだった。風の王のもとへ、帰りたかった』
「ミューリンを憎んでるの?」
ジャックは首を横に振った。
『すでにいない彼女に、思うことは何もない。彼女も、愛されたかっただけ。愛してくれた者を、守りたかっただけ。ボクには与えてあげられないから』
歌に溢れる、歌う緑の魚大陸。舞い降りた二人の精霊を、皆は受け入れて、たくさんの歌を捧げてくれた。終わりがあることを、ミューリンが気がつかなければ、彼女が行く末を見守る、風の精霊だったなら、この大陸を、箱庭にはしなかった。
『あんたが、風の精霊だったら、よかった』
その言葉に、エーリュは動揺した。
「わたしが、引き金……なの?」
『ラスティは、風の精霊だ。風は、世界を憎まない。与えて、与えて与えて慈しむ。リティルは慈愛の王。彼の王の下、世界は優しく守られてる。ラスティは、この世界を壊そうと、憎んだことは一度もない。憎んだのはあんただ、エリュフィナ。流れ込んだ憎しみが、システムを犯した。ラスティは、自分のせいだと悔やんでる。あんたを、傷つけたからこうなったから』
「わ、たしが……」
『インジュが、愛してる世界、ボクが守る。インジュは……友達だから。エリュフィナ、あんたを好きだから、殺せない』
「ジャック!」
ジャックはエーリュの上から飛び立っていた。エーリュが慌てて体を起こす頃、バタンッと音を立てて、鉄の扉が閉まってしまった。
「ジャック……!ごめんなさい……!」
泣く資格はないのに。エーリュは泣くしかなかった。
――怒らない!泣かない!そんな必要ない!わかってくれ!オレは、この世界が!
ラスティが、心を全力で偽って叫んだ声が耳に蘇った。セイレーンに嘘は通用しないのに、ラスティは、必死に訴えた。
つけられた傷は、癒えることはないのに、何でもないと叫んで、エーリュが代わりに憎まないように守ろうとしてくれた。
思えば、彼の心に、世界に対する憎しみはなかった。ただ、傷つけられた痛みだけ。
「わたし……風の精霊に、なれない……」
そんなラスティの心を、エーリュは裏切った。セドリガーはセイレーンを護る者。ラスティと共にエーリュのセドリガーになったジャックは、エーリュの憎しみに反応して、風の精霊の心との狭間で混乱してしまった。そして、この世界の要であるジャックが迷ったことで、システムに不具合が生じ、機能を停止するまでに至ってしまった。
何も動かない部屋で、泣いていたエーリュは、かすかな風を感じて、服を探った。スカートのポケットには、インファがくれた宝石があった。
温かな風を感じる、インファの気配のする宝石。
――エーリュ、この先何があっても、インジュとラスを、信じてあげてください
インファの優しい声が蘇った。
二人は抗う?これ以上何を抗えるというのか……。暗い気持ちは浮上できなかった。
「リティル君……」
エーリュの脳裏に、明るく笑う風の王の姿が思い出されていた。ここを去る前、ジャックは泣いていた。風の王のもとへ、帰りたいと言った言葉が、彼の本当の願いなのだとエーリュは唐突に思った。
どうすれば、その願いを叶えてあげられる?
ここで、エーリュが命を絶ったのでは、ダメだ。
ゲームは三十年後に持ち越されて、ジャックもラスティもこの地に留め置かれる。
どうしたら、二人を殺し合わせずに、世界を救えるのだろうか。
悩めるエーリュは、顔を上げた。
そして、探すように天井を見上げた。
歌が聞こえた。
瞳を閉じて、耳を澄ませる。
それは、インジュの歌う、風の奏でる歌だった。
ジャックは、戸惑っていた。
魔音の郷は、ミューリンとセドリがこの地に降り立ったとき、彼等のために築かれた神殿だった。
密林の中に、突如姿を現す、レンガ造りの都市。
ジャックは、動かない左腕を腹の前に吊って固定した彼と、対峙していた。
ピラミッド型に積まれた屋根の乗っかる、地上から数十メートル続く外階段を上った先、最上階の広場で、ジャックはリティルと向かい合っていた。
「よお。やっと歩けるようになったぜ?」
『何をしにきた?風の王』
「ああ?そんなこと、ゲームが始まった時から変わらねーだろ?殺し合いに来たんだよ。ジャック」
『片腕で?』
「ああ」
『どうして?』
他に戦える者がいるじゃないかと、ジャックは言いたげだった。そんな戦う相手を選り好むようなジャックの態度に、リティルは苦笑した。
「おまえ、喋るようになったな。ゲーム中はほぼ喋らなかったのにな」
『今の状態を、わかってないのか?』
「システムダウンしてるな。もう、一刻の猶予もねーな」
『だったら!』
「ああ、始めようぜ?」
『リティル!』
「ハハ、おまえに名前呼ばれたの、初めてじゃねーか?ジャック、ラスティはわたせねーんだ。あいつを殺すなら、オレを殺してからにしろよ!」
――あいつは願いをちゃんと言えたぜ?おまえも、素直になれよ。ジャック
リティルは右手に刃の長い刀を抜いた。それを見て、ジャックの両手の爪が伸びた。
「ジャック!おまえの願い、オレが叶えてやる!だから、言えよ!おまえの願いはなんだ!」
刃の長い刀でも、ジャックの長い十本の爪を防ぎきれない。リティルの体に、赤い筋が増えていった。リティルの、動かない左腕を固定していた布が切り裂かれて、傷ついた腕がぶらりと垂れ下がった。
『リティル!もう……!』
ジャックの顔が歪んだ。リティルの気迫がもの凄くて、ジャックは戦線を離脱できなかった。ジャックの殺戮の衝動が、退却を拒んでいた。
「泣くくらいなら、教えろよ!言うだけタダだろ?」
これ以上戦ったら、リティルを殺してしまう。ジャックは手を止められずに泣いていた。
二度の失敗のあと、セドリはもう、リティルは来ないと思った。
こんなゲームに付き合わなくても、風の王である彼ならば、この世界を終わらせられる。強制リセットをしてこの大陸を一から作り直せばいいのだ。
なのに、リティルはまた来た。そして、オレの他に、二人の精霊を関わらせてくれと、言ってきた。構わないと答えると、リティルはありがとな!と言って、明るく笑った。そして、今度こそ、絶対に解放してやるからな!と前向きな瞳でそう言ってくれた。
そんな彼の瞳が、世界を狭くしていたセドリの心を動かした。
彼が待機場所から去った後、セドリは、ラスティとジャックに分かれた。
そして二人で、このゲームを終わらせて、風の王・リティルの下に帰ろう!と、誓った。
ゲームが始まってしまえば、この記憶はなくなってしまう。それでも、ジャックは自分の半身を信じた。ラスティなら、リティルを助け、ミューリンを精霊に戻してくれると信じていた。
セドリは初めて、ミューリンの想いを無視したのだった。
ラスティは抗ってくれた。でも、もう……ジャック自身も、目覚めてしまった心をどうしようもなかった。心などない殺人鬼の自分にも、心を呼び覚ましてしまうとは、ミューリンの作った、セイレーンとセドリガーというシステムは、曲者だった。
――ミューリン……君はいつだって、ボクを翻弄するね。今度ばかりは、君を恨んだよ
エーリュが好き。インジュも好きでは、もう、導ける結末は一つしかなかった。
ジャックは、ラスティも同じ気持ちだと信じて、半身を待っていた。
魂の願いを捨てて、二人に未来をわたす。ラスティと二人なら、それができるから。
なのに、今目の前に立ったのは、満足に戦えないリティルだった。一人で来た彼の姿。彼が皆を出し抜いたのは、何となくわかった。
彼がこういう王だということ、わかってるはずじゃないのか?とジャックは、簡単に出し抜かれたラスティに絶望した。
今この魂の願いを打ち明けて、それで何になる?けれども、剣を退いてくれないリティルに、聞いてほしかった。この願いが、リティルの心を、優しい彼を傷つけるとしても、あなたを好きだという気持ちを、受け取ってほしかった。
壊れられずに泣くしかなかった暗闇に、光をくれたこの小柄な風の王に、受け取ってほしかった。例え、その願いが叶わなくとも。
『ボクは……あなたの下に帰りたい……風の王・リティルの下に、帰りたい!』
リティルはニヤリと笑った。それが聞きたかったんだよ!と言いたげに、リティルは絶望しない瞳で、真っ直ぐに笑った。
「ああ、その願い、叶えてやるぜ?」
少し離れたリティルの背後に、片翼の天使が舞い降りた。怒ったような顔でこちらを見つめる、女性のように柔らかで美しい彼に、一瞬、気を取られていた。
「ジャック、待ってるな!」
え?ジャックの爪は、リティルの小さな体を切り裂いていた。ジャックは、血の赤を追って、咄嗟にリティルに手を伸ばしていた。
「陛下に……触るんじゃねぇ」
地の底から響くような声だった。ジャックに切り裂かれて、空へ放り上げられたリティルの体を受け止めたのは、インジュだった。
「オレはエンド。すべてに、終わりをもたらす者だ」
バサッと、エンドと名乗ったインジュの背に、大きな金色のオウギワシの翼が生えた。
なぜ?このゲーム下で、精霊達は大幅に力を制限され、霊力が無尽蔵に湧くインジュも、その恩恵を受けられずに、翼を失っていた。そのはずなのに、白目を赤く染めたインジュは、無理をしている気配なく、重傷を負って、意識をなくしたリティルを抱いて、悠然と立っていた。
彼の小さな体からは、血が止まらずに未だ流れ続けて、エンドの服をも赤く染めていた。
エンドは、リティルの口から流れ落ちた血を、その綺麗な長い指で拭い取った。
「陛下はな、あの軟弱王子が選ぶまで、待ってやったんだ。オレしか救えねぇからな」
こちらを睨むエンドから、怒りがオーラとなって立ち上っていた。明らかに、リティルを傷つけたジャックに、殺意があり、怒り狂っている様が見て取れた。しかし、彼はこちらに攻撃を仕掛けてこなかった。
「インジュ!リティル!」
エンドに睨まれて、身動きがとれなかったジャックは、彼等の背後の大階段を駆け上ってきた者を見た。
ラスティだった。
「やっと来やがった。遅せぇんだよ!軟弱王子」
半歩振り返り、エンドは腕の中で血を滴らせているリティルを、ラスティに見せつけた。
「リティル……!どうして!」
息を切らして、転がるようにラスティは、駆け寄ってきた。
「おまえが、インジュを選んだからだ。責任とれよ?」
ラスティは、上から恐ろしい声をかけられて、やっとエンドを見上げた。
「インジュ……?」
「エンドだ。インジュはしばらくねんねだ。インジュが起きたとき、世界が終わっていやがったら、ただじゃおかねぇ」
もう一人の天使が、エンドの隣に舞い降りた。イヌワシの片翼を生やしたインファは、エンドの腕からリティルを受け取った。そして、エンドはリティルの血で汚れた右手を、ラスティに向けた。
「ちゃんと受け取ってやれよ?陛下はもとより、インジュも頑張ったんだからな!」
トンッと、エンドの尖った爪の生えた、凶悪な手がラスティの胸に触れていた。
何か、法外な力を感じた。そして、その力をラスティは瞬時に理解していた。ラスティは、戸惑いながらエンドの顔を見上げた。
エンドは、赤く染まった瞳に、フッと笑みを浮かべていた。
彼の中に、インジュを感じた。その笑顔が揺らめいて、幻のように消えていく。まばゆいキラキラした金色の光が収束し、ラスティの目線の高さに、涙型の美しい宝石が浮かんでいた。
インジュだ。そう思った。これが、原初の風と呼ばれる、風の至宝なのだとわかった。
ラスティは、その煌めきに触れられなかった。涙の気配を感じて、まだ、泣いてはいけないと思った。
ラスティは、数時間前、インジュに、オレが消滅することでしか、世界を救う術がないと打ち明けた。それをインジュは拒んだ。頑なに。
そして、助けてやるから、この手を取れと言ってくれた。
取れないよと思った。
けれども、風の奏でる歌を泣きながら歌ってくれたインジュに、夢を見ることは、許されるんじゃないかと思ってしまった。
結末は変えられなくとも、心を偽る必要はないんじゃないか?インジュの手を取っても、いいんじゃないかと、我が儘に思ってしまった。
――あのー、ボクに触って平気なんです?
気がついたら、インジュに抱きついていた。
――ごめん、勢い余った
インジュの方が戸惑っていた。ハアとため息をつきながら「ボク、リティル以外には抱きつかないですよぉ?」と困りながら、それでもインジュは、「ラスにしては、がんばりましたねぇ」とポンポンッと背中を叩いてくれた。
ラスティは、目の前に浮かんでいる、光を失った原初の風を、両手に受けた。
「ラス」
リティルを横抱きに抱き上げ、ジャックを牽制していたインファが名を呼んだ。ラスティは、インファに頷くと、インジュの父である彼に、原初の風を託した。
こんな結末を、導けるなんて思わなかった。
インファの影からラスティが進み出ると、ジャックはもの凄い瞳で、こちらを睨んでいた。
リティルを傷つけさせたことを、怒っているのだ。彼の願いは、風の王・リティルの配下の精霊として生きることなのだから。
「ジャック、終わりにしよう」
『ラスティ!』
怒りに燃える、ジャックの爪が、ラスティの胸を貫いていた。