四章 ディープフォレスト
ダメだ!ダメだよ!ミューリン!
彼は、暗闇の森の中を走っていた。木々が密集しすぎて、翼は使い物にならなかった。なぜボクは、ハヤブサなんだろう。風の王のような、オオタカだったら、こんなところ、ずっと早く移動できただろうに。
嘆いている場合ではない。急がなければ、鼓動が……すべての者の鼓動が奪われる。
止めなければ!何があっても。
ボクは末端でも、風の王配下の風の精霊だから。すべての者の命を守る義務がある。
なぜ、こんなことに?
人はなぜ、永遠という時間に恋をするの?移り変わることを、拒むの?
ミューリン、それは永遠とは言わないよ!
やめて!やめて!ボクは君と、一緒にいたいのに!
ハッとラスティは目を覚ました。
「大丈夫か?」
この声は……リティル?ラスティは、ぼやけた視界で、眩しい光を遮って顔の上に影を落としている人影を見上げた。
「目が――見えない……」
「大丈夫です。それ、一時的です。何度か瞬きしたら、見えるようになりますよ。まったく、自分の特性わかってないんです?闇魔法中に光魔法とか、愚の骨頂です!反属性ですよ?反・属・性!わかります?六属性フルスロットルなんですから、気をつけましょうよ!」
この声は、インジュ?ラスティは、彼に言われた通りに、ゆっくりと瞬きした。徐々に、白くぼやけた視界に、白以外の色が戻ってくるが、しばらくは見えそうになかった。
「リティルどうします?あの爆発で兄さん達と、はぐれちゃいましたし、道、わかります?」
インジュは「咄嗟に風の障壁、使ってなかったら危なかったです」と、ホッとしていた。
ラスティは鮮明になる視界と同時に、徐々に何があったのかを思い出していた。
アコとコール、エーリュを連れて、リティル達とこの森――亡者の森に、ミューリン遺跡群を巡る為に来たのだ。そして、入り口を入ってすぐ、亡者と混戦になった。ところまでは思い出せた。だが、肝心な部分はまだこの視界と同じく、霧の中だった。
「ああ、イチの村までもう少しだ。インファ兄も村を目指すはずだからな、合流できるぜ?」
「あっちは、兄さんが一人で戦うしかないですよねぇ。コールは、歌姫のお守りですし」
「コールが歌姫二人のお守りしてくれたら、インファ兄気兼ねなく戦えるじゃねーか。大丈夫だ。インファ兄なら」
二人の会話を聞いていたラスティは、もう、普段の彼等に戻ってもいいのでは?とふと思った。
「もう、演じなくてもいいんじゃ?」
「何言ってるんです?森にも人、住んでるんですよ?この関係で行くに決まってます!ほら、リティルこのしょうもない人、おんぶさせてください。一人で戦えますよね?」
「ああ?ダークムーン舐めるなよ?亡者くらい、どうってことねーよ」
いや、ダークムーン以前にあんたは風の王――とラスティが心の中でツッコミを入れていると、誰かに体を起こされるのを感じた。体の前面に他人の体温を感じ、インジュに背負わされたことを悟って、ラスティは体中が泡立った。
「わっ!自分で歩けるよ!」
嫌だ!と心に強い拒絶が――
「うるさいです。とっとと行きましょう」
見えない視界で、体の全面に感じる他人の体温に心が混乱したが、インジュの容赦のない怒りの声に、ラスティは冷静さを取り戻した。軽い拒絶だけで済んだことを、ラスティ自身戸惑ったほどだったが、不思議と大丈夫と安堵している自分がいた。
「ラスティ、インジュ兄に甘えとけよ。あと、お礼言っとけよ?インジュ兄がいなかったら、一回死んでたぜ?」
そっと足に触れてくる感触とリティルの苦笑が、下から聞こえてきた。まだ視界はぼやけて、体は重かったが、リティルに触れられているだけで何か、守られているような感じがして、僅かに残った緊張が溶けていく。ボクは、何したんだ?と、ラスティはインジュの背中で目を閉じた。
リティルは、隣を歩くインジュに背負われたラスティを盗み見た。念のため、ラスティの体に手で触れて、契約者との繋がりを強める方法を使い、ラスティの心を守ってはいるが、過度な拒絶はなさそうだ。リティルは内心ホッと胸をなで下ろしていた。ラスティの心には暗闇がある。それを克服することは難しいだろう。だが、希望はあるんじゃないのか?とリティルは怒りが収まらないインジュを見上げたのだった。
ラスティが魔導事故を起こす数時間前、リティル達は森へ向けて音々を立っていた。
三強の共演した歌番組が無事終わり、世間はバトル音楽祭Aランク⇔Bランクに移行した。それによって、フレイムストームとエリュフィナも露出が著しく減る。それを利用して、森へ行く算段になっていたのだ。
都と森までは、街道で繋がっている。
街道は、小石を敷き詰めて作られた平らな道で、都をグルリと囲む壁にも使われている、守護石が点々と置かれている。これは、邪妖精や亡者を、寄せ付けなくするためのものだった。
「おまえ、頑なだな。そんな恰好でピクニックって、森舐めすぎじゃねーか?」
アコは、いつものゴスロリファッションで、スタスタ歩いていた。靴だけは、厚底ではないようだが、この恰好は街道でも目立っていた。
「心配いらないわよ。あたし、これでも魔導士ですもの。リティル君、目立ってるのはあたしのせいじゃないわ。あなたのお兄さん達よ!ねえ?セドリガーのインサーフロー!」
アコは、今一番注目集めてるのはインサーフローだと、注目を集めていることは、あたしのせいじゃないと言い張った。
「不本意な殿堂入りは辞退しましたよ。オレ達が目立つのは、ある程度仕方ありません。三強がこうして揃って、歩いているんですよ?注目を集めないわけはありません」
インファは塔の中にいるのと変わらない様子で、一切顔を隠すことなく、道行く人に声をかけられては、手を振ってやっていた。インジュも、トーク時のあの無害そうな、人形のような笑みで、微笑みを振りまいていた。普段のインジュを知っているだけに、この人役者だわ!といつも思う。
「堂々としてるわね。そうね、コソコソするのは趣味じゃないわ!どこへでも行ってやるわよ!」
「お嬢、そんな怖がらなくても、オレがそばにいるぞ」
コールは、今日はダークムーンの制服である、裾の長い黒い上着を着ていた。肩には彼の妖精である、青い水玉が内部で踊る、丸いウサギのメルルが乗っていた。いつもは、影のようについていたが、今日は護衛であることをアピールするように隣を歩いている。
ちなみに、ラスティはいつものことだが、リティルもダークムーンの制服を着てきていた。
フレイムストームのアコがセイレーンであることは、アコとコールの胸に秘められたことだった。もともとコールは、フリーのベーシストとして塔に所属していた。彼はダークムーンでもあり、自身が魔導士であることは公表している。
アコに出会ったのは、実はほんの二年前だった。
当時、Dランクだったフレイムストームは、頭角を現しかけていた時期で、けれども何かが足りずに、その年のバトル音楽祭Cランク⇔Dランクは圏外だった。フレイムストームはベースが安定せず、メンバーが脱退を繰り返していた。コールはたまたまその収録に、たまたまフレストの曲が弾けたために参加したにすぎなかった。
そして、事件は起きた。歌うアコに向かって、ステージセットの、バラの花が巻き付いた白い柱が、故意に倒されたのだ。コールはそれに反応し、難なくアコを守った。コールは、アコを守るだけでなく、その場で犯人をも捕まえた。それは、ダークムーンなら難なくできる、仕事だったなら難易度の低いものだった。
犯人を警備に引き渡し、さて混乱中の現場に戻るかと振り返ると、そこにアコがいた。ジッとこちらを見上げる小柄な少女。フレイムストームの事は知っていたが、その程度だった。なんだ?この娘、案外可愛いんだなと、コールは初めてちゃんとアコを見た。
――あなた、あたしのセドリガーだわ
セイレーンの選定に、セドリガーは逆らえない。なぜかはわからないが、そういうものだった。アコにそう言われたコールは、そのことをすんなり受け入れていた。そして、ほぼ初対面だったこともあるが、生涯守り抜くと、言葉にはせずに心の中で誓った。
――へえ?吊り橋効果じゃないだろうな?お嬢さん
――あたしも驚いてるわよ。セイレーンとしての覚醒も、ついさっきだもの。コール、色々教えてくださる?
スッとアコは、右手を差し出した。
――そりゃ、手取り足取りな。お嬢さん
コールはアコの手を取ると、そっとその手の甲にキスをした。そうして、二人は始まったのだ。
いつも勝ち気なアコが、コールを見上げてしおらしく頷くのを見て、リティルは思わず声を荒げてしまった。
「イチャイチャするなよ!こっちは、何年も逢ってねーのに!」
そう言ってしまって、あ、大人げなかった!と、頭を抱えた。コールは、そんなリティルの頭をポンポンと叩いて、笑った。
「妬くな妬くな。リティルは?王妃様はどんな人なんだ?」
イチャイチャって、手も繋いでないと、コールは苦笑した。
「どんなって……可愛くて美人で、癒やしのプロなんだ。歌が上手くて、笑顔が――って、何言わせてるんだよ!」
心の中のシェラが、名を呼んで、花がほころぶような微笑みを浮かべた。逢いたいな。素直にそう思って、リティルは空を見上げた。シェラを想うと、胸が痛くなる。切なくて、泣きそうだ。もう、何百年も一緒いるのに、想いが色褪せることはない。褪せるわけがない。彼女にずっと、当たり前のように、この命は守られているのだから。今彼女の助力が得られなくても、シェラを想えば、生きて帰れる。そんな根拠のない自信が生まれ続ける。
「リティル、シェラと凄く仲がいいんです。見てるこっちも幸せになれます」
ボクも逢いたいと、インジュは幸せそうに笑った。リティルは恥ずかしそうに「やめてくれ!ホントの事だけど……」と顔を覆っていた。
「そりゃ、この状況、寂しいな。インファのお妃様は?」
「オレにも聞くんですか?」
お鉢が回ってくるとは思っていなかったらしく、インファは若干戸惑っていた。
「そりゃ、流れってもんだろ?」
言えよ!と、コールはインファの首に後ろから腕を回した。コールは正体を明かされた今も、接し方を変えなかった。それよりむしろ、前より打ち解けていた。
「はあ、そうですね……極度の照れ屋で、何百年も人前では、隣にすら座ってくれませんでしたね。オレが不用意に近づこうものなら、悲鳴を上げて逃げられてしまいますからね、近づいてくるのを、ひたすら待っていましたよ」
「インファ兄の妃な、インファ兄の顔が苦手なんだよ。綺麗すぎる!とか言って、昔はしょっちゅう過呼吸になってたんだぜ?」
「……それ、最初は、政略結婚かなんかだったのか?」
「馴れ初めが気になるわね」
インファの顔が苦手なんて、そんなことがファンクラブの耳に入ったら、暗殺されそうだと、コールとアコはインファを窺った。
インファは苦笑すると、弁解した。
「だいたいそう言われるんですが、きちんと恋愛してますよ?オレが怪我をして帰ると、驚くほど泣かれるので、愛されていると思いますけどね。セリテーラは、妻が作ってくれましたし」
インファの肩に器用に乗っていたセリテーラは、名を呼ばれて、スリスリと頬ずりした。
「セリテーラは強力な妖精だと思ってたけど、奥さんの作だったのか。あの隠さない虫除けは、そういうわけだったんだ?」
インファに、そういう感情を持って近づこうものなら、セリテーラにはわかるらしく、気配が、虎かライオンでもいるのか?と思えるくらい殺気立つ。インサーフローの護衛をしていたとき、それに遭遇したラスティは、腰が抜けそうになるのを、何とか耐えた。あの、範囲は狭いが全方位の、食い殺されそうな殺気の中、インジュは涼しい顔でいた。凄いなと思ったことを思い出して、まだ、彼とはまともに言葉を交わせていない事実も、同時に思い出した。
「案外、嫉妬深かったようですね」
まあ、あんたが旦那じゃぁなぁと、ニッコリ微笑むインファに、皆の視線が集まった。
「インジュは募集中なの?」
「ボクは……いりません」
そう言って、インジュは笑顔のままスッと、少し早く歩みを進めてしまった。
悪いことを聞いてしまったかと、気に病むエーリュの肩を、リティルが叩いた。
「インジュな、ずっと昔に、好きだった娘を二人亡くしてるんだ。二人ともグロウタースの民だった。最初の娘は、触れられないことも含めて、全部承知の関係だった。それでも二人は一線を守って、オレの決めた終わりに、スッパリ別れたんだよ。その娘はその後、インジュが望んだ通り、別の恋愛をして、幸せに生きてそして、死んでった」
「別れがわかってるのに、それでも?その人だけ、インジュを忘れて、別の人と幸せになって?」
「エーリュ、それは違うぜ?スフィアは、インジュを好きだったから、自分の世界で、命を繋ぐことを選んだんだよ。風の精霊は、命が巡るのを見守る者だからな。自分から続く命の糸を、インジュの為に紡いだんだよ。別の人を、全力で愛しながらな」
スフィアは、死ぬまでインジュが贈った髪飾りを、大事に持っていた。インジュとの恋愛を綺麗な思い出にして、生きてくれた。そんな彼女を、インジュは今でも好きだ。
けれども、もう、彼女はインジュを縛ってはいない。インジュも、彼女とのことは、とっくに思い出になっている。スフィアはそうなるように、してくれたのだから。
問題なのは、きっと、もう一人。リャンシャンなのだろうなと、リティルは考えていた。
「インジュが恋愛できなくなったのは、二人目の娘を看取ってからだ。何があったのか、オレ、その頃ちょっと仕事で離れてたからな、わからねーんだよなー」
「インジュ、どうしてそんな人とばかり……?」
自分のことのように痛そうに、エーリュは俯いた。そんなエーリュを僅かに見上げながら、リティルは小さく微笑んで息を吐いた。
「想いは芽生えたら止まらねーからな。あいつ、お構いなしにグイグイ行くしな。失うことを、恐れてるくせに、あいつは……求めちまうんだよなー。恋愛に限らずな」
「うん。インジュはそんな感じ。でも……そんな過去があるなんて知らなかった。だってインジュ、恋愛相談よく持ちかけられてるのよ?」
恋愛相談?それは初耳だった。ミューリンタワーで一緒に暮らすようになってから、インジュは誰彼かから連絡を受けて、たまに一人で出掛けていっていたが別段詮索はしなかった。インファが咎めないならいいかと、相手は女性らしいことはわかっていたが、放っておいた。
「はあ?あいつ、女友達多いなとは思ってたけど、そんなことしてるのかよ?」
「ボク、わかりませんよ?っていいながら、話聞いてるの!時には泣かれたりして、そうすると気安く触るから、写真撮られないか心配で……」
「……エーリュ、おまえ母親みてーだな。けど、どうして知ってるんだ?」
「気になるから、一緒に付き合ったり、尾行してて……あ、毎回じゃないから!わたしも、そこまで暇じゃないし!」
これでも三強だから!とエーリュは慌てたように、顔の前で手を振った。それは、インジュとは友達よ!とそう言っているように見えた。リティルはそんなエーリュの様子に、笑った。心配しなくても、狙ってるようには見えねーよと思った。
「あいつの友達でいてくれてありがとな。まあ、あれだな!どんなに仲良くても、大事にしねーと失うんだよ。オレもちょっと前、離婚危機あったからなー」
それは百年位前のことだ。あの時は、刺されたりして大変だったなと、リティルは遠い目をした。
「え?リティル君、こんなところにいていいの?」
「ああ、大丈夫だぜ?オレ達仲良しだからな!けどな、結局想いは、自分だけのモノなんだ。この心から出て、他人に移ったりしねーんだよ。好きだ好きだ言ったって、消えたモノは戻らねーんだよ。だからな、消えねーように二人で守っていくんだよ。それ、怠るヤツが多いのなんの……哀しいぜ?」
リティルの話を聞いていたラスティは、何か、心に引っかかりを覚えていた。
産まれてこのかた、誰かをそういう意味で、好きになったことなどなかった。なのに、失った事があるような……わからない、形を結べない想いが、ひどく、気持ち悪かった。
一行は、森に向かって脇道へそれた。黒々と目の前にある境界線に、二人の歌姫は、明らかに臆していた。
「さあ、行きましょう!」
そう明るく言って、インジュが一歩足を森へ踏み入れた。すると、ザワリと森の雰囲気が、拒絶の気配に包まれた。
「あのー、これもゲームの仕様です?」
怯えるような目を逸らすような、そんな感情を感じた。明らかに歓迎されていなかった。
「さあな。けど、ここに何かあるのは、間違いねーな。コール、ラスティ、気張れよ?」
「フン」「うん」
コールは鼻で笑い。ラスティは頷いた。
森には、森人が住む村が点在している。
村々は、都を繋ぐ街道と同じく、細道で繋がっていた。その道も、守護石で守られ、日が暮れるまでは、亡者の侵入を防いでくれる。万が一、日が暮れるまでに、村にたどり着けなかったら、細道のところどころに置かれている、鎮魂像のそばから離れずに、夜を明かすこと。何を見ても、離れてはいけない。恐怖に駆られ、鎮魂像から離れれば、命はないのだから。
「あのー、今昼間ですよね?」
先攻していたインジュが立ち止まった。
そして、手刀を構える。リティルも風の中から、一対のショートソードを抜き、口笛でインスレイズを呼んだ。インファはセリテーラに槍をもらい、ラスティもムルムラを黒い棒に変化させた。
「お嬢」
「わかったわ。暴れてらっしゃい、あたしの獣」
アコがそうコールに言葉をかけると、コールの姿が変化を始めた。
「なんだか、精霊の化身に似てません?」
コールは、一頭の豹に姿を変えていた。インジュの隣に並びながら、インファはそうですねと、どこか険しい瞳で呟いた。精霊も人型以外に、別の生き物に変身する能力があるが、手法が異なるなと、セドリガーの変身を目の当たりにしたインファは見抜いていた。
セイレーンは、ミューリンの愛娘とはいったものだと思った。生き物には固有の鼓動のリズムがある。セドリガーの変身は、鼓動のリズムを変化させ、その生き物に変身させられていた。セイレーンには、セドリガー限定だが鼓動のリズムを変化させる能力があるのだと、インファにはわかったのだった。
『リティル!姫さんたちはオレが引き受けた!』
コールが吠えながら言葉を発した。歌姫とコールを守るように、四人は展開した。
「ああ、頼んだぜ!兄貴分!」
ガサガサと木々や茂みを揺らし、亡者は日の下にその姿を現した。エーリュはギョッとして、視線を逸らして口を手の平で覆った。
「あれが、亡者なのね……」
エーリュの隣で、アコは視線を逸らさずに、彼等を凝視していた。
『ああ。平気か?お嬢』
「案外ね。悔しいわね。鎮魂歌を歌えるセイレーンなら、あたしも戦えたのに……」
『それ歌えたら、フレイムストームは解散だ。お嬢が音々にいられるのは、大したことないセイレーンだからだ』
「嫌な言い方。でも、ありがとうコール」
『なんの。オレも、音々にいたいからな。フレイムストームの人気がなくなるまで、暴れてやろうな』
アコは頷きながら、コールの堅い毛並みを撫でた。それを隣で見ていたエーリュは、疎外感を感じて、居心地が悪かった。二人から目を逸らしたくて、前を向いたエーリュは、腐った肉を未だ纏った動く死体たちを、一手に引き受けるような戦い方をしている、リティルを見た。
一手に?いや、亡者達は他の者には目もくれずに、リティルだけを狙っているような?
――助……けて……
「え?」
エーリュは吐息混じりの、途切れる声を聞いた気がして、辺りを見回した。
――助け――て……風の……王……
気のせいではない。誰か、いや一人ではない、助けを求める声が聞こえた。
風の王?リティル君?エーリュがそう思った時、亡者と戯れるように剣を振るっていたリティルが、叫んだ。
「ごめんな!今のオレには、おまえ達を解放してやる力がねーんだ!けど、待ってろよ!オレが必ず!正しい輪廻の輪に、乗せてやるからな!」
亡者達の掴み掛かってくる手を躱しながら、リティルは戦場となった森を駆け抜けた。閃く白銀の煌めきに、一点の曇りなく。リティルを取り囲む亡者の群れに、ラスティの棍が横薙ぎになぎ払われた。そしてラスティは真ん中に躍り込むと、リティルと背中を預け合う。
――指揮……棒……!
「指揮棒?」
背中を預けたラスティが、亡者の言葉を反芻した。リティルはそのつぶやきに、僅かに反応した。だが、おまえにもこの声が聞こえてるのか?と問うている暇はなかった。
指揮棒というつぶやきを最後に、亡者達がリティル以外の者も狙い始めたからだ。
「インファ兄!コールと歌姫を連れて、村へ行け!」
「言うと思いましたが、却下です。亡者の底は見えています。あなたが名指しされている以上、オレが離れるわけにはいきません!」
「過保護だなー!もう、ターゲットから外れてるだろ?過保護だなー!これでもオレ、ダークムーンじゃ戦闘系だぜ?」
リティルが放った風が、亡者達を切り裂き、インファのもとへの道を開く。だが、数が多い。すぐに道は亡者の群れに塞がれた。
「そうですよぉ?過保護ですよぉ?ボク達お兄ちゃんですから!」
リティルの行く手を遮った亡者の群れの中に、インジュが躍り込んできた。インジュは、掴み掛かってくる亡者の腕にトンッと手で触れて、彼等の腕を消し飛ばした。だが、痛覚のない亡者の進軍は、そんな攻撃では止められない。亡者の手が、ガッとインジュの髪を掴んだ。後ろにバランスを崩したインジュに、次々と亡者が手を伸ばした。
「ノアミュール!」
ラスティの力ある声に、木々の影から無数の闇色の玉が生み出されて、鋭く空を飛び交った。闇の玉に射貫かれて、インジュを掴んで引き倒そうとしていた亡者達が、塵となって消えていった。
「フウ、やりますねぇ」
髪型を乱されたインジュは、円柱型の髪留めを外すと、それを握ったまま、手近にいた亡者の体に拳を叩き込んだ。インジュの拳から金色の風が生まれて、隣接していた数体を巻き込んで、塵に帰した。インジュには、命を奪えない戒めがあった。だが、これに命はない。インジュも気兼ねなく滅することができるのは、幸いだった。
「あの人、魔力無尽蔵なんです?」
未だに飛び交う闇の玉に、インジュは少し不安を覚えた。亡者の数が多いのはわかるが、飛ばしすぎではないだろうか。そろそろ止めた方がいいかな?と亡者を屠りながらラスティに視線を向けたインジュは、飛び交う闇の玉の制御のために、その場に立ち尽くすように立っているしかなかったラスティに、男性の姿をした亡者が数人掴み掛かるのを見た。
放っておいてもよかったが、インジュはすぐに加勢するべく走っていた。だが、すぐに亡者達は、闇の玉に撃ち抜かれて塵となった。
ああ、やはり、闇の玉の餌食になったかと思ったが、そこでインジュはギョッとした。
「ラスティ!それはダメだ!」
リティルも気がついたらしい。だが、亡者に阻まれて魔法の展開を止められない。
「光よ!浄化の印を刻め!ヴィナルエダ!」
ラスティは、黒い棒を大地に突き立てた。
ゴッと光の筋が地面を走り、蓮の花のような、光の紋章を描き出していった。大地から立ち上る白い光に、亡者達は次々に塵になっていった。
「バカなんですかー!皆さん、衝撃に備えてください!」
駆け寄ってきたインジュが、ラスティの黒い棒を掴んでいる両手に触れた。瞬間、白と黒の明滅が起きて、ドンッと爆発が起きた。
――え?
インジュは、顔を上げたラスティの、爆風に攫われた前髪の下の瞳に、ハッキリと恐れと拒絶が浮かんでいるのを見た。
力には属性があり、互いにバランスを保って存在している。
光と闇は、どちらか一つしか、表に出られない背中合わせの力だ。反属性の反発は凄まじく、もしも、この二つの力を使える者がいたとしたら、同時どころか、続けて使ってもいけない。表裏一体の力に体を引き裂かれてしまうことが、理上わかっていた。
「ラスティ!死んでませんよね?ここで死ぬなんて、許さないですよ!」
二人を風の障壁という風の盾に包んで守ったインジュは、慌てて顔を上げた。リティルもラスティを守ろうと、彼にしがみつくように抱きついてくれていた。
「大丈夫だ。おまえが勝ったぜ?ありがとな、インジュ兄」
インジュが魔法を壊し、解放された光と闇が互いを打ち消しあい、森への影響は最小限だった。しかし、爆風で細道からかなり外されてしまった。風の障壁が間に合わなかったら、木の幹に叩きつけられて、誰か死んでいたかもしれなかった。
はあー……とインジュは、地に両手をついたまま俯いた。そして、疲れた顔を上げると「さすがリティルの契約者ですねぇ」と言った。
インジュが、解けた髪を縛り直したりしていると、ラスティが目を覚ました。目を覚ましたラスティに、インジュが怒りを爆発させたことは、言うまでもない。インジュは、反属性返しを駆使して戦う。その威力を、誰よりもよく知っているのだから。
動けなくなったラスティを背負って、リティルの案内で、三人がやっと細道へ出た頃には、日が暮れかかっていた。
「ここら一帯は、ラスティが浄化したからな、夜でもしばらく大丈夫そうだな」
リティルは、インスレイズを肩に乗せて、注意深く辺りに神経を尖らせながら歩みを進めていた。さっきのような乱闘になっては、さすがに一人と一羽では、二人を守り切る自信がなかったが、辺りにはとても清浄な空気が満ちていた。
「それはいいんですけどねぇ。あなた、ちゃんと食べてます?それか、ちゃんと生きてます?」
細道を行きながら、インジュが不機嫌な声で、背中のラスティを振り返らずに問うた。
「え?人並みには……」
その答えに、インジュはハアとため息をついた。
「軽いんですよ!リティルよりも!」
ますます不機嫌に「あなた身長何センチです?リティルより、十センチは背が高いですよねぇ?」と、インジュには珍しいくらい声が低かった。
「へ?オレのが重いのかよ?こっちきて太ったか?」
「ああ、料理が楽しくて、たくさん食べさせましたからね。って、違う!あのですねぇ、ラスティ、あなた、生きていく気、あります?」
インジュの怒りのこもった静かな声に、ラスティはドキリとした。
「ボクも、無気力になったことあるんで、わかるんですよ。ポカポカ日だまりで寝転んで、ああ、この光の中に溶けて消えちゃいたいって、思って寝てたことあるんです。でも、ダメでした。ボク、生み出す力が強いんで、死とは反属性なんですよね。体が、霊力をガンガン吸収しちゃって、ボクを殺してくれないんです」
何の話を?とインジュの背中に揺られながら、ラスティはボンヤリしていた。
「ラスも、動けなくなる前に、食べてるでしょう?簡単には死ねないですよ?ラス、生きなさいよ。たった一つの命でしょうが!」
そして「存在自体、不愉快な人ですね!昔のボクみたいで!」と、インジュは言い放った。そして、ズンズンッと細道を進んだ。
――生きなさいよ
初めて言われた。
六属性フルスロットル――皆、こんな力を持ったラスティを、哀れんで、長く生きられないと影口を叩いた。反属性を続けて使うなと、師匠であるハーディンに、ことあるごとに言われてきた。光と闇を同時に使ってしまったのは、事故だ。反属性返しという変な魔法を使う、インジュがいなければ、今頃死んでいたことは使ってしまったラスティも、理解していた。
あのとき……亡者達が掴み掛かってきたとき、過去がフラッシュバックしてしまった。そして、気がついたら浄化の印を使っていた。
「インジュ……」
「何です?ボク、怒ってるので話しかけないでくれます?」
「ありがとう……」
トサッと、ラスティが背中に体重を預けるのを感じた。ああ、寝たのかと、インジュは少しホッとした。しかし、おかしい。いつものボクではないみたいだと、インジュは思った。
「……あの、リティル……」
「ん?」
「ボク……どうしてこんなに、イライラしてるんです?」
「それだけ、ラスティが心配なんじゃねーか?インファ兄がオレのこと怒るのに、似てるぜ?」
さあ、行こうぜ?とリティルは明るく笑うと、腑に落ちないインジュを促して細道を急いだ。イチの村についたのは、日が暮れて少ししてからだった。
イチの村の入り口に立つ、色褪せた丸太のアーチの下に、インファが立っていた。その姿を認めて、リティルが明るく笑って手を振った。
よほど心配したのだろう。駆け寄ってきたインファが、珍しくリティルを抱きしめた。
そして「無事なら無事と、知らせてください!」と怒られた。
翌朝、ラスティが目を覚まし見慣れないログハウス風の部屋から出ると、インサーフローに怖い顔で見下ろされた。いつも優しいインファに睨まれ、ラスティは扉を閉めることもできずに、固まるしかなかった。
「ラスティ、昨日の魔法はさすがに許すことはできません。ですので、精霊大師範と呼ばれる、このオレの手ほどきを受けてもらいます」
「精霊――大師範?」
精霊の先生?何、どういうこと?インファって、何者?とラスティの靄のかかった脳裏に、混乱が渦巻いた。
「おやおや?ラス君は知らなかったのかな?こちらにおわす、インサーフローのインファ様は、イシュラースでは、雷帝と呼ばれる精霊でね。雷帝という精霊は、風の王の副官なわけだけれど、あまたの精霊から師と仰がれる、大先生なのだよ?」
インファとインジュの間から、ヒョコッと顔を出したのは、笑い顔のうさんくさい中年の男だった。
「エリン導師……!」
顔を引きつらせるラスティを満足そうに見つめ、エリンと呼ばれた、線の細い男はインサーフローから離れた。ラスティが目で彼の動きを追っていくと、彼はポットを手に取り、ある場所に向かっていく。
「リティル君、親友の弟子が迷惑かけてしまったね」
エリンは丸太作りの部屋の中心にある、大きな長方形のテーブルに近づいた。白いテーブルクロスを引いたテーブルの上には、パンやスープ、サラダが所狭しと乗っていた。リティルはすでに朝食を食べ終えていて、エリンはリティルのコップにコーヒーを注いだ。
食卓には、コールやアコ、エーリュの姿もあった。彼等は心配そうに、こちらを窺っていたが遠巻きにするばかりだった。その中でリティルだけが、普段と変わらない明るい雰囲気で、エリンに笑顔を向けていた。
「死んだかと思って、ビビったぜ。インジュ兄がいてくれて、助かったよ。エリン、みんなをありがとな!」
エリンは、緩く束ね肩に流れた黒髪を、フワリと払いのけてリティルに微笑んだ。
「どういたしまして。ラス君とインファ君のいない穴は、わたしが埋めさせていただくよ」
エリンは、森版ダークムーンである、ディープフォレストのボスを務める男だ。森の亡者の掃除や、村々の困りごとを解決して回っている。ディープフォレストに所属する魔導士は、皆、セイレーンかセドリガーだ。魔導士ならば誰でも入れるダークムーンと違って、ディープフォレストは入団試験が厳しいことで有名だった。
「待って!リティル、ボクは――」
エリンの言葉を聞いて、ラスティはリティルに駆け寄っていた。
「ラスティ、昨日のあれはちょっとないぜ?オレ達が、このそばのミューリン遺跡に行ってくる間、インファ兄の指導、きっちり受けろよ。間違えましたじゃすまねーだろ?おまえ、エーリュやアコまで危険にさらしたんだぜ?」
コールとインファがそばにいなかったら、どうなってたか……と、リティルはジロリとラスティを睨んだ。しかし、その瞳はどこまでも優しかった。
都では、歌が寄せると言っても、あんな数の邪妖精に取り囲まれることはない。だとしても、なぜ、あんな初歩的なミスをしてしまったのか、自分でもわからないくらいだった。言葉を紡げないラスティの腕をムンズと掴んで、インジュが強制的に席に座らせた。目の前のテーブルには、一人分の朝食が用意されていた。
食欲が……とは言えない雰囲気だった。
「ラス、助かったのは奇跡ですからね?ボクがいたから、助かったんですからね?いいですか?わかりましたか?」
インジュは、ラスティの肩を椅子に押しつけるように強く掴んでそれだけ言うと、フイッと小屋を出て行ってしまった。
「食べられねーなら、無理するなよ?目は見えてるよな?どっか違和感あるか?おまえみてーな、魔導士、オレも初めてなんだよ。だからな、体の不調は隠すなよ?」
なあ?とリティルの向かいに、腰を下ろしたインファに同意を求めた。
「ええ。オレも初めてです。四属性フルスロットルは、会ったことありますけど、光と闇という組み合わせは初めてですよ」
興味深いですと、インファは苦笑した。
「ごめん――なさい……」
それを聞いて、リティルの顔色が変わるのを、インファは見逃さなかった。声が小さかった為に、隣のリティル以外、皆には聞こえていなかっただろう。風の精霊であるインファには、辛うじて聞こえていた。ごめんなさいとは、ラスティらしくない言い方だった。
「ラスティ、ちょっといいですか?」
席を立ったインファは、ラスティを立たせると、外へ連れ出した。
一部始終を見ていたコールが、インファが出て行った扉を見つめながら呟いた。
「ラスティのヤツ……光魔法は封じるなり、何なりしろって言っておいたんだがな」
「何かあったのかよ?」
「オレは、森に住んでた頃のラスティは知らない。だが、ダークムーンに入ってからのラスティは知ってる。光とは相性が悪いんだ。見りゃわかるだろ?ムルムラは、闇の妖精だ。あいつが相棒やってる限り、光は諸刃の剣だ。インファ、精霊大師範だって?うまいこと導いてくれればいいけどな……」
ダークムーンの会合には殆ど出てこなかったが、コールはラスティを気にかけてくれていたようだ。コールってこういうヤツだよな。と、仕事で顔を合わせると、そういう戦い方は危ないだのなんだのと、自分より若い魔道士の世話を焼いていた彼の姿を、リティルは思い出していた。かく言うリティルも、コールに怒られたことがあった。いつもの癖で、超回復能力が弱まっているのに、今の力では瞬時に癒やせないほどの怪我をしてしまい、「おまえなら、怪我なんかしなくても、あれくらい立ち回れるだろ?無駄に怪我するな!」とコールに治癒魔法をかけてもらいながら言われてしまった。コールは、風の城にいる補佐官に言動が似ていて、リティルは度々調子が狂う。だが、嫌じゃないんだよなーと、彼の名を間違えて呼びそうで、困っていることは内緒だ。
「確かラスティ、ハーディンと一時期、森に住んでたんだったよな?エリン、おまえ、あいつと相性悪そうだったな?」
リティルはコーヒーを飲みながら「知り合いだったのか?」とエリンを振り仰いだ。視線を受けて、エリンはあからさまに困った顔をした。
「まあ、そうだろうね。わたしは、ハーディンも知らない彼の過去を、知っているからね。彼は闇その者だよ。リティル君、君が契約者にするとは、正直思わなかったよ。君は、光り輝いていて、光その者のような存在だからね」
「オレは光じゃねーよ。風だよ。オレに光をくれるのは、いつだってオレの妃だぜ?」
サラッと自然に惚気るリティルに、エリンは本当に興味深そうに言った。
「花の姫・シェラ。会ってみたいものだよ。しかし、リティル君、今更ミューリン遺跡に何の用だい?」
「ああ、ジャックがな、巡礼の道って言葉残してったから、行ってみるんだよ。手がかりねーからな」
「ふーん?巡礼の道……ねえ。二十年位前だったか、インファ君と調べに来たよね?あの時言っていた、違和感の正体は、見つかったのかい?」
「いや。イシュラースには、この大陸の記録がほとんどないんだ。音の精霊の事案は、ちょうど風の王の代替わりの空白期間で、風の城が機能停止してて、こっちもお手上げなんだよ」
「精霊って、代替わりがあるの?永遠の存在なんじゃないの?」
ミューリン遺跡群に興味があると言っていたエーリュは、精霊にも興味があるらしい。耳ざとく聞きつけて、思わずなのだろう口を挟んできた。
「ああ、精霊にも死があるからな。霊的な力を持つ者、精霊とか、魔物とかそういう奴らに殺されると死ぬんだよ。そんなこんなで、オレは十五代目だ」
「それで、インファさんが、あんなに心配して……」
「心配してたよな?インファ兄。あいつに抱きつかれたのなんて、何百年かぶりだぜ?こっちも、ラスティが倒れてたからな、インスが手放せなかったんだよ。エリン、ディーの通信機、借りられねーか?」
ディーとは、ディープフォレストの略称だ。ダークムーンのペンダント通信機は、都の中でなければ使えない。森には、森の通信手段があるのだった。
「用意しよう。このゲーム、君たちの身も危ういからね。リティル君、言うまでもないが、インファ君を大切にね」
エリンは、ニヤリと微笑むと、奥の部屋へ消えた。
エリンがいなくなると、コールはあからさまにため息をついた。
「相変わらず、得体の知れない雰囲気だな。リティル、エリン導師とも繋がっていたんだな?」
生放送の翌日、森へ行くとハーディンに告げると、彼はエリンに連絡しておいてくれた。イチの村で合流の予定だったが、亡者の手痛い歓迎を受け、ラスティの魔法でディーの仲間が気がついて、加勢してくれたらしい。エリンが到着した頃には、ほとんど終わっていたと彼は笑っていた。
「ああ、三十年くらい前からな。あいつが得たいがしれねーのは、オレのせいなんだ。ジャックとやり合って、血を浴びちまってそれからなんだよ。いろいろ、犠牲にしてるんだ……」
「リティル、ちょっと傲慢だぞ?エリン導師がそうなったとしても、オレ達の誰かが命を落とすとしても、それはおまえのせいじゃない。おまえが関わらなかったら、バトル音楽祭ですべてが終わってた。おまえは、未来を作ってくれたんだ」
「そうそう、もしあたしが死んでも、化けて出たりしないから安心して。ちょっぴり泣いてくれたら、それで許してあげる」
アコは強がりながら、澄ましてコーヒーを飲んだ。
「ハハ、誰も死なせねーよ」
死なせない。このゲームに勝って、正常な輪廻に戻り、この不自然な輪廻が崩れ、今生きている命を脅かすなら、オレは全霊を賭けて、精霊のしでかした罪の尻拭いをしてやる。リティルは笑顔の下で、そんなことを考えていた。
守るよ。絶対に!心の中で意気込むリティルに、この大陸の三人の民が、信頼した笑みを向けていた。
イチの村は、円形の村だった。
大して広くない村の中心に、曖昧な女性の姿をした鎮魂像と呼ばれる、大きな岩が鎮座している。その像を中心に、波紋のように丸太作りの家々が、玄関をこちらに向けて立ち並んでいる。
インファはラスティを、鎮魂像まで連れてきた。ここへ来るまでの短い道中、ラスティはどこかフラフラしていた。
「あなたは、森にトラウマでもあるんですか?」
前髪で瞳を隠しているラスティは、感情が読みにくい。都にいたときから、何かに恐怖心があることを、インファは見抜いていた。だが、それが何なのか掴めないまま、ここまできてしまった。
リティルとインファには普通に接しているように見えたが、インジュを、ラスティはあからさまに避けた。その様子から、女性に対して恐怖心でもあるのか?と思いながら、インファは念のため普段より広めに間合いを取っていた。しかし、エーリュの護衛に自ら志願したり、彼女のことを気遣い、寄り添うような、付き従うような様子でそばにいた。どうやら、女性が苦手なわけではなさそうだった。
「え?」
どこかボンヤリしている様子のラスティは、インファの言葉に顔を上げた。心当たりがある?それとも、唐突なことを言われて、戸惑っている?インファにも読みかねた。
そういえば、視線は感じるが視線が交わる感じはない。彼は、他人と目を合わせられない?長い前髪がラスティの視線を隠し、彼がどこを見ているのか、インファであってもわからなかった。
インファは、ラスティの恐れの正体を暴かねばならない必要性を感じていた。昨夜合流したインジュが、反属性魔法を使ってしまったラスティを止めたとき、明らかに怯えていたと報告してきたからだ。
邪妖精相手にあれだけの立ち回りができる彼が、戦いに臆するとは思えない。亡者相手にも、果敢に戦うその姿からは、亡者に恐怖心があるようには見えなかった。
なのに、なぜいきなり?あの場の誰もが予想外だった。
リティルは、訳ありだとは言っていたが、それ以上のことは言葉を濁していた。あえて言わずに見守っている。そんな感じが見受けられ、インファも特には踏み込まずにおいたが、裏目に出たかもしれないなと思った。精霊だった時の癖で、見守れると、少々傲慢になっていたかもなと自分を戒めた。今のインファは、インサーフローのピアノの方でしかなく、戦闘能力も霊力も、この大陸に住む人間の魔導士の強い方くらいの力しかないのだから。
「それとも、亡者にですか?」
「昨日の、光魔法のこと……?」
「ええ、そうです。昨日の魔法、不自然ですよ?ヴィナルエダ。浄化の印ですか?その前のノアミュールで粘れましたよね?あなたも、そのつもりだったはずです。なぜ、わざわざあんなことをしたんですか?」
ノアミュール――闇の宝珠という、闇の力を玉にして打ち出す魔法だ。それを、ラスティは木々が作る影という影から作り出していた。魔法は、そこにあるもの、水辺では水の、土がある場所なら大地の魔法を使えば、消費する魔力を抑えることができる。この森は深く、至る所に濃い影があった。ラスティはそれを利用して、群がるような亡者の数に対抗した。
六属性フルスロットルのラスティの力の選択は、あの場では、闇と、森という場所がら大地だ。相棒がムルムラという闇の妖精ということから、ラスティは闇魔法が得意なのだろう。だから、闇を選択した。最善だ。インファがラスティでも、同じ選択をする。
ラスティの無尽蔵か?と思えるノアミュールで、亡者の数は激減した。あのまま粘れば殲滅できた。最小限の魔力で勝利が目の前に見えていたのに、ラスティは、反動で命を失う危険のある、反属性を選択し、浄化の印というあの数の亡者には不釣り合いな、大魔法を展開した。
少し離れた場所にいたインファは、白い光に、一瞬、リティルが、白い光の力を使う王妃から、力を借りたのかと思った。しかし、ゲームにより、外部と遮断されているここで、それはあり得ない。
では、誰が?六属性フルスロットルのラスティしかいなかった。ラスティのそばにいたインジュとリティルは、それはそれは驚いたことだろう。
闇魔法展開中に、反属性である光魔法を展開。それは、自殺行為だ。
魔導に未熟な者ならあり得る事故でも、ラスティのような一流の魔導士には、あり得ない失態だった。
「あの魔法を、使わなければいけないような気がして、闇魔法を使っていたことを忘れたんだ」
言えなかった。あの、襲ってきた亡者達に重なった過去の幻――穢れた過去を、ラスティはとても自分の口から言えなかった。
「あり得ない精神状態ですね。何か見たり、聞いたりしましたか?」
「亡者達の声だけだよ。風の王に助けを求めてた。それから、指揮棒?」
亡者達の声は、インファも聞いた。彼等は、この不自然な輪廻が作り出した歪みだ。あそこまであからさまだったのは初めてだが、過去にも縋られたとリティルは言っていた。そんな亡者達が、指揮棒という言葉を呟き、怯えた。怯えたようにインファは感じた。それからは、自分達の課せられた仕事をこなそうとするかのように、襲いかかってきた。
「あなたは、森に住んでいたことがありますよね?亡者の声は、その時から聞こえていましたか?」
「え?うん。昔から聞こえてた」
「ラスティ、あなたは、自覚がありますか?」
「自覚?」
「ないんですね?了解しました。セリテーラ、封印変化・光」
インファの肩に乗っていた猫が、頭を振った。インファが手の平を差し出すと、その手の平に、セリテーラは何かを落とした。
「光魔法を封じさせてください。構いませんよね?」
「え?うん」
ラスティは、インファに渡されるがまま、透明な蛍石が散りばめられた金の指輪を、右手の人差し指にはめた。
「インファ、聞いてもいいかな?自覚って何のこと?」
「亡者の声が聞こえるのは、風の精霊か、風に近しい者だけです。あなたは、風の王と契約しているので、聞こえたとしても不思議はないんですが、契約前からとなると、話は別です。あなたは、自分の出生を語れますか?」
出生?出生は、魔音の郷のはず……
「父と母の名、兄弟や他の家族、一番古い記憶は何ですか?」
一番、古い記憶――考えたこともなかった。いや、考えてはいけないと何かがブレーキをかけている?いつもより厳しい表情のインファを、前髪越しに見つめながらラスティは戸惑っていた。
「兄さーん!ボク達出発しますねー!」
ラスティが声に我に返り、振り返ると、インジュがこちらに向かって叫んでいた。インファが手を振ってやると、インジュは手を振り返し、さっさと踵を返した。
「ラスティ、今のオレにどこまで探れるかわかりませんが、あなたの魔力を、調べさせてください」
いいですか?とインファはラスティの顔を覗き込んだ。ラスティは、頷いたものの、とても戸惑って、どうにも正常な判断が自分では下せない、そんな風に、インファには見えた。長い前髪に隠された瞳は、視線は感じるがいったいどんな表情をしているのか正確にはわからない。偽られたとしても、今のインファには見抜くことはできないのだ。
インファは、一つの可能性を脳裏に描き出していた。
――父さん、あなたは本当に何もわからずに、彼を選んだんですか?これは、ゲームの姿をした、攻略できない現実かもしれませんよ?父さん、あなたは彼等に勝てますか?
インファは、隣をフラフラと歩く、ラスティを盗み見た。
兎にも角にも、彼が味方か敵か、それをハッキリさせることが先ですね、と、思った。
エリンの案内で、ミューリン遺跡を目指していたインジュは、ふと、イチの村を振り向いた。その様子に、隣を歩くエーリュは不安そうに見上げた。
「どうしたの?」
「……何となく……何でもないです。エーリュ、元気ないですね?何かありました?」
険しい瞳をしていたインジュは、パッと笑顔に表情を切り替えた。
「ラスティのことが……」
「心配なんです?大丈夫ですよ、あの人、案外強いですから」
とは言ったものの、インジュも案じていた。彼はインファを怒らせた。おそらく今、魔力を徹底解剖されているだろう。お父さん、精神壊さない程度にお願いします!と、インジュは祈った。だが、インファの怒りは当然だ。昨日のあれは本当に危なかった。ボクがいなかったら、全員死んでたと、インジュは身震いした。
それに……あんなにあからさまに、触ったことを嫌がらなくてもいいじゃないか!と、インジュは触る以外に、止める術がなかったのにと、ラスティの恐れと拒絶の瞳に傷ついていた。初めてケンカ腰以外で交わった視線があれって、ボク、そんなに嫌われるようなことしたかな?とインジュは悩んだ。けれども、お礼を言われた。もう、わからなくなって、悩むことを放棄して昨夜は寝た。
「最近ね、亡者の数が増えてたって、村の人達が言ってたの。それが、黒と白の光が空に上がってから、ピタッと平和になったって。ねえ、インジュ!ラスティ、そんなに悪いことしたの?インジュやインファさんが怒るくらい、悪いことだったの?」
「……力には、使い方があるんです。ボクと兄さんが怒ってるのは、使い方を間違えて、自分や周りの人を、傷つけそうになったことです。ラスティは、凄く強い力を持ってます。力を持つ者には、責任があるんです。兄さんは、ラスティを守る為に、ラスティと残ったんです。兄さん、優しいですから大丈夫ですよぉ」
優しいままのインファでいてくれることを、願うしかない。風の王の副官に、敵だと認識されれば、もうその者に未来はない。彼は風の王に害悪だと思う者に対しては、本当に容赦がないから。
あ、それはボクも同じでした。とインジュは思いながら、もし、インファが敵認定したとして、ボクはラスティをそう見られるだろうか?と思ってしまった。
「インジュ、わたし……インジュを、好きになっちゃダメかな……?」
インジュは、一瞬何を言われたのか、理解できなかった。
え?ええっと?好きって何でしたっけ?とインジュは、しばしエーリュの顔を見つめてしまった。
「ボクですかぁ?それ、恋愛的な意味です?うーん……真似事なら付き合いますけどねぇ。ボク、これでも精霊ですから、ホントに目の前に終わりがありますよ?」
好きになっちゃダメかな?ってことは、まだボクのこと、そういう意味で好きではないってことですよね?とインジュは、少しも掻き乱されずに冷静に思っていた。
「ごめんね。わたし……狡いこと、考えた……。インジュが相手なら、本気にならないんじゃないか。傷つかずに、楽しいままいられるんじゃないかって……」
芽生えそうな心を、掻き消してくれるんじゃないか――
「エーリュ、誰かと付き合ったこと、あるんです?」
エーリュは意外にも首を横に振った。手痛い失恋をしていて、臆病になっていて、今、こんな怖いところにいるから、縋れる存在として選ばれたのかとそう思ったが、それとも違いそうだなと、インジュは思った。
なら、あとは?
「エーリュ、もしかしてなんですけど、本命がこの中にいるんです?それ、ボクじゃないですよねぇ?行っちゃいけない相手ってなると、怖い想像しかできないんですけど?」
すでに相手のある人。略奪という手もあるが、コールはセドリガーで、リティルとインファは絆の重さが違う。戦う前から敗北が決まっている相手ばかりだ。
ああ、リティルです?あの人、無駄に罪な人ですねぇと、インジュは遠い目をした。
「だって……自分のことで精一杯のときに、人の気持ちなんて、受け取れないじゃない。そんなとき、わたしなら近づいてほしくない。だから……近づけなくて……」
ああ、なんだラスティか。と、インジュはホッとした。でも、ラスティ?かなり難しい相手だなと、インジュは俯くエーリュを見下ろした。
「エーリュは、その人とイチャイチャしたいんです?そうでないなら、そばにいてくれるだけで、助かることもあると思うんですけど」
ボクには、そうだったんだけど。と、インジュは困りながら、どうしようかと途方に暮れた。ぶつかる前から諦めるエーリュや、話を聞いてほしいと言ってきた、女の子達を見ていて、行けないものなんだなとインジュは思った。ボクは、みんなが呆れて心配するくらい、行ってしまったけどと、そう思って、最後まで美しかった彼女のことを、思い出した。
「ボクは、ある人に言われちゃったんですよねぇ。あなたの心の中に、わたしはいないって、スッパリ。そんなことなかったんですけどね。ボクはちゃんと、その人のこと好きでした。その人は死が見えてた人でしたから、ボクのこと思って、そう言ってくれたんだと思ってますけど、その人の心にボクがいたのかどうかは、わからないままです。エーリュ、せめてそばに行ってみません?それで、ダメだったら、ボクのところに逃げてきてください。それで、勇気とか心の栄養とか充電できたら、また行くんです」
――あなたの、心には、わたしはいない
最後の眠りに落ちる前、彼女――リャンシャンは言った。だから、わたしがいなくなっても、傷つかないで。そんな心を感じた。彼女にそう言われてから、インジュは誰にも心を動かされなくなった。諦めているのではなく、不思議なほど、そういう風に心が動かなくなったのだ。それが、なぜなのかわからない。心が乾いたわけではない。心はいつも濡れている。彼女達を見送ったとき流した涙で。未だに。でも、囚われているのとは違う。
恋に落ちなくなったことで、インジュは異性と冷静に付き合えるようになった。それは、インジュにとってはプラスでしかなく、マイナスを感じたことは皆無だった。
風の城の婚姻を結んでいる精霊達は皆一途で、しかし惚れっぽいなと自覚のあったインジュは、ボクがそれを守ることは容易くないだろうなと薄々感じていた。守れない想いなら、ない方がいい。そう思っている。
そして、今、可愛い女の子を前に、心動かされない自分がいた。こんなボクだから、友人の彼女に、冷静に相談に乗れる。インジュには、喜びでしかなかった。
「インジュ……」
「エーリュの心に、ボクはいません。ボクの心にも、エーリュはいません。想いが芽生えることは、ありません。だからボク、友達として、避難場所になってあげます!」
キラキラ笑うインジュが、眩しい。どうして、恋に落ちる相手が、彼ではないのか不思議なくらいに。
綺麗な人だなと、インジュを見ているとつくづく思う。こんな、狡いことを笑顔で受け入れてくれる彼が、とても尊い。そして、心強いとともに後ろめたい。
自分の醜さを自覚しながら、けれどもエーリュはインジュに助けてほしかった。すべてに対して臆病で狡い自分を、守ってほしかった。
先頭で、最後尾の二人の会話を聞いていたリティルは、なんだよ?甘酸っぱいなぁ!と困っていた。聞きたくて聞いたわけではない。警戒の為に放った風が、会話を拾ってきたのだ。
「いやはや、青春だね。ところで、インジュ君の歌からは、そんな哀しい恋をしてきたとは、思えないくらいなんだけれどね、あれ、本当のことかい?」
おまえ、盗み聞きかよ!と、リティルは明言を避けて乾いた声で笑った。
確かに、インサーフローの歌は、明るいモノが多い。歌詞に多少の毒はあっても、インジュの歌い方も、飛んだり跳ねたりして、本当に楽しそうなのだ。思えばインジュは、失恋を引きずるような、女々しい歌が本当に苦手だ。インファのフォローがなければ、まともに歌えない。彼の歌唱力なら歌えるはずなのだ。けれども、どうにもダメで、歌詞を書き換えた歌もあるくらいだった。
手を繋げない相手とばかりなのは知っているが、リャンシャンにそんなことを言われていたとは、知らなかった。
彼女の心に、ボクがいたのかどうか、わからないって?たぶん、いたと思うぜ?リティルはそう思ったが、リティル自身、リャンシャンとはそんなに関わっていない。彼女がもういない今、彼女の心を知ることは、できなかった。方法はないわけではないが、インジュは、知りたいと思うだろうか。どうしようもないことを知ることは、とても辛い。恋愛ではないが、リティルにもそんな経験があった。
「知らねーよ。兄貴の恋愛事情なんて、いちいち把握してるかよ!それより、平和だなー。昨日の歓迎が嘘みてーだぜ」
明るい木漏れ日を見上げて、リティルは思わず和んでため息をついた。ここはまだ浅い森だ。丹の村までは都人も観光で訪れるほどで、本来なら昼間は欠伸が出るくらい安全なはずなのだ。
「亡者達が日中大量に姿を見せるなんてこと、今までなかったからね。インファ君、一人でよかったかな?」
「あっちに何かあるって?怖えーこというなよ!村の中に亡者が出るなんてこと、あるわけねーじゃねーか」
「まあ、心配しなさんな。精鋭を置いてきているよ」
「……素でインファ兄がやられる相手、ディーでもただじゃすまないぜ?今度から、離れねーようにしよう」
『風の奏でる歌』を歌わなければ、翼がなくても槍が使える。ジャックに襲われなければ、心配いらない。はずだと、リティルは自分に言い聞かせた。今ここで、エーリュとアコを置いて、離れるわけにはいかないのだから。そもそも、ラスティと二人で残りたいと言ったのは、インファだ。なぜインファは、二人で残りたかったのだろうか。今更リティルは、疑問に思ってしまった。ヤバいな。と、リティルは唐突に思った。ここは風の城ではない。城も絶対に大丈夫だとは言い切れないが、大丈夫だと言い切れるくらいには安全だ。城にいるような感覚で、インファを村へ置いてきてしまったなと悔やんだ。雷帝・インファの顔をされると、どうにも弱いな……とリティルは、信頼しているだけに押し切られないように気をつけなければと、当たり前のことを自覚させられたのだった。
そうこうしているうちに、目的地に到着した。
ここにあるのは、石碑の一部分だ。
音の精霊・ミューリンと騎士の絵が描かれている。そして、これ見よがしな精霊の言葉。
「さて、説明がいるかな?」
エリンが、大きな朽ち果てた石碑の前に立った。
「これ、精霊が作ったんです?」
興味深そうに、インジュが石碑に近寄って、それを見上げた。かすかに力を感じる。これが、これ以上壊れないように、守っているような?インジュは反属性返ししたいのを堪えて、石碑に触れなかった。
「ミューリンと騎士。揺るがない絆と、愛とで、歌う緑の魚を守る」
インジュの隣に立ったエーリュが呟いた。
「エーリュ、霊語が読めるんです?」
「ううん。このレリーフについて、書かれた本を読んだの。インジュは読めるの?」
「はい。これでも精霊ですから。ただ、何か……リティル、これ、反属性返ししてもいいです?」
インジュは、リティルを振り向いた。
「へ?壊してーのかよ?」
「やっぱり壊れちゃいます?うーん、何か、隠してる気がするんですけどねぇ」
ボク、ひねくれてるんですよねーと、インジュはマジマジと石碑を見つめた。
「いっそ、壊してみればどうかな?」
「いいの?森の財産じゃなかったかしら?」
観光地にしたかったんじゃないの?とアコは、そんな一存でいいの?と真面目に心配していた。
「あのー、まだ壊れると決まったわけじゃないですよぉ。ボク、そんなに壊しそうなんです?」
皆は一斉に頷いた。
「だってなぁ、インジュ、イタズラしたい子供みたいな目、してるぞ?」
コールが苦笑しながら、答えた。
「えー?そんな顔してますぅ?おかしいなぁ、これでもそういうところ、隠してるんですけど」
「隠れてないぞ?インジュは、歌い方もそうだしな」
すかさずコールがツッコミを入れてきた。
「そうそう。羨ましいくらい、自由よね。で?リティル君、許すの?」
「うーん。オレも無茶してー気はしてるんだよな……」
いつもより慎重だなと、インジュは感じた。今更、天災の自覚しちゃったんです?と思った。じゃあ、ボクがやっちゃおう!と、インジュはリティルの答えを待たずに、ズイッと足を進めた。そして、皆がえ?っと驚く中、石碑に触れた。
「?」
インジュは、自分の手をマジマジと見つめた。
「どうしたの?」
恐る恐る、エーリュがインジュに近寄った。
「あのー、エーリュ、触ってみてくれません?」
「え?ど、どうして?」
どうしてわたし?とエーリュは戸惑った。
「すみません、誰でもいいんです。エリン、多少危険でもいいですよね?触ってくれません?」
あなたなら危険な目に遭ってもいいよね?とズバリ言われ、さすがのエリンも面食らって、苦笑いした。リティルは「悪い、こういうヤツなんだ」と、一応詫びた。
「インジュ君、なかなかいい性格してるねぇ。けれどね、わたしは何度も触っているよ?」
「何か感じませんでした?」
「得には、何も感じなかったよ?なんだい?」
「兄さんに、確証のないことは言うなって、言われてるんですよねー。なので、言えませんけど、リティル、指揮棒の精霊って、風の精霊でしたよねぇ?それで、音の精霊は、大地の精霊でしたよね?」
「そうみてーだな。インジュ、内緒話するか?」
「あ、その手がありました。ので皆さん、ちょっと風の王とお話しさせてください」
風の王という名を出されては、皆は同意せざるを得ない。エリンは、ごゆっくりと言って、皆を少し遠ざけてくれた。リティル達も反対方向へ、少し歩いた。
リティルは、風を巡らせて、風の渦巻く外と内との音を遮断した。こうすれば、インジュとの会話は、外には聞こえない。
「で?何だよ?」
「あの、指揮棒の精霊と音の精霊って、どんな力使うんです?」
「音の精霊は、命に鼓動を与える精霊だよ」
「ここに囚われてるんですよねぇ?問題ないんです?」
「そうみてーだな」
「そうみたいって、そんなものなんです?」
「音の精霊は、大地の王の管轄なんだよ。他の王の仕事に、首突っ込めねーよ。問題起こしたら、否応なくオレの管轄になるけどな」
「指揮棒の精霊は、リティルの管轄です?」
「本来はな。この大陸が、初代から二代目に代替わりする空白で、滅んじまったから、忘れられちまったんだな。可哀想なことしたぜ。十五代目だって名乗ったら、そんなに外では時が進んでるのかって、言われたよ」
リティルは、一度目を伏せた
「風ですよね?ボクみたいに、ちょっと変わってるとかあります?」
インジュは、原初の風という、受精させる力の結晶した、精霊の至宝の、四分の一の精霊だ。意志のある原初の風は、リティルを護りたくて自ら三つに割れ、欠片の一つはインジュという精霊になった。
受精という産む力を持つインジュは、命が生まれそして帰る場所である、生命の大釜・ドゥガリーヤの透明な力を、使うことができる。
透明な力とは、まだ、何の色もついていない真っ新な力――何者にもなれる力だ。源の力とも言われている。
インジュはその力を、反属性返しとして使っている。ある意味、インジュも六属性を使える精霊なのだ。
「あの石碑に込められてる力なんですけど、六属性です。指揮棒の精霊って、初代原初の風とかじゃないですよねぇ?」
原初の風は、至高の宝石とよばれ、邪なモノを惹きつけてしまう。故にインジュは、煌帝という、何を司る精霊なのかわからない名を名乗らねばならなかった。
インジュには”指揮棒”という、全く何の精霊なのかわからないその名前も引っかかっているらしい。
「ルディルが持ってた時、原初の風は意志すらなかったはずだぜ?待てよ?透明な力……それを使える精霊は、他にもいるぜ?」
初代風の王・ルディル。原初の風は、元々彼が守護していた。幽閉された彼を救い出し、太陽王へ転成するとき、リティルは、ルディルから原初の風を引き継いだのだった。原初の風が意志を持ったのは、その時からだ。
「何の精霊です?」
「シェラだよ。花の姫だ」
「でも、シェラは風の精霊じゃないですよね?属性的には神樹ですけど、風とは相性最悪の花の精霊ですよね?ルディルも、子供はいないって、言ってませんでした?」
初代風の王・ルディルの妻も、シェラと同じ花の姫だ。今は共に、太陽女王だが、風の王時代に子を成していたなら、花の姫の力を色濃く継いで、透明な力を使える風の精霊が生まれていたかもしれない。だが彼等に子供はいなかった。
神樹の花の精霊である花の姫は、六属性以外の力を司る精霊だ。だが、花は、風に散るという性質があるために、例外なく風の精霊とは相性が悪かった。シェラがリティルの妃でいられるのは、神樹の花が散らない花だからにすぎない。そうでなければ、一線を越えたら散ってしまうため、風は花に触れられない。
ん?リティルは疑問を感じた。インジュはどうして、二人いるうちの、一人だけを疑っているのだろうか。
「待てよ!インジュ、どうして指揮棒の精霊が、透明な力を持ってたって思うんだよ?音の精霊の方かもしれねーじゃねーか。透明な力は、産む力だ。大地の精霊の方が近いんだぜ?」
産と死は反属性だ。風の精霊は、四大元素の中で、唯一死の力を持つ精霊だ。透明な力は特別な力だが、持つのなら風よりも、産まれてくる魂を一番最初に受け取る、大地の精霊の方が相応しい。
インジュは、一瞬押し黙り、迷った末に口を開いた。
「……ラスティです。込められてた力、似てました。六属性フルスロットル……透明な力の持ち主なら、できますよね?お父さんは、ラスが、指揮棒の精霊じゃないかって、思ったんじゃないかって……だとすると、ラスはジャックなんです?昨日の闇光暴走事故は、わざとなんです?」
インジュがいなければ、光と闇の爆発に巻き込まれて、みんな死んでいた。ラスティがジャックで、どちらが音の精霊なのかわからなくても、みんな死ねば、今回のゲームもジャックの勝利で終わる。そんな暗い考えが、インジュの脳裏をかすめていた。
「そ、そんなわけ……インファは、この遺跡が魔法で守られてること、知らないんだぜ?それに、ラスティはどう見ても、人間――」
いや、覚醒前の精霊なら?音の精霊と同じように、オレ達でもわからない可能性は大いにあると、リティルは思ってしまい動揺してしまった。
「きゃあ!」
リティルとインジュの会話は外には聞こえないが、外の音は聞こえる。二人は、悲鳴にハッとしてその方を見た。
見れば、エーリュが何があったのか、うずくまっていた。様子がおかしい。リティルは風を解放すると、エーリュのもとへインジュと走った。
「エーリュ?おい!大丈夫か?」
エーリュは自分の身を抱いて、震えていた。
「リティル君……わたし……どうなるの?」
え?顔を上げないエーリュに、リティルは違和感を感じた。
彼女の髪の色は、何色だった?長さは?リティルは、情けないことに言葉を失っていた。
「エーリュが、音の精霊なんです?でも、どうしていきなり?」
動けないリティルを尻目に、インジュは膝を折るとエーリュの肩をそっと抱いた。
「エーリュ、この石碑に触ったのよ。そしたら、急に……」
アコが戸惑いながら、近寄ってきた。
エーリュの髪は、薄黄緑色に変化していた。短かったその長さも、腰まで伸びている。緩やかに波打ちながら。
「これは、覚醒ってことです?そしたら、このゲーム、ボク達の勝ちなんじゃないんです?」
音の精霊の覚醒――それが、このゲームの勝利条件だ。しかしリティルは、まだだと、そこだけは確信していた。まだ、覚醒にはほど遠い。エーリュはまだ、精霊ではない。
「エリン!一度戻ろうぜ。エーリュ、立てるか?今は何も考えるなよ。混乱するだけだからな」
リティルに声をかけられ、エーリュは顔を上げた。その瞳の色が、深い緑色に変わっていた。インジュがエーリュの体を支えて立たせると、豹に変化したコールが乗れと言ってくれた。アコを見ると、好意は受けるものよ?と言って、エーリュに乗るように促した。
「……唐突ですねぇ。本当の引き金、何なんです?」
エリンを先頭に歩き出した一団を見守りながら、インジュが呟くように尋ねた。
「わからねーよ。もしかすると、インファ兄の方にも何かあったのかもな。インジュ兄、先に戻るか?」
「いいえ。エーリュが音の精霊なら、守らなくちゃです」
そうだなと、動揺していたリティルは、冷静なインジュを見上げた。
頼もしくなったなぁと感心していると、インジュが途端に変なことを言い出した。
「あ、エーリュ、精霊なんですよねぇ?これ、ボクが口説いた方がいいんでしょうか?」
前言撤回。インジュもかなり動揺、混乱しているようだ。
「好きでもねーのに口説くなよ!」
「でも、でもですよ?精霊とグロウタースの民じゃ、不毛じゃないですかぁ!」
エーリュが好きな奴って、ラスティか?とリティルは察した。それにしても、インジュには、精霊とグロウタースの民カップルが、不毛だという認識はあるのだなと思った。
「それ、おまえが言うのかよ?散々、そういう娘ばっかり選んできたくせに」
「あ、そうでした。うーん、ボク、応援してていいんです?」
「応援……はあ、とにかく手、出すな。逃げ場所になるんだろ?それだけで十分だろ?」
「はい、そうします。……?……!リティル!これ!」
インジュが何気なくレリーフを見上げると、そこに描かれていた絵が変わっていた。
中央に、女性が立ち膝で座っている。彼女の前には、たくさんの人々が横たわっていた。それを、彼女は見ている?祈っているのだろうか。そして、彼女の背後には、剣らしきモノを振り上げた男が描かれていた。
「これ、音の精霊と、指揮棒の精霊です?でも、この人達何してるんです?寝てるんでしょうか?」
「普通考えると、死んでるんじゃねーか?この構図だと、音の精霊がやったみてーに見えるよな?」
「リティル、兄さんに見てもらいましょうよ!兄さんなら、何かわかるかもです」
「ああ、戻ろうぜ!インジュ兄」
二人は踵を返すと、先に行った皆を追いかけた。
イチの村に残ったインファは、ラスティの魔力を探る為、彼にベッドに横になってもらうと、胸の辺りに手をかざしていた。
「インファ、ボクは、やっぱり普通じゃないのか?」
「ええ、普通ではないですね。ですが、それが何ですか?」
インファはどこか、落ち込み気味のラスティが理解できないような、そんな顔をしていた。
「あなたは、オレ達が完璧に見えますか?」
「え?精霊は力の司で、そのように目覚めるんじゃないのか?」
「そうですね。それが精霊ですね。普通。という言葉は、欠けていないという意味ですよね?ラスティ、もし精霊が欠けていない、完璧だったとしたら、世界の刃である風の王が、失敗すると思いますか?」
「今回は、ゲームで、リティルも本来の力が使えてないじゃないか」
「あの人はもともと、風の王史上最弱の王ですよ?リティルは、奇跡の判断と機転とゴリ押しで、切り抜けてきたにすぎません。常に綱渡りです。今見えているそのままが、十五代目風の王・リティルなんですよ。完璧に見えますか?」
インファを見ていた顔を、天井に向けた為に、ラスティの前髪が流れ落ちて、その瞳が露わになった。
「危なっかしくて、手を貸した方がいいのか、貸さなくていいのか、判断が難しいんだ。凄く強いのに、たまに気が気じゃなくて。それから、よく、悩んでた。インサーフローと一緒にいるようになって、雰囲気が柔らかくなった。かな」
「そうですか。オレ達が役に立っているようで、安心しました」
インファは、ホッとしたような、くすぐったいような、そんな顔で微笑んだ。完璧に見える彼も、不安なのかな?と意外に思った。
「オレは、さほど強い精霊ではありません。インジュよりも、大分弱いですよ。普通、王の副官は二番目に強いと思いませんか?インジュは、王に次ぐ強さを持っていますが、彼は、命を奪えません。世界の刃である風の精霊としては、致命的に普通ではありませんね。ですから、補い合っているんですよ。なのでラスティ、オレ達を信用してくれませんか?」
え?とラスティは、優しく見下ろすインファを見上げた。
「ボクは、信用してない……かな?」
「そうですね、そう感じますね。せめて、インジュだけでも、信じてあげてくれませんか?あなたは、何者なんですか?この幾重にも張り巡らされた、魔力の防壁は、本当に普通ではありませんよ?」
巧妙に隠された、防壁。インファだから見抜けるそれは、ラスティはもしかすると人間ではないかもしれない。と思わせた。インファは確かに、それを疑っていたが、本当に?だとすると、これ以上ラスティの魔力に触れるのは、危険かもしれないなと、インファは覚悟した。だが、今、暴かなければならなかった。副官として、王を守らなければならないから。今のインファには、守れるモノが限られてしまう上に、ラスティは味方でいれば心強いが、敵だったとしたら早めに排除せねばならなかった。なぜなら彼は、今のインファよりも格段に強いのだから。
「え?そんなこと、初めて言われたよ。ボクは……郷にいたとき、定期的に魔力を探られていたんだ」
インファから逸らされて、天井に向いたラスティの瞳が辛そうに歪んだ。
魔音の郷で、人権を無視されてきたのか?と、インファは察した。魔導士は好奇心が旺盛だから、中には、心なくやり過ぎる輩もいるだろうなと、インファはラスティに同情した。
「よくオレに探られることを、許しましたね」
魔力を探ることは、精神に触れるということだ。細心の注意を払わなければ、相手の尊厳までも傷つけかねない。触れられている触感、痛み、快感――他人が肉体に与える感覚を、心で感じてしまう。数々の精霊を導いてきたインファは、自分もリスクを負うことで、相手を傷つけないようにしてきた。故に、インファに魔力や霊力を探られて、不快感も持った者は皆無だった。
その方法を教えてくれたのは、リティルだった。
リティルは、シェラをそれで傷つけたからと、おまえは誰も傷つけるなと、そう言って、練習台になってくれた。リティルは、インファが、力を探らねばならない事態に陥ることを感じていて、先回りしてくれたのだ。
「逆らえるわけがない」
そう言ったラスティは、本当に無抵抗だった。抵抗しても無意味であることを、精神に刻まれているかのように、服従していた。これは……インファは嫌悪しか湧かなかった。
ラスティが受けてきたことは、やりすぎという言葉では到底括れない。しかし、やらなければこのゲームに負けると、インファは心を鬼にした。
「そうですね。ですが、傷つけませんよ?」
「ごめん……違う……。インファなら、信じられるんだ。それを……示したくて――」
ラスティは息を吐くと、眠そうに瞳を閉じた。
すみません。催眠をかけさせてもらいました。と、インファは優しくないと謝った。
このまま魔力を紐解いて、冷酷に暴くこともインファにはできた。だが、ラスティの精神についた傷が、インファにやり方を変えさせた。ラスティがどんな目に遭ってきたのか察したために、これ以上彼の魔力に触れたくなかった。本当に……よく承諾したな!とインファは、ラスティを頭ごなしに叱りたい気分だった。
「あなたは、どれくらいの時を、ここで過ごしているんですか?」
「もう忘れたな」
「あなたが、あなたでいられるのは、風の王の言っていた、待機場所でのみなんですか?」
「そうだよ。ゲームが始まると、ボクはボクではなくなるんだ。そうしないと、ミューリンを殺せない」
「今、ここにいるあなたは、どういう状態なんですか?」
「ジャックと切り離された、半身。今回限りだ。失敗すれば、ボクは……消滅する」
「セドリ、あなたは風の王の契約者です。報酬はきちんと受け取ってください。オレが言っている意味、わかりますよね?」
「ボクは……ラスティだよ。これで失敗するなら、もう……いいんだ。風の王は、今回に賭けた。だからボクも、今回に賭けた。だけど、ボクがジャックと分かたれたことで、ゲームに不具合が生じてる。ジャックが、リティルを狙うなんて思わなかったんだ!インファ!もしもの時は、ボクを殺して。そうすれば、このゲーム自体が消滅する。終わらせる事ができるんだ!覚えておいてほしいんだ。ボクはきっと、思い出せないから」
瞳を開かないまま、ラスティはインファに訴えてきた。インファは落ち着いてと言うように、優しくラスティの頭を撫でた。安堵したのか、乱れた心が落ち着いていくのを、インファはラスティの胸に置いた手の平に感じた。
「これは、ゲームなんですか?」
「ジャックがミューリンを殺すのは、この大陸を存続させるためのシステムなんだ。それを、ボクが条件をねじ込んで、終わりがある状態――ゲームに作り替えた。ミューリンが、精霊であることを思い出せば、このゲームは終わる。でも、早くリティルを、解放しないと……。ああ、ミューリンが、風の精霊だったら……よかったの、に……」
彼女が風の精霊だったら、こんなことには……と、ラスティは嘆き、リティルを巻き込んだことを、悔やんでいた。本来、ミューリンしか狙わないはずのジャックが、妨害もされていないのにリティルを狙ったことで、彼は動揺しているようだった。
「インファ、ボクを――」
「諦めないでください。ラスティ、オレ達がいます。オレ達は、勝ちますよ」
殺して。と続くであろうラスティの言葉を、インファは遮った。
「うん……ありがとう……」
閉じたラスティの瞳から、涙が流れていた。そして彼は、インファの言葉に小さく笑った。
「インファ、聞いて。ミューリンの生まれ変わりはエーリュだ。エーリュを……守っ――て……」
眠りに落ちたラスティの胸から、インファは手を放した。これ以上は、負担を考えるとできなかった。だが、予想以上の成果だった。
ジャックの妨害に遭うかと思っていたが、リティルが与えた傷は深いようだ。それとも、彼が、抗った結果なのだろうか。
インファは、眠るラスティに視線を落とした。
「オレは優しくないんですよ。ラスティ、あなたには、エーリュの心を掴んでもらいます」
優しくない。そう口では言っていたが、インファの瞳には、護るモノの優しい笑みが浮かんでいた。
インファはベッドの脇に椅子を置き、腰を下ろした。深く眠れるように催眠をかけたが、目が覚めるまで監視が必要だ。インファには、これ以上、ラスティを苦しめる気はないのだから。
それにしても、彼の恐怖の対象が”男”だったとは、予想外だった。風の王・リティルが平気なのはまあわかるとして、なぜオレは平気なのか?なぜ、インジュがアウトなのかと、基準がわからない。
二人、未だに微妙な距離だが、ラスティはインジュから逃げまいと努力して見える。昨夜、インジュに背負われていたのだ、克服しつつあるのだろうか。
しばらく考えを巡らせていると、誰かが帰ってきたようで、部屋の外が騒がしくなった。
「兄さん!あ――」
インジュはどうしてこんなに、落ち着きがないのか?と思いながら、インファは唇の前に人差し指を立てた。インジュはすぐに察し、口を噤んだ。インファはゆっくり、インジュに合流したのだった。
「あの、ラスは?」
「生きていますよ?」
「当たり前です!兄さんを、そこまで怖い人だとは思ってません!」
声を思わず荒げたインジュに、インファはニッコリ笑って再び、唇の前に人差し指を立てた。インジュは口を噤みながら、部屋の中を窺った。
「起きるまで、そばにいてあげてください」
「ええ?ボクですかぁ?」
気になるくせに、あからさまに嫌そうにするインジュに、インファは笑った。しかし、有無を言わさず、頼みましたよ?と言い置いて、インファはインジュを部屋の中に取り残して、部屋を閉じた。
取り残されたインジュは、ため息をつくと、仕方なく、インファの座っていた椅子に腰を下ろした。顔色を確かめると、血色がよくなっていた。インファがしっかり面倒を見てくれたんだなと、インジュは安堵した。
インファの結論は出たのだろうか。優しい顔をしていたが、あれが本心なのか、本心を隠す仮面なのか、インジュには見抜けない。今頃、リティルに報告しているのだろうなと思うと、なぜボクは遠ざけられたのかとインジュは恐ろしくなった。
インファは、インジュがラスティを気にしていることを知っている。インジュも別段隠してこなかった。
でも、彼がもし指揮棒の精霊なら、友達になっても全く問題ないのでは?エーリュと結ばれても、まるで問題がない。このままゲームに勝つことができれば、二人ともイシュラースへ行ける。インジュも、遊びに行ける。
そう思うのに、なぜだろう気分が晴れない。この世界は、何を隠しているのだろうか。
ラスティを見ている限り、敵とは思えない。彼のこれまでが偽りだということはないと、インジュは断言できた。偽り慣れているインジュを欺けるとしたら、それはもう未知の生き物だ。そう思うのに、胸騒ぎが、やまない。
歌う緑の魚という世界の手の平の上で、踊り続けなければならない今を、インジュは恨めしく思った。そして、リティルは一人で、二度もこんな想いをしたんだなとやるせなくなった。インファはそんなリティルの為に、真っ向から立ち向かうつもりなんだと感じた。
ボクは?もし、ラスティが敵だったとしたら――
「……インジュ?……帰って、来てたのか」
ボンヤリしていたインジュは、下から声をかけられて我に返った。
「音の精霊、エーリュでした」
唐突になってしまった。ラスティが敵かも知れない。受け入れがたい想像に囚われていたインジュは、僅かに動揺していた。インジュは臆病なのだ。インファの決定も、リティルの決断も、怖くてたまらない。
怖いから、普段は中核に関わらない。風の精霊として、命を奪えなくても力は申し分なく、風の王の盾であるインジュなら、十分、王と、副官、補佐官の傍らにいることができる。
インジュは、それをせずに蚊帳の外からいつも、三人を眺めていた。
晴れない気持ちも、切ない思いもしたくなかった。スッパリ、ハッピーエンドだけがよかった。我が儘で子供なのだ。
中核にいる風三人が、心を砕く様を見てきた。リティルが、自分自身に怒りを向ける様を、蚊帳の外から見つめていた。そんなリティルを支えて、できるだけ優しい結末を導こうとする、インファの姿を見ていた。
今回の事案に頼もしい風の城の皆は関われない。いつもサポートしてくれる、風の城が背後にいないのだ。たった三人で立ち向かわなければならない。だから、今回だけはボクの手で、父と主君を助けたかった。どんなに体に傷がついても平気なのに、心は誰よりも脆く弱いことを自覚していても、インジュは、大事な二人が笑う結末を導ける手助けがしたかった。
リティルとインファについて、この大陸のゲームをすることを望んだのは、インジュ本人だった。積極的に仕事しようと思ったのは、たぶん、これが初めてだ。それくらいインジュは、今まで、言われたことしか、やってこなかった。
インサーフローのヴォーカルの座を勝ち取る為に、インジュは歌を猛練習した。
元風の王で、リティルと同じく、変幻自在に歌うことのできる、夕暮れの太陽王・ルディルのところで実は隠れて特訓したのだ。
「ほお?おまえ、筋がいいねぇ。で?ナマケモノのおまえさんが、どういう風の吹き回しだ?」
ピアノの前で、豪快でがさつなルディルは、ニヤニヤしながらからかってきた。
「リティル、二回失敗してるんで、ボクが盾になりに行くんです」
「あ?感情なんざ、どう肩代わりしようってんだ。ああ、インファか?今回の敵、聞いた通りなら一番ヤバイのは、インファだろうからなぁ」
インファの歌が、増幅器であることを、ルディルは知っていた。リティルが無茶をすれば、インファは、邪妖精を寄せるのも構わず歌う。そんなこと、容易に想像できた。翼を封じられ、武器を握れない状態では、インファは戦えない。そして、そんな状況になるだろうことも、想像がついていた。
風の城でリティル以外に、体術を扱えて歌えるのは、インジュだけだ。
しかし、リティルは単純に、インファと合わせられる歌い手を求めた。その条件では、選ばれるのはおそらく、風の王妃・シェラだ。インジュの歌声では、シェラの慈愛の声に敵わない。もっと付加価値をつけて、売り込まなければと、ルディルを頼ったのだった。
いつも一歩引いて城の中核を眺めているインジュが、こんな積極的な姿にルディルは面白がるとともに、本気であることも汲んでくれた。
「だがなぁ、おまえ、大丈夫なのか?ジ・エンド・オブ・ザ・ワールドのこと、リティルにもインファにも話してねぇんだろう?」
ルディルは、怠け者で、中核を担わないインジュが、なぜそうしているのか、何となくだが、そのジ・エンド・オブ・ザ・ワールドという固有魔法のことを知ったことで、気がついた。
気持ちは何となくわかるが、今インジュがその固有魔法につけている発動条件では、生涯たった一度しか使えない。そしてその発動のしかたを、リティルは、望まない。それどころか逆鱗だ。怒り狂うあいつ……頼むから、グロウタースに巨大台風を呼ぶなよ?とリティルを強いと評価しているルディルは、風達を案じていた。
「あのー、それ、どこから漏れたんです?いえ、いいです。たぶん、わかりました。こんな固有魔法、話せるわけないです。知られたのも、偶然だったんですよ。誰にも、知られる気、ありませんでした」
「そこまでするかねぇ?ならいっそ、殺せる殺人鬼になりゃぁいいんじゃねぇ?」
インジュは首を横に振った。
「できません。ボクが命を奪うときは、世界が終わるときです。ルディル、もう少し付き合ってくださいよぉ!もっと上手くならないと、ボク、シェラに勝てません!」
シェラと聞いてルディルは、ニヤリと凶悪に微笑んだ。強敵であることが、ルディルにもわかったようだ。
「相手はシェラか……んじゃぁ、こっちの曲調でいくか!あ、インジュ、おまえさん口、堅いか?」
「はい?何なんです?」
「いやなぁ、親子だなと思ってな。前にリティルのヤツが失敗して帰ってきて、もの凄ぇ荒れただろう?あのあと、インファがな、歌とピアノ、特訓してほしいってなぁ来たんだわ」
それを思い出したと、ルディルはガハハハと豪快に笑った。
「えっ!お父さんが?今、作詞作曲して、ピアノ弾き語りですよ?もの凄く上手いですよ?お父さんも、努力してたんですね……。ルディルが、ピアノ弾けるのも、なんか意外なんですけど……」
意外ってなんだ?とルディルは笑った。リティルは笛の名手だぞ?と笑った。
「インファも本気なんだ。器用な分だけ、オレはあいつが心配だな。行くからにはインジュ!最上級の意地、見せろ!」
「はい!ボク、頑張っちゃいます!」
そうして、インジュは、インサーフローの片割れを勝ち取った。初めて、自分で勝ちたいと思って、勝ち取ったものだった。
歌う緑の魚大陸に来て、皆と争って歌うことも、楽しかった。自分が、人間ではないことを忘れるくらい、本気で歌った。この場所は、インジュにとって、大事な場所となった。ずっと歌っていたいと思えるくらい、大事だった。
フレイムストームも、エリュフィナも、友達だ。インジュには、彼等を守る力がある。だから、別れが目の前に見えた今、すんなり煌帝・インジュに戻ることができる。
エーリュが音の精霊だったと告げられて、ラスティは目眩を起こすくらい急に体を起こした。
そんなラスティを見据えながら、インジュは立ち上がっていた。
「ラス、ボクの本当の姿。見せてあげますよ」
あなたは、逃げてていいんです?インジュは、冷ややかに思っていた。
ラスティが好きだと、教えてくれたエーリュはもう、自分からはラスティに近寄れない。自分のことで精一杯になってしまったこともあるが、様子のおかしいラスティも、他者に必要以上に関われないと、思っているからだ。エーリュは遠慮しいだからと、インジュは思った。
インジュは、瞳を閉じた。
煌帝・インジュ――臆病で、命を奪えない、不甲斐ない風の精霊。
他の精霊が、どう噂しているのか、インジュは知っている。それでも風の城は、インジュの手が汚れるのを嫌がってくれている。風の城で、一番穢れているのに、皆は綺麗だよと言ってくれる。
「ボクは、煌帝・インジュ。殺さない殺人鬼です」
インジュの背に、金色の雄々しいオウギワシの翼が生えていた。
ラスティは、インジュが精霊であることは知っていたが、目の当たりにするのは初めてだった。美しいなと思いながら、この世の者ではないんだなと思って、とても、インジュが遠い存在に感じてしまった。
「ラスは、見せてくれないんです?どうして、見せてくれないんですか!」
ボクは、見せられるのに!と、インジュは突然怒りだした。何を見せればいいのか、インジュが何を言いたいのかわからず、ラスティはただただ戸惑っていた。
もしかして気づかれた?魔音の郷でのラスティ。いや、だったらもっと――過去に臆してしまい、言えない……見せられないとラスティは、自分自身をさらけ出すことを拒んだ。
唐突に、インジュの背中の翼が崩れて、無数の羽根となって散り失せた。散った羽根も、儚く、インジュのキラキラ輝く金色の髪のような光を返しながら、消えていった。インジュは、ガクリと膝をつくと、ハアハアと浅く息をついた。力を制限されている状態で翼を具現化することは、インジュであっても長くは保たなかった。上級精霊でしかないインファでは、自身の霊力から翼を具現化することは不可能だ。力の理解力の高いインファは、それでも、強力な守護妖精であるセリテーラを使い、現状に抗っている。
ジャックの強さは、驚異だ。精霊が三人いても、不死身の彼とやり合うのは、相応の犠牲を覚悟しなければならなかった。
インジュは迷いの中にいた。
精霊三人の中で、ジャックとまともに戦えるのは、ボクだけだと、リティルとジャックとの戦闘を見て、理解していた。戒めを解き、命を奪えるようになれば、インジュが、矢面に立つことができる。だが、それを、二人は望まない。
守ってる場合じゃないでしょうが!と思いながら、それに甘えている自分にも、苛立っていた。そこへ、閉じこもり気味なラスティ。ジャックとそこそこ渡り合える力を持ちながら、力を発揮できないその姿に、インジュはさらに理不尽に、苛立っていた。
ラスがやる気になってくれたら、ボクと二人でみんなを守れるのに!と、インジュはラスティの実力を認めていた。
「いいんです?エーリュ、ボク達の世界に行っちゃいますよ?今のままで、いいんですか!」
膝を折ったインジュを心配して、ラスティはすぐさまベッドから降りてきた。そういう優しさがあるのに、何だってこの人、肝心なところで行動しないんだろうかと、インジュは苛立って、同じ目線でいるラスティを睨んだ。
「別れることがわかっているのに、近づけない……」
ラスティは視線を逸らし、前より距離は近くなったものの、結局インジュに触れなかった。普通の人の間合いより広いラスティの間合い。それは、出会ったころより狭くなっていた。喧嘩腰でなければ、視線は相変わらず交わらないが、それでも、心が近づいたことは感じられた。
「後悔しますよ?」
「近づきすぎたら、別れた後、寂しい……」
「寂しくなるのが嫌だから、ボクを遠ざけてるんですかぁ?寂しくったっていいじゃないですか!今、好きな人と笑っていられることのほうが、断然大事です!ボクが精霊じゃなくたって、人間だったとしても、別れが来るじゃないですか?人間とは仲良くできて、ボクとはできないなんて、おかしいです!」
ズイッと間合いを詰めると、ラスティは戸惑って体を引いた。
「イ、インジュ、何言ってるのかわからない。ボクは別に、エーリュをそんな目で見てない。インジュを遠ざけてなんて、してないだろ?」
そしてまた、ラスティは視線をインジュから外した。
「近寄ってもこなかったくせに、十分、避けてるじゃないですか!」
「インジュが遠くにいたんじゃないか!」
ボクだけのせい?違う!インジュだって!とラスティは、怒りを覚え、インジュを睨んでいた。
そういう瞳でなら、ボクと目、合わせられるんですよね!と、インジュはさらに苛立った。
「よそよそしいんですよ。そばにいて、楽しいのはボクだけじゃないですか!死んじゃいたい顔して!ラスは、目障りなんです!」
「死……?ボクはこういう顔だよ!初めから!」
言葉を買って声を荒げたラスティに、インジュはスウッと瞳を細くした。
「はい、そうですねぇ……前髪で、壁作って、ボクは人と違うーですか?違いますよ。ボクや兄さん、リティルだって違いますよ!インサーフローが、努力もなしにここまできたと思ってます?兄さんは三十年前から猛練習してました。ボクは、行くって決まってから慌てて……それでも十五年くらいがんばりましたよ。霊力使ってません。実力です!もう一回言いましょうかぁ?実・力・です!初めから戦う気がないなら、風の奏でる歌一本で行ってますよ!」
リティルに歌わせれば、一発殿堂入りですよ!と、インジュは憤った。
「ボク達も、生きてるんですよ、ここで!毒蛇とか、爪入りケーキとか送りつけられながら!」
「毒?爪?ちょっと、待って!」
「待つ?この期に及んで、何を待てって言うんです?エリュフィナとフレイムストームの共演だって、ボク達寝る間も惜しんで練習してましたよ!もおおおお!ボク、失恋の歌は嫌だって言ってるのに!別れても好き的なことなんて、言わせないでくださいよぉ!」
哀しいのは嫌だ。いっそ心中した方がましだ!とインジュの愚痴は暴走していた。
ああそれで、インジュはいつも同じ場所で音程が狂ってたのかと、ラスティはやっとわかった。エーリュはどうしたの?と心配していたが、インジュは言わなかった。人の歌だから、遠慮して言えなかったのだ。しかしインジュは、本番までに克服してきた。インファが、頑張っていましたよ?と苦笑いしていた。
思えば、インサーフローの歌に、失恋歌はほとんどない。始まる前や、恋愛中にすれ違ったりする切ない歌の他は、本当に明るい。聞いていると、力をもらえるようなそんな歌が多い。インジュの笑顔には、その方が似合う。
「言えばよかったのに……」
「言えませんよ!ボク、プロですよ!ラス、もういっそ、精霊になりたいって願ってくださいよ。ここは生きづらいんでしょう?契約者報酬出るって、聞いてますよね?風の王・リティルに叶えられる願いなら、なんでも一つ手に入るってヤツです。リティルは生き様を見守る精霊です。人間の一人や二人、精霊にできちゃいますよ」
え?とラスティは耳を疑った。精霊になりたいと、しばらく前に思ってしまったところだった。それを、インジュに突きつけられて、動揺してしまった。
「で、でも、精霊って……ボクは、何の精霊になれるって言うんだ?」
「エーリュ、落としてくださいよ。そうすれば、音の精霊のセドリガーで決まりです」
「ど、動機が不純じゃ……」
「ラス、エーリュの事好きですよねぇ?想いがあれば、いいじゃないですか」
何言ってるんです?とインジュに肩を叩かれ、ラスティはえ?ち、違う……と、簡単に動揺した。さっきはすんなり否定してたのに、この人、チョロいなと、インジュは冷ややかに思った。
インジュは、導いたつもりだった。
だが、インジュの歌う歌のようには、上手くいかないことを知ることになるのだった。
どうして、こんな事になっているんだろうか。
ラスティは、エーリュとも、まともに話せなくなってしまった。エーリュの方も、恋心を自覚してしまっていて、ラスティに近づけないでいた。
「あのー、エーリュ、ボクに惚れてないですよねぇ?絶対、やめてくださいよ?ボク、恋愛できませんからね!」
今まで、髪が長かったことがないエーリュは、上手く髪が結えなくて、なぜかインジュがエーリュの緑色に波打つ髪を、ポニーテールに結ってあげていた。
一行は、エーリュが落ち着くまでは動かないほうがいいだろうと、未だ、イチの村にいた。エリンの家でラスティといるのが気まずいと、エーリュはインジュと鎮魂像の広場に来ていたのだった。その広場にはベンチがあり、インジュはベンチを跨いで、エーリュの後ろに座っていた。
「もう、いっそ、インジュがいい!」
泣きそうな深緑色に変わってしまった瞳で、エーリュはインジュを振り返った。
全くこの娘は!ボクが絶対に安全だって思い込んでるんだから!と、インジュは確かに心は動かないけどと思いながら、歯痒さに奥歯を噛んだ。
「自暴自棄禁止です!安全圏に逃げちゃダメです。ボク、もう立派に精霊なので、エーリュのセドリガーにはなれません。ラスティ落としてください。空いてるの、あの人しかいませんから!」
あの人の実力なら、精霊のセドリガーなんて朝飯前です!とインジュは大きく出た。
「今言ったら、そう思われるじゃない!」
「選んじゃったって、言えばいいんですよ!セドリガーはセイレーンの決定に、逆らえませんから」
「でも、わたしまだ何も感じてない!」
「真面目ですねぇ。それ、まだ力に目覚めてないからです。エーリュは姿は精霊っぽいですけど、力はからっきしです」
まだ、人間ですとインジュは断言した。
「どうすればいいの?」
エーリュは縋るような目で、後ろにいるインジュを見上げた。その視線に、インジュは怯んだ。インジュには、力なんて導けない。こういうことが得意なのは――
「どうって……兄さん!助けてくださいよぉ!」
様子を見に来てくれたのだろう。インファが、こちらに近づいてきていた。
インファは、どこか困った顔で笑っていた。
「お二人とも、噂になっていますよ?」
仲良しですねと言われて、インジュはガタンッとベンチを立った。
「えっ!困ります!インサーフロー、恋愛禁止ですよね?」
「禁止ではないですよ?オレは否応なく不倫になるので、できないだけです」
「兄さん……プロフィールに、結婚してること書いてないですよ?」
「ねえ、ずっと疑問だったんだけど、インジュ、どうして今まで誰とも噂になってないの?」
「はい?そんな要素ないですよぉ?」
いや、あるでしょう?とエーリュは、美形なインジュを見返した。インファさんは誰がどう見ても美形の男性だが、フンワリと柔らかい雰囲気のインジュも、十分すぎるほど美形だとわたしでなくともいうと思うと、エーリュは自覚のないインジュに苛立った。
「それをでっち上げられるのが、週刊誌よ。インジュ、結構誰とでも気さくなのに。歌姫だけじゃなくて、楽器の方の人達とか、女優さんとか!」
ホント、見境ない!とエーリュはなぜか怒りだした。
「そう言われても……百合恵さんが裏で手、回してたとかです?あああああもお!兄さん!歌いましょう!ボク、今まで歌にドップリだったんで、今もの凄ーく、ストレスがですねぇ!」
そうでしょうねと、インファは空回っているようなインジュに、優しく微笑んだ。
インジュは他意なく、ミューリンタワーを徘徊していた。そして、破竹の勢いでランクを駆け上がるインサーフローは業界でも有名で、いろいろな思惑から様々な人々に声をかけられた。インジュ自身に警戒心はまるでなく、そんなインジュを専属バンドのメンバーが護衛していたことを、彼は気がついていない。インファが睨みをきかせてもよかったが、おまえに疲弊されては困るからと、バンドのメンバーに止められた。
雪夜……ソエル……ノートン……。
大事なインサーフローの仲間達……皆は、今何を思っているのだろうか。彼等の事を、裏切ってしまったなと、インファはガラにもなく後ろめたかった。
「お?インサーフロー、歌うのかよ?笛でよければ、伴奏してやるぜ?」
鎮魂像の裏から、リティルがヒョッコリ顔を覗かせた。え?いつからいたの?とエーリュは驚いていた。
「こういうときは、持ち運べる楽器がいいですね。では、オレはギターですかね」
インファはそう言うと、セリテーラに頼んで、ギターを出したもらっていた。
「セリテーラ、ピアノにも変化できるんじゃねーか?」
「やってやれないことはないですが、セリテーラ、音痴ですからね。調律が狂っているかもしれませんよ?」
そう言って微笑みながら、インファはベンチに腰掛けると、ギターの調子を確かめ始めた。
「それ、セリアが聞いたら怒るな」
雷帝妃は、本当に壊滅的だった。彼女の場合は、緊張もあったのだろう。インジュが「お父さん、伴奏してください」とインファを指名して、歌い出したときのセリアのあの顔、リティルも感心したが、母親の彼女が一番驚いていた。これはもう、インジュで決まりだなと皆が思っていたとき、彼はインファに囁いて『風の翼』を完璧に歌ってみせた。
そのときリティルは、インジュが努力をして、インサーフローを勝ち取りに来ていたことを知ったのだった。
「怒った顔も、可愛いですよ?さて、バンドがいないのが痛いですが、何にします?」
思えば彼等は、百合恵が連れてきた。インファが素性を知らない、三人。どんな無茶を言っても対応してくれる、かなり腕のいい音楽家だった。
彼等の素性を詮索しなかったのは、百合恵を含めて、彼等の前でだけは、インサーフローでいようと思ったからだ。共に戦ううち、精霊であることを知られたくないと、思ってしまった。意識しなければ、自分は精霊で、この世界の住人でないことを自覚できない。
これは、まったくもって恐ろしいゲームだなとインファも思う。
違う人生を、歩かされる感覚。これは、数多グロウタースに接してきた中で、今までにない関わり方だった。この日々が、終わってほしくない……自分が何者なのか、わからなくなりそうだ。
彼等元気ですかね?とインファは、笑顔の可愛い一番年下の雪夜、体が大きくて甘党のソエル、寡黙にバンドをまとめてくれていたノートンのことを、思い出していた。彼等とはこれっきりかも知れないと思うと、インファでさえ、少し寂しく思ってしまった。
「風の奏でる歌がいいです。霊力抜きで歌えません?」
「ん?それ、三人で歌うってことかよ?まあ、オレ達三人なら楽器いらねーけどな。インジュ兄が、主旋律でいいよな?」
「せっかくなので、伴奏しますよ。適当にハモるのでどうぞ」
風の奏でる歌なら、リティルが歌ってくださいと、インファはニッコリ笑った。あなたの持ち歌だからとそう言って。
「よろしくな、インファ兄!じゃあ、行くぜ?」
せーのと、インジュとリティルは向かい合うと声を合わせた。
二人の声が、風に溶けるように広がっていった。霊力を込めなくても、インジュの明るい自由な歌声は、風の奏でる歌を魅力的に彩った。インジュの邪魔をしないようにリティルは抑えめに、しかし、インジュとは違う野性味を帯びた、若く花のある声が、調和していた。そこへ、ギターの音色と、インファの切なく落ち着いた声が重なる。
これは、もの凄く贅沢なのでは?エーリュはインサーフローの歌う、幻の歌に感激しながら耳を傾けていると、複数の気配を感じて顔を上げた。やっぱりこうなるよね?とエーリュは、家々から人々が次から次へと出てきて、あっという間に人だかりになる様を中心から見ていた。
──叫ぼう 悠久の風の中 君と生きていけると――……
最後の旋律を歌いきると、拍手が起こった。インサーフローは、皆に向かい、一礼した。
インサーフローが、音々の歌い手であることは、森の入り口であるこの村には、知れ渡っているようだった。
当然の様に、アンコールがかかる。その声を受けて、リティルが、どうする?とインジュを見上げた。くすぐったいような嬉しいようなそんな顔で、リティルは笑っていた。
――リティルのそんな顔みたら、もっと喜ばせたくなっちゃいますよ
インジュは、インファに囁いた。頷いたインファは、リティルにこっちへ来て座れと促して、インジュに目配せした。
森に解き放たれた、人の手が作り出した音に、人々のアンコールの声と手拍子が止んでいた。見れば、セリテーラが尻尾に、音楽再生機をぶら下げていた。
あ、その手があったよな?とリティルは思った。あのからくりを使えば、楽器なしでいつもの演奏で歌が歌える。この大陸を引き揚げるとき、あれにインサーフローの歌をすべて録音して、持って帰ろうとリティルは決めた。
しかし、この曲?リティルは聞いたことのない歌だった。
インジュの高い裏声が、風に光を溶かすようだった。歌い始めたインジュに、インファが並んで声が重なる。途端に低く戻ってくるインジュの声が、皆の心を掬い上げるようだった。
――太陽に 風に 空に
――星に 夜に 月に
――君を見て 君に手を引かれ 君と踊る
――君は 光 まばゆい光!――……
歯切れよく軽快な歌だった。思わず、体が動いてしまう。そんな歌だった。
インジュの振り上げられた手がリズムを刻み、イチの村の鎮魂像広場は、ダンスホールへと姿を変えた。
――リナス リナス インファルシア!
――ミヤ ツェルワ インラジュール!
――解き放て! 解き放て!
――君は 光 まばゆい光!――……
「この歌。バトル音楽祭で、インサーフローが歌うはずだった歌よ?インジュが、発表できなくなったって、ダンスの休憩中に、歌ってくれたことあったの」
ああ、思わず踊りそう!とエーリュが感激していた。
「これかよ?すげーノリいいなー!格好いい!でも、いつ練習してたんだ?オレ、聞いたことねーよ」
この歌で戦っていたら、バトル音楽祭はどうなっていたのだろうか。三強はかなりいい勝負をしただろうなと、リティルは思った。
バトル音楽祭Bランク⇔Cランク。インサーフローは一抜けが予想されていた。だが、この歌で票を集めるのは、正直辛いだろうなと思った。今までのインサーフローとは違いすぎる。曲調もそうだが、歌詞が大きく違う。込められた心は前を向けと言われているようで、他の歌と通じるが、情景が浮かばない。
インファはなぜこの歌を?リティルは、終わったことだが少し疑問に思った。
得意の華やかな恋愛歌で戦えば、確実にランクアップできただろうに……。
「インジュ、リティル君を驚かせるんだーって。部屋で練習しないで、百合恵さんのところに行ってたみたい。インファさんもつきあってたよね?」
二人いなくて、気がつかなかったの?と逆に聞かれてしまった。
「うっ……ダークムーンと行き来してたから、名ばかり護衛だったんだよ。にしても、すげーなホントに歌い手なんだな……」
インジュ兄、また上手くなってるなと、リティルは感心していた。歌詞らしい歌詞がほとんどないこの歌で、ここまで聞かせるか?と驚いていた。
「お城で、ふたりはどんなだったの?」
「二人とも、あのまんまだぜ?オレはもう少し、大人かな?これでも王だからな」
末弟、楽すぎて困るぜ?とリティルは屈託なく笑った。そして、そろそろに王に戻らないとな!と少し大人びた笑みを浮かべた。
この人……表情で年齢も詐称しちゃう……とエーリュは、思わずマジマジと見つめてしまった。見つめられたリティルは、ん?と首を傾げた。エーリュは慌てて、首を横に振って、歌うインサーフローの背中に視線を合わせた。
精霊であるということに胡坐を掻かず、精進するインサーフロー。バトル音楽祭で共演できていなければ、取り残されたのはわたしだったと、エーリュには断言できた。
インジュがいてくれたから、あのステージに立てた。
――君は 光 まばゆい光!――……
インジュは、目のくらむような光だ。エーリュは無意識に、観客達の中を探した。
いた。アコとコールと共に、ラスティが立っていた。インジュの歌に、楽しそうに踊るアコの隣で、どこか放心しているような感じだった。
ラスティは、闇の中に灯る、光だ。インジュの光に隠れるようにして、ラスティはそこに佇んでいた。こちらを見ないインジュと、こちらを見つめるラスティ。エーリュは、二人に救われていた。
インジュの裏声が、心を空の高みへ連れて行く……。
歌い終わって一礼したインジュは、真っ直ぐラスティの所へ歩いて行った。
「どうです?格好良かったでしょう?」
「……それ、ボクに言うのか?」
格好良かったが、それを素直に伝えるのがとても癪だった。フフンッとドヤ顔をして自信に溢れるインジュが眩しくて、対抗心を刺激されてイラッとした。
「ちょっとは、開放的な気分になったんじゃないんですかぁ?俯いてないで……丹の村、行きますよ!」
ちょっとはいい顔、できるようになったじゃないですか?と、インジュは感情を抑えて、僅かに睨んできたラスティを見て、満足した。
――霊力なんて乗せなくたって、ボクの歌は、ボクの歌を心に留めてくれた人に、力が与えられるんですよ!どうです?参りましたか!
結局インジュは、インファの結論を聞けなかった。知りたいですか?と聞かれたが、二人にラスティをどうこうする気配がなかったために、聞かずにおくことにした。
いつも通り、肝心なことは聞かなくてもいい。所詮ボクは、下っ端だから。
王と副官の決断には、逆らえないから。
リティルの願いを、盲目的に叶えるだけだから……。
ラスティと睨み合っていると、アコが楽しそうに笑い出した。ここにも歌の影響を、多大に受けてしまった人がいたらしい。
笑いを収めたアコは、音楽再生機とは考えたわねとつぶやくと、インジュを見上げてきた。その興奮冷めやらない挑戦的な瞳に、何です?とインジュは僅かに怯んだ。
「インジュ、丹の村ではフレイムストームのゲリラライブに、付き合いなさいよね!」
共演してとアコは、両手を腰に当てて、インジュを挑発するように見上げた。
「いいですよぉ?インサーフローのインジュに、喰われてください!」
大丈夫か?とノリノリのアコと、反射的に承諾してしまったインジュの隣で、コールが苦笑いしていた。
「おいおい、行くにしても明日だぜ?勝手に決めてんじゃねーよ、インジュ兄」
なあ、インファ兄?と合流したリティルが、慌てて止めた。
「明日です?アコ、コール!練習しましょう!練習!時間がないですぅ!」
明日と聞いて、インジュは青ざめた。その変化に、今度はリティルが驚いた。インファは、でしょうねと、苦笑していた。明日までに、フレイムストームの歌を、聞かせるレベルに持っていくのは、オレには無理ですと、そう言った。
「はあ?今から行きそうな勢いだったくせに、歌えるんじゃねーのかよ?」
「だって、フレストの歌、難しいんですよぉ!エリュフィナはただ可愛いだけなんで、歌詞がわかればついていけるんですけど」
「あ、言ったわね!踊ってもらうわよ?わたしは、ダンスと歌、セットなんだから」
「あ、それ、さすがに即は無理です……」
ダンスも教えてくださいと言うインジュに、皆は欲張りだと笑った。
あの歌がこの歌がと、インジュとアコが騒ぐ中、コールがインジュの肩を叩いた。
「そう言えば、インジュ、格闘センスあったが、蹴らないんだな?」
エリンの家に引き返しながら、コールが素朴な疑問を口にした。
「普段空中戦なので、必要なかったんです。けど、今地上戦ですから、蹴れたらもっと戦えますよねぇ。リティル、蹴れます?」
「ああ?必要なら蹴るぜ?インジュ兄、足長いんだから使わねーともったいないぜ?」
「手合わせできます?」
「オレ?うーん……背が違いすぎて、教えられねーよ。エーリュ、君のダンスで、格闘してるような歌あったよな?」
「え?あるけど……ダンスで参考になるの?」
「なるぜ?あれ、オレも参考にしたしな!」
「ええ?嘘!」
「ホント。格闘ってリズムなんだよ。こっちのリズムに引き込んじまえば、小っこいオレでも格闘で勝てるんだよ」
「こんなこと言ってますけど、リティルの強さはエグいです」
「何言ってるんだよ?インジュ兄に歌われて仕掛けられたら、格闘縛りなら負けるぜ?オレ」
「え?それ、かなり快感なので、手合わせしてください!」
「インジュ兄、フレストの歌、練習するんじゃなかったのかよ?」
欲張りだなーとリティルに笑われて、インジュは時間が足りない……とうなだれた。
時間が足りない――インジュの嘆きに、ラスティの心はさざ波立った。
インジュは精霊だ。精霊は永遠を生きる存在だ。そのはずのインジュは、当たり前のように、時間の有限さを知っていた。
永遠でないのに、ラスティはどこか、危機感がなかった。ラスティもまた、インファが魔力を調べた結果を聞いていなかった。封じられた光魔法とも、向き合っていなかった。
――余裕だね
誰かが、あざ笑った。
――そんなことで、ボクに勝てるの?
背中に、幻の、正体のわからない冷たい背中が重なって、身が凍った。そして、心に焦燥感が湧き上がった。早く早く、しなければ!でも……何を?
「大丈夫か?」
気がつくと、リティルが気遣わしげに顔を覗き込んでいた。
ここは、イチの村と森との境界だ。
インジュはフレイムストームと練習する!と言って、アコとコール、インファにエーリュまでも巻き込んで、エリンの家のダイニングを占領してしまった。家主のエリンは好きにしていいよと、笑い顔のまま言い置いて、ディープフォレストの仕事をしてくると、どこかへ行ってしまった。
ラスティは皆から何となく離れてしまった。当てもなく歩いて、ここへ来ただけだった。リティルが後をつけているとは、それすら気がついていなかった。
「インファ兄に魔力、探られたんだろ?」
リティルは、心配そうだった。
「え?うん。途中で眠くなって、あんなにグッスリ寝たのは久しぶりだった」
「ラスティ、嫌なことは嫌だって言えよ?霊力弄られるのは、オレだって嫌だぜ?」
魔法の手ほどきだけでは終わらないだろう事を、リティルも感じていたが、インファは無理強いはしないと信じていた。実際、インファは無理強いしていない。リティルがラスティの秘密を黙っていたことを「オレも聞かなかったですが、知らせておいてほしかったですね」と怒られたほどだ。
「インファは、気を使ってくれたよ。それに、慣れてる」
そう言った瞬間、リティルに乱暴に両腕を掴まれていた。
「慣れられるかよ!おまえ、もう精霊の子じゃねーだろ!ダークムーンのラスティだろ!」
精霊の子――久しぶりに聞いた。
ラスティは腹の中からせり上がってきたモノを感じて、リティルを突き放すと近くの木に縋った。吐いていた。リティルは何も言わずに、頽れた情けない背中をさすってくれた。
自分の吐く、荒い息の音を、聞きたくなかった。忘れていた過去が襲ってきて、背中をさすってくれているリティルの手でさえも、振り払いたくなった。
――ボクに、さ・わ・ら・な・い・で……!
叫びたくて、叫んでも聞き入れられることはなくて、気持ち悪くて、地獄だった。
インジュの触れてくる手が、怖かった。
逃げられない距離に近づいて、触れてくるインジュが、怖かった。
精霊の子と呼ばれていた過去。抗えない力に押さえつけられて、奪われ続けた記憶が、憧れだったインジュを遠ざけた。それを思い出して、酷く哀しかった。
インジュは、そんなことをしないと、すでにわかっている。けれども、避け続けてしまって、今更、どうやって近づいたらいいのかわからなかった。
「ラスティ、インジュ兄は、おまえの過去を知らねーよ。あいつの間合いが近いのは、もとからだ。そんな目で、おまえのこと見てねーよ。ただ、あいつも六属性が使える。同じだから、話ができるって、そう言いてーだけなんだ」
リティルは風の中から、水の入った瓶を取り出して、渡してくれた。そして、落ち着いたのを見計らって、そう言った。
リティルが、過去を知っていることに、ラスティは驚かなかった。彼は生き様を見守る者。風の王であるリティルが、契約者の過去を知らずに選ぶなんて、そんなことはないと思っていた。インファには、間合いの広さから、知られているかな?と思っていたが、彼も知らなかったとリティルは言った。ただ、魔力を探った時、知ったんだと、リティルのほうが辛そうだった。
「反属性返し。あいつは、どんな力が来ても、無力化したり跳ね返したりできるんだ。それは、源の力、透明な力の使い手だからなんだ。あいつは、精霊の中でも特異な部類だよ」
「それって、生命の大釜・ドゥガリーヤの?あの力が使える存在が……インジュ?」
精霊でもあり得ないと、言いたげなラスティにリティルは頷いた。
生命の大釜・ドゥガリーヤ――まだ、何者にもなっていないモノの渦巻く世界。命が産まれ、帰る場所。源の力は次元の大樹・神樹の幹を通り、精霊達に色づけされて、枝葉であるグロウタースに放出される。そうして世界は、回っている。
精霊達がいなければ、透明な力は何者にもなれず、グロウタースがなければ、消費されず、ただ、世界には混沌があるだけだ。三つの世界は、お互いにお互いを必要として、神樹により結ばれて、今の形を保っている。
「インジュは、受精させる力の化身なんだ。四分の一だから、透明な力の使い手っていっても、自在に使えるわけじゃねーけどな」
あの力を、完全に使える者は、精霊にもいないとリティルは言った。
「産む者が、殺したい衝動を持ってるんだ。源の力に近づきすぎて、風の精霊であるインジュは、ずっと苦しんでる。風の精霊は、死神だからな。あいつ自身が、反属性その者なんだよ」
「インジュ、殺したら――死んだりしないよな!」
「死なねーよ。風の精霊だからな。ただ、心に傷がつくだけだ。殺しを繰り返せば、傷つかなくなる。オレみてーにな」
リティルは、何でもないことのように笑った。
「オレは……殺したくねーあいつが好きなんだ。あいつの手を止めてるのは、オレのエゴなんだよ。おまえも、誰かのエゴの中で生きてきたんだろ?あいつと、友達になってやってくれよ」
顔を合わせれば、喧嘩ばかりしている二人。それは、勢いがなければ、お互いどう接していいのかわからないように、リティルには見えていた。最強クラスの男性恐怖症のラスティを救えるとしたら、ここまで対等に仲良くなれたインジュしかいないと、リティルは確信していた。なぜなのかわからないが、トラウマの発動しないリティルとインファは、ラスティに男と認識されていないらしいからだ。
「ボクも……透明な力の使い手?」
インジュはラスティを自分と同じではないのか?と疑っていたが、おそらく違う。透明な力の使い手が、当たり前に使える力である、治癒魔法をラスティは扱えない。世界に溢れる力は、基本的な六属性以外にもある。その一つが治癒だった。この力は、透明な力の使い手でなくても、比較的簡単に使う事ができる力でもあった。よって、コールは、六属性が使えなくても、治癒魔法を操ることができる。
ラスティは、インジュと違い、六属性以外の力は使えない。よって、透明な力の使い手ではない。
「違うな。おまえの場合、そういう風に生み出されたような感じがするんだよな。心当たり、ねーのかよ?インジュが、おまえのこと、指揮棒の精霊じゃねーかって、疑ってたぜ?」
「えっ!」
指揮棒の精霊は、ジャックだ。ジャックだと、敵だと思われてたのか?とラスティは頭の中が真っ白になった。それにしては、態度が変わらなかったような?どうして?とラスティは、簡単に混乱していた。
「ジャックじゃなくて、指揮棒の精霊な。セドリの方だよ」
「どっちだって、一緒だろ!」
「違うぜ?ジャックは、セドリが作り出した殺人鬼の人格だ。分裂して、おまえとジャックになってるんじゃねーかって、インジュはそう思ったんだよ。ミューリン遺跡が風化しねーように守ってた力が、六属性だったみてーでな、指揮棒の精霊は透明な力の使い手だったんじゃねーか、六属性フルスロットルのラスティは、もしかしてってな」
ミューリン遺跡の護りの力?その護りに、ラスティは心当たりがあった。
「あれ、ボクがかけたんだ」
「ん?」
「ミューリン遺跡の風化防止に、郷の賢者に頼まれて、全部の遺跡にかけて回ったことがあるんだ」
魔音の郷には、ミューリン遺跡を長年調べている賢者のグループがいる。彼等の依頼だった。それが、ラスティにとってダークムーンでの初仕事だった。それには、ハーディンも立ち会った。あれ?エリン導師もいたような気がするけど……彼は何も言わなかったのだろうか。
「おまえだったのかよ?だったら、インジュの反属性返し、すげー精度に仕上がってるな。あの力を解いたとき、インジュはおまえを感じて、それで混乱したんだな。ラスティ、教えてやれよ。インジュ、無理してるぜ?おまえ、見ててわかってるだろ?」
インジュは、ミューリン遺跡から帰ってきてから、感情の起伏が激しくなっていた。何かから、必死に目を逸らしたくて、そして空回っている様な感じだった。
エーリュが好きなのかな?と思って、ラスティは何となく彼女と距離を置いてしまった。インジュは、エーリュを落としてこい!と焚き付けてきたが、彼女は精霊になってしまうわけで、そして、インジュとは争いたくなかった。どうせ勝てないから。
「ボクはてっきり、エーリュが好きなんだと思ってた……」
「はあ?インジュがエーリュを好きなわけねーだろ?」
「そんなこと、わからないじゃないか!」
「落ち着けよ。インジュは、惚れた相手を諦めねーよ。譲らねーよ。恋敵がおまえだったら、尚更真っ向勝負だぜ?」
わかってるだろ?と言われて、ラスティは素直に頷いた。
「おまえ、インジュに遠慮して、エーリュに近づかなかったのかよ?もうちょっと、インジュ見習えよ!」
「でも……エーリュは、精霊なんだろ?」
別れがあるじゃないかと、ラスティは俯いた。
ほしいと、何にも手を伸ばさないラスティの姿が、ひどく希薄で、本当に消えてしまいそうな儚さをリティルは感じた。
この危うさを、インジュはいち早く感じたのだろう。生きる側に立つインジュは、生きることに希薄なラスティに苛立ちながら、放ってはおけないと本能で感じていた。だから、構い倒しているのだろう。
「……おまえのこと、オレが引き受けてやろうか?」
え?とラスティはどういう意味かわからずに、リティルを見た。
「精霊にしてやろうか?おまえの魂の輝きなら、精霊になってもやっていけるぜ?ただ、永遠を覚悟してもらわねーといけねーけどな」
「リティルの……配下に?」
「それでいいならな。おまえ、六属性だろ?どこだって選べるぜ?」
リティルは今まで、こんなスカウトをしたことはない。むしろ、拒んできた。
移ろいゆくグロウタースの民の精神は、精霊の永遠に耐えられないからだ。
ラスティにこんなことを言ったのは、彼が、指揮棒の精霊だからだ。グロウタースの民の心が、イシュラースで耐えられないように、精霊の心は、グロウタースでは耐えられない。ラスティには、人間として生きてきた時間が確かにあるが、催眠でセドリはきちんと出てきた。今後、音の精霊として覚醒していくであろうエーリュと共にいて、セドリとしての記憶が目を覚ますことは、十分考えられた。
リティルはインファから、報告を受けていて、ラスティがセドリの片割れであることをすでに知っている。
指揮棒の精霊であるラスティは、このゲームの勝敗に関係なく、消滅を選ぶことを仄めかしていたと聞いた。
インファは、契約者報酬はきちんと受け取れと、その後も生きろと諭してくれたが、今までの人生に、しがみつくモノを見いだせていないラスティの心には、残念ながら届かなかった。
精霊にならなくても、六属性フルスロットルを完全に捨てることもできる。リティルなら、選んだ力だけを残して、他の力を使えないように切り離すことができる。そうすれば、ラスティは普通の魔導士になることができる。ダークムーンで、気兼ねなく生きることができるようになるのだ。その道だってある。
精霊の子と持て囃され、その裏で、あり得ない魔力構造のラスティは、研究対象として魔力を弄られてきた。
精霊の子という呼び名を聞いただけで、吐くくらいだ。トラウマ以上の心の傷になっている。無理もない。あんな仕打ち、あり得ない。ラスティの自覚なく持つ指揮棒の精霊の魂が、イタズラに人の心を惹きつけてしまった。リティルは、そういう事例を見たことがあった。それは、惹きつけられた者にとっては、誘惑されたのと同じだ。ラスティは、魔力に幾重にも防壁を張り巡らせて守っていたが、六属性フルスロットルという特異能力者だったために、研究対象にされてしまった。彼の魔力に不用意に触れた結果だ。魅力的な力に触れすぎた結果、ラスティを研究していた者達は精神の一部を病んでしまった。
そして、それは、欲望となって、ラスティに向かってしまった。性をも超越して。
だからラスティは男が怖いのだ。
ラスティに、セドリとしての記憶がなかったための悲劇だった。
ラスティは、森へ行くと告げたときから様子がおかしかった。この地は、ラスティにとって苦痛以外何者でもないのだ。
しかし、進まなければならない。風の王の契約者としても、指揮棒の精霊としても。
結局ラスティは、精霊になるともならないとも、言わなかった。