二章 虹色を踊る娘
エーリュは、この塔へ入ってから、一度も街へ下りたことがなかった。
なぜだか、街が怖くて、早くこの塔へ入らなければと、そう思って歌ってきた。
ミューリンタワー。守られた、歌のゆりかご。
コールに突きつけられた、ダークムーンを雇わなければ、これから先、塔で歌姫を続けるのは難しいという事実。薄々わかっていた。
あの前髪の長い魔導士から、自分が殺されるのはいいのか?と言われてしまった。そんなわけない。怖いから、この塔の中にいるというのに……。
この、歌に溢れる煌びやかな世界。だが、歌の消費は激しく、数ヶ月前まで不動の人気を誇っていた者が、気がつくといなくなっている。
その中で今まだ歌っていられるのは、ただ運がいいだけだとエーリュは自分に自信が持てなくなっていた。
それは、無理もないことだった。今、このランクには上位のランクの者よりも光り輝くミュージシャンがいるのだから。
甘いマスクと、あの聞く者に力を与えるような声、歌唱力の高さ、素直に歌わないインジュを、上手くコントロールしている切なくて張りのあるインファの声と、ピアノの音色が溶け合う。バンドをメンバーに持たない、ロックミュージシャン――インサーフロー。
ロックバンドというが、ヴォーカルのアコはどんな歌も歌いこなすモンスター、彼女の歌声は、揺らめく炎のように形を変える。様々な音楽家が楽曲提供したがる、業界の人気者――フレイムストーム。
彼等と比べると、エーリュは自分がとてもちっぽけに思えた。三強と言われ、今回のバトル音楽祭の、目玉の様な扱いをされているが、エーリュは自信がなかった。
――わたしなんて、ちょっとみんなよりダンスが上手いだけ。アコとインジュに比べたら、歌唱力だって低いし……。
エーリュは、真夜中の一人では広すぎるリビングに立った。はめ殺しの大きな窓に、そっと手をつける。ヒンヤリと手の平に、心地よかった。
――ずっと、かごの鳥でいたい……
バトル音楽祭の舞台は、野外音楽堂。エーリュは、この塔からすら出たくなかった。
それでも――エーリュは、窓ガラスに爪を立てるように拳を握った。
歌っていたい。一秒でも長く!歌っていたい!この想いは本物なのに……エーリュは途方に暮れて、その場にしゃがみ込んでいた。
――お願い、わたしから、歌を奪わないで!奪わないで……!歌の翼を奪われたらわたしは……死んでしまう……。
「エーリュー!」
五階の商業区を一人歩いていると、元気な声に名を呼ばれた。振り返ると、おーい!と手を振っている、リティルがいた。
「リティル君。今日、お兄さん達は?」
「兄貴達は仕事。オレはコールに追い出されたんだよ。アコが護衛にオレがほしいっていうから来てやったのに、ことあるごとに閉め出されるんだぜ?酷でーと思わねーか?」
軽快に走ってきたリティルは、息一つ切れていない。童顔で背の低い彼は、十九才で、一つしか年が違わないのに、どうにも可愛く見えてしまう。上の兄二人が、煌びやか過ぎるせいだと思う。
彼の胸で揺れる、蝙蝠のペンダント。それは、彼がダークムーン所属の、魔導士であることを示している。
リティルと出会ったのはもう一週間前になるだろうか。食堂で一人遅いお昼を食べていると、アコがやってきた。いいことでもあったのか、アコはニマニマと笑っていた。
「どうしたの?」と問うと、アコは「新しい護衛、雇っちゃった」と食堂の入り口に向かって手招きした。新しい護衛?コールがいるのに?と首を傾げていると、コールに連れられて男の子が入ってきた。いや、彼はたぶん男の子ではなく男性だ。とエーリュはすぐに心の中で訂正した。「聞いて驚きなさい。彼はリティル君。あのインフロの弟君よ!」とアコはフフンとなぜかすごいでしょう?とふんぞり返った。
え?インフロの?インジュとインファさんの、あの?と彼等から弟の話を聞いていたエーリュは目を丸くした。嘘……似てない……と思ってしまった。そして、護衛?護衛って事はダークムーン?とエーリュはマジマジとリティルを見てしまった。
「はは、オレ、有名なのかよ?」と、リティルは困ったように笑った。「君、エリュフィナだよな?兄貴達と友達なんだろ?オレとも仲良くしてくれよな!」とリティルは、明るく太陽のような笑顔で笑ったのだった。
それからリティルとはよく顔を合わせた。たぶん、アコやインフロと会うよりも高い頻度で。初めはダークムーンの魔導士ということで、近寄りがたかったが、彼があまりに明るくて裏表がなくて、会うと癒やされている自分に気がついた。インジュが見つけると「リティル~!」と言って抱きついて、頭を撫でまくる気持ちがわかるような気がした。
インジュの態度もあるが、リティルのことは瞬く間に知れ渡って「ランクアップ頑張れ!」と応援されたり、仕方のないことだが悪意の籠もった陰口も聞こえてきた。
それは、リティルの耳にも入っているだろうが、彼の笑顔が陰ることはなかった。
ダークムーンでインサーフローの弟。彼はただ庇護されている末弟ではないのだなと、エーリュは密かに力をもらっていた。
「エーリュは?買い物かよ?」
「うん」
「何買うんだ?オレ、荷物持ちやってやるぜ?」
「いいの?護衛は?」
「コールが一人でやるってさ。オレ、どうしてここにいるんだろうな?」
受けなきゃよかったと、リティルは悪態をつきながら、エーリュと並んで歩き始めた。
このまま邪険にされたら、リティル君はダークムーンに帰ってしまうのだろうか?エーリュは唐突にそう思って、それは嫌だなと思ってしまった。だが、彼はアコの護衛だ。エーリュに口出しできるはずもない。
彼がわたしの護衛についてくれたら――そう思いそうになって、エーリュは慌ててその考えを打ち消した。リティル君を護衛に選んでしまったら、誤解される!と咄嗟に思った。
エーリュはリティルの明るさに救われているものの、恋愛的な思いは微塵もなかった。
気になると言えば――
「ねえ、リティル君、ラスティ、まだインジュと揉めてるの?」
インジュとラスティは、仲がいいのか悪いのかわからないような、微妙な感じに見えていた。ラスティはインジュが苦手なのか、詰め寄られると半歩ずつ逃げていた。インジュはそんなラスティに、辛辣にあたりながら、けれども護衛に慣れていない様子の彼の世話を焼いていた。そんな凸凹な二人を、インファが上手く操作している。
「ああ?ラスティ?インジュ兄に、おもちゃにされてるなー。この前、変な写真撮られたの知ってるか?」
「変な写真?って、ああ……」
「綺麗に撮れてたよなー」
「うん。綺麗に撮れてたね。写真撮った人、どうしてあんな風に撮ったのかしら?あの雑誌って、悪意のある書き方しかしないのに……」
「悪意、あっただろ?」
男同士だぜ?と、リティルに真顔で言われ、エーリュはアハハと笑った。
音楽祭が近くなると、人気を落とそうというのか、悪意のある写真が出回る。それは一種の人気のバロメーターなのだが、載せられたほうはたまったものではない。
今回載ってしまったのは、インサーフローのインジュだった。
左手薬指の指輪を巧みに使って、牽制する兄と違って、インジュは非常に無防備だ。あの容姿で、女性にも気さくな彼は、いつか撮られると思っていた。
だが、撮られた写真の相手は、なんと、ラスティだった。あれは確か、ラスティの前髪が鬱陶しいと言って、嫌がる彼の髪を分けてやろうと、手を伸ばして戯れていた時だ。
その一幕を、捉えた写真だったのだが。
インジュの笑顔が、少し意地悪で、頬杖をつきながら手を伸ばす様は、恋人に向ける様で。
「でもインサーフローの人気、上がっちゃったね」
あのあと、雑誌を見たインジュは真顔で、どうして相手があなたなんです?と不満そうにラスティに詰め寄って、困らせていた。この場合、巻き込まれたのはラスティで、被害者は彼なのにだ。
インサーフローの人気が、ある層で上がったことは、リティルも知っていた。知っていたが理解しがたかった。エーリュには言えないが、相手が、アコかエーリュならよかったのに!と、インジュは悔しがっていた。その発言にも、リティルは理解しがたかった。
アコと噂になったら、コールと険悪になるし、エーリュとそうなったら、お互いの楽士が近づけさせないと思うからだ。それは、今後を考えるとよろしくない。
「インジュ兄、笑顔は最高にいいからな。エーリュは?あれから大丈夫なのかよ?」
「……うん」
エーリュは暗い笑顔で頷いた。ああ、まだ送られてきてるのか、死体。と、リティルは察した。困ったなぁと、リティルは思った。彼女を見ていると、放っておけない。アコはメンタルが強そうだが、エーリュはどうにも頼りない。この弱肉強食の世界で、よくCランクまで上ったなと思ってしまった。
スーパーで買い物を終え、リティルが紙袋を抱いて出てくると、感じ慣れた気配が三つ近づいてきた。
「リティル!会えると思ってなかったですぅ!」
リティルが声をかけるより早く、満面の笑みのインジュに抱きつかれていた。あんな写真を撮られたばかりなのに、こいつ、懲りないなと、紙袋が邪魔で突き放せずに、されるがままのリティルは思った。
「よお、ラスティ。疲れてるな」
「うん……インジュにリンゴ投げ付き合わされて……」
腕が上がらないと、ラスティは本気で疲れていた。リンゴ投げ?と、リティルが抱きつかれたままインファを見上げると、彼は苦笑した。
「撮影だったんです。それで、片手でリンゴを受け止めた瞬間を撮りたいとかで、ラスティに投げてもらったのはよかったんですが、この人、いちいち握り潰すんですよ」
それは、凶悪な笑顔で写真が撮れただろうなーと、リティルは思った。でも、リンゴを受け止めた瞬間って、どんな絵だよ?と首を傾げた。
「インファ兄は?どんな写真撮ったんだよ?」
「秘密です」
「また脱いでねーよな?」
インファはニッコリと微笑んだ。こいつ、また半裸だったな?とリティルは思った。容姿も武器のうちとはいうが、やり過ぎじゃないか?と少し心配していた。インジュに聞いてみると、兄さんは大いにはしゃいでますと、楽しい回答が返ってきた。
インフロの担当楽士である百合恵は、あの手この手で売り込み世間を飽きさせない。しかし、決してミュージシャンに無理はさせない。リティルはその点は彼女を信頼していたが、ミュージシャンが写真集って……とその点だけは内心納得できないでいた。
二人の容姿的魅力を十分わかっている、それはそれは格好いい写真集に仕上がっているのだが、これは風の城には持って帰れないな!と闇に葬ることを決めていた。
無理してねーならいいんだけど……と、リティルが複雑な顔で考え込んでいると、インファはエーリュに視線を合わせてしまった。
「エーリュさん、弟のお守り、ありがとうございます。少し、話しませんか?」
何かあったのだろうか。インファの笑顔に、有無を言わさない威圧感があった。
インサーフローとエリュフィナ。
このメンツでは、どこへ行っても目立ってしまう。ならばと開き直っているのか、インサーフローはまったく隠れない。カフェの窓際の席に陣取ると、インファは女の子に向けるには鋭い視線を、エーリュに向けた。
「バトル音楽祭を辞退するというのは、本当ですか?」
あれは噂じゃなかったのかと、リティルは思った。しかし、なぜインファが怒るのだろうか。エリュフィナが消えれば、今の人気度ならBランクは確実になる。リティルの塔入りは、護衛という手も使えるため、どうしても、ランクアップしなければならない、というわけではなかったが、バトル音楽祭後は、インファ達と合流した方が、ジャックとやり合う為には都合がいい。
そして、このままエーリュが出なければ、音の精霊はおそらくアコで決定だ。
「エーリュ、今夜の生放送も揉めてますよねぇ?エーリュの人気度でも、降格しちゃいますよ?」
インジュは心配そうに、声色優しく言った。エーリュは「知ってるんだ」と、小声で呟いた。
「何があったんだ?」
前髪に隠れたラスティの表情は読めなかったが、彼からは少しの苛立ちと、失望を感じた。ラスティは、エーリュが好きなのか?それとも、エリュフィナが好きなのか?とリティルは、アイスコーヒーを飲みながら観察していた。そういえばエーリュも、それとなくラスティの話題振ってくるよな?とリティルは思って、あれ?インジュの話題だっけな?とどっちだ?とリティルは首を傾げた。
「エリュフィナ!」
答えないエーリュに、ラスティが声を荒げた。俯いたエーリュは、怯えたようにビクッと身を竦ませた。オイオイ、怯えさせるなよと、当然の様に庇って、隣に座っていたリティルは、そっと彼女の背に手を当てた。
「何が、送られてきたんだよ?」
「――……」
エーリュの、膝に置いて握られた両手が震えていた。リティルはうんうんと、小さく頷いた。もうダメだな、放っておけないと思った。
送られてきたのは、血に濡れた髪の毛の束だった。これはもう、バトル音楽祭に出るなと言われていると、エーリュが認識したとしても当然だ。強行すれば、唯一の味方であるドート楽士にまで、危険が及ぶかもしれない。エーリュはもう、動くことはできなくなったのだ。
「オレ、君の護衛につくぜ?」
え?とエーリュが顔を上げた。エーリュの瞳には、本当にいいの?と縋るような感情があった。リティルは、エーリュの信用を勝ち取ったことを確信したのだった。
「無償ってわけにはいかねーからな、報酬はインサーフローにつければいいさ。オレが勝手にくっつくんだからな。いいよな?兄貴」
リティルの光の灯る瞳で見つめられ、インファはため息をついた。長兄に伺いを立てるようでいて、これ、決定だからな!と言っていますよね?とインファは理解していた。
「止めても、あなたは聞かないでしょう?ですが、一つ、きっちりバラしてもらいます」
何を?とリティルは首を傾げた。
「あなたが、妻帯者であることです」
えっ!と、エーリュが瞳を瞬いた。既婚者?リティル君が?とその瞳が言っていた。
「あー……ハハハ」
「遠く離れた地にいるシェラを、悲しませるわけにはいきませんから」
ここで名前を出すか?とリティルはインファを恨んだ。せっかく、ここまでエーリュの心を開かせたのに、女の名前を出したら、彼女は遠慮して頼ってくれなくなってしまうというのに。だが、インファの目から見て、危うかったということだ。リティルは、王妃に誇れないことはできない。その前に牽制することは、正しいことだった。
「……リティル、ボクがつく。それなら、文句ないだろう?あんたは、怖いかもしれないけど、その警戒心があってくれたほうが、ボクは守りやすい」
薄々、ラスティがそう言い出すんじゃないかと思っていた。彼はずっと、エーリュを見ていた。ただ、それがどんな感情なのか、リティルにはまだわからなかった。きっと、本人もまだわかっていない。
「いいんじゃないですかぁ?この人、使えますよ?ボクとしても、離れてくれた方が清々します」
「オイオイ、インジュ兄……」
さすがにそれはヒドくないか?とリティルがラスティを庇おうとすると、インジュは続けて言った。
「だって、ボク達についてても、宝の持ち腐れなんですよぉ。勿体ないんです。エーリュ、この人なら、すべてから守ってくれちゃいますよ。戦いませんか?」
エーリュは、インサーフローの真っ直ぐな瞳に見つめられて、答えられなかった。
「エーリュ、今ここで答えを出さなくてもいいんだぜ?ただ、今夜の生放送出ろよ。それで、ラスティが使えるかテストしてやれよ。それでもオレのがいいなら、オレがつくからさ」
エーリュは、微塵もリティルをそういう目では見ていなかった。ただ、彼の輝きに縋りたいと思ってしまった心が、端から見ると恋愛感情に見えるのだなと思った。
兄のインファが気にするくらいだ、リティルに頼ってはいけないと、エーリュは気は進まなかったが、そんな心に蓋をしてラスティを見た。
「ありがとう、リティル君。でも、奥さんが気にしちゃうなら、ダメだよ?ラスティ、助けてくれる?」
「うん」
ラスティは表情の読めない顔で、短く頷いた。
「そういえば、その生放送、今更出られるのかよ?」
リティルはあれ?という顔をして、インファに尋ねた。インファは笑って答えた。
「実は、エーリュさんを説得しろと百合恵さんからのお達しなんです。ドート楽士に断るなと圧力をかけているので、絶対に成功させろと言われまして」
上手くいってよかったと、インファはどこかホッとしていた。
「そうですよぉ。失敗したら、ボクまで脱げって言うんですからぁ」
インファは自分は着崩した写真を撮らせるが、インジュには絶対にやらせない。インファは、インジュを人質に取られていたらしいことがわかり「それは、説得成功してよかったな!」とリティルは百合恵の怖さに震えたのだった。
リティルは、エーリュを心配しているアコに報告するために、部屋を訪れた。
「そう、ラスさんがつくことになったのね。取り合えず、よかったわ。ありがとう、リティル君」
アコは本当にホッとしていた。ああ、ホントに友達なんだなと、リティルはそれを嬉しく思った。ライバルという立場上、話してもらえず、踏み込めずで、アコはヤキモキしていた。それをリティルも感じていた。アコの安堵に、コールもよかったといって笑った。
「おまえは、兄さん達の護衛につくのか?」
「ああ、そうなるな。けど、兄貴達強えーからな、オレ、必要ないぜ?」
そうなのだが、他の音楽家達が気兼ねなくダークムーンを頼れるようにと、そういう意図があるだけに、誰かがつかねばならなかった。今ダークムーンは忙しい。こんな、お遊びのような、護衛につける魔導士は正直いなかった。リティルを除いては。
「ああ、隠れ魔導士だったな。隠れなんだから、おまえが隠してやれよ」
「インジュ兄、過保護だからなー。でもまあ、これで兄貴達と住めるし、嬉しいよ」
リティルは明るく笑った。本音だった。二度の失敗が、リティルの心に焦りを生んでいた。インファとインジュがそばにいてくれたら、そんな心強いことはないのだ。
彼等は、風の王の副官と盾だ。固い絆で結ばれた、関係性は偽っても、紛れもなく家族だから。
リティルを見送り、コールはソファーのアコを振り向いた。
「これで、準備は整ったわね。バトル音楽祭。楽しみだわ」
「しかし、お嬢、ちょっとやり過ぎじゃないか?」
乗ったオレもオレだけどと、コールは肩をすくめた。
「ここにいるなら、魔導士と関わらないわけにはいかないじゃない。四本爪の魔法が怖くて、歌姫やってられるかってのよ!見上げ続けないと、ここにはいられないの。エーリュ、ずっと下を向いてたわ。それじゃぁ、消えるしかないわ」
「だが、知られたら?」
「嫌われてもいいの。あたしが、あの子を好きなだけだもの」
アコは、少し寂しそうな笑みを、その勝ち気なブルーの瞳に浮かべた。
エリュフィナに髪の毛を送ったのは、アコだった。ドライフラワーに埋もれたハヤブサの死骸で、エーリュの心は折れていた。エーリュのことを、インサーフローも気にかけていたが、彼等では彼女を浮上させる事はできない。彼等は、強く輝きすぎているから。アコの目から見て、彼等の一抜けは決まっている。取り残されるのは、フレイムストームかエリュフィナどちらかだ。それでも、アコはエーリュに諦めてほしくなかった。
エーリュを歌姫でいさせるためには、護衛を雇わせるしかない。だが、彼女は魔導士が苦手だ。そんな彼女に、護衛を付けるにはどうしたらいいのか。アコはずっと考えていた。
そんなとき、彼等の弟、リティルと出会えたのは幸運だった。彼は関係のない世界で生きながら、この塔の関係者でもあった。そして、ダークムーン所属の魔導士。リティルを利用することを思い付き、エーリュと引き合わせた後、髪の毛を送る。数日しか一緒にいられなかったが、リティルは、兄たちと同じように優しかった。だからきっと、身の危険を感じているエーリュを守ると、言ってくれると賭けた。
護衛にリティルではなく、ラスティがつくことになったのは予想外だったが、コール曰く、彼も相当な魔導士らしい。これは、これでよかったのだろう。リティルは、兄さん達と暮らせると嬉しそうだったから。
アコは、歌番組を映し出した映像版に視線を送った。
百合恵に、エリュフィナを説得するから断るなと、もの凄い剣幕で詰め寄られたドートは、断らずにいてくれた。ドートも、このままではエリュフィナが塔を去るのでは?と、危機感を持っていたこともあったのだろう。うちのインファに任せろ!と言った、百合恵という名の藁を掴んだのだった。
アコとコールの見つめる映像版の中で、エリュフィナが伸び伸びと歌って踊っていた。
音楽祭まであと一ヶ月と二週間と少し。
エリュフィナの騒動があった音楽番組とは別の、生放送にフレイムストームはインサーフローと共演した。バトル音楽祭Bランク⇔Cランクが近づくにつれ、出演ミュージシャンの露出が増える。来月は、三強は顔を合わせる時間が増えるだろう。だが、三強は仲がいいが、戦う相手の為、徐々に、互いの距離が離れ始めていた。
そんな中、出番を終えたフレイムストームの楽屋に、インファが姿を現した。彼はまだ、裾の長い光沢のあるグレーの上着を着て、胸に鳥の羽のコサージュを挿したままだった。ホンノリと化粧を施した顔は、男性でも見惚れるほど艶やかだなとコールは思った。インジュも綺麗な顔をしているが、彼ほどの色気はない。彼が、健全で健康的なリティルの兄だというのが、少し信じられないくらいだった。
「すみません、一つ、ハッキリさせておきたいことがあるんです」
彼は、コールとアコに聞きたいことがあると言ってきた。他のメンバーを先に帰し、二人はインファと向かい合った。
「エーリュさんに髪の毛を送ったのは、あなたですね?」
狼狽えてしまったのが、わかったのだろうか。インファは、知っているのはオレだけだと付け加えた。
ガタンッと立ち上がったコールに、思考の停止していたアコは我に返った。
「インファ!お嬢は、エーリュちゃんを守りたかったんだ。貶めたかったわけじゃない!リティルなら、エーリュちゃんの懐に入り込めるかもしれないって、言ったのはオレだ!エーリュちゃんはダークムーンなしじゃもう、この塔にいられないところまで来ていた。魔道士のあんたなら、わかるだろ?」
「エリュフィナに、歌姫を続けさせる為に、したことだと言うんですか?ライバルに、そこまでしますか?」
庇うコールを見ずに、インファはアコを見据えていた。嘘は通用しそうにない、そんな冷たい瞳をしていた。普段、凍えた体を温めてくれそうな、そんな熱のある瞳をしているだけに、今の彼はとても怖かった。
「あの子に、こんなところで終わってほしくなかったのよ。ただそれだけ。ここにいたいなら、魔導士を恐れてなんていられない。ダークムーンを味方にできなかった人達は、本当にここでは短命なのよ!インファさん、音楽以外でも、羨望と妬みを受けてるあなたならわかるでしょう?あなたには、身を守る術があるかもしれない。でも、あの子にはそれがないわ!このままじゃ、危険なのよ……」
エーリュはあれでまだマシだ。なぜなら、実際に身の危険を感じていないのだから。
アコは、二年前のバトル音楽祭の前の収録の時、舞台セットの柱を故意に倒された。それをした者は、犯罪者として捕まったが、コールがいてくれなかったら、怪我していたと思う。当時はまだ、Dランクの歌姫だったのに、目をつけるヤツはつけてくるものだ。
所詮ここは魔窟。仲良しこよしでは生き残れない。インサーフローもエリュフィナも、ライバルだ。ここで敵視されても、痛くも痒くもない。痛くも、痒くも――
「そうですか、了解しました。あなたを信じます。あなたが、オレ達やエーリュさんを避けるので、リティルが気にしていたんです」
俯いたアコが顔を上げると、インファは、困ったように笑っていた。その瞳に、敵対の色はなく、いつもの、温かな眼差しだった。
「できれば、あなたの口から弟に、髪の毛の真相を伝えてください。今度はあなたが、何かに巻き込まれたのでは?とリティルが心配していましたから。アコ、あなたはオレの数少ない信用できる人なので、まだ舞台から下りないでくださいよ?」
では、と言って、インファは部屋を出ようとして、再び振り向いた。
「アコ、同居人の人達、ほどほどにしないと、生命力を吸われますよ?」
そう言って、インファはニヤリと微笑んで部屋を後にした。
アコは、いわゆる見える人だった。歌を歌っていると、邪妖精だけでなく、幽霊と一般に言われているものも寄ってくる。彼等も歌が好きなようで、実力のある歌い手に寄ってきた。ほとんどの人は見えず感じずで、害のなさそうな者は無視しているが、どうにも病んでいる者は、放っておけなくて、アコは部屋に導いていた。アコにとっては、彼等は怖い存在ではなかった。そうした者達も、好みの歌を数回歌ってやると、満足するのか消えていく、儚い存在だからかもしれない。アコがいろいろな曲調の歌が歌えるのは、幽霊達に歌ってやる為だった。それがいつしか、彼女の糧となり、変幻自在の歌姫などと呼ばれるようになった。
そう言えば、インサーフローの二人に、幽霊がついているのは見たことがない。あれだけ光り輝いていて、今思えばあり得ない。そうか、インファにも見えるのだなと、アコは合点がいった。
「……怖い人……あの人、何を守ろうとしてるのかしら?でもいいわ。何かあったら、力貸してあげる。光栄に思いなさいよね?インファ」
呆気にとられていたアコは、楽しそうに笑った。そして、嫌われなくてよかったと思ってしまった。インサーフローとエリュフィナと、まだこうやって戯れていたかった。友と呼べて、でも馴れ合わなくて、お互いを認めているこの関係が心地よかった。
そして次の日、アコは驚くべき事を、インサーフローに持ちかけられることになるが、今はまだ知るよしもなかった。
ただいま!と、リティルが元気に広いリビングに戻ってきた。
「お帰りなさい。どうでした?アコとのデートは」
デートといっても、保護者のコールがずっとくっついている。あの時、路地裏に一人でいたのは、幽霊に手招きされたからだという。
幽霊――リティルにいわせれば、肉体から離れた魂ではなく、想いが残ったものである残留思念だ。あれくらいの残留思念なら、干渉する能力のあるものなら、簡単に使役できる。
アコは、意図的に襲われたのだ。そう警告したが、アコは大げさなと言って、取り合ってくれなかった。仕方なくリティルは悪いとは思ったが、たまたまアコの部屋にいた残留思念に干渉して、踊りを踊らせた。あのとき部屋にいたのは、陰気なサラリーマン風な中年男だったために、アコは大いに驚いていた。そして一転、気をつけると言って、コールも見えればよかったのにと呟いた。
「ああ、楽しかったぜ?なあ、あいつ、残留思念集めて何やってるんだ?」
「ボランティアです。彼女は、魔道士ではないんですか?」
「さあな。コールががっちりガードしてるからな、今のオレの力じゃ探れねーよ。……インジュ兄、熱心だな」
インジュは、楽譜を見ながら、携帯音楽再生機で曲を聴いているらしい。あれは、持っている一人にしか、音が聞こえない代物だ。音楽の聞こえないこちらからすると、アカペラで歌っているようにしか見えなかった。音楽に精通した風の精霊と言っても、これだけ歌うには練習が必要だ。上手くいかないのか、同じ箇所を何度も歌っていた。リティルには、何が不満なのか、よくわからなかった。
インジュは、ふとすると女性と間違えそうなほど、高い声が出る。よく伸びる高音と綺麗な裏声で、高く空を飛べそうなほど軽やかで明るい声質をしていた。かと思うと、成人男性らしい低音も出る。ようは音域がとても広いのだった。そして性格もあるのだろうが、素直に歌わない。また、何か小細工しようとしてるのか?とリティルは思った。彼の遊び心を上手くコントロールしているのは、インファだ。絶妙にハモって、鳥が風に翻弄されるのを防いでいる。
「兄さーん!伴奏してくださいよー!」
はいはいと、インファはグランドピアノに向かった。そして、二人は歌い出す。インジュが苦戦していた箇所も、インファが声を合わせるとすんなり歌えていた。だが、この歌は新曲だろうか。リティルの聞いたことのない歌だった。
ああ、バトル音楽祭用かと、リティルは思った。あの音楽祭は、昇格と降格が決まってしまう為、皆、新曲で戦うのだ。
しかしこの曲は、デュエット?インサーフローが?しかも、悲恋?珍しいなと思った。
インサーフローでは、インジュの引き立て役に徹しているインファは、一度も主旋律で歌ったことがない。歌うときは、コーラスかインジュの声にハモるときだけだった。
大丈夫か?自分の歌声が嫌いなインファが、一度でも主旋律で歌ったら、そのあとも歌わされてしまう。彼の声は、普通の男性の声よりも、高い部類に入ると思うが、インジュよりも低く、安定感がある。そして、切なくて張りがあって――インジュの後ろに隠れていなくても、十分に魅力的だ。それを、世間が知ったら……
インファを心配しつつも、でも、これいいな!と、リティルは思わずピアノに寄っていった。この曲なら、インファはステージではキーボードか?それか、最近ギターもやってたよな?と考えてしまった。
そんなことを考えて、はたと、オレも案外歌手の弟が板についたなと、思ってしまった。
それにしても、リティルの持ち歌といえば、一曲だけで、二人がここまで歌えるとは思っていなかった。感心していると、インファが知った旋律を弾き始めた。
そして、インファが優しく歌い始める。インファは、こんなに上手いのに、風の城で一番下手だと思い込んでいる節があった。故にこの『風の奏でる歌』も、あまりソロでは歌わない。歌えばいいのにと、リティルは思いながら、久しぶりのこの歌にそっと瞳を閉じた。
――さよなら 止まない雨
――手の平を空に掲げれば 金色の光が 君にさす
――恐れない わたしには 言葉がある
――歌え 君のくれた言葉を 今こそ 響かせて
――青空の向こう 君に この歌が届く――……
風の精霊にとって、特別な歌――風の奏でる歌。
精神を安定させる、風の魂の歌。風の精霊だけが歌える、力ある歌。
歌う者によって、表情を変える、形のない風の歌。
風の精霊が特別に教えれば、他の者も歌えるようになる。リティルの妃であるシェラは歌うことができたが、他の精霊にはやはり難しいようで、インファの妃であるセリアは壊滅的だったなと、インファの切ない歌声を聞きながら、リティルは、風の城の皆は元気かなと、少し寂しくなった。リティルも入れて総勢十四人が暮らしている大所帯な城。血の繋がりがなくても、共に暮らし、共に戦う彼等は、リティルにとってかけがえのない家族に他ならなかった。
──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない
──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに
──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……
伴奏のなかったこの歌に、曲をつけてくれたのは、花の姫・シェラだった。
シェラ……ゲーム中は、歌う緑の魚の外とは、すべてが遮断されてしまう。いつも感じていた、彼女の気配を感じられない。それが、ひどく心細い。
インファの歌声が、優しく切なくて、思わずシェラの、花がほころぶような、微笑みを思い出して、俯いてしまったリティルの様子に気がついたインジュが、努めて明るく声をかけた。
「リティル、歌いません?三人で歌いましょうよぉ!」
「はあ?インサーフローと歌えって言うのかよ?ハードル高けーな」
「一番上手いくせに!リティルと三人で、インサーフロー、やればよかったんじゃないですかぁ?」
一番になれます!とインジュは真顔で言った。
「それが目的じゃねーだろ?それに、オレ、風の奏でる歌しか歌えねーよ」
「練習すれば歌えます!リティルは、変幻自在じゃないですかぁ。羨ましい」
変幻自在度なら、アコより上です!とインジュは言い切った。それには、リティルは苦笑するしかなかった。彼女のハスキーがかった天性の声に、オレが敵うわけないと笑った。
「だから、風の奏でる歌限定なんだよ。オレは霊力で歌ってるんだよ。おまえらみてーに、実力で歌ってねーんだよ」
それでも、なぜかインジュは食い下がってきた。オレ的には、インサーフローの歌、まだ聞いてたいんだけどなと、リティルは贅沢なことを思っていた。
ウロウロしているリティルはたまにしか会わないが、専属バンドの三人がいるときは、気さくな彼等はリティルのリクエストに応えてくれる。あいつらこないかな?とふと思ってしまった。
「教えてあげます!何がいいでしょうか?」
うーんと、インジュは、自分の持ち歌を思い浮かべているのだろう、天井を見上げた。
――風の声が聞こえたなら 瞳を空へ向けよう
――あなたの背には 金色の翼がある
――大丈夫 ぼくが そばにいるよ――……
それなら、これしかないでしょう?と言いたげに、インファが歌っていた。アカペラから始まる、明るく疾走感のあるこの歌は、インサーフローのデビュー曲だった。透明に舞い上がるようなピアノの旋律が、リティルの心を空へ連れていく。明るく軽やかなインジュとは違う、もっと寄り添うな安心感が、インファの声にはあった。
――空が狭くとも 背中の翼 はためかせて
――あなたが飛ぶというのなら
――ボクは ボクも 風の翼で飛ぶよ
――一人にしないよ ボクは いつだって あなたといる――……
思わず口ずさんだ声に、インジュが声を重ねた。たまにハモるインファの声が、耳に心地よくてリティルは、楽しそうに歌っていた。
「歌えてますよ?」
インファはニッコリ笑っていた。リティルは内心、そりゃぁなと、呟いた。
この歌を作ったのは、インファだ。今も、インサーフローの歌は、インファがほとんど書いているが、この歌は、風の城にいた頃に書かれたものだ。正真正銘、最初の歌なのだ。
この『風の翼』というこの歌はたぶん、オレに肩の力抜けよと言っているんだろうなと、リティルには思えた。
三人で歌ったら、インファとインジュに、オレ達がいますと、言われているような気持ちになった。今、翼を失った自分達だが、飛んでやるとそんな気持ちになれた。
「リティル、もう刺されるような、失態はしないと思いますが、気をつけてくださいよ?もしかすると、バトル音楽祭に、ジャックは姿を現すかもしれませんから」
「それ、インサーフローの勘かよ?」
「そうなるんですかね?ともあれリティルも、何か感じてますよね?」
「まあな。オレのはダークムーンの勘だな。ちょっと、ラスティに会ってくるよ」
リティルは、会場警備に回らなかった。観客席にいて、ステージ上を警戒することにしていた。何もないならいい。いつものように、邪妖精たちを蹴散らすだけなら、ダークムーンだけで何とかなる。だが、観客席からステージを攻撃されたら、防ぎようがない。
もしヤツがくるなら、少し眠る羽目になってもリティルは翼を使うつもりでいた。リティルが一時戦線を離脱しても、ダークムーン、インサーフロー、契約者のラスティがいる。彼等がいれば、ジャックの次の攻撃もきっと凌げる。それ以前に、しばらく復活できないくらいの痛手は、負わせてやるつもりだ。ジャックは、どういう理屈なのか、不死身だ。体を壊しても、しばらくの時間稼ぎにしかならないのだった。奴が言っていたように、このゲームを終わらせるには、音の精霊を復活させる以外にないのだろう。
六十年の間、風の城の皆にも手伝ってもらって、リティルはこの大陸のことを調べた。しかし、この大陸が滅亡してからの記録は、イシュラースにはなく、歌う緑の魚にも、記録らしい記録はなかった。
音の精霊・ミューリンの舞い降りた大陸――。ミューリンとの交流を描いた伝説の残る地。
都の外に広がる森に、遺跡のようなモノが点在していて、下見したインファが、音の精霊の生まれ変わりを連れて、巡礼でもしてみますか?と冗談めかして言った。副官もお手上げなくらい、何の情報もないのだった。だが、インファとインジュがそばにいてくれる今回は、きっと大丈夫だ。ヤツがゲームだと言う以上、攻略できるということなのだから。
今度こそ、終わらせる!リティルは部屋を出て行った。
「リティル……大丈夫です?」
インジュが、ピアノの前に座ったままのインファに並び、リティルの行った玄関への扉を、心配そうに不満げに見つめた。
先週終わったCランク⇔Dランク、思いの外邪妖精を多く寄せたらしい。そのことが、リティルの危機感を煽っているようだった。リティルは、ダークムーンの情報をあまり話さない。この情報は、情報通な専属バンドの一人が教えてくれたのだった。
「オレ達がいますと、伝えたつもりだったんですけどね」
インファはやれやれと、ため息交じりに微笑んだ。インジュとは違い、インファの瞳には不安はなかった。あるのは、いつも通りやるだけだという、諦めにも似た副官の余裕だった。
「『風の翼』……そういう歌ですよねぇ。でも、伝わってると思います。だって、リティル完璧でしたし」
インファも、リティルがあれだけ完璧に、覚えていてくれているとは、思いもよらなかった。それは、作詞作曲した身としては、素直に嬉しく思う。
「だと、いいんですけどね。オレ達は、ステージから下りられませんから」
「二人が兄さんの遊びに乗ってくれて、よかったです。ただ、ボク達のランクアップは、なくなりましたけどねぇ」
百合恵さんが呆れてたと、インジュは苦笑した。それから専属バンドも!と、付け加えた。最後かもしれないのに!とインジュも不満そうだ。
最後かもしれない。というのは、この音楽祭を境に、ジャックは姿を現し、彼との攻防に突入するからだ。三十年前は、ミューリンタワーが機能停止するほどだった。当時の新聞にも書かれていた。そうなれば、もう、インサーフローではいられない。
二人とも、ランクアップは目指していたが、薄々、インサーフローでいられる最後だと感じていた。
「リティルはもう、護衛でここにいますからね。ランクアップを捨てても、価値はあると思いますよ?」
「ボク達の稼ぎなら、雇い続けることできますしね。問題はこの後ですよねぇ。兄さんは、どっちだと思います?」
アコかエリュフィナか。
「さあ?風の王でもわからないことを、オレがわかるはずないですよ」
そう言いながら、お父さんは目星ついてるんでしょう?とインジュは思った。
「それよりインジュ、歌よりダンスの方は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ボク、体術得意ですから!」
得意げなインジュに、一抹の不安を覚えながら、まあ、エーリュが何とかするかと、プロに任せておこうと思った。
エリュフィナはフレイムストームと比べると、歌唱力は劣るが、とても可愛い声をしている。そして彼女の売りは、歌よりもダンスだった。小柄な体格で、だのに、床を踏みならす力強い音が、心臓の鼓動のようで、インファは好きだった。
インファは今回、フレイムストームにピアノで参加する予定だった。
あちらの作曲家に、かなり複雑な、かなり早い曲を書かれて、しかも、君ならこれくらい、弾けるよね?と言わんばかりの、ソロパートが用意されていた。
まあ、弾きますけどねと、インファは久しぶりの挑戦を受けて立った。
さて、オレも練習しようと、インファがピアノを弾き始めてしばらくすると、リティルが、神妙な顔で戻ってきた。リティルの様子に、インファはピアノを弾く手を止めると、思わず立ち上がっていた。ソファーで楽譜を見ながら、携帯音楽再生機で曲を聴いてたインジュは、インファの様子に気がついて玄関の方を振り返った。
「なあ、おまえら、今回、インサーフローでは歌わねーって、ホントかよ?」
リティルの後ろには、オロオロするエーリュと、付き添ってきたラスティがいた。
「あー、ばらしちゃったんです?」
ソファーの背もたれに頬杖をついて、インジュが意地悪に笑った。
「まさか、リティル君が知らないなんて思わなくて……ごめんなさい」
エーリュは、申し訳なさそうに俯いた。問題ありませんと、インファは苦笑して、首を横に振った。
リティルがエリュフィナの部屋を訪ねた時、彼女はダンスの練習をしていた。玄関を開けてくれたのはラスティで、彼は案外いいリズム感をしているらしく、ずっと手拍子していたらしい「インサーフローもそうだったけど、ミュージシャンは護衛を護衛以外でこき使う」と、ラスティは真っ赤になった手の平を見せて言った。だが、瞳は前髪に隠れて見えないが、雰囲気は楽しそうで、エーリュといい関係を築いていることが窺い知れた。
汗を拭きながら、リティルを見たエーリュは、そこで彼がインサーフローから何も聞いていない事を知らずに、言ってしまった。
――インジュ、ちゃんとダンスの練習してる?歌いながら踊るのって、案外難しいのよ?
何のことだ?と聞いたリティルに、エーリュは首を傾げて、さらに言ってしまった。
――今度のバトル音楽祭、インジュと共演するの。インファさんは、フレイムストームと共演するよね?
――待てよ!それって、インサーフロー名義じゃ出ないって、そういうことかよ?
――え?うん……インファさんに、いいの?って聞いたんだけど、ただ戦ったんじゃつまらないからって。リティル君?
それを聞いて、リティルは部屋まで駆け戻っていた。
どうして?何を企んでる?リティルは、インファがまた自分を、犠牲にするような気がして、恐ろしくなった。インファは、過去にリティルのせいで、片腕を失ったり、精神的に追い詰められたりしている。ニッコリ笑って、リティルの無茶のほぼすべてを許す息子は、精神が大人なだけに、これくらいは無理のうちに入らないと、簡単にギリギリを選択してしまう。
全部全部、オレが不甲斐ないから!なのに、怒りが、優しいインファに向かってしまう。
「ホントなのかよ!おまえら、音楽祭後、ダークムーンにオレを戻す気かよ!」
薄情者ども!とリティルは憤った。
「あなたのことは、インサーフローが雇い続けますので、問題ありませんよ」
「何考えてるんだよ!オレに黙って、何企んでるんだよ!」
許さない!とリティルの怒りは、収まりそうになかった。
「インジュ、エーリュさんに、ダンスの特訓をしてもらってください」
「はい。エーリュ先生、お願いします!」
インジュはそう言って笑うと、戸惑うエーリュ達を「行きましょ!行きましょ!」と促して、部屋から追い出した。ラスティは、チラリとこちらに顔を向けたが、何も言わなかった。
彼等を見送ると、インファはこちらを睨んだままのリティルに、視線をゆっくりと合わせた。その瞳が拗ねている子供その者だなと、インファは思ってしまった。
リティルに、そんなことを感じたことは今までなかった。彼はこんな容姿だが、今まで風の王であり、インファの父親だった。
それが……。三兄弟の末弟。それは、演技ではなくなってきているのでは?インファは、別の脅威を感じた。
「父さん、ふざけすぎて、すみません。ですが、どちらが音の精霊なのかわからない以上、用心に越したことはないと思ったんです」
『父さん』わざと呼んでみたが、リティルの態度は変わらなかった。
「話してくれてもいいだろ!」
インファはスッと瞳を細めた。オレを誰だと思っているんですか?そう言われた気がした。
彼の瞳は、三兄弟の長男ではなかった。この瞳は、風の王の副官、雷帝・インファのものだと、リティルは我に返った。
「あなたが、一人で背負おうとしていたからです」
リティルは、一瞬押し黙ってしまった。こんな穏やかな世界で、毎日毎日顔を合わせていて、インファに考えを読まれないわけはない。彼は、インフロのピアノの方を演じながら、雷帝・インファで居続けた。
オレは?オレは今誰なんだ?リティルは唐突にそう思って、動揺した。
「オレを、欺けると思ったんですか?あなたは、もしジャックが出てきたら、差し違えるつもりでしたよね?ここではあなたは、風の王ではありません。ダークムーンのリティルです。オレの、手のかかる弟でしかありません。いつもの手は、通用しませんよ?」
「超回復能力も力は落ちてもなくなってねーし、無限の癒やしも一回は使えるんだ!ジャックを倒せれば、オレがしばらく眠っても、おまえらがいる。オレの契約者のラスティがいる!持ちこたえられるだろ?」
「過去に二度、あなたを出し抜いたジャック相手に、ずいぶん余裕ですね。あなたが一度でも離脱するような作戦は、愚策です。インジュはエーリュさんと、オレはフレイムストームと共演すれば、万が一ジャックが現れても、対処できます。音の精霊は、Bランクに昇格する歌姫。インサーフローが降りれば、エリュフィナもフレイムストームも昇格します。一票の価値が二分の一でも、二人とも勝てる歌ですからね。そうなれば、この先のゲームは、あなたの知らない展開になるんです。ここで、風の王・リティルを失うわけにはいきません」
雷帝と、城で呼ばれているインファと、インサーフローのインファは変わらない。
冷静なインサーフローのインファの背に、リティルは、雷帝・インファの金色のイヌワシの翼を見た気がした。
インファは堅い表情のまま、二の句が継げないリティルの隣をすり抜けた。
「アコの所に行ってきます。セリテーラ、リティルを頼みましたよ?」
ニャーオと、綺麗すぎる猫は一鳴きして、インファに答えた。
背後で扉の閉まる音がして、リティルは前髪をクシャリと掴みながら、両手で顔を覆って、頽れた。
「インファ……!じゃあ、どうすればいいんだよ?オレは、先陣切るしか能がねーのに……おまえ……体術からっきしだろ?今のおまえ、全然戦えねーのに、どうやって……?もう、怖えー想像しか、できねーんだよ!」
一人目は、為す術がなかった。
二人目は、ハーディンか、音の精霊の生まれ変わりか、命の選択を迫られた。
ジャックの強さは、驚異だ。翼をなくした猛禽では、太刀打ちできない。
あの、十本の鋭く長い爪……避け損なったら、また、オレの目の前でおまえ、体の一部をなくすつもりかよ!と、振り向いてくれないインファの背に、リティルは叫びたかった。
潜在能力の高いリティルと、能力だけ見れば風の城1の強さを誇るインジュなら、そこまでの痛手は負わない。これでも、ジャックと互角の強さは、許されているのだから。だが、インファは違う。全盛期のハーディンくらいの能力しか、許されていない。インファは、戦ってはいけない。戦わせるなら、インジュだ。
だが、彼は命を奪えない戒めがある。インジュのサポートで、リティルが戦うしかないのだ。
それ以外に、手は、ないのに……
そっと、小さな気配が近寄ってきて、リティルの顔を覆った手の甲を、ザラザラした舌が舐めた。ハッとして手をどけると、蛍石のペンダントを首にかけた猫が、左右で違う色の瞳でリティルを見上げていた。セリテーラの瞳は、インファの妻である、セリアと同じ色をしていた。リティルが落ち込んでいると、インジュに似た明るい声で「どうしたの?リティル様!」と近寄ってきて、話を聞いてくれる。ちょこんと座って、リティルを見上げるセリテーラの丸い瞳が、セリアと重なるようだった。リティルは縋るようにセリテーラを抱き上げると、フワフワの体に顔を埋めた。
この猫は、セリアが作った、インファの為だけの守護妖精だ。どんな力を秘めているのか、リティルは知らない。わからないくらい、今のリティルの力は、抑えられてしまっていた。
――随分余裕ですね
こんな猫の力も見抜けないくらいの強さで、他人の心配してたのか?オレ……と、インファの怒りの理由を、リティルはやっと悟った。予定よりも早く、合流できたのだ、毎日顔を合わせているのに、そういえば、戦うときの話はしていなかった。
風の城では、大きな事案の前には必ず副官と補佐官と、念入りに攻略法を模索していたというのに、当たり前にしていたことをリティルは怠っていた。
「セリテーラ……オレ……あいつに、何も話してなかったよ。こんなんじゃ、インファに怒られて、当然だよな……」
ここでは、風の王ではない。インサーフローの危なっかしい末弟でしかない。
わかっている。精神と能力が釣り合って、リティルは本当に、十九才と呼ぶには大人びた青年ではなく、兄に庇護される十九才の少年だ。気合いを入れなければ、凄い兄貴に守られている、末弟から抜け出せない。
風の王に戻れないくらい、環境に引っ張られている。インファとインジュの存在に、安心して信頼しているのなら、話すべきだった。風の城では、当たり前にできていたことが、当たり前にできない。
これは、恐ろしいゲームだ。これから先、細心の注意を払わなければ、インファを、失ってしまう。ジャックは、リティルを無力化する為には、手段を選ばない。もとより殺人鬼だ。何人殺そうが、勝てればいいのだから。
瞑想するように瞳を閉じたリティルが再び開いた時には、インフロの末弟であるリティルはいなかった。燃えるような金色の光の立ち上る瞳に宿った、風の王の荒々しい風。セリテーラを抱いて立ち上がった彼は、風の王・リティルだった。
バトル音楽祭Bランク⇔Cランクが、今日、開催される。
野外音楽堂の観客席のほぼ真ん中に、リティルはいた。リティルの隣に、ハーディンが腰を下ろした。今日は、バーテンダー姿ではなく、マント代わりの、裾の長い黒い上着を着ていた。大がかりな仕事の時の、制服だ。背中には、ダークムーンの証である、蝙蝠の紋章が大きく描かれていた。これを着ていれば、遠目にも目立つ。観客、音楽関係者と見分けがつくようにしているのだった。その制服を、リティルは着ていなかった。
「リティル、ステージはラスティとコールがいる。大丈夫だ」
「ああ、大丈夫だ。外は任せたぜ?オレは、ジャック一択だ」
「ヤツが出てきたら任せた。死ぬなよ?リティル」
「ハハ、おまえもな!」
ハーディンとリティルは、拳をトンッと当てて、別れた。
ステージでは、何も知らない歌い手達が、リハーサルに勤しんでいた。




