恐怖
とはいえ、今はアリーシャと見た目詐欺なおっさん師匠の類似性を論じている場合ではない。少しずつ薄れてくる土煙の中、ずるりと現れたものがある。
「蜥蜴ベースか。硬そうだな」
「……そうだねぇ。とりあえず、ここは共闘するってことでいいのかな」
チロチロと二股の舌を蠢かし、四本の短い足で地面を這う『ソレ』の胴体は、成人男性三人分ほどの大きさではあるが、確かに蜥蜴のものだった。しかし、その首は屍肉を食らう猛禽、尾は岩のようにごつごつとしていて、その先端からはあからさまに猛毒を孕んだ針が不気味に輝いている。
そこから滴った毒液が大地に落ちるたび、焦げたような異臭とともに真っ黒に変色していく。そして、やたらと硬質な輝きを持つ背中の棘からは、蜘蛛の糸のようなものが絶え間なく吹き出し、空中を意思持つ存在のように揺らめいていた。
油断なく相手の様子を窺いながら言うアリーシャに、仕方なくうなずく。小型ものならまだしも、これほど大きなキメラタイプをリヒトひとりで相手取るのは、まだ無理だ。
「おれが、注意を引きつける。アンタは、その狙撃銃型で核の辺りを徹底的に狙い撃て」
「了解だよ。でもその前に、あの毒針は破壊しておくね」
その言葉と同時に、ごく小さな射撃音。次いで、蟲の尾が根元から弾け飛ぶ。耳障りなすさまじい咆哮が、猛禽の形をした蟲の口から迸る。
直後、蟲の直上で太陽光を弾いていた蜘蛛の糸が、リヒトとアリーシャに襲いかかってきた。アリーシャが防御シールドでそれを受け流し、素早く移動して相手の死角に回り込む。それを横目に見ながら、リヒトは右手に持った魔導剣で自分に向かってきた糸を切り払う。そして、左手で抜いた短銃型の魔導具で、蟲の頭部に大量の魔法弾を叩きこんだ。
防御シールドを展開したままでは、こちらからの攻撃を相手に当てることはできない。ジルバは、攻撃の瞬間だけ防御シールドを消すという器用な真似をしているが、今のリヒトにはまだ無理だ。魔力で強化した脚で、ひたすらスピード勝負をするしかない。
リヒトが魔導剣と短銃型の魔導具を同時に操り、蜘蛛の糸を避けながら相手への攻撃を繰り返していると、突然蟲の胴体の右肩部分が抉れて血肉が弾けた。どうやら、アリーシャの狙撃の腕は大したもののようだ。これだけの速さで動き回る敵に、初弾から命中させるとは思わなかった。
短銃型の魔導具は、小回りがきくし連射も容易いが、そのぶん一撃の威力は低い。本体が蜥蜴などの爬虫類がベースの蟲は、その外殻が信じられないほどに硬いため、通常の短銃型魔導具では破壊できないのだ。そのため、連射は難しいが一撃の破壊力に優れた狙撃銃型魔導具を装備したアリーシャが、今は頼りだった。
(なんか……変な感じだな)
リヒトは今まで、ジルバ以外の人間と共闘をしたことがない。今後独り立ちしたところで、師と同じく他人とつるまないフリーランスの魔術師として生きていくつもりだった。敬愛する命の恩人以外の人間に対する、本能的な忌避感。それは、五年前から変わらずリヒトの胸に巣くっている。
だから、なのだろう。リヒトの動きで作られた、敵の隙。そこを、ジルバならばこれ以上ないほど完璧なタイミングで狙ってくれる。彼にならば、なんの不安もなく背中を預けることができた。どれほど強大な敵を前にしても、こんなふうに背筋がひやりとするような感覚を覚えたことはない。いつの間にか再生していた蟲の巨大な毒針が、一瞬まで自分がいた空間を切り裂いていくたび、肌がひりつく。
(……ああ、そうか)
アリーシャの狙撃で砕けた蟲の外殻を避けながら、リヒトは気づく。ほんの少しでも気を緩めれば、あっという間に命を持って行かれかねない――この感覚の名を、随分と長い間忘れていたようだ。
(これは、恐怖か)
ジルバが、いつも気にしていた。はじめての蟲殺しを経験したときから、リヒトには自身を守る感覚が薄すぎだったらしい。おそらくそれは、恐怖だけではなく、感情のすべてが他者よりも希薄になっているせいだ、と。……自分ではよくわからないけれど。師が言うのだからきっとそうなのだろう。
仕方がないな、とジルバは困ったように笑っていた。ほんの幼い頃に、信頼していた周囲の大人たちすべてから裏切られ、母親にすら捨てられた心の傷。それは本人が気づいていなくとも、のちの人格形成に少なからず影響を与えるものだ。
喜びも悲しみも憎しみも、感じる心そのものが鈍くなっていれば、それ以上傷が深まることはない。幼い子どもが、そうやって己の心を守ろうとするのは、ごく当たり前のことだ。
けれど、自分の身を守るための『恐怖』までが鈍くなってしまえば、心より先に体のほうが死んでしまう。だから、ジルバはいつも言っていたのだ。
――少しずつでいいから、思い出せ。人が持って生まれた感情ってやつは、どうしたって人が生きていくのに必要なもんだ。きれいな感情だけじゃなくていい。どんな汚い感情でもいいんだ。人なんて、生きてりゃどうしたって他人を憎んだり妬んだり羨んだりするもんなんだからな。
生きろ、と。
そのための術を、彼はずっと教えてくれた。ジルバの手を離れてからはじめての仕事で、生きていくために一番必要な感情である『恐怖』を思い出せたのは、ひょっとして幸運なことなのだろうか。
わからない。
わからないけれど、今は生き残るために最善の選択をするだけだ。
アリーシャの狙撃により、蟲の外殻はだいぶボロボロになってきている。しかし、絶え間なく吹き出す蜘蛛の糸は、触れた木の枝をあっさり切断するほどの強度だ。それを幾重にも体に巻き付けはじめた蟲の装甲は、もしかしたら戦いはじめよりも破壊しにくくなっているかもしれない。
そのぶん動きの鈍った蟲を、アリーシャはひたすら淡々と撃ち続けている。一撃で致命傷には至らないが、確実に相手の糸や装甲は削っているし、それなりにダメージも与えている。
このままでは、敵と彼女のどちらが先に魔力切れで潰れるか、という消耗戦になるだろう。彼女の魔力保有量がどれほどのものかは知らないが、自分よりも体の小さな相手にそんなことをさせるのは寝覚めが悪い。
リヒトは、激しく動き続けて上がった呼吸のまま、アリーシャに声をかけた。
「十秒、保たせろ」
ほんの一瞬、視線をこちらに向けた少女が、唇の動きだけで『了解』と返してくる。
一度、深く息を吸って吐く。両手に持った短銃型の魔導具に意識を集中させる。そこに組み込んであった魔導式を書き換え、最高速で組み替えていく。撃ち出す魔法弾の威力を引き上げ、それを制御するための魔導式を付加。魔力の圧を抑制し、発砲時の反動を逃がす回路を増設。
魔導式を再構築した短銃型魔導具に、改めて魔力を流す。その負荷の高さに、耳の制御ピアスがチリチリとしびれるような魔力を帯びた。
「……悪いな。これから、おまえを殺すってのに――おれは、痛いのは、嫌いなんだ」
だが、殺さなければ殺される。蟲と魔術師が相対したとき、互いの間にあるのはそれだけの単純な摂理だ。
両手の短銃型魔導具に、魔力の充填が完了する。
ジャスト十秒。
無造作に引き金を引くと、巨大な魔力弾がうねった軌道を描きながら、轟音とともに標的に向かって殺到した。着弾と同時に、蟲の外殻だけでなく骨や筋肉までが炸裂する。左の前足から胴体の半ば辺りまで、ごっそりと削れた蟲の内部に、赤黒く輝く球体――核が見えた。
発砲と同時にひび割れた短銃型魔導具を放り捨て、即座に地面を蹴ったリヒトは、剥き出しの核に魔導剣を突き立てる。呆気ないほど簡単に、それは砕けた。
直後、あれほど暴威を奮っていた蟲の肉体が、細かな粉塵となって崩れていく。さらさらと風に紛れて消えていく姿は、いつものことながらまるで現実感がない。
(疲れた……)
巨大なキメラタイプの蟲の洗礼とは、独り立ちへの第一歩で迎える試練としては、あまりにハード過ぎないだろうか。戦闘中に、魔導武器に組み込んだ魔導式の書き換えるなど、はじめての試みである。上手くいってよかった、と安堵した途端、膝にきた。まずいと思う間もなく、どっと崩れ落ちる。
地面に刺した魔導剣を支えに、リヒトが肩で息をしていると、アリーシャが背後から声をかけてくる。
「きみさあ……。普段から、そんな無茶ばっかりしてるのかな? お疲れさまー、とかありがとうー、とか言いたい気持ちより、『死にたいの? バカなの? むしろ、なんで死んでないの?』って、小一時間じっくり問いただしたい衝動がむっくむくなんだけど。短銃型で大砲型レベルの魔法弾ぶっ放すとか、ホント自殺行為だからね?」
そんなことを呆れかえった口調で言いながら、少女はリヒトのそばに膝を落とした。彼女は、まだ仮面を装備していない。汗ばんだ顔はほんのりと上気して、険のある目つきで睨んでくるが、不思議と不快感はなかった。きれいな顔というのは得だな、と思いながら口を開く。
「怖かった」
そう言うと、少女が驚いたように目を瞠る。春の湖のような大きな瞳が、表情の乏しいリヒトの顔を映していた。彼の表情筋が仕事をしないのはいつものことだが、我ながらまるで怖かったようには見えない顔である。
だが、たしかにリヒトは怖かった。おそらく、普通の人間にはまだまだ遠く及ばない程度なのだろうけれど、強大な敵を前にしながらジルバがそばにいないことに、本当に恐怖を感じていたのだ。
「……怖かったんだ」
それが、嬉しい。
だから、繰り返す。ほんの少しだけでも、自分がまっとうな人の心を取り戻せたようで、嬉しかったから。
怖かった、と呟くリヒトの袖に、アリーシャの細い指が触れる。
「……うん」
互いの体温が、混じり合う。
うつむいた彼女の表情は見えないけれど、その声は少し震えて掠れていた。
「怖かった、ねえ」