目覚め
その後、将軍夫妻はそれぞれ仕事があると言って砦に戻った。
温室のガラス面を完全遮光モードにすると、ご丁寧に天井部分に内部を照らす灯りが点くようになっている。着替えの際に必要な機能だと教わったけれど、それならば眠っている間も極力そうしておいてほしかった。
何しろ、ここは砦の中庭なのである。建物からはかなり距離があるとはいえ、意識のない姿をずっと無防備に晒していたかと思うと、なんだかいやだ。
三日間寝たきりだった体は、衛生魔術によってきちんと清められていたらしい。渡された着替えも洗濯したてのようで、さらさらとした手触りが心地よかった。外へ出ると、そこで待っていたイシュケルが、顎先で少し歩いたところに立つ落葉樹を示す。
久しぶりに、直接感じる太陽が眩しい。目を細めながら足を進めると、目的の相手はすぐに見つけられた。
一抱えほどもある木の根元、柔らかな緑の上に長身の青年が横たわっている。黒銀の髪を、木々を渡る風が柔らかく揺らしていく。その黄金の瞳は閉ざされた瞼に隠れているが、特に顔色が悪いということはなく、本当にただ眠っているだけのように見える。
(おれがなかなか目を覚まさないせいで、情緒不安定になった挙げ句に魔力暴走を起こしかけた、って水の王は言ってたが……)
我がことながら、たしかに三日眠り通しというのは寝過ぎだと思う。戦闘モードに入った二体の召喚獣に魔力を食われ過ぎた弊害なのか、単に今までの肉体的精神的疲労が一気に出たせいなのかはわからないが、お陰で少し体が動かしにくい。
リヒトに何かあれば、その魔力を糧としているスバルトゥルやその眷属となったイシュケルは、この世界で肉体を保ち続けることができなくなる。非常に不安定な存在である彼らが、帝室に殺された契約者の仇を討つためには、リヒトの生命活動の継続は絶対必要条件だ。ふたりがリヒトに対し、過保護気味になるのは仕方がないことなのだろう。
人間不信を隠すことなくツンケンした態度のイシュケルでさえ、リヒトの心身を害される可能性に対しては、非常に過敏になっている感じがする。自分に力を貸してくれている彼らに、よけいな気遣いをさせるのは申し訳ない。
イシュケルの透明な視線を背中に感じながら、リヒトは己の召喚獣の傍らに腰を下ろす。
「スバルトゥル」
彼を起こすつもりはなかった。
ただなんとなく、ごく小さな声でその名を呼んでみただけ。
けれどその直後、ぱっと目を開いたスバルトゥルが、バネ仕掛けの人形のような動きで上体を起こした。さすがに立派な腹筋だな、と感心したリヒトを、鮮やかな黄金の瞳が見つめてくる。
「……リヒト?」
「ああ。おはよう、スバルトゥル」
目覚めの挨拶を向けると、瞬きすらせずリヒトの顔を凝視していたスバルトゥルが、深々とため息をついた。
「おまえ……。いい加減、寝過ぎだろう」
「おれも、そう思う。今後もアンタたちが戦闘モードに入るたび、こんなふうに眠り通しになるのは面白くない。次の目標に向かう前に、せめてアンタたちと連携できるくらいにはなっておきたいな」
改めて今回の件を振り返ってみると、いくら気が逸っていたとはいえ、スバルトゥルの戦闘モードにぶっつけ本番で臨んだのは、完全に準備不足だった。やはり、自分たち全員が冷静とはほど遠い精神状態だったのだろう。
幸いなことに、この東の砦に囚われていたイシュケルは無事に解放できたし、その後の蟲たちの襲撃もどうにか凌ぐことができた。けれど、これから目指す三つの砦で、何より最終目標である帝都で、戦闘行動のたびに自分の体を思うように扱えなくなるのはいやだった。
「……ただのわがままだってことは、わかってる。おれは、アンタたちへの魔力供給に徹していたほうが、きっと役に立てるんだろう」
精霊である召喚獣は、人間とは比べものにならないほど魔力の扱いに優れている。人間が魔術の行使に必要とする魔力量は、精霊が同じ威力の魔術に要する魔力量の、千倍以上だという魔術研究家もいるくらいだ。
だから、単純に考えるのならば、召喚獣の助力を得られるリヒトが、あえて自ら武器を手に取る必要はない。まだまだ未熟な子どもである彼が戦うよりも、呼吸するように魔力を操る召喚獣たちに任せたほうが、間違いなく効率的だ。
そう、頭では理解している。
リヒトは父親やジルバのように、自身の力で精霊を呼び出し、己の召喚獣として契約したわけではない。彼らと同じように召喚獣たちと共闘するなど、もしかしたら思い上がりも甚だしいのかもしれなかった。
「でも、それじゃあ駄目なんだ。自分でも、どう言えばいいのかよくわからないんだが……。アンタたちにだけ戦わせて、おれは何もしないで待っているなんて、そんなのはいやだ。我慢できない」
子どものわがままと断じられてしまえば、それまでだ。
けれど、どうしてもいやなのだ。
これだけは、譲れない。
「教えてくれ、スバルトゥル。アンタと一緒に戦う方法を、おれは知りたい」
彼の戦い方は、この間の戦闘時に見て覚えた。反応速度、攻撃に入るときの間合いの取り方、操る魔術の構成精度。
しかし、それだけでは足りない。スバルトゥルが発揮できる力は、あのとき見たそれよりも、遙かに強大だ。人型の枷を解き放ち、本来の姿を取り戻した彼に思う存分戦わせてやることができたら、どんなにいいだろう。
本来の契約者ではないリヒトには、無理な話しなのかもしれない。美しい巨大な狼の姿をしたスバルトゥルとともに、肩を並べて戦うことなど。
それでも、そのための努力もしないまま、安易にあきらめる道は選びたくない。やれるだけやって駄目なら、あきらめもつくだろう。ただ、何もせずに最初から挑戦すらしないのは、いずれ絶対に後悔するという確信があった。
そんなリヒトの決意をどう判断したのか、スバルトゥルが静かな声で口を開く。
「知っているか? リヒト。何もできないやつってのは、自分が何かできる可能性を、想像できないやつのことをいうんだ」
にっと笑った彼の手が、リヒトの頭にぽんとのる。
「おまえは、おれの隣で戦う未来を想像できてる。それなら、可能性はゼロじゃない。……すまなかったな、リヒト。ジルバが死んで辛かったのは、おまえも同じだったのに。ここまで、無理をさせすぎた」
咄嗟に、言葉に詰まった。
ジルバはリヒトにとって、師であり育て親であり――この五年間、たったひとり信頼できる『身内』だったのだ。彼に対する信頼も敬愛も、実の父親に対するそれとなんら変わらない。
ならば、契約者を親のように慕うという召喚獣が、その喪失により感じる痛みは、リヒトが抱えているそれと同じなのかもしれない。
「……うん」
今までずっと、いろいろなことがありすぎて、きちんとジルバの死に向き合うこともしないままだった。思い出すだけで辛くて、悲しくて、彼の命を奪った第一皇女への憎しみで息が止まりそうになるから。それに囚われて足を止めてしまえば、また歩き出すことができなくなってしまいそうだったから。
けれど、何に追い立てられるわけでもない、ひたすら静かで穏やかな時間を与えられてしまえば、どうしても胸に去来するものがある。
「師匠、は……」
おおらかで優しい人だった、とか。
少し――いや、かなり変な人だった、とか。
そんなことは、スバルトゥルのほうがずっとよく知っているのだろう。
だから、これだけ。
「おれを、一生懸命、育ててくれたんだ。生き方を、教えてくれた。……母上に、殴られて蹴られて、雨の夜に捨てられたおれに、まだ生きていいんだって思わせてくれた」
「……そうか」
スバルトゥルの腕が、リヒトの頭を抱え込む。森のにおい。
「師匠に拾われてから、ずっと……師匠だけが、おれの大事な人だったんだ」
五年間、たったひとりの家族だった人。
師とも父とも慕った彼は、もういない。
目の奥が熱くなるけれど、涙ならばジルバが逝ったときにもう流した。泣くのは、駄目だ。これ以上の弱さを自分に許しては、今度こそ立ち上がれなくなってしまう。
けれど、少しだけ――今だけ、寄りかかってもいいだろうか。
同じ痛みを抱き、それゆえに自分と契約してくれた召喚獣に。
(生きていて、欲しかったよ。……バカ師匠)
ジルバは、いろいろと愉快な面倒ごとをしょっちゅう起こす人ではあったけれど、リヒトの知るほかの誰より優しい人だった。その彼に、あれほど理不尽で残酷な死を与えた者たちが、今もどこかでのうのうと息をしているのかと思うと、腹が立って仕方がない。
ぐっと奥歯を噛みしめたリヒトの頭を、スバルトゥルの手が優しく叩く。
「ジルバのそばにいたのが、おまえでよかった」
優しい声。優しい言葉。
「リヒト。ジルバの召喚獣だった者としての、最後の言葉だ。……あいつを、ひとりにしないでくれて、ありがとう。心から、感謝する」
「……うん」
ひとりは、寂しいから。
(スバルトゥルが、召喚獣でよかった)
寿命の概念がなく、人間とは比べものにならないほど強大な力を持つ彼ならば、自分よりも先に死ぬことだけはない。
(……置いて逝かれるのは、もういやだ)
だから、強くなる。
もう二度と、自分の目の前で、誰かが理不尽に命を奪われるのを許したりしない。そのための力を、絶対に手に入れる。
敵は、この帝国そのものだ。
強くなって、今も彼らに苦しめられている者たちを必ず救い出す。
改めてそう決意を固めていたリヒトに、スバルトゥルが妙に明るい声で言う。
「よし。それじゃあここからは、おまえの召喚獣として言わせてもらうぞ。おまえ、メシはちゃんと食ったのか?」
「え? あ……ああ。野菜のポタージュは、少し飲んだ」
そうか、とうなずいたスバルトゥルが立ち上がる。……その際彼が、リヒトの脇の下に手を入れ、軽々と持ち上げたのはどうかと思う。まるで猫の子のような扱いに半目になっていると、スバルトゥルはまったく悪びれた様子もなく笑って言った。
「気分が悪くないなら、もう少しちゃんとしたものも食えるだろう。俺も、腹が減った。ここの厨房のメシは、結構美味い」
「……わかったから、下ろしてくれ。自分で歩ける」
その要請にスバルトゥルが応じて地面を踏むと、いつの間にかイシュケルが姿を消している。どこに行ったのだろう。その疑問を見透かしたかのように、スバルトゥルが口を開いた。
「水の王なら、さっきどこかへ飛んでいったぞ。俺が目覚めた以上、あいつまでおまえを守る必要はないからな」
「そうか」
元々が、自由な気質の召喚獣だ。ふらりと気の向くままにどこかへ行くこともあるのだろう。
(そのうちアリーシャが目を覚ましたら、水の王に教えてもらおうと思っていたんだが……。まあ、いいか)
今のところ、この砦の中は安全なのだ。たとえ砦の外に出たところで、自由意志を取り戻したイシュケルに危害を加えられる者など、そういないだろう。リヒトはひとまず、スバルトゥルとともに砦の食堂へ向かうことにした。
***
「ハーゲン・カレンベルク。おまえは先ほど、帝都の情報収集ならば協力できると言っていたな」
将軍の執務室に、低い声が冷たく響く。
「はい、水の王。何か、緊急でお調べになりたいことがございましたか?」
「ああ、そうだ。――リヒト・クルーガーを生んだ女の居場所と現況を、可及的速やかに調べて報告しろ」




