空飛ぶ豪腕
ぼんやりと目を開いたリヒトは、顔の前に右手を持ち上げる。
指先や手のひらの皮がすっかり硬くなった、働くことをよく知る少年の大きな手だ。
――あの雨の夜から、もうじき五年が経つ。だから、こんな夢を見たのだろうかと思いながら身を起こす。使い慣れたベッドが、わずかに軋んだ。
ふぁあ、とあくびをして立ち上がる。去年辺りから、リヒトは急激に手足が伸び始めた。一時期は膝が痛くて立つことも難しいほどだったが、今はだいぶ落ち着いてきている。体が順調に大きくなっているのは嬉しいけれど、服だってそう安いものではないというのに、こう短期間で何度も買い換えるのは面白くない。
この五年間で、すっかり貧乏くさく――もとい、経済観念が立派に育ったリヒトは、先日新調したばかりの服に着替えた。シンプルな黒のパンツに、生成りのシャツ。首にはいつも、父親の形見の指輪を通した革紐をかけている。
着るものなど、動きやすくて丈夫であればいい、という面倒くさがりな性分を発揮した結果、リヒトの服はどれも似たような飾り気のないものばかりだった。
とはいえ、『清潔感を失った若い男なんぞ、家畜と同じだ。そして俺は、豚を弟子にした覚えはない!』という師の教えにより、家畜呼ばわりされたくない彼は、ヒトとしての尊厳は厳守することにしている。豚が非常にきれい好きな生き物だという事実からは、ひとまず目を背けておけばいいだろう。
リヒトの自室は、小さいながらもバストイレつきだ。冷たい水で顔を洗い、しつこく残っていた眠気を追い払う。
と、鏡の中の自分と目が合った。
毛先だけ少し跳ねた癖のある髪質と明るい琥珀色の瞳は、父親譲りだ。顔立ちや体つきも、おそらく父親似――だと思いたい。思い出の中でだいぶ美化されているとしても、彼がだいぶ体格のいい人間だったことは間違いないのだ。
今のリヒトは、ひょろひょろと背丈ばかりが伸びてしまい、お世辞にも逞しいとは言い難い。せめてもう少し、見た目で舐められない程度の筋肉が欲しかった。
自分を虐待していたときの、醜悪過ぎる姿しか覚えていない母親の顔は、記憶の中でだいぶ朧になっている。けれど、いくら母親であろうとも、自分を殺そうとした人間には断じて似ていたいとは思わない。
ただ、非常に残念なことに、リヒトの髪色は完全に母親譲りであった。この国の上流階級に多いという鮮やかな金髪は、田舎では目立ちすぎて仕方がないため、人前に出るときは魔術で父親と同じ黒に見せている。
クルーガー家が、リヒトの生存に気づいている可能性は低いだろう。だが、よけいな面倒ごとは、避けられるものなら最初から避けておくべきだ。あの家の人間とは、もう二度と関わり合いになりたくないのである。面倒くさい。
どうでもいい思考に囚われかけてしまったが、ひとつ首を振って意識を切り替える。ついでに髪の色を変える魔術を発動すれば、鏡の中の姿が一気に地味なものに変化した。よしよし、とうなずき、リヒトは朝食の献立について考える。
五年前から、食事の支度は彼の役割だった。はじめの頃は失敗ばかりしていたが、今はなぜか得意げな顔の師から「おまえは、いつでも嫁にいけるな!」と太鼓判をもらっている。もちろん、まったく嬉しくない。
ここは、村はずれにある二階建ての小さな借家だ。その二階にある自室を出たリヒトは、吹き抜けから階下に広がる惨状を見て、思い切り顔をしかめた。
「師匠……。アンタは、いったい何をしているんだ?」
あきれ果てた口調を隠しもしないリヒトの呼びかけに、しわくちゃになったブランケットの塊がもそもそと動き出す。ややあって、その下から渦を巻いて現れたのは、朝日に眩くきらめく白金の髪。一切癖の無いそれは、もしかしたら『美しい』と言われるものなのかもしれない。
「……ぐむぅ」
「朝の挨拶を忘れたことは、詫びておこう。すまなかった。そして、おはよう師匠。そろそろ、ヒトとして恥ずかしくないイキモノに進化してくれないか?」
しかし、どんなに美しい髪であろうとも、ズボラな持ち主はろくに櫛も通さないまま、ダラダラと伸ばしているだけだ。世のまっとうな美意識を持つ女性たちが知れば、いろいろな意味で絶叫しそうな有様である。
ブランケットの下で、しばしうごうごとしていたリヒトの師は、やがて大きく伸びをして姿を現す。
「おーう……。おはようさん、リヒト。昨晩ベッドに入ろうとしたところで、新しい術式のアイデアが閃いてよ。つい、夢中になってしまったゾ!」
そう言ってへらりと笑ったのは、黙っていれば芸術作品として飾られてもおかしくないほど端正な容姿の、青年もどきだ。実年齢は知らないが、少なくともリヒトの知る限り、出会った頃から彼が年齢を重ねた様子はほとんどない。何しろ、この五年間で彼の容姿で変化したのは、髪の長さくらいのものである。これまた、世の女性たちが知れば「きぃいいいっ」とハンカチを噛みしめてうらやみそうな話だ。
陶磁器のように真っ白な肌、紅玉の瞳。生まれつき、色を持たずに生まれてきたという彼の名は、ジルバ・タンホイザー。あの雨の夜、野垂れ死にしかけていたリヒトを拾った恩人にして、魔術の師だ。一見、二十代前半の青年に見える彼は、しかしその年頃にはとても思えないほど博識で、世間知にも長けていた。つくづく、意味不明な御仁である。
すべてを失い、心も体も死にかけていた幼い子どもを、ジルバは事情も聞かずに保護してくれた。その理由を、リヒトはいまだ知らない。なぜ自分を拾ってくれたのか、何度か尋ねてみたいと思ったこともあるけれど――
「今回は、なかなかすげえぞ! 行くぞ、リヒト! さあ、見るがいい! 空飛ぶ俺の豪腕を!」
「のわあぁあっ!?」
ブランケットをはねのけるなり、やたらと芝居がかったセリフとともに突き出されたジルバの左拳が、リヒトの頬を掠めて背後の壁に突き刺さる。比喩ではなく、逞しく引き締まった男性の左腕ごと、その拳は見事に漆喰の壁にめり込んでいた。
ギリギリで避けることができたものの、一歩間違えば大惨事間違いなしの状況である。冷や汗を垂らしたリヒトは、くわっと目を剥いて師匠に噛みつく。
「朝っぱらから、いったい何してくれてんだ、アホ師匠!? 危うく、おれの顔面が潰れたトマトみたいになるところだっただろうがー!!」
「……スマン?」
言葉だけは神妙だが、ジルバはまったく反省していない顔で首を傾げている。
天才と呼ばれる人種にはありがちらしいが、彼はあまり人の言うことを聞かないタイプだ。自分の興味のある分野に関しては、ひとつ尋ねれば十が返ってくるほど雄弁になる。その反面、そうでないことについては見事なまでに聞き流す。彼に魔術以外のことを尋ねたところで、まっとうな答えが得られるとは思えない。
そんなジルバの左腕は、二の腕の半ばから先が失われている。リヒトを拾ったときには、その原因となった事故から、さほど時間が経っていなかったらしい。当時、彼は何をするにもひどく不自由そうだった。
とはいえ、それからすぐに自作の魔導義手を開発しはじめた彼は、今や愉快な義手ライフを全力で満喫しているように見える。
……義手に伸縮機能を付加し、高いところの掃除を楽々としてくれたとき、心からの賞賛を捧げたのがよくなかったのだろうか。
指先に水魔法と風魔法を付加して洗濯に挑戦した際の結果は、洗浄対象すべての壊滅。それでも、家事の軽減を狙ってのことだと理解していたから、黙って後始末を手伝った。同じような構成の術式を使い、彼が自信に満ちた様子で洗髪してみようとしたとき、ハゲたくなければやめておけと忠告したのは、我ながら大変いい判断だったと思う。
その後、研鑽を重ねて自動で音声通りの手紙を書く術式の調整に成功したときには、掃除術式のとき以上に全力で褒め称えたものだ。
しかし、さすがに今回の『空飛ぶ豪腕』はいただけない。いくら命の恩人にして、心からの感謝と敬愛を捧げるべき師であろうとも、ダメなことはダメと言わなければ、ジルバはどんどんおかしな方向へ突っ走っていってしまう。
壁に突き刺さったままみょんみょんと揺れている義手を、リヒトはずぼっと引っこ抜いた。ひんやりとしたそれは、見た目だけは完璧に人間の腕を模しているため、はたから見ればさぞ不気味な光景だろう。
リヒトは鷲づかみにしたそれを、ジルバの無駄に美麗な顔面にぶつけたい衝動に駆られたが、どうにか堪えて彼を見る。
「朝食は、アンタの好きなとろとろチーズオムレツにしようと思っていたんだが……」
「そいつは嬉しいな!」
途端に満面の笑みを浮かべたジルバは、卵料理に関しては柔らかめに仕上げられたものが好物だ。別に、彼が総入れ歯で柔らかいものしか食べられないというわけではない。ただ単に、好みの問題である。
リヒトを拾ったばかりの頃は、彼が片腕での作業に慣れていなかったこともあり、食事はすべて外で買ってきたものだった。しかし、リヒトがどうにかまっとうに歩けるようになると、彼はお坊ちゃま育ちの彼に、大変厳しく家事を仕込んでくれたのである。
父親が生きていた頃は、『食事というのは、召使いが運んでくるもの』と思っていたリヒトに、彼はそれはそれは朗らかにほほえんでこう言った。
――まっとうな大人っていうのは、身の回りのことをきちんとできるやつのことらしい。よくわからねえが、この本に書いてあるから、たぶんきっとそうなんだろう。で、金持ち連中が、自分の金でいろいろ他人に任せるのは、それに該当するな。だが、今のおまえは無一文のガキだろう。そして俺には、拾ったおまえをまっとうな大人に育てる義務がある。つまり、おまえはこれから、身の回りのことを全部自分でできるようにならなきゃならねえ、ってことだ。理解したか? 理解したなら、さっさとまともなメシを作れるように精進しやがれ。子どものすくすく健やかな成長に、栄養バランスの取れた食事は必須だからな!
ものすごく偉そうにふんぞり返ってそう宣言した彼は、『はじめての育児』という本を皮切りに、さまざまな子どもの養育書を片手にリヒトを育てた。結果として、かつて世間知らずのお坊ちゃまだった捨てられ子は、今や代行業者レベルの家事スキルを身につけている。もちろん、卵料理だって家庭料理レベルのものであれば、大抵のものは作れるようになった。
しかし、悪意も悪戯心もなく顔面を砕かれかけたばかりの現在、リヒトの心はアリの卵よりも小さくなっている。ここぞとばかりに、全力で朗らかな笑みを浮かべて言った。
「面倒だから、目玉焼きにすることにした」
え、とジルバの笑顔が凍りつく。
「安心しろ。アンタの好きな夏野菜のトマト煮込みは、鍋一杯作ってある。好きなだけおかわりをしていいぞ」
「~~っ、それは嬉しいけど! 嬉しいけどな! それ、オムレツにのせたらめちゃくちゃ美味いやつ! チーズオムレツだったら、もっと美味いやつだよな!?」
残された右手をぶんぶんと振りながら主張するジルバに、リヒトはふん、と鼻を鳴らした。
「そう思うなら、オムレツくらい自分で作ったらどうだ。お師匠サマ?」
ぺいっと義手を放ると、ジルバは反射的に受け止めたようだが、それはすでに『空飛ぶ豪腕』としての任務を終えている。端的に言えば、使用不能なほどに壊れていた。彼が料理をしようと思えば、予備の義手を装着するしかない。
しかし、リヒトが先ほど階下の様子を見て呆れたのは、何も己の師がリビングで寝落ちていたからというからではなかった。
「ま、作れるモンならな」
「~~か……っわいくねぇえええーっっ! 俺の弟子が、可愛くねえぞー!!」
壊れた義手を抱えて突っ伏したジルバの周囲には、数え切れないほどの義手の残骸が散らばっている。千切れた人間の腕にしか見えない物体が、床一面に散らばっている様はなかなか不気味だ。子どもが見たら、泣いてしまうかもしれない。
どうやらジルバは、リヒトの推察通り、予備の義手をことごとく『空飛ぶ豪腕』の試作品として使ってしまったらしい。わざとらしくめそめそと泣く振りをしながら、「オムレツー、チーズオムレツー」と不気味な呪文のように繰り返している。
「そりゃあ、思っていたよりちょびっとだけ勢いよく飛んでいったけどよ。おまえなら、普通に避けられるだろうか。俺の弟子が、そんなに間抜けなはずはない!」
「アンタは、弟子に夢を見すぎだ。おれは、朝っぱらから戦闘モードに入るのは遠慮したい、ごく普通の感性を持つ十五歳の男の子です」
ここで甘い顔をして、また同じことを繰り返されてはたまらない。しかし、ジルバはグチグチとしつこく言う。
「ちっこい頃のおまえは、あんなに素直で可愛かったのに……。どこで育て方を間違ったかな」
「残念ながら、おれはアンタから素直さや可愛げといったスキルを教わった覚えはない。目玉焼きに文句があるなら、固ゆでのゆで卵にするぞ」
「そこは、せめて半熟にしろよ!」
それからも何やらいろいろと言っていたけれど、その日の朝食のメインは、結局サニーサイドアップの目玉焼きとなった。ターンオーバーにして、きっちり両面を焼いてやろうと思っていたのだが、ジルバに邪魔されたのだ。
とはいえ、フライパンの前でやり合っている間に、卵は焦げる寸前まで焼けていた。ひとまず、「アホなことをやらかした師匠に、火の通り過ぎた卵を食べさせる」というリヒトのみみっちい目的は、無事に達成できたのであった。
目玉焼きは、半熟に醤油派。