聖女
しかし、いくら借りがある相手の要請でも、高位精霊を殴るのはいただけない。何しろ相手は、その気になればいつでも自分たちを丸呑みできるサイズになれるのだ。
「おれなら殴っても構わないが、スバルトゥルはやめてくれ」
巻き添えで精霊の怒りを買うくらいなら、自分が代わりに殴られたほうがマシである。しかし、アリーシャは心底いやそうに顔をしかめた。
「なんでそうなるのさ。わたしは、八つ当たりで子どもを殴る趣味はないよ」
そんな趣味の持ち主は、地獄に落ちるべきだと思う。
スバルトゥルは、自分がこぼした失言には気づいていないようだ。不思議そうな顔でふたりの会話を眺めていたが、ふと表情を消して背後を見た。
「黙れ、女」
それまでずっと、スバルトゥルに対して「何をしているのか」だの「早くその者たちを殺せ」だのと喚いていたエリーザベトが、永久凍土もかくやという冷え切った声と視線を向けられ、息を呑む。
「ス……スバルトゥル。わたくしに向かって、なぜそのような……」
真っ青になりながら、それでもしつこくスバルトゥルに声をかけてくるのは、いまだに己が彼の主だと信じているからだろう。
改めて眺めてみても、やはりエリーザベトからは精霊に認められるほど潤沢な魔力は感じられない。せいぜい、泥タイプの蟲を単独で討伐できるかどうかというところだろう。
この程度の魔力の持ち主を、高位精霊の主に仕立て上げられる禁術とは、いったいどれほどの代償を必要とするものなのか――想像するだけでもぞっとする。
「なぜ、だと?」
くくっ、とスバルトゥルが、どこまでも愚かな人間を嘲笑う。
「おまえのような性根の腐った女に、俺の名を呼ぶ許しを与えた覚えはない。……ああ、その腕輪が俺を縛っていた呪具か」
ハッとした表情で、エリーザベトが左腕を持ち上げる。その手首には、幅広の腕輪がはめられていた。驚くほど大きな魔導石があしらわれたそれは、皇族が身を飾るのに相応しい豪奢さだ。
「どうして……!?」
しかし、かつては美しい輝きを放っていたであろうその魔導石は、鈍く濁っている上に大きな罅が入っている。完全に魔力が失われ、あれではどんな小さな魔術の媒介となることもできないだろう。
くつくつと笑ったスバルトゥルが、軽く自分の胸に手のひらを当てる。
「俺の主が、命をかけて俺を自由にしてくれた。おまえたちの禁呪は、もう俺を縛ることは叶わない。なぜなら、俺はもう、おまえたちが己の同胞と契約を交わした精霊に悪意を向けることがあると知ったから」
きゅう、とスバルトゥルの鬱金色の瞳孔が細くなる。
「答えろ。愚かなアンビシオン帝国第一皇女。五年前、ジルバから俺を奪ったように、おまえたちが契約者から奪った四体の精霊たちは、今どこにいる?」
「そんな……! スバルトゥル! わたくしはただ、おまえを――げうっ」
何か言いかけたエリーザベトが、突然目に見えない何かに押さえつけられたかのように、勢いよく地面に這いつくばる。顎を瓦礫に打ち付けて舌を噛んだのか、咳き込んだ口元から血が垂れた。
スバルトゥルが冷ややかに言う。
「おまえに、俺の名を呼ぶ権利はないと言ったはずだ。おまえが今この場でできるのは、そうして這いつくばりながら、俺の許しを請うことだけ。……あまり、苛立たせないでほしいものだな。俺は、そう気の長いほうではないんだ」
「ひ……ひぃ……っ」
エリーザベトを抑えこんだのは、スバルトゥルが放った魔力の圧であったらしい。あれほどピンポイントで魔力を操れるとは、さすが高位精霊と言うべきか。
すぅ、とスバルトゥルの目が細くなる。
「おい、第一皇女。俺に、二度同じ質問をさせる気か?」
ようやく己の立場を理解したのか、エリーザベトが震えながら口を開く。
「あ……あの、ものたちは……っ、と、東西南北、それぞれの守りの、要となる砦に……っ」
現在のアンビシオン帝国は、このガーラ大陸の北西から中央までを支配している大国だ。だが、北の海からは、強大な海軍を擁する島国連合が虎視眈々と帝国の資源を狙ってくるし、地続きの隣国とは常に国境線を巡る小競り合いが発生していると聞く。
五年前、本来の主から引き離された召喚獣たちが、そういった危難を排するために配備されているということは――
「なるほど。今、あいつらの偽主をやっている人間たちは、前線で軍務に就いている魔術師か。となると、皇室の人間ではなさそうだが……。まぁ、帝都の連中に『最高位の精霊』を侍らせているところを見せつけて、皇室の権威とやらを高めるだけなら、『お姫さまのアクセサリー』だった俺一体で事足りるか」
舌打ち交じりに言ったスバルトゥルは、蒼白になって身を縮めているエリーザベトの前に立つと、その頭に靴の踵をのせて踏みつけた。
「ぐぅ……っ」
「もうひとつ、質問だ。この禁呪の開発を計画主導し、実行に移した最悪の愚物は、どこのどいつだ?」
その問いかけに、リヒトは鋭く息を呑む。
ジルバからスバルトゥルを奪った禁呪を作った何者かは、同時にリヒトの父親を含む四人の召喚士たちからも召喚獣を奪っている。そして、口封じのために彼らを殺した。
ならば、その何者かこそが、リヒトの父親の仇だ。
呼吸を忘れてリヒトがエリーザベトの答えを待っていたとき、複数の魔力による攻撃の圧を感じた。咄嗟に、自分とアリーシャを守る防御シールドを展開する。
直後、魔法弾が雨のように降り注ぐ。
「姫さまァっっ!!」
「貴様、何者だ!! その方を、アンビシオン帝国の聖女であらせられるエリーザベト皇女殿下と知っての狼藉か!?」
第一声は、先ほどリヒトを捕縛用魔導具で拘束した、中年魔術師。たしか、エーミールと呼ばれていた。第二声は、彼と一緒にやってきた魔術師チームのリーダー格だ。
どうやら、農園の管理事務所にやってきた魔術師チームが、そのまま全員で追いかけてきたらしい。それは、先ほどエリーザベトが彼らにリヒトの捕縛を命じたからだろう。
しかし、ようやく追いついてきてみれば、召喚獣に守護されているはずの皇女が、見知らぬ青年に踏みつけにされている。総勢六名で現れた彼らは、揃って仰天し、リヒトとアリーシャには目もくれずにスバルトゥルを包囲した。
彼とエリーザベトの周囲は、先ほど彼らが放った魔法弾で円状に瓦礫が吹き飛んでいる。その円の縁に立った魔術師たちは、油断なくスバルトゥルの様子を窺っている。
中でも、エリーザベトと縁が深いらしいエーミールは、頭から湯気を噴きそうな勢いだ。
「おのれ、おのれ……! 姫さまに、なんということを!」
他人事ながら、頭の血管が切れるのではないかと心配になる有様だが、リヒトはそれよりも気になることがあった。
「なあ、アリーシャ。聖女って、なんだ?」
あの皇女が人々からそう呼ばれているということは、知識としては知っていた。だが、そもそも聖女というのがどういった存在なのか、定義がいまいちよくわからない。
なんとも言い難い表情で、アリーシャが答える。
「あー……うん。あの皇女さまはね、帝都ではそんなふうに呼ばれてるんだよ。最高位の召喚獣を従えた、美しく慈悲深いお姫さま、だってさ。戦を嫌う心優しいお姫さまは、貴重な戦力になるはずの召喚獣を帝都に留めて、前線に連れて行こうとしなかったから」
なんだそりゃ、とリヒトは首を傾げた。
「自軍の最大戦力になり得る召喚獣を持ってるなら、最速で敵をぶっ倒して戦をさっさと終わらせるのが、正しい戦嫌いってもんじゃねえのか?」
アリーシャが、やけに老成した表情で小さく笑う。
「その辺はホラ、物は言いようってやつだよ。国のトップを務めるような連中は、みんな口が上手いからねえ。その口の上手さで、わたしの母親もこの国のお偉いさんにコロッと騙されて、誰からも望まれない子どもを産んだわけだし」
「……なんか……スマン」
爽やかな笑顔で、唐突に自虐をぶち込んでくるのは、胃が痛くなるのでぜひともやめていただきたい。
アリーシャは、悪気なく相手の良心を抉っていくタイプ。




