禁呪
立ちこめる土煙が、風に払われ薄れゆく中見えてきたのは、巨大な狼のシルエット。まるで彫像のように動かないそれの鼻先に、ゆっくりと寄り添う細い人影があった。
視界が少しずつクリアになる中、立ち尽くすリヒトの目にようやく映ったのは――左の義手を破壊され、右腕もまた根元から失われながらも、揺るぎない足取りで獣と見つめ合う師の姿。獣の牙は、師のものであろう血で汚れている。おそらく、師の両腕を奪ったのはあの獣だ。
リヒトの右手は、すでに魔導剣を握っている。ぶるぶると震える体と心は、今にも獣に飛びかかっていきそうに激高しているのに、動かない。否、動けない。
それは、獣を見つめるジルバの表情が、ひどく嬉しそうに綻んでいたからだ。両腕を無惨に食いちぎられ、想像を絶するほどの激痛に襲われているだろうに、彼はどこまでも穏やかな声で獣に言った。
「愛しているよ、スバルトゥル。……俺の半身。俺の唯一。こうして、またおまえと話せただけで……俺は今、この世界の誰より幸せだ」
「ジル、バ……」
血塗れの牙をぎこちなく動かし、獣が掠れた声で師の名を呼ぶ。
ふふ、と笑ったジルバが、獣の鼻先に血の気の失せた額をすり寄せた。
「……あの女なら、俺に残された右腕を、絶対……おまえに、食わせると思ったんだ。五年前、あの女に奪われたおまえが、おれの左腕を、食ったとき……ものすごく、嬉しそうに……勝ち誇った顔を、していたから」
「だから……っ、だからおまえは、あれほど重い解呪の術式を、自分の右腕に埋め込んでいたというのか!? あんなものを体内に有していては、日常生活を送ることさえ、ままならなかっただろう!?」
そうでもないさ、とジルバが笑う。
「優秀な……弟子を、拾ったんだ。ずっとあの子が、俺を助けてくれた。……笑えるだろう? スバルトゥル。この俺が……十歳のガキを拾って、子育て……立派に、ちゃんと、育てたんだ」
「おまえが、子育て……?」
獣の声に、困惑が滲む。その鼻先に埋められたジルバの顔が、見えない。
「ああ。俺が……育てなくちゃ、ならなかった。あの子は……シュトラールさまの、大事な子ども、だから……」
(……え?)
今までジルバに、父の名を伝えたことはない。シュトラール・クルーガー。五年前に暗殺された、この帝国屈指の英雄と言われた召喚士。
「シュトラール……?」
獣の声が、震える。
「それは、五年前のあの夜に……おまえを食い殺しかけた俺を、止めてくれた召喚士か?」
「……うん。俺を逃がしたり、しなければ……シュトラールさまは、死なずに済んだ。あのときおまえを、拘束していた術を解いて、自分の身を守っていれば……っ」
何を、言っているのだろう。
ひどく辛そうなジルバの言葉が、理解できない。
荒い呼吸を繋ぎながら、両腕を失った魔術師が囁くような声で希う。
「スバルトゥル。……俺の、最愛。俺の愛する、大地の精霊。おまえの、契約者だった男の、最後の……願いだ。あの子を……リヒトを、守ってやってくれ」
「ジルバ……ジルバ、もう喋るな」
ああ、とジルバが嘆息する。
「おまえを、抱きしめる……腕が、ないのは……少しだけ、寂しいな」
「ジルバ……!」
その瞬間、巨大な狼の姿が揺らいだ。一瞬ののち、そこに現れたのは黒銀の髪を持つ青年の姿。
全身を己の血で真っ赤に染めたジルバを抱きしめ、獣だった青年が叫ぶ。
「すまないジルバ、すべて俺のせいだ。俺が……っ、あんな禁呪に支配されたりしたから、おまえがこんな……!」
「……違う、スバルトゥル。そんなふうに……自分を、責めたりするな。おまえは……何も、悪くない。悪く、ないんだ」
荒い喘鳴交じりの声で、ジルバが囁く。
「悪い、のは、俺なんだ。……おまえを、確実に禁呪から解放する、ために……俺は、リヒトを、利用した。俺の剣を持った、あの子が……何も知らずに、ひとりで、キメラタイプと戦えば……あの女は、剣を持たない俺を……おまえを使って、殺しに、来ると……油断して、来ると、思った」
「……そうだな。あの女は、おまえが丸腰のうちに始末すると、息巻いていた」
獣だった青年の手が、ジルバの頭を引き寄せる。もう、自分で自分の体を支えられなくなっているのかもしれない。
「スバルトゥル。……リヒトに、伝えてくれ。シュトラールさまの、召喚獣は……彼が愛した、雪の王は、今も、おまえと同じように……この帝国に、囚われている」
「な……に?」
獣の青年の目が、驚愕に見開かれる。
同時に、リヒトの喉がヒュッと鳴った。
「雪の王、だけじゃ、ない……。五年前、この帝国の召喚士と、契約していた……おまえを含めて、五体の、最高位の召喚獣が……契約者から、奪われた。……生き残った、召喚士は……シュトラールさまに、守られた……俺だけ、だった」
魔導剣を握った手の、震えが止まらない。否、リヒトの全身が震えていた。
「……スバルトゥル。俺の右腕を食った、おまえは……解呪の術式を、理解した、だろう。リヒトに……教えて、やってくれ。あの子なら、きっと……使いこなせる。でも、あの子は……まだ、幼い。可哀相な、子なんだ。……頼む、スバルトゥル。俺の、全部をおまえにやるから……どうか、あの子を、守って……」
「わかった。わかったから……おまえの弟子は、俺が守る。おまえの魂と血肉、俺の命にかけて、何があろうと絶対に守ってやる。約束する。だから……だから、ジルバ」
掠れた声で言った獣の青年が、ジルバの体をかき抱く。
「もう……安心して、眠れ」
答えは、なかった。
リヒトの敬愛する師は、もう二度と目を覚ますことはない。もう、何も教えてはくれない。リヒトを導くことも、からかって笑うことも、頭を撫でてくれることも……もう、ないのだ。
(あ……)
がくん、と膝から力が抜ける。
「リヒト!」
地面にくずおれたリヒトの体を、細く柔らかな腕が支えた。
知らない腕だ。いつもリヒトを支えてくれた師の逞しいそれとは、まるで違う。自分が欲しいのは、この腕じゃない。振り払いたい衝動に駆られるのに、自分の体がまるで言うことを聞いてくれなかった。
獣の青年が、物言わぬ骸となったジルバの瞼を落とし、そっと地面に横たえる。
「……ジルバ。安心しろ。約束は、必ず守る」
彼がそう呟くなり、ジルバの体が眩い光に包まれた。一体何を、と身を乗り出したリヒトが見つめる先で、光が収束する。瞬きひとつのあと、そこにはもうジルバの姿はどこにもなかった。代わりに、美しく輝く深紅の宝玉が、獣の青年の手のひらに載っている。まるで鮮血のような――ジルバの瞳のような、美しい赤。
大切そうにそれを握りこんだ彼は、その宝玉を己の胸に吸い込んだ。
少しの間、黙って胸元に手を当てていた獣の青年は、やがてゆっくりと振り返る。その瞳は、鮮やかな黄金。まっすぐにリヒトを見据え、彼は言う。
「我が契約者の剣を持つ子ども。おまえが、リヒト。ジルバの育て子か?」
「……そう、だ」
ほとんど無意識に返した答えに、獣の青年は静かにうなずく。
「俺は、西の大地の精霊、スバルトゥル。我が契約者の命により、おまえを守護する」
「師匠、が……おまえの、契約者……?」
ならば、先ほどまでスバルトゥルに騎乗していた、帝国の第一皇女はなんだったというのか。
獣の青年は、その野性味の強い精悍な顔を、心底不快げに歪めて言った。
「召喚士の呼び声に応じる精霊は、己の意思で契約者を選ぶもの。おまえたち人間の側に、精霊を選ぶ権利はない」
それがどうした、とリヒトは瞬く。
精霊は元来、それぞれの土地で自由に過ごしているものなのだ。召喚士がどれほど願ったところで、彼らがその気にならなければ応じることはない。
「だが、この帝国を統べる者たちは、自らが契約する精霊を選別したがった。――より強大な力を持つもの。より都合のいい性質を持つもの。それにより、自らが他者よりも遙かに優れた存在なのだと、周囲に誇示したがった」
「……なんだよ、それ」
精霊は、己が助力するに相応しいと認めた者とのみ契約を交わす。その理は、精霊たちが人間よりも遙かに強大な力を持つ存在である以上、覆されることはないはずだ。
スバルトゥルが、低く感情の透けない声で続ける。
「本当に、愚かな話だ。だが、人間たちの強欲は、ときにおぞましい呪いとして結実する。それを奇跡と呼ぶのは業腹だが、そうとしか言いようのないことがこの帝国で現実となった。……すでに召喚士と契約し、その召喚獣となった精霊の自由意思を封じ、己の所有物として支配する禁呪。それにより、五名の召喚士から『皇族が持つに相応しい』とした召喚獣を奪い、ジルバ以外の四名を口封じのため殺害した」
リヒトは、大きく目を見開いた。
ならば――五年前、この帝国の英雄とまで呼ばれていた父親を、殺したのは。敵国の、暗殺者などではなく。
「そうだ、リヒト。おまえの父親から、彼を愛する雪の王を奪い、その命をも奪ったのは、この帝国の皇族だ」
スバルトゥルの言葉の意味を、理解した直後。
リヒトの耳元で、制御ピアスが砕けた。




