雨
スランプからのリハビリ作です。
はじめての男の子主人公ですが、なんかめっちゃ書きやすい……。
最初から少しの間、ややハードにシリアスですが、そのうちかなり軽いノリになるターンもありますので、気軽にお付き合いいただけると嬉しいです(敬礼)!
雨が、降る。
すべての音を飲み込む水滴が、地面に倒れ伏した子どもの体温を容赦なく奪っていく。
かじかんだ指先をどうにか動かし、胸元にぶら下がっている幅広の指輪に触れる。半年前に亡くなった、父親の形見だ。
(父さん……)
先日、十歳の誕生日を迎えたばかりのリヒト・クルーガーは、このアンビシオン帝国の建国当時から続く、裕福な貴族の家に生まれた少年だ。唯一の嫡子として何不自由なく育てられ、将来は敬愛する父親の後を継ぐことを夢見ていたのに――
(……寒い)
父親が暗殺されたと知らされてから、すべてが変わってしまった。
元々近寄りがたい女性だった母親は、表向きは夫の喪に服して涙を流していた。けれどその陰では、息子が生まれた直後から関係があったという愛人を、屋敷に引っ張り込んでいたのだ。そのときはじめて、リヒトは父親が平民階級からの入り婿であり、それを家柄と美貌を誇る母親がずっと屈辱に感じていたことを知ったのである。
リヒトの父親は、この帝国で最高位の召喚士だった。
自然の力そのものの具現である精霊を召喚して契約を交わし、実体を持つ存在としてこの世界に顕現する。それにより、すさまじいばかりの力を持つ精霊を、己の魔力を糧とする召喚獣として使役するのが、召喚士という存在だ。
より高位の召喚獣を従える召喚士をどれほど抱えているかが、各国の国力に直結しているといっても過言ではない。そのため、二十年ほど前に没落寸前だったクルーガー家は、当時すでに軍で頭角を現していた父親を婿に迎えた。たとえ親の顔すらわからない孤児であっても、彼の持つ『英雄』の肩書きは、それほど魅力的だったのだ。
しかし、その父親はもういない。戦場では、人知を遙かに超えた力で彼を守護し続けた召喚獣も、味方であるはずの人間による卑劣な暗殺から、マスターを護ることはできなかったらしい。
父親の召喚獣であった、白銀の毛並みにアイスブルーの瞳を持つ巨大な雪豹は、リヒトにとって揺るぎない力の象徴だった。強大な精霊魔法を操り、自由に空を翔る姿に、何度見とれただろう。
父親を相棒と呼び、戯れに幼子を背に乗せてくれた獣は、マスターが亡くなったのと同時に己の領域へ還ったという。それを執事から知らされたとき、最後の挨拶すらできなかったのは少し寂しかったけれど、ほっとした。
リヒトは、ほんの幼い頃から父親に憧れ、人間と精霊――引いては召喚士と召喚獣に関する知識を学んでいる。過去の事例の中には、マスターを守り切れずに喪った悲しみのあまり、自ら存在を停止させた召喚獣も珍しくなかった。大好きな父親を亡くしても、あの美しい獣の姿をした、最北の森を統べる精霊だけでも無事でいてくれたなら、少しは心安らぐ気がしたのだ。
けれど、そんなリヒトには、父親の死をきちんと受け入れるための時間すら許されなかった。母親とその愛人は、ともに貴族階級の人間だ。彼らにとって、クルーガー家第一位の継承権を持つ平民の子は、よほど厭わしい存在だったらしい。
生まれてからずっと、どれほど近寄りがたくとも「母上」と呼んでいた相手からの暴力と暴言は、たやすく子どもの心を砕いて壊した。……リヒトは父親を亡くすのと同時に、母親も失っていたのだ。
やがて、食事も満足に与えられないようになり、痩せ細った体から生きる気力さえ無くなった頃、リヒトは文字通り屋敷から放り出された。暗い部屋から引きずり出され、馬車でどれほど移動したのかはわからない。けれど、飢え死に寸前の子どもが、夜の冷たい雨に打たれ続ければどうなるかなど、考える必要もないだろう。
死ね、と。おまえの命を喜ぶ者は、もうこの世界のどこにもいないのだ、と。
そう宣言されたのと同じだ。
父親が殺されるまで――ほんの半年前まで、たしかにリヒトは幸せだった。母親から愛情らしいものを受け取ったことは一度もないけれど、政略結婚が常である貴族の家では、それくらいさほど珍しい話ではない。むしろ、多くの人々から英雄と称えられている父親が、屋敷に帰ってくるたび自分を抱き上げ、心底嬉しそうな顔を見せてくれるだけで、充分過ぎるほど誇らしく幸せだったのだ。
――なのに、こんな形ですべてが終わってしまうなんて。
そして、全身を叩く雨粒の感覚すら曖昧になってきたときだった。
「……生きたいか?」
雨音を貫いて、少し掠れた低い声が耳に届く。
格好のいい声だな、と思った。母親のヒステリックで甲高い声とはまるで違う、落ち着いた響きを持つ男の声だ。
はじめて聞くその声の主は、どこまでも淡々とした口調で続ける。
「悪いが、今の俺におまえを甘やかす余裕はねえんだ。――選べ。ここでこのまま獣の餌になるか。それとも、これから五年間だけ、俺と生きるか」
声の主が、リヒトの目の前に膝をつく。ぼんやりと瞬けば、相手のシルエットが雨に煙って見えた。雨よけの外套。広い肩幅と、大きな体躯。差し伸べられた右手の指先が、少し父親のそれに似ていた。
「俺は、おまえを助けるわけじゃない。五年後、俺は必ずおまえを捨てる。……それでも、来るか? 俺が、おまえをとことん利用し尽くして、最後にはゴミのように捨てるとしても」
低く紡がれる男の言葉に、リヒトはひどくほっとした。
母親にさえ捨てられた自分が、赤の他人に無条件に庇護されるなんて、とても信じることができなかったから。
リヒトは、父親譲りの膨大な魔力を持っている。幼さゆえの魔力暴走を案じた父親が、体内魔力の流れを制御するためのピアスをわざわざ作ってくれたほどだ。
父親のいないところでは、絶対に制御ピアスを外してはいけないと言われていた。たとえ『英雄』の子でなくとも、制御の甘い大きな魔力を持つ子どもは、よくないことを考える輩にとって、危険を冒してでも拐かす価値があるものだから、と。
ならばきっと、この男にとってもリヒトはなんらかの利用価値があるのだろう。だったら、彼の手を取ってもいいはずだ。
同情なんて、信じない。無償の愛情なんて、信じられない。けれど、自分を利用したいというのなら、その言葉は理解できるし信用できる。
だから、最後の力で手を伸ばす。
「……はい」
声とも言えないような掠れた雑音が、辛うじて口からこぼれ落ちる。リヒトはそのときはじめて、自分が『死にたくない』と切望していたのだと知った。
生きたい、と願っているのかどうかは、わからない。けれど、自分が己の命をどう使うのかを、まだ選べるのだと理解した。
ならば、まだ死ねない。
父親から受け継いだこの命を、簡単に諦めるなど許さない。
たとえこの世界の誰にとっても価値のない命でも、どんなふうに使うのかは自分で決める。誰にも――たとえ自分の命を生み出した女性であっても、その権利は譲らない。
「あなたと、いきます」
一拍おいて、ひんやりとした硬い感触が指先に触れる。
すまねえな、という声が聞こえた気がしたけれど、リヒトの意識はそれきりぷつりと途切れて消えた。