世話が焼ける夫婦の話
深夜の勢いで投稿したので自信ありません。
狭い部屋の中にそれは居た。
何度も読んだせいでボロボロになった本と、幼子が使うような勉強道具。
薄汚れたベッドは、どう見ても衛生的ではない。
独房と呼ばれる場所に、その女は居た。
「ごきげんよう」
にへら、とアホ面で挨拶をしてきた。
汚い女だと見下して、鼻を鳴らして顔を背けた。最初から親しくなるつもりは無い。
反逆者が非業の死を遂げる本、満足にインクの出ないペン、学ぶものなど何一つ残っていない教本────全て、グチャグチャにしてやった。
じっと見てきた目が気に食わない。
こちらの意思を汲み取ってわざわざ目を閉じた、その行動にも腹が立ち、思わず頬を打った。
外に出たことの無い女の白い肌に、赤い痕が付いた。
我が家は由緒正しき、高貴な家系だ。女の行動はとても浅はかで、不敬極まりないものだった。だから、頬を打ったのに。
俺は何故だか、後悔してしまった。
『監視のために、妻として娶れ』
王命は絶対である。俺は粛々と承った。
あれは、庭を気に入ったようだった。毎日のように庭へ出る。
今は亡き父と母が丹念に手入れをしていた庭だが、正直に言って興味は欠片も無かった。
あれが庭で何をしようが、気にも止めなかった。
ある日、使用人のヴィツィオが言った。
「旦那様。奥様が風邪を召されたので、しばらく部屋に近づかないでくださいね」
「……?」
監視のため、毎朝必ず朝食を共にしていた。
姿が見えないと思っていれば、そう告げられたのである。
「昨夜、大雨だったでしょう? 先代様が大事にされていたオルテンシアを心配して、外でずっと作業をされていたようなのです」
「……!?」
ガタンと、立った勢いで椅子が倒れた。
ヴィツィオは音もなく近付き、椅子を元に戻した。
「……様態は?」
「薬を飲まれて今は落ち着いておられます」
「誰も止めなかったのか?」
「深夜の出来事で、誰も気付かなかったのですよ」
使用人の言葉を聞きながら、あまりの出来事に呆然とした。
部屋から滅多に出ないあの女が、たかが花のためだけに大雨が降る庭に飛び出していくなんて。
────冗談ではない。
「ヴィツィオ、あの女から目を離すな。寝る時は部屋に鍵を掛けろ」
「いっそのこと、部屋に閉じ込めてしまえばよろしいのでは?」
言われてみればそうだと思う。
しかし、それを実行する気は全く起きない。
「…………いや、いい」
独房に座り込んでいたあの女の姿を思い出す。
……そうだ、閉じ込めなくていい。
あれを閉じ込めておく必要など、ここには無いのだから。
「無駄な手間を増やすな」
「申し訳ございません」
風邪が治って部屋から出てきた女は、すっかり痩せこけていた。
「みすぼらしい」
見ていられなくて、しばらく朝食を共にするのを止めた。
料理長には、精がつくものを食べさせるようにと言い付けた。
「旦那様、奥様がお庭に」
ある雨の日。ヴィツィオからの報告を受けて、先回りをする。
女は自分の傘を持たない。だから庭へ出る前に呼び止め、傘を渡した。
女が朝食時に、数ある中から必ず選び抜いて口にする果実と同じ色だ。受け取らないはずが無い。
「ありがとうございます」
目論見通り、女は傘を受け取った。
渡して直ぐにその場から去り、庭がよく見える2階の部屋へと移動する。
生前の父母が使っていた部屋である。ここの窓から、オルテンシアはよく見える。
仕事柄、目は良い。ふと視線を上げてこちらを見た、あのアホ面もよく見えた。
雨の日に、女は必ずあの傘を持ち出すようになった。
雨以外の日でも、俺は必ず2階から様子を眺めていた。
特に晴れの日は、あのアホ面が良く見える。
オルテンシアを心底幸せそうに見る女から、目を離さなかった。
あの女は娯楽を知らない。
庭へ出ていくが、そこまでだ。屋敷の外に出たいなど、一言も言わない。
呆れた俺はボードゲームに誘った。
手加減せず、容赦なく叩きのめした。そこまでしなくても、あの女は下手くそだったが。
その日からだろうか、女の様子がおかしくなったのは。
ただでさえ部屋から出ない女が、更に部屋へと篭るようになった。
「何やら書き物をされているようで」
「何を書いていた?」
「見せてくれないのですよ。こっそり見ようにも、毎回巧妙に隠されてしまって」
女は独房暮らしで人の気配に敏い。暴き立てようにも直ぐに隠してしまう。
王に報告をしようかと思案していると、うちに出入りしている情報屋が慌ただしくやってきた。
「旦那様、旦那様〜! 奥様が〜!」
ただならぬその様子に、詳細も聞かず女の部屋に走り出していた。
部屋に辿り着いた時、駆け寄りそうになるのを必死で堪えた。
いつものアホ面ではない、ひどく落ち込んだ様子でベッドに横たわっていた。
「……おい」
掛ける声も慎重になる。
下手に扱うと、ガラス細工のように簡単に壊れそうだった。
「…………はい」
俺に気が付き、目だけでこちらを見る。
いつもならもっと早く反応するし、こんな弱々しい声も出さない。
「……どうした」
近付いて、柄にも無く女の頭を撫でる。
ぐしゃりと顔が歪んで、泣き始めた。
「ごめんなさい、あなた」
泣きじゃくりながら謝る。
しかしそれだけだ。謝るばかりで、何も話そうとはしない。
────話せと、命じればいい。
そう思ったのに、行動に起こせなかった。
代わりに頭を撫で続けた。他にできそうなことを見つけられなかった。
少なくとも、幼子のように泣く姿は、罪人に見えなかった。
泣いたのはそれきりだ。
女は飽きもせず、いつものようにアホ面を提げてオルテンシアを愛でている。
俺もいつも通り、2階からそれを眺めていた。
音楽を習いたいと言い出した。
あの女が要望を言うなど、ここに来て初めてのことである。
直ぐに母の知己だと言う、ヴィルトゥという名の音楽講師を呼び寄せた。
女は習う楽器としてピアノを指定したので、母の部屋にあったものを彼女の部屋へと移動させた。
覚えが良いのか、聞こえてくる音色は日々洗練されていく。
上手くなろうが下手のままでいようが、別にどうでもいい。
彼女が楽しんでいる。ただ、それだけで良かった。
「ピアノの演奏会をいたします。お時間の都合がよろしければ、おいでください」
仕事をしようと執務室に行くと、扉に手紙が括りつけてあった。
中身を確認して、あの女が書いたのだと知る。
────あの女が、俺のために、演奏をする。
浅ましく、心が揺れた。
認めてはいけない何かが、胸の内で震えていた。
指定場所である、女の部屋の前までは来た。
しかし、中には入らなかった。
時間になり、部屋の中からピアノの音がし始める。
本当に、この短期間でよく上達したものだ。扉越しに聞こえてくるそれは、何とも心地の良いものだった。
「……ふふっ、あはははははっ」
3曲目を演奏し終えた辺りで、唐突に笑い声が響いた。
あんなに楽しそうに笑う女の声を聞くのは、初めてのことで────驚きのあまり、寄せていた耳ごと頭を扉に叩き付けてしまった。
さすがに今の音は気付かれてしまう。俺は素早くその場から走り去った。
それから数ヶ月過ぎたある日、王命が下された。
────女を殺せ、と。
あれは、ある一族の忘れ形見である。
かつてその一族は国に謀反を起こし、皆殺しにされた。
当時まだ子どもだった女も殺す予定が、まだ幼いという理由で王妃によって止められたのだという。
しかし、その王妃も病で倒れ、逝去した。
もう止める者はいない。それだけの理由で、女の死期は早められた。
「こんばんは」
俺は目が良い。
この暗闇の中でも、あのアホ面がよく見える。
飛び付いて押し倒す。初めの頃より少し肉付きがまともになった身体は、簡単にベッドに沈んだ。
ナイフを首に当てて、あとは思い切り掻っ切るだけ。
今までしてきたどの仕事よりも簡単で、重みがあった。
あまりにも重くて────ナイフを投げ捨てた。
「あなた?」
俺の妻になった、罪人の娘。
まだ俺は、お前の名前を呼んでいない。
まだお前から、俺の名前を呼ばれていない。
他にもやり残したことが、たくさんある。
「……ルーチェ」
だから、せめて名前だけでも。
そう思って呼んだのに。
「チヴェッタさま……?」
呼び返された瞬間、込み上げてきた何かが目から零れ落ちた。
次から次へと、底無しの欲が溢れてくる。
殺したくない。死なせたくない。
傍に居たい。ずっと一緒に居たい。
オルテンシアを一緒に見に行きたい。
また俺のために、ピアノを弾いてほしい。
────声高に、彼女に愛を伝えたい。
彼女は、何も求めないまま死ぬつもりだった。罪人の意識を捨てず、最期は潔く逝けるように。
俺はそんな妻を、いつしか手放し難くなってしまった。
あの独房で何もかも諦めていた彼女が、俺の役に立とうとしてくれていたことに、気が付いてしまった。
俺はルーチェに、恋をしてしまった。
「あなたは卑怯です」
妻が泣きじゃくりながら俺を詰る。
「あなたのために、取っておいた命なのに」
俺のための命なら、そのまま生かしてくれ。
みっともなく自分も泣きながら、妻にそう願った。
「いけません! 私を生かせばあなたが罰せられます。殺せないと言うのなら、自分で……!」
「やめろ!」
ナイフを拾いに行こうとする妻の身体を、上から強く押さえ込む。
「死ぬな! 絶対に死なせはしない!」
「でも! このままではあなたが殺されます!」
「お前が死ぬよりマシだ!」
どちらも退こうとしない。
膠着状態が続く中、唐突に寝室の扉が大きな音を立てて開かれた。
「アーッハハハハハハ!!!!」
ゲラゲラと嗤いながら入ってきたのは、ヴィツィオだった。
「旦那様も奥様もアッタマ悪いですねぇ! 逃げちゃえば良いんですよ、逃げちゃえば!」
「……ヴィツィオ?」
「逃げるって……」
「そのままの意味ですよ。国の外へ逃げるんです」
あっけらかんと言ってのける。
突然のことに呆然としていたルーチェは直ぐに我に返り、反論する。
「無理よ、捕まるわ」
「お金を弾んでくれれば、確実に国外に逃してあげられますけど?」
親指と人差し指で丸を作り、ニヤニヤと軽薄に嗤う。
いつものヴィツィオとは全く違う様子に驚くばかりだったが、不思議とその言葉に嘘は無いように思えた。
「……本当に逃げられるのか」
「ええ、もちろん」
「あなた、いけません!」
ヴィツィオの提案に乗ろうとする俺を止めようと、ルーチェが腰にしがみついてくる。
「罠かもしれません。あなたは敵が多いもの、私と一緒に殺されてしまいます!」
「あー、確かに旦那様は敵が多い。これを機に処分しようとする輩はいるでしょうねぇ」
疑いの渦中にいる当の本人は呑気に頷いている。
「あの〜」
どうしようかと考えを巡らせる前に、控えめにドアがノックされる音に意識を戻される。
見れば、情報屋ヴェリタと音楽講師ヴィルトゥが、開かれたままの扉の傍に佇んでいた。
「旦那様、奥様。これはどうしようもない“人でなし”ですが、対価を払えば必ず信用に値する仕事をこなします」
「ひっでぇ言い様だな“お人好し”ちゃん! その通りだけどさぁ!」
ヴィルトゥの容赦ない発言を聞いたヴィツィオは上機嫌に嗤う。
「私からも保証するよ! “人でなし”ちゃんは確かに悪い子だけど、仕事はちゃんとする子だからさ!」
「……どうされますか、あなた」
そろそろと俺を見上げて、ルーチェは判断を委ねてくれた。
「俺が決めていいのか」
「……あなたが望まれるのなら、妻として従います」
その言葉を聞き、俺はヴィツィオに深々と頭を下げた。
「ヴィツィオ。我が家の財を対価に、俺たちを逃がしていただきたい。……願い、申し上げる」
顔を上げれば、ヴィツィオの糸目が大きく開き、海色をした瞳が俺たちを見据えていた。
それから恭しく腰を折り、優雅な一礼をしてみせる。
「────その願い、謹んで承りましょう」
「チヴェッタさま」
光を受けて煌めく水面を眺めていると、隣から妻の呼ぶ声が聞こえる。
見れば、大きな魚を釣り上げていた。
「今日はご馳走ですよ」
声が上擦っている。とても嬉しそうだ。
────抱えていた荷を全て捨て、お互いにとても身軽になった。
彼女は以前にも増して、活動的になった。
俺は以前よりも、素直な態度を取れるようになった。
「捌けるのか?」
「お任せ下さい。ヴィツィオのお墨付きです」
「そうか、楽しみにしていよう」
妻は最近、家事を覚えるのに夢中になっている。できることが増えて胸を張る彼女はとても誇らしげで、愛らしい。
眩さを感じて目を細めている内に、釣り道具を片付けた妻が俺の手を取った。
「さあ帰りましょう」
「ああ」
二人で歩きながら、ふと考える。
我が家で先祖代々積み上げてきた財産は、国外逃亡に加担したヴィツィオへの報酬となって消えた。
国で擁立されていた我が家の地位も、既に零落している。
俺に残されているものは、この身一つだ。
いざ俺が死んだ時に、妻には何を遺せるだろうか。
「ルーチェ」
「はい」
「何か欲しいものはないか?」
「欲しいもの、ですか?」
「ああ。たとえ高価なものでも、時間を掛けて用意しよう」
無意識に、繋いだ手に力が籠る。
対して、ルーチェは少し頬を赤らめて答えた。
「あの……えっと……こ、子どもが、欲しいです……」
妻の一言に頭が真っ白になる。
「こども」
「は、はい……」
「おれと、ルーチェの?」
「……だめですか?」
心配そうに見上げてくる彼女は恐ろしく可愛かった。
「俺も欲しい」
「え?」
「俺も、ルーチェとの子どもが、欲しい」
釣り道具ごとルーチェを抱え上げる。
「お前の子の、父になりたい」
「いやぁ、ほんっとに世話の焼ける夫婦だぜ!」
「他人のこと言えないでしょう」
「ていうか“人でなし”ちゃん、使用人のお仕事なんてできたんだねぇ。どちらかというと、お世話される方なのに」
「おいおいおい、失礼極まりないぜ“知りたがり”ちゃん! 相応の対価さえあれば、相応の働きをする。それがこの“私”だぜ?」
「国王から財をせしめた上であの二人を逃がした諜報員のものとは思えない言葉ね」
「対価に必要なのは金だけじゃねぇよ? あの王サマは人に物を頼む態度ができてなかった、それだけのことさ」
“人でなし”がゲラゲラと嗤う。
“お人好し”が呆れたように溜息を吐く。
“知りたがり”が楽しげに言葉を交える。
とある夫婦の話を肴に、非人間たちは和やかに、語らい合うのだった。
こういう話が好きなので、皆さんのオススメを教えて頂ければ心が潤います。