序章 百万円
「ねぇ、あの人暇なのかな?」
「暇なんじゃない?」
暇、なんだよなあ。
「はーあ」
漏れ出たため息は、ほどよく人気がある公園へと吸い込まれて消えていった。
今はお花見シーズン真っ盛り。
花よ蝶よと言わんばかりに桜を囲み、楽しく談笑している母親たちの目先では、子供たちが活発に走り回っている。
あれだけ騒がれれば、桜だって来年も咲きたいだろうよ。
「隣、失礼しますね」
同僚を連れてくるという手段もあったはあったが、一緒に行きたいと思えるほど、職場に仲の良い奴は一人もいない。
かといって職場環境が悪いかと言われればそうではない。
「つまり、人に興味がないんですね」
「そうとも言えるのか……まあそうなのか。……て誰ですか?」
隣に顔を向けると、男はにこにこと笑っていた。
その笑顔を崩さぬまま、「世間話でもどうですか?」と聞かれれば、「別にいいですけど」と答えるのが社会人。正直戸惑いはマックスだが。
そのまま、他愛ない世間話が始まった。
政治のこととか、近い未来に控えたオリンピックの話とか。
最後は好きな小説に落ち着いたような気がする。
「最近買ったのは君スイですか」
「ええ、ノベルもライトノベルも読む身としては、あの辺りは結構好きですね」
事実、だいぶん面白かった。
ただ、と実写化についても一通り話し終えた辺りで、男の雰囲気が若干変わった。
「一つ、面白いゲームをしてみませんか?」
「ゲーム?」と聞き返した俺は、訳がわからないと男を見返す。
何かのセールスだろうか。
「5億年ボタンって知ってます?」
しかし、出てきた言葉はあまりにすっとんきょうで、悪徳セールスの線を消すには十分だった。
こちらの体裁が崩れるのも仕方ないだろう。
「笑いましたね?まあ、知ってるのでしたら問題ないですけど」
バリエーションはあるものの、何もない空間で5億年を過ごせば百万円が手に入る、そんなバイトを突然持ちかけられることから始まる諸々の物語の総称だ。
にしても、5億年ボタンか、はは。
「いえいえ、今時聞くのも珍しいですから。一応聞きますが、どんなです?」
随分と乗り気に思えるこちらの態度に、頬を緩める男。に見えない苦笑を返す俺。
どうせ冗談なのはわかっているが、ものものしい事態にならない限り、付き合ってみても悪くないだろう。
「こちらです」
「ほお」
しかし不覚にも、今どき中々見ることのない非常にレトロな手押しボタンを前にして、感嘆の声が漏れる。どこにも配線が繋がっていないのがグッド。シンプルにしてオーソドックス。
ここまで真っ直ぐ攻められちゃあ、例えいたずらと分かっていても応えないわけにはいかないだろ。
「記憶はきれいさっぱり消えるパターンですか?……ええ、やりますとも」
つまりだな、設定に準じるならば、これから何もない空間で地獄の5億年を耐えきったとして、無事帰還してもその当の俺は何も覚えておらず、百万円欲しさに同じ過ちを繰り返す。結果、時間の牢獄へ囚われていくのだ……。てなオチだった気がする。
「そうでしたよね?」と男にも説明。
「わかっていてするんですか……。これは、人選ミスったかな」
いや、相手が5億年ボタンを知っている時点でいろいろと覚悟はしないとだろ。
「では、5億年後の俺によろしく」
スイッチに触れた指はヒンヤリと冷たい。
この後、恐ろしいことが起こるとはつゆと知らない俺はもちろんそんなことは気にしない。
高校生だけが高学生である理由ぐらい気にならない。
青春などとうに終わってしまった俺は……
ポチ
どこからか、そんな電子音が聞こえた。
少なくとも、目の前のボタンからではなかったように思える。
「えっ」
俺の人生、まだなんかあるみたい。
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「ここは……」
反響した自分の声を聞き終わる頃には、状況を把握した。
5億年ボタンを押したんだった。
「とすると、これが?」
まさか本当だったとは。
ここで一気に絶望が押し寄せるのかと思っていたが、案外現実感がない。
一回寝ればそんなこともないのだろうか。
「冷たい」
することもないので、とにかく立ちあがって回りの探索を始めた。先の呟きは、裸足で床に触れた感想だ。
まあ、十秒も経たずとして終わったが。
広さは教室一つぐらいあるものの、本当に何もない。
天井から壁から床まで全て同一の素材でできていて、窓すら見つけられない。
端的にすべてが真っ白い部屋だ。まさにホ〇ワイトルーム。
『そうですね、神聖な空間ですから。不必要なものはありませんよ』
気のせいだろうか、俺以外の人の気配がする。
『いえいえ、気のせいなどではありませんとも。というか喋っていますよ、ええ』
ついに、幻聴が聞こえるように。
まあ、5億年過ごすんだったら、それもそれでいい気が。
『しませんよ。いい加減認めたらどうですか』
「はあ」
『不敬ですね』
諦めた俺はついに向き直る。
そう、いつの間にか空間の真ん中に佇んでいた存在に。
『やっとこちらを向きましたか』
「俺の名前は柴田詔矢です。よろしくお願いします」
『先手をとられました』
「まあ、名乗るタイミングを逃しそうなので」
『あなた、二回目ですか?』
「いえ、ルーキーです」
なんとなく察した俺は、既に聞く体勢に入っている。
『わかってますよね?』
「さあ」
『こほん、わたしの名前はアリエル。名だたる大天使の一人です』
「わあ」
『驚いてませんね』
いや、驚いているとも。
こちらは女神だと思っていた。
『あなた方にとってはたいした違いじゃないでしょう』
「そんなこともないです」
まあ、とにかく美しい。
『それはありがとうございます』
「さて」
『しかしそれはわたしのセリフです』
「どうぞ」と続きを促しておいたのだが、なぜか不機嫌だ。
こんなところにいると、心も狭くなるのかもしれない。
『そういうところですよ?』
「失礼」
はあ、とため息をつき、えらく人間くさい仕草で首を降る大天使様マジ天使。
『もうつっこみません。さて』
「どうして大天使様は俺と二人きりで?」
『……異世界転移です』
「説明する気ゼロ」
『セクハラするような人ですからね。さっさと追い出すに限ります』
「すると、ここは大天使様の私室ですか」
『真顔で言うの止めてください。もう少し嬉しそうにしたらどうですか?』
「では」
『やっぱ止めてください。そして心の準備をしてください』
「ちょっと待ってくださいよ」
なにやらこちらを追い出しにかかりそうなので、慌てて止める。せめて考える時間が欲しい。
『はい。あなたの体感時間で三秒は待ってあげましたけどなにか?』
「俺の百万円を下さい」
『はっ?』
大天使様の考えはわかる。
上位種である大天使様にとって、俺の事情などショウジョウバエの恋愛事情ぐらいに無価値なものだろう。
でもさ、口約束とはいえ俺はあの男と契約したのだ。
そして、ボタンは押された。
「ですから、お金のトラブルくらい身内で何とかしていただきませんと困りますって言ってるんですよ」
『人間に恐怖を感じたのは初めてです』
「それほどでも」
『誉めてませんけど』
鉄板ネタをしながらも、大天使様から視線は外さない。
お金、マジ大事。
『ガチですね。なら、チートでもあげますよ』
「なに、特殊能力の類ですか?百万円の価値はあるんですか?」
『It's on you !(あなた次第です)』
不穏な掛け声と共に出てきたのは、ルーレットダーツのセット。
まさかの運頼み。
『ここにあるチートは百万円以上の価値から藁屑レベルまで』
「せめて百万円分は取りたいんですけど」
『書いてある数字×十万が目安です』
「ならお得ですかっと」
ダーツを拾い上げる俺の横で、ルーレットを回し始める大天使様。
結構高速で回してる~。容赦がない。
「ほい」
そして、放たれたダーツが突き刺さる!
ただ、回転が早すぎて、全く何に当たったのか見えない。
『おや、これは』
突き刺さったのは、恐らく聖槍と書かれた部分。回転が緩くなって、なんとか見えるようになった。
そして、ルーレット全体の約一割を占めている。つまり中心角は36度。
書かれた数字は80で、800万の価値だ。
「当たりですね」
『まあ、数字だけ見れば』
そこで俺は疑問に思う。名前も聖槍。
結構かっこいいのだが。名実ともにあたりのはずだ。
『あなたの引きはある意味すごいですね』
やや、妖しくなってきた。
そこで、ようやくルーレットが止まりかけ、ダーツがどこに刺さっていたのか露になる。
「え、何これ」
聖槍の端っこ、そう思っていた部分にものすごく小さな文字が見えたのだ。よく見れば、橙と赤という微妙な色の違いもある。
前者が聖槍、後者が謎だ。
「うんん……雲隠れ。そう書いてますね」
『ええ』
書いてある数字は100。
やっと、大天使様のセリフの意味がわかった。
「なんですか。この名前と数字のギャップは」
『準備は整いましたし、転移しますか?』
「目をそらさないでください」
『行ってらっしゃい』
「いや、可愛く言って誤魔化さないで……あ」
突然、足元に穴が開いた。