縁結びのお手伝い
この理容室に飼われて何回目の夏を迎えただろうか。ラブラドールレトリバーである私は、季節柄抜け毛が多くなり、理容室の主の竜之助が毎日一生懸命掃除をしている。
冷房の効いた室内にいても、きつい陽射しはガラス越しに眩しさをもたらして、私は目を細めた。老齢に差しかかったこの身体では、酷暑に耐えられるかどうか。涼しさを求めて、店の奥に移動すると、入り口の扉がちりんと鳴って開いた。客が来たようだ。
「いらっしゃいませ。お待ちしていました、柿本さん」
「こんにちは、竜之助さん。レインも元気そうだね」
レインとは私の名前だ。頭を撫でられ、気持ちよさに「くうん」と息が零れる。
常連客の柿本さんは二十歳の女子大生で、今どき珍しく、美容室ではなく、この理容室に通い続けている。鈍い竜之助は気づいていないようだが、彼女の憧れは彼なのだと、長年彼らを眺めている私にはわかる。
「今日はどうなさいますか?」
「いつも通り、お任せでお願いします」
「では、いつものショートボブにしますね。暑いから、首筋が出ていたほうが楽でしょう」
竜之助は手早くタオルとクロスを柿本さんに巻きつけ、まずはカラーの準備をする。柿本さんの好みは、やや茶色がかった髪なので、色指定も訊かずに竜之助は薬剤を混ぜた。
カラーリングをしながら、二人のお喋りは弾んでいる。最近どこへ旅行しただとか、テレビの番組が面白かったとか、他愛もないこと。シャンプーが終わり、カットの最中でも、彼らの話は続いていた。
話の途中で不意に柿本さんが、探るように竜之助に尋ねた。
「竜之助さんは、彼女さんとかいないんですか?」
やや頬を染めて直球の質問を投げかける柿本さんが可愛らしくて、私は内心彼女を応援する。竜之助はなんでもないことのように答えた。
「いませんよー。今のところは野球が恋人でしょうか」
竜之助は大のプロ野球好きだ。贔屓球団が地元に来ると、理容室を臨時休業にしてまで観戦に行く。店の一角には、グッズが所狭しと並べられていた。
「そうですか……」
柿本さんは、それ以上何かを言うことはなかった。
もどかしい。犬の身でありながら、長年竜之助を想ってきた柿本さんはいじらしく思える。何か自分にできることはないだろうか──。
「毎度ありがとうございます。お会計、九千円になります」
「あ、はい」
結局、竜之助と柿本さんの間には何も進展がないまま、今日の理容は終わってしまった。柿本さんがお財布を取り出そうと、トートバッグに手を入れた瞬間、私には「それ」が見えた。思わず駆け寄る。
「どうしたの? レイン」
柿本さんがしゃがみこんで、私の目を覗き込む。私は無理矢理彼女のトートバッグに顔を寄せ、「それ」を口で引っ張りだした。
「あっ……!」
小さい悲鳴のような声を柿本さんが上げたが、私は構うことなく、竜之助に咥えたものを差し出した。竜之助は首を傾げながら受け取り、そして目を見開く。
「これ……これ! 俺が大ファンの選手のサイン色紙! 柿本さんがなんで持っているんですか!?」
「……えっと、二月に沖縄に行ったとき、キャンプでもらって……。ずっと竜之助さんに渡そうと思っていたんですけど、なかなか渡せなくて……」
「え? どうしてです?」
「それは……。えっと」
なかなか煮え切らない柿本さんに我慢できなくなり、私は思い切り彼女に体当たりした。よろけた彼女は、竜之助の胸に飛び込む。
「あっ! ごめんなさい!」
「いいえ、大丈夫ですか?」
柿本さんの顔は真っ赤だ。竜之助は不思議そうに、彼女と色紙を交互に見る。私は滅多に吠えることはしないが、ここぞとばかりに「わん!」と柿本さんの後押しをした。
私の鳴き声で勇気づけられたのか、柿本さんは、俯きがちに竜之助に言った。
「そ、それ、もらってください。竜之助さんのために書いてもらったんです」
「俺のために? 柿本さんがキャンプに行ってまで……?」
「はい。私、竜之助さんが好きだから……」
彼女の顔は、竜之助がカットしたショートボブに覆われて見えない。だが、彼女なりの精一杯の告白だということはわかった。至近距離にいる竜之助が微笑んだ。
「そうですか、ありがとうございます。俺、全然気がつかなくて……。でも、俺も好きですよ。柿本さんのこと」
その言葉に、柿本さんは顔を上げる。大きな瞳は不安げに揺れていて、未だ竜之助の真意を測りかねているようだった。
竜之助はポケットから二枚の紙を取り出した。一枚を柿本さんに渡す。
「デート、しましょう。近くにできたばかりのプールのチケット、ちょうど買っていたんです。今度の定休日、よかったらどうですか?」
笑顔の竜之助につられたのか、柿本さんも顔を綻ばせた。
「……はい! 行きます。プール、この時期いいですね」
「そうですね。いつか野球も観に行きましょうか」
「野球もいいですね。キャンプに行って、私もファンになっちゃいました」
和気藹々と話す、新しく誕生したばかりの恋人たちは、嬉しげで楽しげで。その一部始終を見ていた私も嬉しかった。私なりに頑張った成果。犬でも恋の応援ができたことを喜ばしく思う。
帰り際、柿本さんは私の傍に来て、「ありがとね、レイン」とお礼を言ってくれた。竜之助も私を撫で、野球グッズコーナーにサイン色紙を飾った。
この夏、私は若い二人の架け橋になれたことを、死ぬまで忘れないだろう。




