信号無視の車が来る
わたしが高校時代の頃、クラスに大人しい男の子がいた。物静かであまり喋らなくて、そして神秘的な雰囲気があった。ある時、その男の子と道で一緒になった。それは押しボタン式の信号機の前だったのだけれど、何故かその男の子は、その時その信号機のボタンの前に立ち塞がり、わたしにボタンを押させてはくれないのだった。
わたしがボタンを押そうとすると、首を横に振って駄目だと言う。どうして?と尋ねると、危ないからと。
確かにその道は車が猛スピードを出す事で有名だった。ちょっとした山の中を通る大きく蛇行する道で、下の方から車が走る音が聞こえて来るのだけど、直線に入ると急加速しているのがよく分かる。だから、危ないのは納得できる。納得できるのだけど、だからこそわたしは信号機のボタンを押そうとしているのだ。それでわたしは、無理矢理に信号機のボタンを押した。信号機は直ぐに赤から青へと変わる。
そして、わたしは道を渡ろうと足を一歩踏み出したのだ。ところが、そこで彼はわたしの腕を掴んで引くのだった。
行くな、と。
どうして… わたしは多分、そう言いかけたと思う。ところが、その瞬間だった。わたしの目の前を物凄い勢いで、車が通り過ぎたのだ。信号機は青のままだった。車側はもちろん赤だ。つまり、その車は信号無視をしたのだ。その証拠に、そのちょっと後からやって来た二台目の車はちゃんと信号の前で停まった。
わたしは唖然として彼を見つめた。彼は安心したような表情で良かったとそう言う。危ないところだったと。わたしはお礼を言うのも忘れて、ただただ不思議がっていた。どうして彼が、信号無視の車がやって来るのを予知できたのか、さっぱり分からなかったから。
「――そして、その道が実はここだったりするのですけどね」
そうわたしは彼女、鈴谷というらしい大学生の彼女に語り終えた。わたしは彼女と偶然にバスの中で会ってお喋りをし、すっかりと仲良くなってしまったのだ。
彼女は民俗学の類が大好きで、普段は本ばかり読んでいるものだから、偶にはと思ってフィールドワークらしきものをしようと、この山にある祠だか何だかを見て回っているのだそうだ。物好きなものだと思う。
民俗学とは少しばかり違っているけど、もしかしたらこういった不思議な話も好きかも知れないと思って、わたしはさっきの信号無視の車の話を彼女にしたのだ。
「未だに分からないんですよ。どうして、彼が信号無視の車がやって来るのが分かったのか」
わたしがそう言い終えたのは、奇しくもちょうど信号が赤から青へと変わったのと同時だった。わたしは道を渡ろうと一歩足を前に出す。ところが、その瞬間だった。
「危ないです」
そう言って、鈴谷さんがわたしの腕を引いたのだ。
まるで、あの時みたいに。
――え?
驚いて立ち止まると、直ぐに猛スピードでわたしの前を車が通り過ぎた。信号無視だ。あのまま進もうとしたら、もしかしたら、跳ねられていたかもしれない。
「ありがとうございます。でも、どうして信号無視の車が来ると分かったんですか?」
わたしが驚いてそう尋ねると、彼女は少し笑ってこう返した。そして、
「音ですよ」
と、そう言う。
「音?」
「はい」
それから彼女は耳を澄ますような仕草をしたのだった。
「さっき、あなたも言っていましたが、ここからでも山の下からやって来る車の音が聞こえます。確かにスピードを出す車が多いようですね」
それは分かる。そんな事くらいは、わたしだって気付いていた。
「でも、音だけじゃ、車が信号無視するかどうかなんて分からないじゃないですか」
だからわたしはそう訴えたのだ。しかしそれに彼女は、首を横に振るのだった。
「それが分かるんです」
彼女がそう言い終えた辺りで、もう一台車がやって来て、信号機の指示に従って停車した。二台目の車。
「私もあなたのお話を聞かなければ、気付いてはいなかったかもしれません。危ないところでした。ヒントは二台目の車ですよ」
「二台目の車?」
「はい。山の下から聞こえて来ていた車の走る音は二つありました。ところが、途中からその音は一つだけになってしまった。確実とは言い切れませんが、それは一台はちゃんと赤信号で停まったのに、一台は無視をしたという事かもしれない。
下の道の信号機は無視したのに、ここにある信号機でその車がちゃんと停まるとは考え難いでしょう? だから、私はあなたを引き止めたんです。多分、さっきの話に出て来た男の人も同じ事を考えたのだと思いますよ」
その説明を聞いて、わたしは「なるほど」とそう呟いた。それから鈴谷さんは少し微笑むと、
「もし会う事があったのなら、その男の人に、私の分もお礼を言っておいてください。“お蔭で助かりました”って」
と、そんな事を言った。
そう言われて、わたしは「分かりました」とそう返し、その後で、お礼を言われた彼が、とても恥ずかしそうにする姿を思い浮かべた。彼ならきっとそんな反応をするだろう。
もっとも、それでもとても喜ぶだろうとも思うけど。
久方ぶりに、日常系らしいミステリになったかな?と。