再起動
海の中だった。吐き出された気泡が昇る。肺に水が流れ込むが、もう苦しさ等感じない。血の標を残し、異形の身体は沈んでいく。苦しさも、多量の血を流す腹部の痛みも感じない。
ただ、沈んでいった。
既に感覚も無くなっていた右腕が身体を離れて漂っていく。それをぼんやりと眺める。海水が流れ込み、判然としない視界だが、不思議と痛みは感じない。
壊れていくのが分かる。身体はもう限界だった。全身の感覚が無い。痛みや苦しみすらも感じない。残ったのは意識だけだ。
人と狼を混ぜたような巨躯の化け物は沈んでいく。血液の標と共に腹部の大きな裂傷から臓器が揺らいだ。
いつの間にか身体から離れた左足が置き去りになり、どこかへ流れていく。それを見つめるだけだった。
身体が、魂が。死に近づいていくのを感じる。未練はあれど、後悔はない。意識がなくなれば“嫉妬”という感情から逃れることができる。
“死”はオレの事、受け入れてくれんだろ。
意識が沈んだ気がした。身体を置き去りにして、海底の、さらに奥へ沈んでいく。波に揺られて、海底にたどり着いた。
生きていたって居場所などない。家からは追い出されたし、唯一の友は死んだ。自分を受け入れてくれるのは、もう“死”以外は残っていないだろう。誰にだって平等な“死”ならきっと、人を捨てた自分だって受け入れてくれる。
実際、ぼろきれ同然となった身体が証明している。このまま海底で朽ち果てるんだ。水中に広がっていく血液が薄まっていくように意識も薄れていく。
もう周りに何があるのかもわからない。ただの暗がりだ。それでも、寒さは感じない。心地よい温かさすら感じる。抱かれたような安心感。それに触れて意識を睡魔が蝕んでいく。少しだけ眠ろうか。
目を開く。目に飛び込んだのは水面に揺れる光だった。あの海底にしては明るい。ふと気づく。息ができる。体を起こそうと左手で地に触れた。少し水っぽい、がさついた感触。視線をやると、短い草が地面を覆っていた。頭上は水面、下は草原。
変形しきった左腕を支えに上体を起こす。左足の足首から先が無いため、立ち上がることはできない。草原の先を目で追う。緑の地は途切れていた。そして、その地平線の奥には星空が煌めいていた。
「何だよ、ここ……地獄にしちゃ綺麗すぎだろ……」
「ここはね」
声と共に背後に気配。振り返ると、綺麗な紅色の和服を着た女性が立っていた。肩に付く程度の黒髪は夜のようだ。誰だ? その問いをぶつける前に、彼女は口を開いた。
「ここは私の家。そしてあんたの家でもある。お帰り、篝」
そして――篝と呼ばれた魂は《再起動》した。