ライン
八重子は、満足そうな顔で料理を食べていた。そこへ、清弘の一言が八重子の胸に刺さったのである。
「今日は、何の日だか解るかい?」
清弘の小さな声で問い掛けられた言葉に、料理を食べながら考え込んでいた八重子だった。
初めてここに来た日でも、初めて二人が出会った日でも。いや、結婚した記念日でもない。
一体…… 何の日だろう?
八重子には、全く心当たりのない問い掛けだった。しかし、謎を掛けた時の様な怪しげな表情の清弘は、じっと八重子の方を見ているばかりだった。
「急にどうしたの? 今日は」
八重子は、見当もつかない問い掛けに、曖昧な態度をして見せた。
すると、清弘は八重子を見つめながら、顔を寄せて言った。
「2年前に、山下君が家に来た日だよ」
その言葉を聞いた八重子の背中に、急に冷たい物が走った。
清弘は、全て解っていたのである。しかし、どうして八重子をここへ呼んだのか?
それ以上の言葉を発しない清弘。それを、顔を青褪めて見ている八重子だったのである。しかし、目線を変えた清弘の表情が、突然変わったのだ。
「違う……」
小さな声で呟いた清弘だった。その言葉に気付いた八重子が、
「何が違うの?」
と言った時、周りを見渡した清弘は、
「い、いや。別に何も」
と言って椅子に座り直していた。その後も、周りをキョロキョロと見渡す清弘だったが、その目線が一点を見つめて止まった。
その先に在った物とは、2番のテーブルに置かれた料理の皿だったのだ。
そこにあった料理の皿は、黄色いラインの入った皿だったのである。そして、八重子の食べている料理の入った皿は、緑色のラインが描かれていたのだ。
清弘は、その現実にどうする事も出来ないでいた。ただ、呆然と座っているだけだったのである。
そして、目の前の料理を食べ終わった時、
「ふぐっ」
八重子の口から小さな声が漏れたかと思うと、苦しそうにその場で倒れたのである。そして、手足が痙攣しているのか、立ち上がる事の出来ない八重子だったのである。
それを目の前で見ていた清弘は、
「ど、どうした八重子。おい、どうしたんだよ」
表情を一変して、八重子の横に走り寄っていたのである。
丁度それと同時に、2番のテーブルにいた客にぶつかった清弘だった。そしてその拍子に、2番のテーブルの上に置いてあった料理を床に落としてしまったのである。
「す、すいません」
そう言って八重子の方に眼をやろうとした清弘だったが、目の前に落ちた皿を見て、動きが止まっていた。
清弘は、困惑した表情で八重子の方に眼を移したが、その場に朝倉が走って来ると、
「どうした? 先輩。何が起こったと言うんだ」
そう叫んでいた。そして、
「救急車だ。おいっ! 救急車を呼べ」
厨房の方に向かってそう叫ぶ朝倉だったのである。
一気に殺伐とした状況に変わった店の中。その場で立ち上がった清弘は、落ちていた皿を見て考えていた。そして、八重子の所に運ばれた料理の皿を見た時、驚愕の表情を見せていた。
「やはり違う」
再び、そう呟いた清弘の目の前にあった皿の模様は、厨房に入った時に見た皿の模様とは違って、薄い緑色のラインが入っていたのである。その皿は、清弘が見た皿の横に置いてあった物だったのだ。
暫くして、店の中に救急隊が駆け付けて来た。そして、八重子は担架に乗せられて運び出されていったのである。
店の中では、他の客に頭を下げる朝倉の姿があった。その日の客達には、そのまま帰ってもらっていたのである。
そして清弘がふつと顔を上げた時、目の前に警察手帳を見せる男が立っていた。
「警視庁の松野といいます。通報を受けて駆けつけました。被害者の連れの方ですね」
松野がそう尋ねると、清弘は慌てた面持ちで頷いていた。その向こうでは、別の刑事が朝倉に話しかけていた。
松野は、手帳を胸のポケットに入れながら、
「手短にお聞きしますが、ここへは、何度か訪れた事が?」
「は、はい。コック長の朝倉とは、知り合いなもので。それで何度か食事をしに来ました」
動揺していたのか、清弘の口調は途切れ途切れだった。
そして清弘は我に返ると、勢いよく言葉を発した。
「病院に、病院に行かせて下さい。八重子が」
その言葉に、
「解りました」
そう言った松野は、側に居た警察官を呼び寄せると、
「この方を、パトカーで病院へ連れて行ってくれ」
そう指示していた。そして清弘は、その警察官に連れられて店を出て行ったのである。
清弘が出て行く時、擦れ違いざまに鑑識官達が店に入って来ていた。そして、朝倉の前に立った松野は、
「事情聴取の為に、店の関係者と一緒に署まで御同行願います」
そう言った。そして朝倉と他のコック達は、その店を後にしたのである。
一方、清弘はと言うと、
「どう言う事だ。俺がやったのは、黄色いラインの入った皿だった筈だ。しっかりと確認したからな。でも、八重子は倒れた」
前の席で運転していた警察官の耳には届かない様な、小さな声でそう呟いていた。そして病院に辿り着いた時、清弘に衝撃が走った。
八重子は、病院に搬送される途中で息を引き取っていたのだ。
死因は、食べ物による食中毒でという事だった。