きのこのサヴァイヨン
そんな過去の事を思い出しながら、八重子は約束の公園に向かっていた。そして公園の入り口に来ると、
「八重子。ここだ、ここ」
清弘が立っていた。それも、五年前の時と同じトレンチコートを着ていたのだ。その時、電話で言っていた事を思い出していた。
―― クローゼットに掛かっている黒いドレス。それに着替えて来てくれ ――
清弘は、初めてここで待ち合わせをした時の事を憶えていたのだ。
それで『黒いドレスで』と言っていたのである。その通りに、八重子は黒いドレスを着ていた。
「お待ちになりました?」
そう言いながら歩み寄る八重子に、
「いいや、さっき来たばかりだから」
そう、五年前と同じ様に答える清弘だったのである。そして、二人はあの店に向かった。ビルの二階に在る、窓越しにテーブルの並んでいる淡いムードの店。
交差点に差し掛かると、二人が見上げた先には五年前と変わらない店があった。
「変わり栄えが無いな」
そう言って、青に変わった横断歩道を歩き始める清弘に、何処となく落ち着かない様子の八重子が後ろを歩いていた。
店に入った二人の前に店員がやって来ると、
「戸坂様、でしょうか?」
そう尋ねて来た。
黒いベストに蝶ネクタイと、ここでも変わらぬ洋装の店員の言葉に、静かに頷く清弘と八重子だった。そして、二人はあの席に通されたのである。
五年前に食事をした、この店の一番良い席に……。
「はい」
そう答えた清弘に笑顔を浮かべた店員は、手を差し伸べて席に向かった。そして、八重子が椅子に座って清弘を見た時、
「八重子。誠二の所に行ってくるよ」
そう言った清弘は、そのまま振り返って厨房の方に向かった。そして扉を開けるなり、
「誠二っ! 来てやったぞ」
と叫んでいた。しかし朝倉は、
「予約していた料理、そこにあるだろう。手前に置いてあるのが先輩の所に運ぶ料理だ」
と気難しい表情で答えていた。
朝倉は、部下のコックに味付けを教えていたのだ。それに気付いた清弘は口を閉じると、
「ほうほう、これか。八重子も喜ぶ」
小さな声でそう言いながら、目の前の料理を見ていた。
そこには、キノコの入った料理が盛られた皿が二つ並んでいた。
「手前の方か」
清弘がそう言って見ていた料理とは、キノコのサヴァイヨンだった。天然のキノコをココナッツオイルで軽く焼き上げた物に、サヴァイヨンソースをかけたもの。その香ばしい匂いが厨房の中に広がっていた。
清弘は、もう一度朝倉の方に眼をやると、素早くポケットに手を入れた。そして中から小さなスポイトを取り出すと、その料理の中に何かの液体を混入させたのである。その後、忙しそうな朝倉には声を掛ける事無く厨房から出て行った。
ただ一言だけ、
「黄色いラインの入った皿だな」
そう呟いたのである。そして、八重子の所に行くと、
「今日の料理、とても美味しそうだったぞ」
得意気な顔でそう言った。その言葉と清弘の顔を見て、
「もう、自分だけ見て来たの」
と不機嫌そうな表情を浮かべた八重子だった。だが、八重子の心の中は、複雑な想いで一杯だったのだ。
どうして、五年前の時の服装でここへやって来たのか?
今日は特別な記念の日でもない。しかし、いきなりのディナーの誘いに、戸惑いの表情を浮かべていた八重子だった。
しかし、そんな八重子の顔を見て、微笑を浮かべた清弘が椅子に座っていた。
厨房の中では、弟子のコックが最後の仕上げに、オリーブの葉を料理に沿えていた。すると、そのコックを朝倉が呼び寄せると、
「そこのサヴァイヨン。手前の物を6番のテーブルに持っていく様に」
そう指示を出していた。それを聞いたコックは、朝倉の横まで来ていたが、一端立ち止まって料理を見ていた。そして、
「手前の料理ですね」
もう一度、確認の為に朝倉に問い掛けると、
「そう。手前の物をな」
と朝倉は言った。
その言葉に、コックは料理を手に厨房を出て行ったのである。
そして、6番のテーブル、即ち、八重子の座っているテーブルにその料理を運ぶと、
「お待たせしました。特別に仕入れた天然キノコのサヴァイヨンです」
そう言って八重子の前に料理を差し出した。それを見た八重子は、
「美味しそう。いい香りがするわ」
そう言って満面の笑みで応えていた。
目の前では、そんな八重子の表情に、清弘も嬉しそうに微笑んでいたのである。
料理を持ってきたコックは、
「ゆっくりと御賞味ください」
そう言うと、くるりと振り返って厨房の方に歩いて行った。そして、再び出て来たかと思うと、2番のテーブルの方に料理を運んでいたのである。
その2番の席に座っている客の目の前にも、八重子と同じキノコのサヴァイヨンが置かれていた。