思惑
受話器を握りしめたままの八重子の身体は、小刻みに震えていた。そして、何かに怯える様に小さな声で呟いた。
「解って、いたんだわ」
思い詰めた様な眼をしたまま、受話器を静かに置いた八重子だったのである。
確かに急な話だった。だが、それがこれまでの八重子の行動に気付いての、清弘の画策とは信じがたいものがあった。何故なら、二人の事など疑う由も無い清弘の生活。八重子も山下も、清弘に不倫を疑わせない自信の行動だったのだ。それ程、二人の行動は細心の注意を払っていた。
職場では、清弘のスケジュールを完全に把握していた山下だった。常に清弘の側近に居て、客先などへの訪問や接待の時も、清弘のスケジュールを全てメモしていた。
家庭では八重子が、清弘の愛用のパソコンから携帯電話に至るまで、全ての行動をチェックしていたのである。出張先に到着した際には、必ず清弘と連絡を取っていた八重子だったのだ。清弘の身辺を調べても、探偵を雇っていた形跡はなかった。
あらゆる事態を想定していた山下と八重子だったのである。
そんな時、再び電話のベルが鳴った。そして、急いで受話器を取った八重子は、
「もしもし、何か解った……」
そう言いかけた時、
「どうしたんだ。急に電話に出たと思ったら大きな声を出して」
電話の相手は清弘だった。それに気付いた八重子は、
「ああ、あなた。何も無いわ。さ、さっきまで宅配の人が居たから、何か間違って電話がかかって来たのかと思って」
慌てて嘘をついていた。
「それならいいが、何かあったのかと心配したよ」
「いいえ、何もないわ。それより急に電話なんかして、どうかしたの?」
八重子は動揺している事を悟られない様に、口元から受話器を離して呼吸を整えていた。
「いや、明日のディナーの予約。例の店で取ったからな。君がもう一度行きたいって言っていた。ほら、僕の友人が経営している店だよ。 君も知っているだろう。あいつがシェフをやっている所だ」
普段通りの口調に戻った清弘だった。
「本当、嬉しいわ」
清弘に不信感を抱かせない様に言葉を合わせた八重子だったが、電話口での表情は、清弘に怯えて落ち着きのない八重子だった。
「ちょっと待って、隣の奥さんが来たみたいなの」
「そうか。それじゃ、明日、又電話する」
八重子の言葉に、清弘は電話を切った。
咄嗟に口から出た虚言だった。受話器を胸元で握り締めたまま大きく深呼吸をする八重子だったのだ。山下の言葉を思い浮かべながらの、清弘との対応だった。その胸中は、清弘の思惑と画策が蠢く中で、恐怖に押し潰されそうになる八重子の姿があった
受話器を置くと、そのままソファーに倒れ込む様に座り込んでいた。そして、下を向いたままじっと考え込む八重子だった。
―― 清弘は、全てを知っているのか――
そんな言葉が脳裏を過っていたのだ。
その夜の八重子は、落ち着かない気持ちの中でベッドに横になっていた。
「明日の夕食の時、どんな顔で清弘に逢えばいいの」
そう呟く八重子だったのである。