魔法の瞳
「まあ、上がれ」
酒を飲んでほろ酔い気分の清弘が、千鳥足で家に帰って来た。その声を聴いた八重子が、慌てて玄関口にやってくると、
「もう、こんなに酔っちゃって」
と、泥酔で足取りの覚束ない清弘を見て、呆れた表情を見せて言った。その時だった。清弘を脇から支えながら家まで付き添って来た山下が、玄関の扉の向こうから顔を覗かせた。
「それじゃ、僕はこれで失礼しますよ」
八重子が来ると、安心した山下がそう言って帰ろうとした。しかし、それを見た清弘は、
「な、なに言っているのだ。家で飲み直そうって言ったじゃないか」
と叫んだ後、眼を座らせて山下を睨みつけた。そして、山下の着ている背広の袖を引っ張りながら八重子の方を見ると、
「山下君と飲むからな。酒の用意をしてくれ」
命令口調でそう言った。
山下の前で、如何にも亭主関白を気取った清弘だったが、その場で足を縺れさせると、靴を履いたまま倒れてしまった。
二人は、仕事帰りに寄った飲み屋でかなりの量の酒を飲んでいたらしく、特に清弘の方は、普段から滅多に居酒屋など行く事も無かったせいで、その日は完全に度が過ぎていたのだ。その為に、足が気持ちに付いて行かない様子だった。
それを見て駆け寄った八重子は、
「何を言っているのですか。山下さんもお困りでしょう」
清弘の腕を抱えながら、山下の方を見て頭を下げると、
「と、とんでも御座いません。まあ、帰りのタクシーの中でそんな話をしていたものですから」
と、手を顔の前で振りながらそう言った山下だった。だが、言葉を詰まらせた山下は、八重子の爪先から身体を包み込む様に見ていたのだ。
山下が見とれるのも無理はない。目の前の八重子の様相は、ガウンを羽織ってはいたものの、帯を締めていなかったせいで胸元が少し開いていた。ガウンの隙間からは、薄いレースのネグリジェが見え隠れしていたのだ。そんな山下の視線に気付いた八重子が、恥ずかしそうに胸元を握りしめて立ち止った。そして、再び山下の顔を見た時、魔法を掛ける様な、一点を集中して見詰める山下の視線から眼を逸らす事が出来なかったのだ。
その時、
「いいから、リビングに行って飲み直そう」
そう叫んだ清弘は、八重子の手を払って山下の方に振り返ると、足をバタつかせて靴を脱ぎ捨てた後、ふら付きながらロビーの奥へと歩いて行った。それを追い駆ける様に慌てて靴を脱いだ山下は、八重子の前を通り過ぎて行った。それも、その眼は八重子の方に釘付けとなっていたのだ。そして八重子の方も、相変わらずガウンの胸元を握りしめてはいたが、その眼は山下を追っていた。
「早く来い!」
リビングの中から清弘の声が響くと、我に返った八重子だった。
リビングの扉の前では、八重子の方を見ていた山下だったが、
「は、はい」
と返事をして中に入って行った。
山下の視線から逃れた八重子だった。そして、玄関口の方に振り向いて二人の靴を揃えると、後を追い駆ける様にリビングに向かったのである。
「今から、簡単な物でも作りますから待っていて下さい」
部屋に入るなり、ガウンの帯を締めながらキッチンに向かう八重子だった。その後ろでは、
「ここは去年建てた家なのだよ。会社の頭取になってな」
得意気な顔でそう言った清弘は、ネクタイを緩めながらソファーに座った。そんな清弘の目の前に立っていた山下だったが、
「そんな所で立っていないで、お前も座れ」
清弘の荒い口調に、
「は、はあ」
と返事をした後、申し訳なさそうに八重子の方を見ると、そのままゆっくりと座っていた。
八重子は、キッチンで軽い摘みを調理していた。ほんわりと美味しそうな匂いが漂い始める中、フライパンを握る動きが手際の良さを窺わせていた。そして、出来上がった料理を皿に盛り付けると、棚の上に置いていたブランデーとグラスを持って、二人の方に歩み寄ってきたのである。
「すいませんね。この人ったら、言いだしたら聴かないものですから。お粗末な物で御口に召しますか解りませんが、どうぞ」
か細い手で二人の前に料理を差し出すと、グラスにブランデーを注ぎ始める八重子だった。
「こ、これを奥さんが。美味しそうだな」
目の前の料理を誉める山下が八重子の方を見上げると、目を細めてじっと山下を見つめる八重子が居た。
二人が見詰め合っていると、そんな山下を見た清弘は、
「綺麗だろ。手を出すなよ」
本気にも冗談にも取れる様な言葉を吐いた。その眼は、上目使いでニヤケていた。
身体がピクリと動いた山下だったが、
「と、とんでも御座いませんよ。綺麗な奥さんでうらやましい限りですが、そんな事出来る訳がないでしょ」
と、狼狽える様に答えていた。そして八重子の方も、
「何て事を言うのです。山下さんも困っているでしょう。それに、こんなおばさんに興味を持つ訳がないでしょう。ねえ、山下さん」
と、始めは清弘の言葉を責めていた八重子だったが、急に微笑んで山下の方を見ていた。その目線に、戸惑いの表情を見せる山下だった。
暫く飲んでいた三人だったが、殆ど泥酔状態だった清弘が一番に酔い潰れていた。ソファーに靠れかかっていた清弘だったが、何時の間にかその場で寝てしまったのである。
それを見た八重子は、
「もう、こんな所で寝てしまって。寝室に行かないと風邪をひきますよ」
そう言いながら清弘の身体を揺らしていたのだが、完全に昏睡状態になってしまった清弘からは、返事が返って来る事は無かった。
すると、
「ぼ、僕が背負って二階に連れて行きますよ」
着ていた背広を脱いだ山下は、清弘の前にしゃがんでいた。
その姿に、申し訳なさそうにしていた八重子だったが、清弘の脇を抱えて山下に預けていた。全く目を覚まそうとしない清弘を背負うと、一気に二階へと向かって行った山下だった。そして、その後ろから駆けて来た八重子が寝室の扉を開けると、目の前のベッドの上に清弘を寝かせたのである。そして、山下はネクタイを緩めて大きく息を吐いた。その横では、一端鋭い視線で山下の方を見た八重子だったが、そのまま黙って部屋を出て行った。その後ろから、静かに寝室から出てきた山下が扉を閉めていた。
階段を降りながら、山下の方を見上げる八重子は、
「すいませんね。こんな事までして頂いて」
と、頭を下げていた。その後ろから降りてくる山下も、
「いいえ、もしも奥さん一人だけだったら大変でしたね」
と、顔の前で手を振りながら微笑んで言うと、再びリビングに入って行ったのである。そして、残ったお酒を二人で飲み直していた。
ボトルの中のブランデーも底をついてきた頃だった。
徐に腕時計を見た山下が、
「もうこんな時間だ。そろそろ失礼します」
ソファーから立ち上がって上着と鞄を手に取ると、
「そうですか。今日は主人が迷惑を掛けて、申し訳御座いませんでした」
と、横に座っていた八重子が立ち上がろうとした。すると、酒に酔って足を取られたのか、山下の方に身体を寄せて靠れかかったのである。それを支えた山下が、
「お、奥さん。大丈夫ですか」
胸元にある八重子の顔を見た時、八重子の吸い込まれるような瞳に体が動かなくなっていた。八重子は何も言わずに、ほつれた髪を人差し指で耳に掛けると、眼を閉じて山下の胸に頬を寄せていた。
その行動が、山下の理性を破壊した。いきなり八重子の唇を奪った山下だったのである。
「な、何を為さるの」
初めの内は、両手で山下の身体を引き離そうと拒んでいた八重子だった。だが、身体の力が抜けていく様に次第に抵抗を止める八重子だったのだ。ソファーの上で唇を重ね合わせていた二人だったが、そのまま床に倒れていった。気付いた時には、八重子の両手は山下の背中に廻っていたのである。そして、その夜に二人は肉体関係を持ってしまったのだ。
初めて山下を見た八重子は、自分では気付かずに、魔性の女と化していたのだ。
その原因は、清弘との夫婦仲にあった。数年前から、触れ違いの生活になっていたのだ。
その日からは、清弘の眼を盗んでは二人で逢う様になっていた。
ある時はラブホテルで密会の時を過ごし、ある時は清弘の出張を見計らって山下を家に迎えていたのだ。
そして二人の関係は、一年後の現在も続いていたのである。