プロローグには主人公だよね
はじまりはじまり
講義が終わり外に出てみると、2月の空気は鋭く、本当に頬かどこかを切り裂かれてしまいそうだった。大学の中は煌々と明かりがついているけれど、結構奥まった場所にキャンパスがあるせいで帰り道は廃トンネルを歩くより暗い。まぁ、家は近いから構わないけど。
用事は無いのでさっさと帰ろうとした、ところ、後ろからの切羽詰った声に呼び止められた。
「あっ、まだいた良かった!おい真庭!」
「なに?」
振り向いたときにずり落ちかけたリュックを背負い直す。
「いや、7日にやる合コンに来てくんね?お前、携帯まったく通じなくてさぁ」
「マジで探したよぉ、お前来るって言うと女子の集まり方が全っ然違うんだよ、良いだろ?」
日差しも無いのに帽子を被り、きこりみたいな格好をした髭男がそんなことを言った。
「いや、行く理由とか特にないから…」
昼間暖かかったせいでうっかり薄着で出掛けてしまい、今凄く寒いので立ち話はちょっと嫌だ。
「早く帰りたいし、もういい?」
「マジで可愛い子来るから!お前も損しねぇって!」
一般的には、合法的に飲酒が出来る年齢が近づいてくれば自動的に盛りがつくんだろうか。所謂恋人とやらはただ邪魔なだけだと思うのだけれど。
髭男に足止めを食らって、1分前後経過した。髭男は合コンに来るよう、かなり少ない語彙で必死に語りかけてくる。
体温の低下を感じる。凄く帰りたいストーブにあたりたい。
と、タイミング良く携帯電話が甲高い声を上げた。
「あ、やべ」
メールではなかった。お前携帯通じるんじゃんとか喚く髭を無視して、断りきれた気はしないけど、足早にその場を後にすることにした。電話の主は確実に相当立腹しているからだ。
「もしもし薙穂?」
「てめぇどこをほっつき歩いていんだ。俺のほうが遅く着く筈だぞ今日は」
「ごめん、変な髭に呼び止められててさ」
「3ヶ月遅れの聖ニコラウスか?いいからとっとと帰って来い馬鹿が」
"が"が半分くらいのところで切断された電話をポッケに押し込む。これは少し急がなければ。
しばらく、コンビニエンスストアその他のせいで多くが永遠の眠りについた商店街を歩く。冬季の蚊とか細さを勝負しながら呼吸している店舗もこの時間帯は休眠しているので、真っ暗になっている中を道なりに進む。
しばらくすると暗闇と強烈なコントラストをなし、ずっとその中を歩いてきたものの目を直撃する光に唐突に出くわす。ほぼすべての部屋が明かりを放っているここは、単身者用のワンルームマンション。俺の住居もここにある。
半年前から修理中のエレベーターを無視し、階段を上る。
4階について、向かって右側、奥から3番目、手前から2番目の部屋の部屋の前に立つ。目立った物音は聞こえないから、掃除はもう終わったみたいだ。
「ただいま」
「お帰り」
家主で無い人物から特に違和感無くこの言葉を頂戴する。今朝まで部屋を多い尽くしていた惨状は跡形も無く、ちまちま回収していたがらくたたち|(服屋のマネキンとか腰ぐらいのでかさのある招き猫とか)も部屋の隅のほうへ場所移動していた。
「今日はそんなに散らかってなかったな」
黒ペンキに頭を突っ込んだのではないかと疑惑を抱かせるような黒々とした髪を掻き揚げながら、薙穂はこちらを向いた。
「何で、遅くなったんだ?」
場を正すように嘆息し、涼やかだが明らかに怒気を含んだ声で訊いてくる。
「電話で言った……」
「オフシーズンのサンタさんに会ったのか?そりゃ良かったな」
髭の長さと質の解釈がだいぶずれている。
「そうじゃなくて、馬鹿っぽい同期に合コンに来いーとか言われて…」
そう言った瞬間、閻魔大王あたりが土下座してしかもお金をくれそうな迫力の目で睨めつけられた。
「…」
「い、行かないって!行かないって言ったよ!勿論!」
「そうだよな」
4トンぐらいの威圧感のある言葉で尋問は終了となった。
一応、俺から目を離してくれた薙穂は机の上にあった銀色の保温バックに手を伸ばした。
膝立ちの姿勢になって、机の上にそれらが入っていたのと同じくらい飾り気のないタッパーを並べていく。
「お前、きんぴら大丈夫だったっけ?」
「うん」
薙穂のおかずのチョイスはちょっとお婆ちゃんみたいだなぁと思うけど、前、ぼそっと言ってしまったらアマゾンの奥地の未開の民に見つかって拷問にあうより酷い目に遭ったので黙っておく。味が悪いわけでもないし。
「飯はまた3合炊いてきたから」
一番大きいタッパーを開けると、一緒に持ってきた茶碗に手際よく盛り付ける。
俺の目の前に茶碗を置くと、残りのタッパーを開けて正座に戻る。
「いただきます」
と俺が言うと薙穂も小さく復唱する。
薙穂は4分の1くらいに切り分けられているホッケを綺麗に分解しつつ食べているけれど、俺は魚を食べるのがどうも苦手で、現代美術の作品みたいになったこっちのホッケを見かねたのか、そのタッパーを箸で引き寄せて身をすべて解すと、骨を自分のタッパーのほうに入れてこちらへ返した。
*****
朝、薙穂が布団をたたんでいる音で目が覚めた。
ゆっくりと身を起こすと、床でインテリアの一部を兼任している、皿が回るタイプの煤けた電子レンジがオレンジの光を放って健気に動いていた。薙穂は朝の分までご飯を作ってきてくれるのだ。
「起きたか」
薙穂が布団をたたむ手を止め、枕を抱えたままこちらを見下ろしている。
「うん」
「顔洗ってくる」
まだ頭が冷め切らないけれど体を強引に動かしていればそのうちすっきりするので、起き上がり、そう広くない部屋の玄関から適当にサンダルを突っかけて表に出た。このマンションは5階に学校についているような流しがあるので、ふらふらと階段を上る。誰も居ない流しの端で水しか出ない水道を捻り、顔に水何度かを被った後、水滴を拭い、自室へ戻った。
食後しばらくして、薙穂が俺の部屋にかなり持ち込んでいる私物から服を一式取り出していた。今日の講義は同じものを受けるんだけれど昼からなので、近所のスーパー銭湯に行くことになったからだ。
日が出てしまえば寂れた感はそのまま、恐怖のみが取り除かれる商店街の残骸を歩く。大学に行くのとほんの少ししか違わないルートを少し行くと、スーパー銭湯の看板が見えた。
薙穂が回数券を2枚出して、時間帯が時間帯なので貸しきり状態の湯殿に入った。
とりあえず高そうなことだけは分かるトリートメントを頭に付けられたり、背中を流すとだけ言われた筈が全身隈なく洗ってもらえたり、露天風呂で泳いでたら桶で殴られたりして、ゆっくりと入浴を済ませることができた。
このあと、普通に大学へ赴き、薙穂と一緒に普通に講義を受けて、普通に表に出ると、午後4時を少し回ったところだった。
普通に帰路につこうとしていたその時
「おこんにちは!」
かなり間違った丁寧語の、変声期を迎えていないあたりの男性の声が耳を叩いた。
声のしたほうを見て見ると、声の主だとすればその声帯にぴったりな風貌の人物がこちらを見上げるようにして突っ立っている。
「まななぁ!お久しぶりですなぁ!」
俺のほうを見て嬉しそうな顔でぴょんぴょん跳ねているが、残念なことに知り合いにこんな人物が居た覚えはない。どう対応すべきか。
俺が言葉を詰まらせている間、その、中学生くらいに見える人物を眺めていた薙穂は
「桧里《ひのり》じゃないか」
と、さほど驚いていない様子でその人物の正体を明かした。
「えっ」
こっちはかなり驚いてしまった。だって童顔だから、の限度を超えて幼い見た目だし。
知り合いの一人の、廣川 桧里、らしきこの人物とは手紙とかそのあたりの"文"で会話していたけれど、エンカウントするのは「記憶する中では」初めてなので、想像する桧里は、もう少し成長していると思っていたから意外の更に外を行っていたのだ。あと女の子にしか見えないし。
桧里は、瞬きを繰り返している俺のほうを見上げて
「ここに来てる元美術部のひとはふたりだけ?」
と訊く。かわりに薙穂が頷くと
「じゃあ、なんか変な人とか知ってる?」
質問を追加する。
「変な人っていうのは…?」
俺が訊くと
「うーん……。えっとねー、なんて言えばいいのかなぁ、ほら、流行とか知りません!みたいな、俺は天才だー!みたいな、なんていうか……」
しっくりくる答えを探しているようだが、そこまでの桧里の言葉でなんとなく「変な人」の特徴は浮かんだ。
「ちょっと見ないなぁ」
「そっかー」
桧里が残念そうに首を傾げるけど、あの髭が居るくらいだから、うちの大学の人口は殆どみーちゃんとはーちゃんの群れで構成されている。
「ごめん」
「いーのーいーのよー」
俺が申しわけなさそうにしているのを見て、ばっと背を伸ばし両手を顔の前で振って笑った。
そして
「じゃあ次行かなきゃ!」
と、急に体勢を立て直して叫んだ。
「行くって、どこに?」
「んー?いや、部長のとこ」
くにゃくにゃと動きながら屈託のない笑顔を向けてそう言った。
「部長……?」
薙穂が訝しげなな顔をする。
「…部長っていうのはどの?」
あごに手を添えて、何かを思い出そうとするような顔になる。
「中学のときのだよ!」
それを聞いて、更に薙穂は首を傾げた。
「あの人、ずっと音信不通じゃなかったか……?」
「そうだったの?」
きゅるん、と薙穂のほうへ向き直った桧里が眼を大きくして、知らなかった、という顔をする。
「確かそうだったと思う」
語尾よりずっと確信を持って薙穂が言う。
「それにしてもなんでお前は、部長に会えたんだ?」
薙穂が更に訊いた。
「えーとねー、歩いてたら、お菓子上げるよーって話しかけられて、ついてったら部長だよって」
こいつはいつか誘拐される。
「そうなのか」
不審が顔中を覆った表情で薙穂は桧里を見下ろしていた。
数分静寂が包む。
「そろそろ行っていい?」
桧里がどうも忙しいらしく急かす。
「お? ああすまん。いいよ、気をつけてな」
思考に深くダイブしすぎていたのかはっとした表情で薙穂は微笑んだ。
ぴょこりんと背筋を伸ばしてからお辞儀して
「じゃあね!でもまた会うと思うよ」
「ばいばーい!!」
そう言って桧里は夕暮れに消えていった。