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『灰猫』ゼゾッラ

 


 水面を突き破ったと思った瞬間、ロードピスの魂は暖かく湿った闇の中に飛び込みました。

 そして、一息つく間もなく、魂はその優しく居心地のよい場所から追い出されました。

 目に見えない手が、柔らかくもろい体の背中を押します。

 魂は熱い苦痛を経て、暗く狭いトンネルを通り、はるか彼方にある光の中へと……


「こりゃ、おめでとうさん! また女の子だよ」


 取り上げたばかりの赤ん坊を見ながら、産婆は三本しか歯のない口で、呟きました。

 ロードピスであった魂は、喉を刺す空気の冷たさと胸を刺す不安に泣き声をあげました。 




  2、『灰猫』のゼゾッラ




 その第二の人生において、少女の魂は北の大地に住まう農民の夫婦の娘となりました。

 すでに奴隷ではありませんでしたが、ある意味、奴隷以下の存在でした。

 娘の家は貧しいくせに子沢山、上には三人の兄姉がいて、そこへ三人の弟と妹が加わりました。

 一日の大半は、幼い兄弟の世話や牛の乳搾り、洗濯や畑仕事や家畜の世話に費やされました。


 雑草のようにわいてくる仕事をさばきながら、娘はここから逃げる方法を考えていました。

 何とかして、この農村を抜け出し、同じように生まれ変わっている王の魂を探し出さねば……。

 しかし、村の人間たちはエジプトの奴隷よりも無知で、山の向こうに何があるのかさえ知りません。

 娘自身も一人旅の経験がなく、どこをどうやって捜せばいいのか、まったく分かりませんでした。


 悩むうちに時間だけが経ち、ある日、畑から顔を上げた親父は、娘が乳臭い子供から一人前の女になろうとしていることに気づきました。

 その夜、たいして量の多くない晩ご飯を奪うように食べ終わった後に、親父は娘に言いました。


「おい、娘や。おめえも、もう嫁に行ってもええ歳だ。マイルズおやじ家のジョンなんかどうだ? あいつは牛のように頑丈だぞ」

「そして頭の中身も牛並みよ。あたしはジョンのお嫁にはならないわ!」娘はきっぱりと言いました。

「なら、猟師のハックは? あいつは情け知らずで、腕が良い猟師だ。おまえ毎日、肉が食えるぞ」

「ハックは女の子にも残酷で情け知らずよ。あたしはハックのお嫁にはならないわ!」

「粉屋のスノットなら文句はねえだろ! あいつの家は、村一番の金持ちだ。嫁げば、焼きたてのパンが食えるぞ。家にもおすそ分けがくるかもしれん」


 親父の声には抑えきれない怒りがふつふつと、湧き出していました。

 食卓の周りの家族は、息を殺し、必死に親父の言う通りにするように娘に目配せしました。

 しかし、娘の答えは変わりませんでした。


「いやよ。あたしはスノットのお嫁にはならないわ」

「なら、どこの野郎だったら、結婚するって言うんだっ!」


 ついに怒りを爆発させた親父は、こぶだらけの手でテーブルを叩きました。

 木の皿の幾つかが、その勢いで宙に舞い上がり、床に落ちて騒々しい音を立てました。

 娘は熊みたいな親父の怒りにも動じず、毅然とした態度で言いました。


「ファラオのアマシスさまなら、結婚するわ」

「ふ、ふぁらって……そりゃ誰のこったぁ?」

「ファラオはエジプトの王よ。そして、アマシスさまこそ、あたしの運命の相手だわ。あたしは、いつかこの村を出て、アマシスさまを捜しに行くのよ」 


 農民の親父は娘の言葉が理解できませんでした。

 だが、無知な人間の常で、戸惑いは怒りの火に油を注いだだけでした。

 親父は大きな拳を娘の鼻先に突きつけて、脅すような声で言いました。


「優しくしてりゃ、つけあがりやがって。親父さまの言うとおり結婚するか、さもなきゃ、こいつで一発食らわせるぜ!」 


 王女のように、誇り高く優雅に反らした顔がその答えでした。

 怒りで顔が真っ赤になった親父は、言葉通り、強烈な一撃を娘の頬にお見舞いしました。

 しかし、あまりに強く殴りすぎたために、娘の体は椅子ごと倒れました。

 そして、土の床から突き出した尖った石が、運の悪い娘の頭を砕きました。

 ロードピスの魂は傷口から血と一緒にこぼれ出て、嘆き悲しむ家族を残して再び飛び立ちました。


 その三度目の人生において、ロードピスの魂はローマの令嬢となりました。

 今度の父は、富と権力に取り付かれた大貴族で、新しく生まれた娘を掌中の玉のように扱いました。

 なぜなら、貴族にとって娘は、将来結婚によって、さらなる富と権力を生み出してくれる大切な財産だったからです。 


 前回や前々回と違い、この人生でロードピスの魂は働く必要はありませんでした。

 貴族の娘にとって、洗濯や畑仕事よりも、良縁に恵まれるよう美貌や教養を磨くことが重要だったのです。

 すでにふたり分の人生を経験していた魂は、その覚えの速さで教師を唸らせ、両親を喜ばせました。


 十五年の間、奴隷の魂は貴族として、楽しく贅沢に暮らしました。

 しかし、十五歳になったその日に、あの煩わしいやり取りがまた始まったのです。

 貴族の父親は、今まで手塩をかけて育ててきた花から、甘やかな果実の見返りを期待しました。


「可愛いわたしの花よ。今日は、おまえにうれしい知らせを持ってきたのだよ」

「ああ、お父さま、結婚のことでしたらごめんなさい。わたくしには心に決めた方がいるんですの」


 娘の言葉は、ナイフのように父親の誇りを傷つけ、傷口から真っ赤に煮えたぎる血がこぼれました。

 しかし、農民よりも陰謀に長けた貴族は、怒りを面に出しませんでした


「おお、娘よ。すでに意中の相手がおるなら、無理強いは出来ぬな。だが、せめてお前の心を射止めたその運のよい男の名を教えておくれ」


 頭の中で、娘に近づいた男と知り合いの暗殺者の名前を並べながら、猫撫で声で聞きました。

 ところが、娘の口から飛び出した名は、父親にとって思いもよらぬものでした。


「わたくしが、恋しているのはアマシスさま。エジプトの王であらせられた方です。かつてわたくしはロードピスと呼ばれる奴隷でした。運命によって、アマシスさまに求婚をされたのですが、意地悪な同僚によって命を落としたのです。そのあとに、わたくしは女神イシスのご加護により、生まれ変わり、お父さまの娘になりました。私と同じようにアマシスさまもどこかに生まれ変わっているはず。お願い、どうかわたくしのために、アマシスさまを見つけてください!」


 今まで、貴族は我が子にきわめて甘く、頼みを拒んだことは一度もありませんでした。

 娘は、今度も父親はこころよく自分のお願いを聞いてくれるものと思っていたのです。

 しかし、貴族の父は乱暴に娘を押しのけると、嫌悪と怒りの篭った視線を投げかけました。


「大神ユピテルよ、救いたまえ! 我が子は邪教の悪魔に取り付かれたのだ。もはやお前をこの家においておくわけにはいかん!」


 腐った林檎が同じ樽の実を腐らせるように、貴族は娘の狂気が、他の子供たちに伝染するのを恐れました。

 そこで、風評が広がる前に、狂った(と思い込んだ)我が子を僧院の中に閉じ込めたのです。

 美しいものに取り巻かれていた少女は、残りの人生を、泣き叫ぶ狂人や陰気な神官の中で過ごしました。


 六十年の間、ロードピスの魂は貴族の娘の体の中に囚われていました。

 やがて皺一つない肌に、時が爪あとを刻み込み、まっすぐだった腰は曲がり、白い歯は抜け落ちて、薄いかゆをすすることしか出来なくなったころ、やっと死がやってきて、魂を老いた牢獄から解き放ってくれました。


 そして同じようなことが何度も繰り返されました。

 かつてイシスが予言したとおり、少女の魂は長い氷の砂漠を彷徨うことになったのです。

 毎度おなじみの苦痛に満ちた出産のトンネル。

 その後に続く貧困と虐待、老いや病気、侮蔑や孤独、そして何十通りもの死。

 恋人の生まれ変わりを求めて旅に出、盗賊に殺されたこともありました。

 悪魔憑きとして、罵られながら、処刑台の上に立ったこともありました。


 またいつも人間に生まれるわけではなく、魂が卵の殻や獣の毛皮の中で目覚めることもありました。

 そのようなとき、魂はすぐに巣から抜け出すか、捕食者の口の中に飛び込み、人間に生まれ変わるまで、何度も死の門を潜り続けました。

 

 いつしかロードピスだった魂は、歌を忘れました。踊りを忘れました。

 唯一つ、ナイルの河のほとりで芽生えた、あの花だけは萎れることなく咲き続けましたが、その花の上にも時間の黒い雪が降り積もっていきました。

 貝が薄い膜を重ねて石を真珠を変えるように、恋の花は墨色の冷たい殻に覆われ、棘はますます鋭く、花弁は剃刀となりました。

 

 最初の百年が過ぎた後、魂は思いました。

『たとえ、どこにいようとも、必ずアマシスさまを見つけ出してみせるわ』

 次に二百年が過ぎた後、魂は思いました。

『たとえ、あの人がほかの人間を愛したとしても、また私を愛するようにしてみせる!』

 三百年が過ぎた後、魂は思いました。

『誰であれ、わたしとアマシスさまの間に立ちふさがる奴は、皆殺しにしてやる!』


 そして百年、また百年、さらに百年……。

 ついに千年の時が経ち、百度目の人生において、魂は『灰猫』のゼゾッラとなっていました。




 ◆  ◆  ◆





 表の世界では、ゼゾッラは社交界に咲いたミステリアスな華でした。

 孔雀のように色鮮やかドレスを纏い、手には大粒の宝石の指環、髪を飾るは生きた薔薇。

 その顔には貴石も花も色褪せ、眼差し一つで何人もの若者が恋に落ちました。

 しかし、ゼゾッラの髪の毛だけは、何故か老婆のような灰色でした。


 灰髪の令嬢の懐は金で満たされていましたが、その富の出所を知る者はいませんでした。

 貴族よりも優雅に振る舞うことが出来ましたが、どこの生まれなのか、誰にもわかりませんでした。

 そしてもう一つの世界、月と闇が支配する、呪文と象徴の世界では、『灰猫』の名は漆黒の栄光に包まれ、暗黒の太陽のように輝いていました。


 生まれ変わりを繰り返す魂が、魔法を学び始めたのは、何時のことだったでしょうか。

 初めは世界のどこかにいるファラオの生まれ変わりを探すために。

 次いでは、耐えず襲いかかる理不尽な暴力から自分を守るために。

 最後には、力を身につけることそれ自体を楽しみとするようになっていました。


 親が子に財産を残すように、魂は生まれ変わるたびに、黒い知識の石材を一つ積み上げました。

 やがて石材は幾重にも層をなし、千年の時を経て、魔法の世界にそびえ立つ巨大なピラミッドとなっていました。

 魔法の世界の住人たちは、羨望と畏怖を込めて、暗黒の塔の上に君臨するゼゾッラを讃えました。

 

 ああ、麗しのゼゾッラ。

 ああ、恐ろしのゼゾッラ。

 天を指させば嵐を巻き起こし、地を踏めば地獄の炎が噴き出す。

 絹糸を紡いで金となし、金に触れては鉛に変える方よ。

 魔法の女神イシスの加護を受け、十世紀を生きた、不死不滅の大魔法使い!

 荒野の魔女たちも、地底の魔物らも、ゼゾッラの前にはひれ伏し、その爪先に口づけをしました。


 ゼゾッラの妖しいオーラは、甘い蜜のように若い男たちを引き寄せました。

 しかし、『灰猫』自身が、男たちの熱い口説き文句に心を動かされることはありませんでした。

 長い暴力と抑圧の果てに、唯ひとりを除いて、全ての男たちを恨み、蔑むようになっていたのです。


 ゼゾッラは寄ってくる若者らを或いはもて遊び、或いは無視し、その心を一つ一つ丁寧に打ち砕いて行きました。

 かくして、『灰猫』の歩いたあとには、男たちの砕けた恋と涙が、足跡のように残されるようになったのです。

 毎夜、社交界で愚かな男を破滅させた後、ゼゾッラは邸宅に戻り、地下の部屋に隠された水晶玉の前に立って言いました。


「水晶よ、地の底の賢者よ、遠見の目よ、私の声が聞こえるか?」

「はい、貴女の声が聞こえます、ゼゾッラ」水晶は答えました。

「よろしい。では聞くわ。私のアマシスさまはどこにいるの? 黒い森の国で私が探しに来るのを待っているのかしら?」

「いいえ、ゼゾッラ、アマシスがどこにいるのかはわかりません。王の魂は黒い森の国にはいません」


 毎晩毎晩、同じやり取りが繰り返されました。

 アマシスの生まれ変わりはどこにいるのか、今何をしているのか?

 黒い森の国でないのなら、葡萄酒の国は?

 熊と狼が徘徊する北の大地は、駱駝の行きかう砂漠はどうだ?

 遠い遠い東の絹の帝国や、さらに東にある黄金の島国を覗き見た事もありました。


 だが、水晶玉の答えはいつも同じでした。

 『いいえ』『いいえ』また『いいえ』!

 アマシスの魂はどこにも見つかりませんでした。

 何年もの時間が過ぎ、今世での再会を諦めかけたその頃、一人の青年がゼゾッラの前に現れました。

 

 青年は絹の商人で、一代で財をなした立身出世の人でした。

 いつもと同じように、ゼゾッラは青年の心をその爪で引き裂き、唾を吐きかけました。

 しかし、青年は一時はひどく落ち込みますが、しばらくするとまた戻ってきました。

 ゼゾッラの心の中にある、黒い花の棘に刺され、するどい花弁に何度切り裂かれても、また同じように手を伸ばしてくるのです。

 とうとう、呆れた『灰猫』は青年に尋ねました。


「どうして、お前はそんなに、私に構うんだい?」

「真っ赤に凍えた手を見たなら、温めてあげたくなるのが、人情じゃないか」青年は笑って言いました。「それに君の手は僕の好みなんだよ」

「はん、大した口説き文句だこと。だけど、その程度じゃ私の口から『愛してる』なんて言葉は出てこないよ。温もりが欲しけりゃ、氷を抱きな。水が欲しけりゃ、石を絞ることだね」


 ゼゾッラは青年の言葉を鼻で笑いました。

 ところが半年後、社交界は『灰猫』が商人のプロポーズを受け入れたことを知りました。

 と言っても、別にゼゾッラが、青年のしつこい求愛に心を動かされたわけではありません。

 お人好しの絹商人を騙して、その財産を根こそぎ頂いてやろうと、思っただけなのです。

 そもそも『灰猫』の山のような富は、そのようにして築いた物なのです。


 いつもと変わらず、次に生まれ変わるまでの時間をつぶす、ただのゲーム。

 最初は、そう、そのつもりでいました。

 しかし、青年と一緒に暮らすうちに、ゼゾッラの身に思いもよらぬことが起こりました。


 千年にわたる生涯で初めて、『灰猫』は母親になったのです。

 生まれた赤ん坊は女の子で、父親に似たところがあり、母親にも似たところがあり、しかし誰よりも……ナイル川でおぼれ死んだあの少女、ロードピスにそっくりでした。

 

 ゼゾッラは赤ん坊を怖がりました。

 何を滑稽な、と思うでしょう。

 しかし、千年を生きた大魔法使いは、小さな柔らかい生き物に本気で怯えていたのです。

 子供は乳母に預け、自分の手で抱くことはおろか、目を向けることさえ稀でした。

 

 溢れるほど知識が持ちながら、我が子にどうして接していいのか、わかりませんでした。  

 十世紀も恋焦がれてきたのに、愛し方を忘れてしまったのです。

 しかし、時は過ぎて行きます、辛い時や苦しいときと同じように。


 続く十数年間は、取り立てて語るようなことはありません。

 ごく平凡で幸せな毎日が続いていただけでした。

 ゼゾッラは普通の女のように、春に夫や子供と遠足に出かけ、夏に湖で水遊びをし、秋に親子で宴の食卓を囲みました。


 そうするうち、ゼゾッラの花を包み込んでいた氷の殻は、一枚また一枚と剥がれ落ちて行きました。

 「愛している」と口に出して言うことはありませんでしたが、抱き寄せる夫の腕にそっと体重を預けるようになりました。

 また、おそるおそる我が子の手を握ることもできるようになりました。

 

 家族と接する時間が増えるたびに、地下の魔法の部屋を訪れる時間は減っていきました。

 毎日行っていた水晶玉への質問も、月に一回程度になりました。

 そしてある冬のこと、魔法の道具の埃をはらうために、地下に降りたゼゾッラはふと悪戯心を起こして、水晶玉に尋ねました。


「水晶よ、地の底の賢者よ。遠見の目よ、私の声が聞こえるか?」

「はい、貴女の声が聞こえます、ゼゾッラ」水晶は答えました。

「よろしい。では聞くわ。私のアマシスさまはどこにいるの? ひょっとして……この国いるんじゃないの?」


 ゼゾッラはいつもと同じ返事が返ってくると思っていました。

 水晶玉が『いいえ』と答え、そして平和で平凡で、幸せな毎日が続くと考えていました。

 だがしかし、水晶玉の答えは、


「はい、ゼゾッラ、エジプトのファラオ、アマシスの魂はこの国にいます」

 

 ゼゾッラの血は、血管の中で沸騰すると同時に凍りつきました。

 

「……なん、ですって?」

「ファラオ・アマシスはこの国にいます。お城にいる、王の長男がその生まれ変わりです。お望みなら、お顔を見せましょうか?」


 夢見心地のまま、ゼゾッラはうなずきました。

 すると水晶玉の中に渦巻く雲が生じました。

 その雲が晴れた後に、ゼゾッラの娘と同じ年頃の、美しい少年が映し出されました。

 まだ幼い少年の横顔に、ゼゾッラは紛れもないアマシスの面影を見いだしました。

 間違えるはずもありません。気が遠くなるほどの時間、探し求めていた相手なのです。


 遠く険しい道のりを経て、魂はついに恋するファラオに再会しました

 しかも、王の魂は、ナイル川のほとりであったあのときと同じく、王族の男子に宿っているのです。

 たとえゼゾッラでなくとも、この千載一遇の出会いに運命を感じずにはいられなかったでしょう。

 

 しかし、大きな問題が、魂の歓喜に影をさしました。

 ゼゾッラはすでに結婚をしております。それどころか、子供までいます。

 絹商人の夫がいる限り、念願かなって王子と結ばれることはあり得ないのです。


 この問題を解決する方法はただ一つ……。

 その方法を思いついた時、ゼゾッラが激しく躊躇ったと言えば、おかしいと思いますか?

 家族と一緒に過ごした日々は、魂の花を覆っていた氷の殻を何枚も剥がしていたのです。

 

 しかし、最後の、最も分厚い殻だけは残っていました。

 この機を逃せば、次は何時アマシスの魂に巡り合えるか、分かったものではありません。

 そしてそのとき、ファラオの魂が、王族の中に宿っていることはないでしょう。

 諦めるには、余りに長い間、恋焦がれてきました

 立ち止まるには、氷の砂漠を遠く、引き返せないところまで歩いてきたのです。

 

 その夜、ゼゾッラの娘は、母が冷えた暖炉の前で泣いているのを見つけました。

 毅然として、にっこりすることすらなかった母が子供のように涙を流していました。

 娘が近づくと、ゼゾッラは河で溺れた人のように我が子にしがみ付きました。

 戸惑った娘は、わけもわからず、母の背中を撫で、慰めました。

 しかし、もしこの時、母の心中を覗いたら、娘の小さな心臓は脈打つのをやめていたかもしれません。


 次の日、健康で風邪一つ引いたことのない商人が、原因不明の病気に倒れました。

 ゼゾッラは使用人たちを退けて、自ら夫の世話をしました。

 彼女をよく知る人々は、あの『灰猫』が良き妻になったことに驚き、心を打たれました。

 そして、仲睦まじい夫婦を襲った不運を悲しみ、絹商人の健康と回復を祈りました。

 

 昼間、ゼゾッラはつきっきりで夫の看病をしました。

 彼女が手渡す薬を飲むたびに、商人は一歩ずつ、死の顎に近づいて行きました。

 そして夜になると、地下の秘密の部屋に行って、水晶玉越しに見る王子に魔法の手を伸ばしました。

 丹念に巣を張る蜘蛛のように、呪文の糸で少年を包みながら、ゼゾッラは水晶玉にささやきます。


「蝶よ。蝶よ。美しい魂の蝶よ。もう逃げさない。今度こそ、貴方は私のものになるのよ」


 王子はその夜、不思議な夢を見ました。

 夢の中で少年は途方もない大河の側に立ち、薔薇の顔と麦の髪をした乙女に求婚をしているのです。

 目を覚ましたあと、夢は忘却の彼方に去りましたが、不思議なざわめきが胸の中に残されました。

 何か、とても大事なことを忘れているような気持ちになりました。


 またワインのグラスに口をつけたときに、誰かに口づけをされたように感じました。

 お城の庭の中で、見慣れないが後姿を見かけたこともありました。

 その人は灰色の髪をしていて、追いかけると霧のように消えうせてしまったのです。

 あい続く幻は、少年の心に小さな空白を残しました。

 やがて、その白い傷は寄り集まって、パズルのように一つの形を作りました。

 覚えはないのに懐かしく、見たことはないのに美しく、燃えるように慕わしい女の影を。 


 少年を完璧に魔法の虜にすると、ゼゾッラは次の仕事に移りました。

 王子との結婚に反対できないように、王を王妃を大臣たちを、ついにはお城を丸ごと呪いの罠の中に落とし込みました。

 若さと美しさを取り戻すための妙薬を調合し、魔法の糸を使って、太陽よりも輝かしく月よりも妖しく光るドレスを紡ぎだしました。

 さらに地上の星と見紛う装飾品の数々を、かぼちゃの形をした黄金の馬車を、その馬車に繋ぐ見事な白馬を、次々に魔法で造り出しました。


 王子の花嫁となるものが、みすぼらしい格好をしているわけにはいけません。

 やるべきことは、いくらでもありました。

 中でも、ゼゾッラが特に力を入れたのは、靴でした。


 かつてアマシス王から送られた愛のしるし。

 ロードピスに希望を与え、命を奪い、百度生まれ変わるきっかけを与えたあのサンダル。

 あれも見事な靴でしたが、『灰猫』はもはやサンダル程度では満足できませんでした。

 千年間の旅路は、その忍耐に相応しい報酬を求めていたのです。


 ゼゾッラは地下室に人の骨のチョークで図形を描き、香炉をたいて呪文を唱えました。

 魔法の鞭を一打ち鳴らすと、図形から黒い煙が立ち上り、地底の生物らが現れました。

 この魔物達は、鼠に似た小人どもで、青黒い毛皮の下に緑色の鱗を生やしていました。

 ゼゾッラは雷のようにビンビンと木霊する声で、小人たちに命じました。


「よく聞け、お前たち。お前たちの内、一人はこの世で最も高い山へ行き、そこの悪魔の心臓よりも黒い石を取っておいで。もう一人は地の底に行って、そこで赤く煮えたぎっている炎を持ってきなさい」

「その石と火で、何をなさるおつもりなので?」小人のひとりが聞きました。

「高山の石を地底の火で溶かしてガラスとなし、そのガラスで靴を作りなさい。その靴は、一度完成すればダイアモンドよりも硬く美しく、火で溶けることはなく、上等な革靴のように伸び縮みするの」


 そのとき、大昔にロードピスが靴を奪われかけて、溺れ死んだ記憶がよみがえりました。

 喉にナイルの塩辛い水を味わったゼゾッラは、注文をつけ足しました。

 

「……そして、その靴は、この世でただ一人の足だけを受け入れるのよ。いかなる知恵も、魔法さえもこの靴を欺くことは出来ないわ」

「相変わらず、『灰猫』の奥方は無理難題ばかり言いなさる」小人たちがぼやきました。

「無駄口を叩いている暇があったら、さっさとお行きっ!!」


 ゼゾッラが魔法の鞭をぴしゃりと鳴らすと、小人たちは悲鳴を上げながら、それぞれの仕事場へ逃げて行きました。

 こうして時間の針が少しずつ少しずつ、絹商人の死とゼゾッラの魔法の成就に向けて動き続けたのです。




 ◆  ◆  ◆





 さて、絹商人の屋敷では、一人の未亡人が働いていました。

 この人の名を、そう、ハンナと呼びましょうか?

 ハンナは綺麗好きで働き者の、心優しい女性でした。


 絹商人の妻であるゼゾッラは、我がままで無慈悲な女主人でした。

 彼女のもとで働き、心と体をぼろぼろにされて、屋敷から逃げ出した使用人は数え切れません。

 しかし、ハンナだけは奥方の無体な要求にもよく耐え、お屋敷をいつも綺麗に快適に保ってきました。


 ハンナにはお屋敷から離れられない理由がありました。

 一つはお給金の良さ、ハンナには育ち盛りの可愛らしい二人の娘がいました。

 この娘たちを路頭に迷わせないために、ハンナは残酷な女主人のもとで働き続けました。


 そしてもう一つの理由は……恋でした。

 ハンナは屋敷の主人に恋をしていました。

 燃えるような激しい恋ではなく、静かな、しかし大地の底に根を伸ばす深い愛でした。

 

 恋に落ちるきっかけは、石のように、そこら中に落ちていました。

 絹商人は浮気をすることはなかったけど、全ての女性に優しい男でした。

 ハンナがゼゾッラの心ない言葉で傷つき、泣いていたときは背中を撫でて、慰めてくれました。

 子育てで悩んでいるときは、親身になって、相談に乗ってくれました。

 お金に困っているときはこっそりお給金を水増しして、クリスマスには二人の娘に絹のドレスを着たお人形をプレゼントしてくれました。


 恋せずにはいられませんでした。愛さずにはいられなかったのです。

 亡き夫の面影は夜明けの月のように薄れ、今では主人がハンナの新しい太陽でした。

 しかし、叶わぬ想いだとわかっていました。

 商人は妻を深く愛し、決して彼女を裏切らない人だったのです。

 それでもハンナは、主人の側にいるだけで幸せでした。

 彼の横顔を遠くから盗み見て、たまに微笑んでもらうだけで満足だったのです。

 

 それなのに、ああそれなのに……。

 絹商人が病の床についてからというもの、奥方さまは使用人らを遠ざけて、誰一人主人に会わせてくれません。

 ハンナは落ち着きを失い、不安を紛らわせるために、寝る暇も惜しんでお屋敷を掃除しました。

 

 そして気付けば、屋敷中を鏡のように磨き上げていたのです。

 不安に追い付かれそうになったハンナは、掃除する場所を必死に探しました。

 そして、絶対に入ってはならないと言われた、あの秘密の地下室を思い出したのです。


「私がこのお屋敷に来た時から、あそこは奥さまがご自分で掃除して来たわ。でも、この数日、あの人はご主人さまの看病で忙しくて、地下室に行っていない……。今なら、ちょっと掃除しても、怒られないんじゃないかしら?」


 そう思った時には、ハンナは地下室に通じる階段に足を乗せていました。

 一歩また一歩、階段を下りて行くハンナの耳に奇妙な音が聞こえてきました。

 それはきぃきぃと耳障りな鼠の鳴き声のようなしゃべり声でした。

 恐怖で喉がからからになりながら、ハンナは地下室の扉に耳を押し当て、中の会話を盗み聞きしました。


『きぃきぃ、急げや急げや』とその声は言っていました。

『きぃきぃ、急いで靴を作るのだ。急がないと『灰猫』の奥さまに怒られるぜ。怒った奥さまがわしらをひと飲みにするぞ』

『奥さまが王子さまと結婚するときに履く大事な大事な靴じゃ。じゃけど、奥さまにはもう旦那がいるんじゃろ?』

『そうだ、結婚するには邪魔なコブだ。きぃきぃ。ゼゾッラさまがコブをどうするのか、恐ろしや恐ろしや、とても口に出しては言えぬ』


 ハンナは掃除の疲れも忘れて、階段を駆け上がりました。

 主人が与えてくれた部屋の中に飛び込むと、鍵を閉め、そこで泣き出しました。

 涙が次に次にこみあげましたが、胸の中にあるのは吐き気を催すほどの激怒でした。


 美しい人だと思ったから、主人に相応しい人だと思っていたから我慢してきました。

 ああ、それだと言うのに、あの女はこの世で最も優しく素晴らしい男性を騙しました。

 それどころか、自分が王子と結婚するために、彼を殺めようとしているのです。

 なんという裏切り!

 なんという邪悪!!

 なんという……!!

 

 だが、どうすれば良いのか。

 こんなことを話しても、誰も信じてくれないでしょう。

 それどころか、狂っていると思われ、お屋敷から追い出されるかもしれません。

 そうなったら、一体、誰が可哀相なご主人様をゼゾッラの魔の手から守るのか?


 このとき、善良な普通の女性だったハンナの頭に恐ろしい考えが浮かびました。

 もしばれたら、間違いなく、魔女に八つ裂きにされます。

 しかし、ハンナは少しも躊躇しませんでした。


 愛しいあの人を守ることが出来るのなら、喜んで地獄に落ちるつもりでいました。

 恋が人を変えたのです。愛が人を強くしたのです。

 ハンナの心の中に、一筋の勇気が、火柱のように燃え上がりました。


 ついに絹商人が床に伏せてから七日が経ちました。

 キリスト教の神が世界を作り終えて、休息を取ったと言うその日に、ゼゾッラの魔法の靴はついに完成しました。

 あと一日で千年にわたる苦行に終止符を打ち、その後にロードピスが願ってやまなかった幸福が始まる……そのはずでした。


 ゼゾッラの心に喜びはありませんでした。

 地下室の階段を踏む足取りは重く、骨の中に疲労の鉛が詰まっていました。

 今願ってやまないのは、何もかも忘れて、七日ぶりにたっぷり眠ることだけです。

 大広間を通るときに、亡霊のような顔をしたハンナが立っていました。


「奥さま、お疲れのことと思って、ミルクを入れたお茶を入れておきました。どうぞ、おあがりください」


 この時、もしハンナの顔を見ていたら、

 或いはカップを握る手に走る、かすかな震えに気付いていたら……。

 ゼゾッラは普通の人々が本を読むように、ハンナの心を読み取っていたことでしょう。

 そして魔女は身ぶりか眼差しの一つで、ハンナの体を粉々に砕くか、一筋の煙に変えて吹き飛ばしていたでしょう。


 しかし、ゼゾッラは疲れ過ぎていました。

 連日の魔法もさることながら、夫に毒を盛るたびに、幸せだったころの記憶が、水を吸った海綿のように膨れ上がって、背中に圧しかかるのです。

 罪の意識に溺れて、息がつまり、まともにものを考えることができなくなっていました。


 ゼゾッラはさし出されるままに、お茶を受け取り、一息で飲み干しました。

 そして倒れて、直ちに息を引き取りました。

 続いて、なんと凄まじい衝撃が、屋敷を襲ったことでしょうか。


 屋根の上で黒雲と稲妻があれ狂い、地下室の中で魔法の水晶玉が粉々に砕け散りました。

 魔女に呼び出された魔物たちは、魔法に縛られたまま、力を失いました。

 白馬は白い子鼠に、小人らは黒い子鼠となって壁の穴の中に逃げ込みました。

 魔女たちは大釜を覗いて、星占い師たちは星を見上げ、錬金術師たちはフラスコの中に、大魔法使いの百度目の死を悟りました。

 

 絹商人は病床の中でゼゾッラの死を知り、病をおして妻の葬儀を催しました。

 その嘆き様はたいへんなもので、多くの人は商人が葬儀の席でなくなるのではないかと心配しました。


 ハンナは主人に何も告げませんでした。

 ゼゾッラの恐ろしい企みについて黙ったまま、ただ主人の隣に寄り添い、倒れそうな彼を支えました。

 ときは流れ、男と女は寒空の下で温もりを求めあう人のように、少しずつお互いの距離を縮めて行きました。

 やがて、絹商人は屋敷の中に新しい妻を迎え入れ、ハンナは彼女の太陽をついにその手に掴み取ったのです。


 こうして、一人の女性の勇気と勝利の物語は、ひとまず幕を下ろしました。

 だがしかし、ゼゾッラは?

 果てしない凍てついた砂漠をさまよい、甘い恋の果実を前にして、あと一歩と言うところでまたしても、闇の中に引き戻されたロードピスの魂はどこへいったのでしょうか?




最終話『名もなき小鳥とハシバミの木』




 


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