1:親友の賞味期限
親友というものには、賞味期限があるらしい。
そんなことを、十八歳の春まで私は知らなかった。
だって、佐倉ひよりは死んでいない。
引っ越してもいないし、絶交もしていない。喧嘩すらしていない。今日だって同じ高校の同じ三年二組にいて、昼休みになれば斜め前の席で購買の焼きそばパンを食べている。
「ひよりー! 放課後スタバ寄ろ!」
「行く行く!」
誘ったのは私ではない。
最近ひよりと仲良くなった、同じクラスの高橋美緒だった。
私は自分の弁当から唐揚げを摘みながら、そのやり取りを聞いていた。
もぐ。唐揚げはうまい。
人間関係はまずい。
「…………」
「結衣、どうしたの?」
ひよりがこちらを見る。
「唐揚げがうまい」
「よかったじゃん」
「非常にうまい」
「なんで二回言ったの」
「今の私には唐揚げしかいないから」
「重っ」
ひよりが笑う。
いつもとまったく同じ笑い方だった。
目尻を少し下げて、口を大きく開けて、女の子らしく「ふふっ」と笑うことを人生のかなり早い段階で諦めた豪快な笑顔。
幼稚園の頃から見てきた顔だ。
だから私は、つられて笑った。
「いや、母ちゃんの唐揚げを舐めんなよ。裏切らないから」
「昨日『衣がべちゃべちゃ』って文句言ってなかった?」
「あれは家族だから言える愛の苦言」
「最低の娘じゃん」
美緒まで吹き出した。
私も笑った。
ちゃんと笑えた。
それなのに胸の真ん中に、小さな穴が開いていた。
たぶん最初は、ストロー一本分くらいだったと思う。
でも、その穴は笑うたびに、ほんの少しずつ広がっていた。
笑顔の裏側から、冷たい風が入り込んでくる。
誰にも見えない場所だけが、確実に空っぽになっていく。
*
私――藤崎結衣と佐倉ひよりは、幼稚園からの腐れ縁である。
初対面は砂場だった。
ひよりが作った砂の城を、私が尻で潰した。
事故だった。
少なくとも私は十八年間そう主張している。
『わざとでしょ!』
『ちがうもん!』
『じゃあなんで笑ってるの!』
『おしりの形になったから!』
我ながら最低の四歳児だ。
それから十四年。
小学校も中学校も高校も同じ。
登校も一緒。
下校も一緒。
お互いの家の冷蔵庫を勝手に開けても怒られないし、ひよりの母親には「結衣ちゃん、今日ご飯食べてく?」ではなく「何合炊けばいい?」と聞かれる。
そんな関係が、永遠に続くのだと思っていた。
少なくとも高校を卒業するまでは。
ところが三年生になってクラス替えがあり、ひよりは高橋美緒と仲良くなった。
美緒はいい子だ。
ここが非常に腹立たしい。
嫌な奴なら堂々と嫌えた。
しかし美緒は明るくて気遣いができて、ノートは綺麗で、体育祭では率先して準備を手伝うタイプである。
「結衣ちゃんも行こうよ!」
しかも私も誘ってくる。
やめろ。
私を悪役にさせてくれ。
「今日はいいや。用事あるし」
「そっか。残念」
本気で残念そうな顔をするな。
罪悪感で死ぬ。
「じゃ、また明日ね、結衣」
ひよりが鞄を肩にかける。
「んー。また明日」
いつもの言葉だった。
教室を出ていく二人を見送りながら、私は机に突っ伏した。
「……用事って何?」
後ろから声がした。
顔を上げると、クラスメイトの森田がいた。
「息する」
「壮大だな」
「あと帰宅」
「毎日やってるだろ」
「忙しいんだよ、現代人は」
森田は呆れた顔で帰っていった。
私はもう一度机へ頬をつけた。
窓の向こうでは、四月の夕陽が校庭を橙色に染めている。
たった二人でスタバに行っただけ。
そんなことで傷つくほど、私は子どもではない。
十八歳だ。
選挙権もある。
クレジットカードだって作れる。
なのに。
「……私も行きたかったし」
誰もいなくなった教室で呟いた声は、自分で思っていたよりずっと幼かった。
言葉にした瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
行きたかった。
ひよりと一緒にいたかった。
ただそれだけのことを、私はどうしてこんなにも恥ずかしく、惨めに感じているのだろう。
*
それから、少しずつ知らないことが増えた。
「昨日さ、美緒が――」
昨日?
「この前、美緒と見つけた店が――」
いつ?
「美緒のお兄ちゃんが――」
兄いたんだ。
ひよりの話の中に、私の知らない時間が増えていく。
代わりに、私だけが知っているひよりもたくさんいた。
寝起きは死ぬほど機嫌が悪いこと。
炭酸を飲むと絶対しゃっくりが出ること。
小五まで一人でトイレに行けなかったこと。
中二のバレンタインで好きな先輩に渡せなかったチョコを、泣きながら私と二人で食べたこと。
私はひよりの過去をたくさん持っている。
美緒は、私の知らないひよりの現在を増やしていく。
その事実が、どうしようもなく寂しかった。
まるで、私の手のひらから、ひよりとの時間だけが砂みたいにこぼれ落ちていくようだった。
どれだけ強く握っても、指の隙間から消えていく。
「結衣?」
「ん?」
「聞いてる?」
「聞いてる聞いてる。美緒の寝相がすごかったんでしょ」
「そう! この前泊まったとき――」
「泊まったの?」
思ったより低い声が出た。
ひよりが瞬きをする。
「あ、うん。先週」
「へえ」
先週。
私が家で一人、深夜二時まで謎の海外ドラマを見ていた夜だ。
主人公が突然記憶喪失になって双子の兄と入れ替わるという、とんでもない展開に「脚本家、疲れてんのか?」と一人でツッコんでいた頃、親友は新しい友達とお泊まり会をしていたらしい。
その夜、ひよりは誰と笑って、誰と眠って、どんな話をしたのだろう。
私が知らないひよりの時間が、またひとつ増えていた。
「……楽しそうじゃん」
「楽しかったよ。結衣も今度――」
「私はいい」
少しだけ早く答えすぎた。
ひよりが黙る。
私は慌てて笑った。
「だって私、寝相いいし。参加資格ない」
「何その資格」
「寝相検定二級以上」
「美緒、一級だわ」
「強者じゃん」
二人で笑った。
笑えてしまう。
だから余計に困った。
嫌いになったわけじゃない。
嫌われたわけでもない。
なのに、私たちの間にあった「当たり前」だけが、静かに形を変えていく。
私だけが、その変化に取り残されている。
ひよりは前へ進んでいるのに、私は昔の場所に立ったまま、遠ざかっていく背中を見ている。
*
決定的だったのは、五月の終わりだった。
「結衣、今日一緒に帰れる?」
久しぶりにひよりからそう言われて、心臓が馬鹿みたいに跳ねた。
「いいけど」
平静を装った。
めちゃくちゃ嬉しかった。
自分でも引くほど嬉しかった。
嬉しすぎて、泣きそうになるくらいだった。
放課後、二人で並んで歩く。
高校から駅までの道。
数え切れないほど一緒に歩いた道だ。
「懐かしくない?」
ひよりが言った。
「何が?」
「こうやって二人で帰るの」
その一言で、胸の穴が一気に広がった。
――懐かしいんだ。
私にとっては、まだ昨日までのつもりだったのに、ひよりにとってはもう過去の景色になっていた。
「……そだね」
笑った。
上手に笑えたと思う。
でも、喉の奥がひどく痛かった。
途中のコンビニでアイスを買った。
ひよりは昔から好きないちご味。私はチョコ。
「一口ちょうだい」
「嫌」
「昔くれたじゃん」
「物価高だから」
「お前のアイスの一口に経済情勢関係ある?」
「ある。世界を見ろ、佐倉」
「うぜえ」
ひよりが笑って、強引に私のアイスを一口かじった。
「おい!」
「うま」
「窃盗!」
「親友割引」
親友。
その言葉に、足が止まりそうになった。
胸の奥で、何かがひどく軋んだ。
言うなら今だと思った。
最近寂しい。
美緒と仲良くしているのを見ると嫉妬する。
私の知らないひよりが増えるのが嫌だ。
昔みたいに戻りたい。
でも、そんなことを言ったらひよりを縛ることになる気がした。
私の寂しさを、ひよりに背負わせることになる気がした。
だから、笑うしかなかった。
「……ひより」
「ん?」
「最近、楽しそうじゃん」
「え?」
「美緒と」
ひよりは少し驚いて、それから笑った。
「うん。楽しい」
即答だった。
胸の穴に風が吹いた。
痛かった。
息を吸うたび、冷たい空気が胸の奥まで入り込んで、空っぽの場所を撫でていく。
それでも私は笑った。
「そっか」
「でも結衣といるのも楽しいよ?」
「知ってる。私、面白いから」
「自分で言う?」
「十八年笑わせてきた実績がある」
「半分くらい失笑だけど」
「笑いは笑いだろ」
また二人で笑った。
夕暮れの道に、昔と変わらない笑い声が響いた。
変わっていないように見えた。
だから分かった。
もう戻れないんだと思った。
笑い声は同じなのに、その声を聞く私の心だけが、もう昔のままではいられなかった。
*
駅前で別れるとき、ひよりが手を振った。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
昔なら「明日ね」だった。
たった一文字違うだけなのに、その一文字が私たちの間にできた距離を、残酷なくらいはっきり示していた。
私はその場からしばらく動けなかった。
ひよりは生きている。
明日も学校にいる。
話そうと思えば話せる。
LINEだって送れる。
なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。
どうして、隣にいた人がまだこの世界にいるのに、もう失ってしまったような気がするんだろう。
「……人が生きてるのに、その人を失うことってあるんだ」
呟いた途端、涙が落ちた。
「いや意味分かんないんだけど」
自分で自分にツッコんだ。
「死んでないし。めっちゃ元気だし。今日アイス盗られたし」
涙が次々に落ちる。
「窃盗犯だし……」
笑いながら泣いた。
笑っているのに、胸が痛い。
泣いているのに、ひよりとの思い出が次々に浮かんできて、余計に笑えてしまう。
胸の真ん中には、とんでもなく大きな穴が開いている。
そこから、十四年分の時間が全部こぼれ落ちてしまいそうだった。
これ、どうすればいいんだろう。
埋める?
誰か別の人で?
そんなの嫌だった。
昔に戻る?
それもできない。
「大きく胸に空いた穴は、どうすればいいの」
答える人はいなかった。
駅前を人が行き交う。
私の大事件なんて知らない顔で、世界は普通に夕方から夜へ向かっていた。
誰も立ち止まらない。
誰も私を見ない。
私の中では、今まさに何かが終わったばかりなのに。
スマホが震えた。
ひよりからだった。
『今日ひさびさ二人で帰れて楽しかった!』
メッセージが続く。
『また帰ろ』
私はしばらく画面を見つめた。
涙で文字が滲んだ。
また帰ろ。
その短い言葉に、ひよりがまだ私との時間を捨てていないことが滲んでいた。
それなのに、安心するより先に、また泣きたくなった。
私はしばらく画面を見つめた。
それから涙を拭って送信した。
『アイス代返せ』
すぐに既読がつく。
『そこ?www』
『窃盗は犯罪です』
『親友割引』
『その制度廃止されました』
『じゃあ次おごる』
『ハーゲンダッツ』
『調子乗んな』
笑った。
声が漏れるほど笑った。
でも、胸の穴は塞がらなかった。
笑えば消えると思っていたわけじゃない。
ひよりと話せば、また昔みたいに戻れると思っていたわけでもない。
ただ、戻れないと分かったあとでも、ひよりと笑えることが、嬉しくて、悲しかった。
たぶん塞がなくてもいいのだと思う。
私たちはもう、毎朝一緒に学校へ行く親友ではなくなるかもしれない。
知らない友達が増えて、知らない時間が増えて、いつか月に一度しか連絡しなくなって、そのうち一年に一度になるかもしれない。
それでも十四年間が消えるわけじゃない。
四歳の私が尻で潰した砂の城も、中二で二人して泣きながら食べたチョコも、今日盗られたアイスも、全部そこにある。
きっと胸に空いた穴というのは、失ったものの形をしている。
だから痛いんだ。
大切だったものの形をしているから、簡単には埋まらない。
だったら無理に埋めてしまわなくてもいい。
そこに確かに大切なものがあったと分かるように、しばらく空けておこう。
痛みがあるたび、私は思い出せる。
ひよりと過ごした十四年が、本当に私の中にあったのだと。
スマホがまた震えた。
『明日、朝一緒に行かない?』
「…………」
私は泣き腫らした顔のまま笑った。
明日も、ひよりは私の隣に来てくれる。
でも、それは昔と同じ明日ではない。
そのことが寂しくて、それでも嬉しくて、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
『いいよ』
送ってから、一度消して打ち直す。
『寝坊すんなよ』
すぐ返事が来た。
『そっちがな』
「うるせえ」
誰もいない駅前でスマホに悪態をつき、私は歩き出した。
明日から何かが元通りになるわけじゃない。
美緒はいるし、ひよりには私の知らない世界がこれからもっと増えていく。私にもきっと、ひよりの知らない人や場所が増えていく。
それでいい。
少なくとも、そう思える日がいつか来ればいい。
今はまだ、ひよりが誰かと笑っているだけで胸が痛む。
今はまだ、私の知らない時間が増えるたび、置いていかれたような気がする。
それでも、いつかこの痛みを抱えたまま、ひよりの幸せを心から喜べる日が来るのだろうか。
来てほしい。
来てほしくない。
そんな矛盾を抱えたまま、私は夜道を歩いた。
大きく胸に空いた穴は、今日もそのままだ。
でもその穴の縁には、十四年分のくだらない思い出が、びっしり張りついている。
それを眺めながら生きていくのも、案外悪くない。
いつか痛みが薄れても、穴そのものが消えなくてもいい。
ひよりと過ごした時間が、私の中から消えない証拠なのだから。
――まあ、とりあえず。
明日は絶対、ハーゲンダッツを奢らせようと思う。




