表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第五章 退職届

 村田と話してから、二週間が経った。


 その間、拓海は毎晩転職サイトのアプリを開いた。求人を眺め、条件を見て、閉じる。それを繰り返した。何かに応募したわけではない。ただ眺めた。しかしその行為が、以前とは少し違う意味を持ち始めていた。逃げ場所を探しているのではなく、次の場所を探している、という感覚に。


 そして十四日目の夜、拓海は一枚の書類を書いた。


 退職届、という文字を、便箋の上に書いた。手が少し震えた。書き慣れない文字ではない。ただ、この四文字が持つ重さに、手が正直に反応していた。


 退職の理由の欄に、「一身上の都合により」と書いた。


 本当の理由は、それより長い。納得できないから、という理由だ。今の人生に、今の場所に、今の繰り返しに、腹の底から納得できないから。それは身勝手かもしれない。甘えかもしれない。しかし、それが本当のことだった。


 書き終えて、拓海は便箋を封筒に入れた。


 翌朝、田所班長を呼び止めて、封筒を差し出した。


「お疲れ様でした」と班長は言った。驚いた顔ではなかった。「次、決まってるのか」


「まだです」と拓海は言った。


「そうか」と班長は言った。それだけだった。余計なことを言わない人だった。拓海はその一言に、少し救われた気がした。


 最終出勤日は、三週間後だった。


 その日も、ロッカーの扉を開けるたびに、金属の軋む音がした。


 いつもと同じ音だった。しかし今日は、その音が「また今日も始まる」という合図には聞こえなかった。「もうすぐ終わる」という音に聞こえた。同じ音が、こんなにも違って聞こえるものか、と拓海は思った。


 最後のラインは、いつもと変わらなかった。搬送アームが往復し、モニターの数値が更新され、クリーンルームの乾いた空気が鼻の奥に刺さった。ただそれを「また明日も」という目で見るのではなく、「これが最後だ」という目で見ていた。そう思うと、機械の動きも、空気の匂いも、少しだけ違って見えた。嫌いだったはずの景色が、最後の日には妙に鮮明だった。


 昼休憩、村田が隣に座った。


「今日で最後か」


「ああ」


 しばらく二人で黙って弁当を食べた。窓の外の四角い空は、今日も青かった。


「次、どうするんだ」と村田が聞いた。


「わからん」と拓海は言った。「まだ何も決まってない。ただ、ここじゃないところに行く」


 村田は小さく頷いた。


「そうか」


「お前は、ここにいるのか」


「しばらくはな」と村田は言った。「俺には猫がいるから」


 それだけで二人には十分だった。


 退勤のとき、拓海は更衣室でロッカーの中を空にした。作業手袋、安全靴、使い古したヘルメット。それらを所定の場所に返却して、私物だけを袋に入れた。袋は小さかった。一年間いた場所を離れるのに、手荷物はこれだけかと思った。


 工場の出口を出たとき、外の空気が肺に入った。


 冷たかった。しかし工場の中の乾いた空気とは違う冷たさだった。風が頬に当たった。空を見上げると、夕方の薄い橙色が広がっていた。工場の屋根越しではなく、遮るものなく、空全体が見えた。


 私は何をしているのだろう。


 その問いが、またやってきた。


 しかし今日の問いは、以前とは違う色をしていた。責める声でも、嘆く声でもなかった。純粋な問いだった。本当に純粋な、これからのことを問う声だった。


 答えはまだない。行く先も、やりたいことも、まだはっきりしない。自分の生まれ持ったもので、どう生きるか。その問いへの答えは、まだ出ていない。しかし、その問いに向き合う場所が、ここではないとだけは、今日ようやくはっきりした。


 今の人生に納得していない。


 それは変わらない。しかし「納得していない」という感覚を持ったまま動き出すことが、今日の自分にはできた。それで十分だと思った。納得してから動くのではなく、納得を探しながら動く。そういう生き方もあるのかもしれない。


 拓海は鞄を肩にかけ直して、駅へと向かって歩き始めた。


 夕風が、背中を押すように吹いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ