第五章 退職届
村田と話してから、二週間が経った。
その間、拓海は毎晩転職サイトのアプリを開いた。求人を眺め、条件を見て、閉じる。それを繰り返した。何かに応募したわけではない。ただ眺めた。しかしその行為が、以前とは少し違う意味を持ち始めていた。逃げ場所を探しているのではなく、次の場所を探している、という感覚に。
そして十四日目の夜、拓海は一枚の書類を書いた。
退職届、という文字を、便箋の上に書いた。手が少し震えた。書き慣れない文字ではない。ただ、この四文字が持つ重さに、手が正直に反応していた。
退職の理由の欄に、「一身上の都合により」と書いた。
本当の理由は、それより長い。納得できないから、という理由だ。今の人生に、今の場所に、今の繰り返しに、腹の底から納得できないから。それは身勝手かもしれない。甘えかもしれない。しかし、それが本当のことだった。
書き終えて、拓海は便箋を封筒に入れた。
翌朝、田所班長を呼び止めて、封筒を差し出した。
「お疲れ様でした」と班長は言った。驚いた顔ではなかった。「次、決まってるのか」
「まだです」と拓海は言った。
「そうか」と班長は言った。それだけだった。余計なことを言わない人だった。拓海はその一言に、少し救われた気がした。
最終出勤日は、三週間後だった。
その日も、ロッカーの扉を開けるたびに、金属の軋む音がした。
いつもと同じ音だった。しかし今日は、その音が「また今日も始まる」という合図には聞こえなかった。「もうすぐ終わる」という音に聞こえた。同じ音が、こんなにも違って聞こえるものか、と拓海は思った。
最後のラインは、いつもと変わらなかった。搬送アームが往復し、モニターの数値が更新され、クリーンルームの乾いた空気が鼻の奥に刺さった。ただそれを「また明日も」という目で見るのではなく、「これが最後だ」という目で見ていた。そう思うと、機械の動きも、空気の匂いも、少しだけ違って見えた。嫌いだったはずの景色が、最後の日には妙に鮮明だった。
昼休憩、村田が隣に座った。
「今日で最後か」
「ああ」
しばらく二人で黙って弁当を食べた。窓の外の四角い空は、今日も青かった。
「次、どうするんだ」と村田が聞いた。
「わからん」と拓海は言った。「まだ何も決まってない。ただ、ここじゃないところに行く」
村田は小さく頷いた。
「そうか」
「お前は、ここにいるのか」
「しばらくはな」と村田は言った。「俺には猫がいるから」
それだけで二人には十分だった。
退勤のとき、拓海は更衣室でロッカーの中を空にした。作業手袋、安全靴、使い古したヘルメット。それらを所定の場所に返却して、私物だけを袋に入れた。袋は小さかった。一年間いた場所を離れるのに、手荷物はこれだけかと思った。
工場の出口を出たとき、外の空気が肺に入った。
冷たかった。しかし工場の中の乾いた空気とは違う冷たさだった。風が頬に当たった。空を見上げると、夕方の薄い橙色が広がっていた。工場の屋根越しではなく、遮るものなく、空全体が見えた。
私は何をしているのだろう。
その問いが、またやってきた。
しかし今日の問いは、以前とは違う色をしていた。責める声でも、嘆く声でもなかった。純粋な問いだった。本当に純粋な、これからのことを問う声だった。
答えはまだない。行く先も、やりたいことも、まだはっきりしない。自分の生まれ持ったもので、どう生きるか。その問いへの答えは、まだ出ていない。しかし、その問いに向き合う場所が、ここではないとだけは、今日ようやくはっきりした。
今の人生に納得していない。
それは変わらない。しかし「納得していない」という感覚を持ったまま動き出すことが、今日の自分にはできた。それで十分だと思った。納得してから動くのではなく、納得を探しながら動く。そういう生き方もあるのかもしれない。
拓海は鞄を肩にかけ直して、駅へと向かって歩き始めた。
夕風が、背中を押すように吹いた。




