第八九話 癒しの湯と目覚めの丼
一行は、散々な目に遭いながらも、何とか、安曇野の街へと、たどり着いた。
到着したのは、日が西に傾きかけた、夕方。
街に入った時から、龍也は何となく、鼻腔をくすぐるような、わさびの微かな香りに、気づいていた。
あくまで”何となく”である。多分先入観。
門番に、一番近い、安い宿の場所を教えてもらうと、重い足取りで、そこへと向かった。
部屋に荷物を下ろし、まずは、一息。
道中での、ゆうこの薬草採取による、汚れと疲労を癒すため、風呂に入ろう、ということになった。
すると、じんたが、目を輝かせながら、宿の店主に、何かを、聞きに行っている。
しばらくして、戻ってきたじんたが、興奮気味に、報告した。
「タツヤ!この宿場に、いい風呂があるって、店主が、教えてくれたど!」
聞けば、街の奥には、「しゃくなげの湯」と名付けられた、源泉掛け流しの、温泉があるという。
一行は、早速その、しゃくなげの湯へと、向かった。
その泉質は、アルカリ性単純温泉(アルカリ性低張性高温泉)。
効能書きが、ずらりと、並んでいる。
一般的な適応症として、筋肉や関節の慢性的な痛み、運動麻痺、冷え性、末梢循環障害、胃腸機能の低下、軽症高血圧、耐糖能異常(糖尿病)、軽い喘息や肺気腫、痔の痛み、自律神経不安定症、ストレスによる諸症状(睡眠障害、うつ状態など)、病後回復期、疲労回復、健康増進。
さらに、泉質別の適応症として、自律神経不安定症、不眠症、うつ状態、と書かれている。
「……こりゃ、最高じゃわい!」
ゆうこが、その、効能書きに、目を、輝かせている。
「わしらには、ぴったりの湯じゃのう!」
その言葉に、皆思わず、苦笑いを、浮かべた。
湯に浸かる。
肌を撫でる、トロリとした、柔らかい湯の感触。身体の芯まで、じんわりと、温まっていく。
道中での、汚れも疲労も、そして、心に残る、わずかな不安も、全て、湯の中に溶けていくようだ。
じんたは、目を閉じて、露天風呂の、夜空を、見上げている。
シンジは、黙々と肩を、揉みほぐしている。
かすみは、湯船の縁に、顎を乗せ、うっとりとしている。
レンは、温かい湯に、過去の全てを、洗い流すかのように、深く浸かっていた。
龍也も、目を閉じ、その極上の湯に、心から癒されていた。
湯から上がり、宿の食堂で、夕食を済ませた。
皆、口数も少なく、ただ黙々と、食事を、平らげる。
しかし、その表情は、どこか、晴れやかだった。
その夜は、誰もが、すぐに、深い、眠りについた。
翌朝。
日課の最中に、宿の主人が、声をかけてきた。
「精が出ますねえ」「おはようございます」「……皆さんは、どちらへ、向かわれるので?」
「……実は、秋田まで、行こうかと、思ってましてね」
「秋田!それは、また、遠いですなあ」
「……まあ、ゆっくり、行きますので、いつ着くことやらです」
「……このまま、山沿いに、行きなさるか?それとも、海沿いに、行きなさるか?」
主人の、その問いに、興味を示した。
「何か、違いがあるんですか?」
「ええ。海沿いなら、ちいと、遠いですが、山道が、途中で、終わりますので、歩くには、多少、良いかと。山沿いの場合は、距離は、短いですが、その分、ずーっと、山道で、険しい所も、ありますからな」
「なるほど。参考にさせていただきます。ありがとうございます」
(……これは、考えなくてはな。多分、距離が短くても、険しい山道は・・・)
「……何、神妙な顔、しとんじゃ」
「ああ。……いい朝だな、あっち、行ってみないか」と、誘った。
街の外れに、広がる、川沿いの畑。そこには、稲や野菜とは全く違う、独特の方法で、作られている、畑があった。ワサビ畑だ。
朝早くから、畑で作業している、女性の姿を見つけると、料理人の血が、声をかけた。
「おはよございます!」
やはり、ワサビ作りには、水が何よりも、大事だという。
ここの、水でなければ、また、味が、変わってしまうのだ、と。
龍也の、熱心さに、女性は、ワサビを、少し味見させてくれた。
サメ皮の、おろし器で、丁寧に、下ろされた。
まず、なんとも言えない、清々しい香りが、頭の、てっぺんまで、伝わってくる。
指で、そっと、舐めてみると、ほんのりと、ツンとくる、優しい辛味が、口から、鼻へと、心地よく、刺激する。
「……ほんが〜!……なんとも、言えん香じゃな〜!」
両目を大きく見開き、不思議な擬音と共に、満面の笑顔で呟いた。
去り際に、女性は、「あそこの、お蕎麦屋で、うちのワサビが、食べられるよ」と、教えてくれた。
「絶対、行くけえね!」
声を弾ませて言った。
宿に戻り、早速、テーブルに、地図を広げ、進路についての、相談を始めた。
一行の、新たな旅路を、左右する、重要な選択が、今、彼らに委ねられた。
「さて。秋田へのルートだが。……山沿いを進むか、海沿いを進むか、どちらかだ」
そう切り出すと、皆、真剣な顔で、地図を覗き込む。
「山沿いは、距離は短い。だが、険しい山道が続く。海沿いは、遠回りになるが、山道が途中で、終わる。体力的な負担は、少ないだろう」
その、説明を、聞き終えると、真っ先に、口を開いたのは、じんただった。
「おら!おらは、海沿いが、いいべ!」
彼は、地図の、日本海側を、指さし、目を輝かせている。
「なんで、また、海なんじゃ?」
「だって、海沿いには、でっけえ、市場とか、港町とか、あるだろ!きっと、そこで、美味い魚が、いっぺえ、食えるんだべ!それに、海なら、泳げるべ!タツヤ、おら、泳ぎ、得意だど!」
あまりにも、食い気と遊び心に満ちた動機に、皆、呆れるしかなかった。
次に、かすみが、手を挙げた。
「……私は、山沿いが、良いと思います」
その、意外な意見に、皆が驚く。
「なんで、かすみ、山なんだべ?」
「……あの……。山には、きっと、珍しい薬草が、たくさん、生えていると思います。……山には、まだ、未知の植物が、たくさん眠っているかもしれません。……魔法使いとしては、そういう、新しい発見が、とても魅力的なんです」
やはり、彼女は、真面目な、探求者だ。
「……俺は、山沿いが、いい」
シンジが、静かに、口を開いた。
「……険しい山道は、身体を、鍛えるには最適だ。……それに、山には、危険な魔物が多い。実戦経験を積むには、これ以上の場所はない」
彼の、関心は、常に、己の肉体の、強化にあった。
そして、レン。
彼は、地図の、山沿いを、じっと見つめていた。
「……僕も、山沿いを推します。……山育ちなので、地形の把握もしやすい。……それにもし、木が必要な場所があれば、僕が、手伝えるかもしれません」
彼の言葉には、木こりの息子としての誇りと、そして、仲間への、貢献意欲が、見て取れた。
四者四様の、意見。
そして、最後に、龍也の、隣で、腕を組み、黙って、話を聞いていた、ゆうこが、口を開いた。
「……わしは、どっちでも、ええわい。みんなが、どっちを選ぼうと、わしは、文句言わん」
その、あまりにも、投げやりな、態度に、皆が、驚いた。
「……じゃがな」
「……もし、山で、足滑らして、谷底に落ちたり、海で、溺れたりしたら、わしが助けちゃる……じゃから、安心せぇ……タツヤが、どっちかに、決めるなら…………わしは、喜んで、ついていくわい」
その、最後の一言は、龍也に、決定権を委ねる、彼女なりの、信頼の表現だった。
龍也は、苦笑いを、浮かべた。
六人六様。
食い気と遊び心。探求心。肉体強化への、飽くなき探求。仲間への貢献。そして、リーダーへの信頼。
龍也は、この、個性豊かな、意見を、一つ一つ、丁寧に、聞いていく。
そして、彼らの、旅の舵を、どちらに取るのか。
その、重大な決断が、今、龍也に委ねられた。
腕を組み、皆の顔を、見渡した。
「……よし。……では、山沿いに、決定だ」
その、一言に、山沿いを、推していた、シンジ、かすみ、レンは、静かに、頷いた。
「ええ〜!?」
じんたが、不満げな、声を、上げた。
「なんで山さ行ぐんだよ!海さ、うめぇ魚いっぺぇあるべ!」
「黙りんさい、このシーフが!多数決じゃろうが!」
ゆうこが、じんたの、頭を軽く、はたいた。
「多数決だげが全てだなんて、そんなことあっかよ。おらの気持ぢ、どごさいぐんだ!」
その、二人の、いつものやり取りに、皆が苦笑いを、浮かべる。
「まあ、そう、拗ねるな、じんた」
龍也が、笑いながら言う。
「山には、山でしか味わえない、美味いものが、たくさんあるぞ。……それに海沿いは、また別の機会に、行けばいい」
「……へいへい」
じんたは、不貞腐れた、顔で、腕を組み、ぶつぶつと、文句を、言っている。
「……じゃあ、腹ごしらえに、蕎麦屋でも、行くか」
その言葉に、じんたの、顔がパッと、明るくなった。
「蕎麦!いいべ!タツヤ、あの美味い蕎麦、食えるんだべな!」
現金な、やつである。
一行は、ワサビ園の女性に教えてもらった、街の奥にある、手打ち蕎麦屋へと、向かった。
店の引き戸を、ガラガラ、と開けると、香ばしい、蕎麦の香りが、ふわりと漂ってくる。
席に着き、メニューを、開く。
「……せっかくだから、好きなもの、食べよう。……何か、食べたいもの、あるか?」
「おらは、天ぷら蕎麦が、いいべ!でっかい、エビ天、乗ってるやつだ!」
「わしは、鴨南蛮蕎麦じゃのう。……身体が、温まるじゃろうし」
「……私は、とろろ蕎麦が、良いです」
「……俺は、ざる蕎麦で、いい」
「……僕は、温かい、かけ蕎麦で」
レンも、それに、続く。
「……よし。決まったな。……じゃあ・・・」と言いかけて、じんたが、
「まで!これなんだべ」メニューを見せた。
[当店特製『わさび丼』](あそこのわさびのどんぶりかぁ、ちょっと興味あるな……!)
「ここを教えてくれた、ワサビ園のワサビなんだ、食べてみないか?どうする?」
皆「う~ん」と悩んでる、「辞めとくか?」
「「「「「いや、食べる!」」」」」
こういう、団結力はいい。
「あ、わたし、半分くらいで、いいです」
かすみはおっとりしてるが、主張する時はしっかり、言える。
「ほんなら、うちと半分こせん?」
「はい、ありがとうございます!」
注文して、各々食べる。
そして、問題のわさび丼。
それは、真っ白な、炊きたてご飯の上に、白く薄緑色の、美しいワサビが、こんもりと乗せられている。鰹節と醤油で、シンプルに調味されてる。
「ッふ!ふがぁっ!…こりゃ、喉と鼻に、すんげえ来るべ!」
じんたは、思わずむせ込み、涙目になっている。
「うわあ!でもこの、鼻に抜ける、清々しい香りが、なんだか、こう、シーフの勘を、研ぎ澄ませる気がするべ!夜道も、暗闇も、怖くねえ!むしろ、もっと、行きてえ!……」
涙を流しながらも、彼の、シーフとしての、感覚が、研ぎ澄まされている、らしい。
「……んぐっ!……ぶち鼻に直撃じゃわい!」
しかし、すぐに、彼女の表情が変わった。
「……じゃがな、この辛さの奥にある、爽やかな香りと旨味が、たまらんのう! これはまるで、患者の心の奥に潜む病の根源を、ズバッ!と突き止める、わしの医療の感覚に似とるわい! ……ふふっ、このワサビ、もっと知りたいのう。薬草としても、何か使えるかもしれん!」
彼女の、医者としての、探究心。
そんな二人の、あまりにも、個性的な感想に、思わず笑みをこぼした。
ワサビ丼は、ただの、料理ではない。
彼らの、五感を刺激し、それぞれの心に、新たなひらめきを与えてくれる、不思議な一品だった。
蕎麦屋での、食事を終え、宿に戻ると、今後の、旅路について、最終的な、確認を行った。
「山ルートに決定したから、次の宿場町は『長野』だ」
龍也が、地図を、指さしながら、告げる。
「長野か。……そこは、中都市です。ここを過ぎると、しばらくは、小さな町しか、ないはずなので、補給や買い物は、ここで準備したほうが、いいですよ」
レンが情報を教えてくれた。
「流石、地元じゃな」「ありがとう、レン」「すごいですぅ〜」
長野までは、ここから、約十時間の、道のりだ。
「……途中、ゆうこや、かすみの、薬草採取などで、寄り道するかもしれないから、明日は、早く出発しよう」
龍也の、言葉に皆が、力強く頷いた。
その夜は、ぐっすりと、眠りについた。
翌朝、夜明け前の、暗い中を、出発した。