第八八話 誰かの楽しみは、時として、誰かの災いである
松本を後にし、一行は、安曇野へと、向かっていた。
ここから、安曇野までは、約二時間の、道のりだ。
半分位来た時、ゆうこだが、ふと、道の脇に目を向けた。
「……ん?……なんか、ええ感じじゃ!」
彼女の医者としての、そして、薬師としての、本能が、何かに強く、引きつけられたのだ。
「ちょっと、見てくるわい」
そう言い残すと、一人、鬱蒼とした森の奥へと、ずんずんと入っていった。
「はあ。仕方ないな。追いかけるぞ!」
龍也はため息をつきながらもその後を追う。
そしてその後に皆続く。
「あんなとこさ、なんしに行っただ?」と呆れている。
彼女が足を踏み入れたのは、湿気を帯びた、苔むした、岩場が続く、薄暗い場所だった。
足元は、腐葉土が厚く積もり、踏みしめるたびに、じゅぷり、と、不快な音がする。
(……こんなところに、何か、珍しい薬草が……)
彼女の目は、地面に、這うように、生えている、草木を、一つ一つ、見逃すまいと、必死に、探していた。
しばらく進むと、彼女の視界の隅で、何かが淡く、光っているのが見えた。
まるで、宝を見つけた子供のように、胸を高鳴らせながら、その光の元へと、近づいていく。
そして、そこに、あったのは。
岩のひっそりとした窪みに、ひっそりと生えている、一本の小さな草だった。
その葉は、深い藍色。しかし、その葉の淵は、まるで、夜空に輝く星のように、キラキラと淡く発光していた。
(……これは……!図鑑にも、載っとらん……!こんな、不思議な薬草は、見たことが、ないわい!)
ゆうこは、震える手で、その草を、そっと摘み取った。
その葉を、一枚丁寧に、千切り、匂いを嗅ぐ。
(……甘い……しかし、どこか人を、惹きつけるような、不思議で奥深い匂いじゃ……そして、微かに感じる、この温かい、魔力の波長……)
その、薬草が持つ、未知の可能性。
脳裏には、様々な想像が、駆け巡った。
(……これは、心を落ち着かせる、鎮静作用があるんじゃろうか?……それとも、幻覚を打ち消す、解毒剤になるんじゃろうか?……いや、もしかしたら、もっとすごい、力が隠されとるかもしれん……)
彼女の、心臓は高鳴り、全身の細胞が、歓喜しているのが分かる。
その薬草を、採取しながらも、ゆうこの頭の中には、ふと、龍也の顔がよぎる。
豆腐屋の揚げを、鳶に盗られた時の、少し情けない、しかし、どこか愛らしい顔。
あの、夜、耳元で、囁いてくれた「いい女だな」という言葉。
(……朴念仁のくせに…………ああいうこと、言うのは、ほんまに、ずるいわい……)
彼女の頬が、ほんのりと、赤く染まる。
(……早くこの薬草を調べて、もっとすごい薬を作って、あの朴念仁を、驚かせちゃるわい!)
そんな、恋する乙女のような、思いと、医者としての、飽くなき探究心が、深く入り混じった、薬草探しはまだ続く。
後を追ってきた、一行は、ゆうこを見失い、皆、バラバラに、探し始めた。
【かすみの災難】
後を追って草をかき分けながら進んできた、かすみの周りを、
ブーン、という羽音と共に、蚊の大群が、大量に渦を巻きながら襲ってきた。
「きゃーっ!」
思わず、可愛らしい悲鳴を上げたが、もう、避けることができない。
その瞬間。
ボッ!
かすみの、目の前で、小さな炎が、弾け飛んだ。
その炎は、まるで意志を持つかのように、蚊の大群を、一瞬にして、焼き尽くした。
「大丈夫か、かすみ。……気ぃつけんさいね」
ゆうこが、離れた場所に、立っていた。彼女の手には、まだ、炎の残滓が、微かに、揺らめく杖が握られている。
「もう、帰りたいですぅ~」
と、半ベソかいてる。やっと、追い付いたレンが、ちょっと悔しそうだった。
【じんたの災難】
足を踏み入れたのは、泥と枯れ葉で覆われた、ぬかるんだ窪地だった。
「うわあ!最悪だべ!」
その窪地には、魔物の罠が、仕掛けられていたのだ。彼の足は、粘着質の泥に絡め取られ、身動きが取れない。そしてその泥の中から、無数の、ヒル型の魔物が、飛び出し、彼の身体にびっしりと、貼り付いてきたのだ。
「ひぃぃぃ!痒い!気持ち悪いべー!」
じんたの絶叫が森に響き渡る。
龍也たちが駆けつけた時には、彼の身体はヒルまみれで、半泣き状態だった。
【シンジの災難】
最後に一行が、たどり着いたのは、霧が深く立ち込める、不気味な沼地だった。
その沼の中から、ブクブクと泡が湧き上がり、巨大な人型の影が現れた。
それは、腐敗した泥と植物の塊でできた、醜悪な魔物「マルグロス」だった。
「来るぞ!」
シンジが鉄鈎を構え前に出る。マルグロスはその、巨大な腕を振り上げ、シンジに襲いかかった。
シンジはそれをかわし、カウンターを叩き込む。
しかしその泥の身体は、攻撃を吸収し、全くダメージを、与えられない。
そしてマルグロスが、その身体から放つ不快な粘液が、シンジの鉄鈎に付着する。
その粘液は、触れた金属を、急速に腐食させる、強力な酸性だったのだ。
「……くそっ!このままでは武器が使い物にならなくなる!」
シンジの顔に焦りの色が浮かぶ。
「アイスアロー!」
かすみの声が木霊する、マルグロスの全身が凍った、そこに、
「城砕閃!」
レンの新技、一撃必殺が粉々に砕け散った。
龍也たちが、来た時には、全てが、終わていた。
「おお、待たしたのう。どうしたんじゃ?シンジ、泣きそうな顔しとるじゃん。」
「「「もう、ここは、いやだ!」」」
「どうしたんじゃ?一体???」
「もう、いくぞ」
龍也が言った。
ゆうこの楽しい一時は、他の者には地獄でしかなかった。
木漏れ日が照らす、昼下がり、安曇野はすぐ、そこである。