第七九話 新章 木霊の谷と、鞘に眠る誓い編 その一
水上温泉郷を、後にした、一行。
その足は、一路西へ。レンの故郷である「長野」を目指していた。
しかし、その旅路は、初手から大きな、壁にぶち当たっていた。
「……長野、広いべ……」
地図を広げながら、じんたが、途方に暮れたように呟く。
水上から、長野の県境までは、なんとか行けるだろう。しかし、問題はその先だ。
手がかりは「山育ちの、木こりの息子」
そんな、曖昧な情報だけで、広大な山々に囲まれた、長野の地で、一人の青年を、探し出すことなど、できるわけがないであろう。
「……まあ、とりあえず、進むしか、ないだろう」
龍也が、皆を促す。
「次の、宿場町は『中之条』だ。まずは、そこで、何か、情報を、集めてみよう」
目的は、定まった。
一行は、気持ちを切り替え、新たな旅路へと、足を踏み出した。
水上から、中之条までの道のりは、これまでとは、また、趣が違っていた。
鬱蒼とした森。険しい山道。そして、時折現れる、深い渓谷。
まさに、山国といった様相だ。
出現する、魔物も、猪や熊といった獣系の、魔物が多くなってきた。
その、どれもが、屈強でタフだったが、もはや今の、一行の敵ではない。
山道を、歩き始めて、一時間ほどが、経っただろうか。
緩やかな、しかし、延々と続く上り坂に、皆が少しずつ、疲労を感じ始めていた、その時だった。
ヒュンッ!
鋭い風切り音と共に、木々の上から、何かが猛スピードで、滑空してきた。
それは、一見ウサギのようだった。しかしその、異様に大きく発達した耳は、翼の役割を果たしており、まるで、ムササビのように、巧みに風を捉え、一行に襲いかかってきたのだ。
「上だ!」
シンジの、警告が飛ぶ。
その魔物「ラビノクターン」は、一体だけではなかった。
次から次へと、木々の梢から現れ、その数は瞬く間に、十数体に膨れ上がった。
そして、ラビノクターンたちが、一斉に、甲高い鳴き声を上げた。
「キィィィィィィィィ!」
それは、ただの鳴き声ではない。鼓膜を突き破り、脳髄を直接、揺さぶるような、不快な超音波だった。
「ぐっ……!」
龍也とじんたが、思わず、耳を塞ぐ。
そして、その、超音波を、まともに浴びてしまった、シンジの、目つきが変わった。
その、瞳から、理性の光が消え、虚ろな殺意だけが、宿っている。
混乱。
「シンジ!」
龍也が叫ぶ。混乱したシンジは、その、矛先を、最も近くにいた、じんたへと向けた。
「うわっ!シンジ!おらだ、おらだべ!」
シンジの鉄鈎が、容赦なくじんたに襲いかかる。じんたはその攻撃を、半泣きで必死に、かわすことしかできない。
「かすみ!」
「は、はい!」
かすみが、杖を構え、混乱を解くための、精神魔法を、唱えようとした、その時だった。
一体の、ラビノクターンが、ゆうこを、狙い急降下してきた。
「しまっ……!」
龍也は咄嗟に、ゆうこを突き飛ばし、その攻撃を自らの、背中で受け止めた。
鋭い爪が、龍也の背中を、深く切り裂く。
その、龍也の負傷を、見たゆうこ。
彼女の中で何かが、切り替わる音がした。
まず、動いたのは医者としての、冷静な彼女だった。
彼女は、懐から混乱治癒薬の、小瓶を取り出すと暴れるシンジの、元へと、躊躇なく駆け寄った。
「シンジ!しっかりせんかい!」
その、気迫に一瞬、シンジの動きが怯む。その隙に彼女は、シンジの口に無理やり、薬を流し込んだ。
そして、すぐさま踵を返す。
次は龍也だ。
ラビノクターンに、襲われそうになった自分を庇い、その背中には、三本の深い、爪痕が刻まれている。
血が滲み、そのシャツを、赤黒く染めていた。
その、光景を見た瞬間。
(……タツヤ……!)
彼女は、龍也の元へと、駆け寄ると震える手で、その背中に触れた。
「……アホが……。……なんで、わしなんぞ、庇うたんじゃ……」
その声は、怒っているようで、しかしどこか、泣いているようにも聞こえた。
彼女は、その背中に、そっと、手を、かざす。
「ヒーリング・タッチ」
温かい、緑色の光が溢れ出し、深い傷を癒していく。
しかし、その光はいつもより、少しだけ揺らいでいた。それは、彼女の心の、揺らぎそのものだった。
医者として、仲間を治療する。
そして、女として愛する男の、痛みを感じる。
その二つの感情の狭間で、彼女はただ必死に、祈るようにその手に、力を込めるのだった。
(……絶対に、死なせん……。……あんただけは、絶対に……)
その強い想いが光となり、龍也の、傷ついた身体を、そして、彼の心までも、優しく包み込んでいった。
その、一連の、動きを見ていたかすみ。
彼女の、心は決まっていた。
(……私が、やらなきゃ……!)
彼女が、唱えたのは、攻撃魔法ではない。
「レントゥス!」
それは、相手の動きを、強制的に鈍らせる、精神魔法。
その、魔法を受けた、ラビノクターンたちの、滑空速度が明らかに落ちる。
その、好機を我に返った、シンジが見逃さない。
「……すまん。……借り、は、返す!」
彼は、そう呟くと、動きが鈍くなった、ラビノクターンたちの中へと、単身突っ込んでいった。
そして、放たれる、必殺の二連撃「双牙」
一体、また、一体と、ラビノクターンが、血の雨となって、地に落ちていく。
ものの、数分であれほどいた、魔物の群れは、完全に沈黙していた。
一行は、息を、弾ませながら、互いの、無事を確認する。
またしても、苦戦を、強いられた。
しかし、この戦いは、かすみに、新たな、可能性を、示してくれていた。
直接的な、攻撃だけが、魔法使いの、役割ではない。
仲間を、サポートし、勝利へと、導く。
その、重要な、役割を、彼女は、この、戦いの中で、確かに、見出したのだった。
しかし、龍也の心の中には、一つの、小さな不安があった。
(……本当に、見つかるのだろうか)
レンは、なぜ、頑なに、仲間になることを、拒んだのか。
そして、なぜ、何も言わずに、一人、故郷へと、帰ってしまったのか。
その、答えを、見つけるために。
そして、新たな、仲間を、迎え入れるために。
一行は、ただ、ひたすらに、西へ、西へと、歩き続ける。
地図を見る限り、もう、あと少しで、中之条の、街が見えてくるはずだった。
一行が、少しだけ、安堵の、息をつき始めた、その、瞬間だった。
前方の、森の中から、パチパチと、木が、爆ぜるような音が、聞こえてきた。
そして、次の瞬間、一体の、美しい、しかし、異様な、魔物が姿を現した。
それは、神々しいほどの、大きさを持つ、一頭の鹿だった。
しかし、その、雄々しく枝分かれした角は、まるで、松明のように灼熱の炎をまとっている。
「……なんだ、ありゃ……」
龍也が息を飲む。
その魔物「イグニディア」は、一行を認識すると、フン、と、鼻から熱い息を吐き出した。
「来るぞ!」
シンジが叫んだ。
イグニディアは、その、炎をまとった巨大な角を、まっすぐにこちらへ向け、猛烈な勢いで突進してきた。
「アイスウォール!」
かすみが咄嗟に、氷の壁を作り出す。
しかし、イグニディアは、その速度を、一切、緩めない。
ゴッ!という、鈍い音と共に、氷の壁はまるで、ガラスのように砕け散った。
「くそっ!」
シンジが、その、突進を横へ、飛びのきかわす。
イグニディアが走り去った、その、足跡は地面で、メラメラと燃え上がっていた。
これでは迂闊に、追撃することもできない。
「回り込むぞ!」
龍也の指示で、一行は散開する。
「アイスアロー!」
かすみの、氷の矢がイグニディアの、胴体に命中する。
「グオオオオォ!」
イグニディアは、苦悶の声を上げ、その身を震わせた。
しかし、その、身体を覆う、炎の勢いが、明らかに増している。
ダメージを、受けるほど怒り、その、炎の強さが、増していく「狂奔モード」だ。
「面倒な、特性じゃのう!……あの炎、なんとかならんのか!」
ゆうこが、舌打ちをしながら、水晶の杖を構えた「ヴォルト」で、無理やり、動きを止めようとした、その時だった。
彼女の、懐で、あの不思議な石が、まるで呼応するかのように、まばゆい白い光を、放ち始めた。
その光は、ゆうこの、全身を、包み込んでいく。
「……なんじゃ、これは……!」
彼女は、無意識のうちに、杖を、天へと掲げていた。
そして、その口から、自分でも、知らないはずの、呪文が、紡ぎ出される。
「グレイシャルロック!」
放たれたのは、雷ではない。
絶対零度の、冷気を帯びた、白い波動。
その波動が、イグニディアを、包み込んだ瞬間。
あれほど、激しく、燃え盛っていた角の炎が、まるで、時が止まったかのように、その場で凍りついたのだ。
炎の形をした、美しい氷のオブジェ。
炎の力を失った、イグニディア。
その、動きが、一瞬止まった、その隙を、かすみは見逃さなかった。
「レントゥス!」
動きを鈍らせる魔法が、イグニディアの動きを、さらに封じ込める。
そして、その、無防備な頭頂部へと、シンジの、渾身二連撃が、叩き込まれた。
「双牙」
イグニディアの、巨体は、その場で崩れ落ち、その、角を覆っていた、氷の炎は音もなく砕け散った。
一行は、息を弾ませながら、その巨体を見下ろす。
それは、ゆうこの未知なる力と、仲間たちの完璧な連携が、もたらした、圧巻の勝利だった。
中之条の街は、もう、目と鼻の先だ。