第七七話 温泉郷の詩編 その三一
二日目の、朝。
あれだけ、浴びるように、飲んだというのに、龍也の目は、夜明けと共に覚めてしまう。
もはや、悲しい性だった。
彼は、そっと、布団を抜け出し、日課の太極拳を始める。
さすがに、温泉郷の、朝は早い。
何人かの年寄りが、すでに、起きてきて、龍也のその、奇妙な体操を、興味深そうに眺めている。
「……いやはや、昨夜は、すごかったのう」
一人の、爺さんが、声をかけてきた。
「……ははは。……すみません。うちのが、大暴れしまして」、頭をかく。
「いやいや。あの方は、実に、豪快で、気持ちのいい、お人じゃったわい」
「……いつものことでして……。はい、本当に、すいません」
その、龍也の、背後から、不意に声がした。
「……何、朝っぱらから、ぺこぺこ、謝っとんじゃ」
どきっ、として振り返ると、そこにはまだ、少し酔いが残っているのか、だるそうな、しかも、どこか不機嫌そうな、ゆうこが立っていた。
(……昨日の、あの、神々しい、賢者の姿は、やっぱり、幻覚だったんだな……)
龍也が、心の中で、そう、思った、まさにその時だった。
「……何、あきれた感じで、人様の顔、見とんじゃ」
ゆうこが、じろり、と、龍也を睨む。
(……賢者じゃなくて、エスパーじゃないか、この人は……)
心が、読まれている、としか、思えない。
「……せっかくだし、朝風呂にでも、入るかな」
龍也は、その、気まずい、空気を、変えようと、言った。
「おお、ええのう」
ゆうこも、それに、乗ってくる。
「……じゃあ、一緒に入るか?」
龍也が、何気なく、そう、言った。
それまで、威勢のよかった、ゆうこが、固まった。
そして、みるみるうちに、その顔を、首筋まで、真っ赤に、染め上げていく。
彼女は、ただ、俯き、その場で、もじもじと、しているだけだった。
その、あまりにも、しおらしい、そして、普段の、彼女からは、想像もつかない、乙女のような、反応。
その、あまりの、ギャップに、思わず、笑ってしまった。
「ははは!冗談だよ」
そんな、可愛らしい彼女の姿に「じゃあ、お先に」と、手を振りながら、一人、男湯の、のれんを、くぐるのだった。
残された、ゆうこは、しばらく、その場で、動けないでいた。
朝食を、皆で食べ終え、復興作業が、再開された。
かなりの部分が修復され、街には少しずつ、元の姿が戻りつつあった。
掃除も一段落し、昼飯の炊き出しが出来上がると、しばしの休憩時間となった。
龍也は、じんたが、一人の青年と、仲良く話しているのに気づいた。
ご飯を食べている時も、シンジが、その青年に、声をかけたりしていた。
午後の作業が、始まった。
かすみが、資材を運んでいる、その横で、積み上げられていた、大きな木材が、ぐらりと、バランスを崩し、彼女の方へと、倒れてきた。
「きゃーっ!」
かすみは、叫んだが、もう避けられない。
その時だった。
倒れてくる資材を、がしっと、力強い腕が受け止めた。
また、あの青年だった。
その資材は、重さが百キロはあろうかという、巨大な丸太だった。
「……大丈夫ですか?」
青年は、かすみに、そう言うと、その丸太を軽々と、元の場所へと戻した。
「あ、ありがとうございます!」
かすみが、お礼を言う。シンジとじんたも、駆け寄り礼を言った。
ゆうこも、近寄ってきて「ありがとうねぇ」と、礼を言いながら、青年の、腕にできた、軽い、擦り傷を「ヒーリング・タッチ」で、癒してあげた。
かすみが、心配そうに見つめる中、青年は「これくらい、平気だよ」と、爽やかに、微笑んだ。
その、一部始終を、龍也は、少し離れた場所から観察していた。
夜。
夕食の時、、青年の所にじんたが行ったり,シンジと話したり、してるのを見て龍也は、じんたに、声をかけた。
「……あの青年と、随分、仲がいいじゃないか」
「ああ、タツヤ!作業ん時も、手ぇ貸してけで、みんな助かってらんだど!ほんと力持ちでなぁ。見だ目はそったにごっつぐねんだげども、重でぇもんだばヒョイっと持ぢ上げでくれっからな!」
シンジにも、聞いてみた。
「……彼は、気配りができる。常に、周りを俯瞰で見ていて感もいい。……それに真面目だ。俺に、少し、似ているかもしれん。自衛隊にいた頃のような、規律を感じる」
「……なるほどな」
「……何、考えこんどんじゃ?」
「なあ、ゆうこ」
顔を見ると、彼女は、急に、とろけそうな、甘い顔をしていた。
龍也は、どきっとしたが、静かに、優しく、言った。
「……なんて顔、してんだ。……そうじゃなくて」
「……なんじゃ」
「あの、シンジと話してる、青年、どう思う?」
龍也は、顎で、その青年を、示した。
「……タイプじゃないのう」
真顔で言った。
「そういうことじゃなくて、人として、だ」
「ああ、あのかすみを、助けてくれた子じゃろ。ええ青年そうじゃな。……シンジが、人と、あんなに、仲よう、話しとるのも、珍しいわい」
「そうなんだ。じんたも、気が合ってるみたいで、彼と、よく話してる」
「あ、かすみ!」
前を、通りかかった、かすみに、声をかけた。
「はい!」「あの青年、覚えてるか?」「はい、覚えてます。助けていただいた方です」「かすみは、どう思う?」
「……大変、優しい方だと、思います。……あちらでも、噂が、すごいですよ」
どうやら、おばちゃんたちの、井戸端会議の、話題の中心らしい。
「色々助けてくれた、とか。気を利かせるタイミングが絶妙だ、とか。とにかくいい青年だ、って。……今の旦那、蹴っ飛ばして、嫁に行こうかしら、とか、言ってました」
「……なんか、すごいな」
「あんたも、惚れたんかい?」
黙っていたゆうこが、かすみを、観察していたらしく、言った。
「さっきから、ちょこちょこ、近く行ったり、そわそわしながら、眺めとったり」
「……そ、そんな……!ゆうこさん、もう!」
かすみは、顔を真っ赤にして、行ってしまった。
「からかうなよ」
龍也が、そっと、ゆうこの頭を、叩く。
「かわいいじゃろ?でも、多分、あれは、ほの字じゃな」
「……そうなのか…………」
龍ては、考え込んだ。そして、「よし」と、立ち上がると、青年の元へと、向かった。
「ちょっと、話がしたいんだが、こっちへ、来てくれないか」
そう誘うと、じんたとシンジも、戻ってきた。
「なしただ?」
「ゆうこ、かすみを、呼んできてくれ」
「急に、ごめんね。ちょっと、話がしたくてね」
「いえ」「我々は、討伐チームでね」「知ってます。お噂は、かねがね。ここの皆さんが、話してましたし、じんたさん、シンジさんからも、色々、聞きました」
そこへ、ゆうこと、かすみが、帰ってきた。
青年を見て、かすみは、「きゃっ」と、驚いて、その場に座り込んでしまった。
「改めて、これが、うちの、チームなんだ」「あ、こちらの方も、でしたか」
青年は、かすみに、丁寧に会釈した。
(……ゆうこは、目立ってたから、分かってたんだろうな)龍也はそう思った。
そして、彼の、話が始まった。
名はレン、年は二十三歳、水上の者ではなく、ボランティアで、ここへやってきた。
出身は長野で、山の中で育った、木こりの息子だという。
色々と、聞いてみた。
「討伐とかは、してなかったのか?」「どこかの、部隊にいた?」「格闘技とかは?」「嫌いな食べ物は?」
レンは、その、全ての質問に、真摯に答えてくれた。
討伐は、したことがない。長野の、警察所属の特殊部隊で、王族を守る衛兵をやっていた。多少攻防の指導は受けた。
「……ピーマンです」
「……最後の質問は、貴重だった。ありがとう」
「衛兵は、どうして、やめたのかな?」
「……すみません。……それは、言いたく、ないんです」
「そうか。……もしかして、剣士を、やってなかったかい?」
「……はい。剣術は、学びましたし、衛兵としての、職務もそれでした」
一同は、互いに顔を見合わせた。そして、龍也が切り出した。
「……我々の、仲間に、なってくれないか?」
じんたの目が、輝いている。
シンジも、静かに、頷いた。
ゆうこは「じゃな」と囁いた。
かすみは、俯きながら、顔の近くで、小さなガッツポーズをした。
しかし。「……すみません。……私は、行けません。……ごめんなさい」
皆が、がっかりする。
「なしてだ!?なして、ダメなんだべ!」「おらたち、仲良くなったべな!なして、無理なんだ!?」
じんたが、食らいつく。
かすみは、泣きそうだ。ゆうこが、そのあたまを、よしよし、と、撫でている。
「……理由を、教えてくれないか」
静かに、尋ねる。
「…………」
「……我々も、誰彼構わず、声をかけているわけでは、ないんだ。……君だからこそ、と、思ってね」
「……すみません。……本当に、すみません」
レンは、そう、繰り返すと、深々と頭を下げ、奥の部屋へと消えていってしまった。
その、頑なな拒絶に、一行は、ただ、呆然と、立ち尽くすしかなかった。