第六話 偶然の産物、その名は万能薬
ゴードンから一日だけ猶予をもらったものの、龍也の心は少しも休まらなかった。むしろ、焦燥感は増すばかりだ。明日からの地獄のシゴキを想像するだけで、全身の傷が疼き出す。この満身創痍の状態を、たった一日で回復させなければならない。できなければ、待っているのはトレーニングという名の、より凄惨な「死」だ。
「どうすれば……どうすればいいんだ!」
オロオロと休憩所をうろつき、まず藁にもすがる思いで診療所のドアを叩いた。中では、ドSナースがピンセットを磨きながら、冷たい視線を向ける。
「なんだい?死にぞこない。昨日の今日で、またどこか壊したんかい?」
「ち、違うんです!明日までに、この身体を完全に治す方法はありませんか!?」
必死の形相で訴える姿を見て、心底呆れたというように、ふう、と大きなため息をついた。
「はあ?馬鹿なのか?そんな魔法みたいな方法があるわけないだろう!だいたい、お前のその疲労は、無茶な戦闘と、偏った栄養摂取、そして加齢による回復力の低下が原因だ。質の良い食事を摂って、安静にしているのが一番の薬なのさ、さっさと帰って寝ろ!見てるだけでイライラする!」
ピシャリとドアを閉められ、完全に途方に暮れた。正論だが、求めている答えではない。安静にしている時間などないのだ。
次に向かったのは、梅ばあさんのいる秘密の庭だった。彼女なら、何か特別な薬草の知識を持っているかもしれない。
「ばあさん!助けてくれ!明日までに元気になれるような、すごい薬草はないか!?」
龍也の切羽詰まった様子に、梅ばあさんはおっとりと微笑んだ。
「おやおや、龍さん。そんなに慌ててどうしたんだい。まあまあ、今用意するから」
そう言っていつもの、あの不味い漢方をなみなみと入れた紙を差し出そうと持った瞬間、紙がペロンとめくれ落ちて、その真下にある、薬草をすり卸して飲みやすくしたすり鉢に入ってしまった。梅ばあさんは
「ありゃま、落ちちゃったねぇ」
「まあ、いっか」
と聞こえないくらいの声でつぶやき、龍也に内緒で混ざった薬を紙に包み
「はいよ、これ飲みなされ」
内心『これじゃない!』と叫んだが、老婆の善意を無下にもできず、差し出された薬を一気に飲み干した。
「ヴえぇ〜!!」
次の瞬間、龍也の身体を凄まじい衝撃が駆け抜けた。
まず、口の中に広がったのは、漢方と薬草が混ざった、想像を絶する不味さだった。しかし、それを無理やり飲み込んだ直後、胃のあたりからカッと熱いエネルギーが湧き上がり、それが血流に乗って全身へと猛スピードで広がっていくのが分かった。
身体中の傷が、内側から修復されていくような感覚。鉛のように重かった四肢に、力がみなぎってくる。頭を覆っていた疲労の霧が、嘘のように晴れていく。体力、気力、そして治癒力。失われていた全てのものが、急速にチャージされていく。
「こ、これは……!」
数分後、龍也は完全に回復していた。昨日までの満身創痍が嘘のように、身体は軽く、力に満ち溢れている。偶然と偶然が重なり、奇跡の薬が誕生した瞬間だった。
「すげえ……。ばあさん、これ、なんて薬だ?」
「さあねえ。まあ、何にでも効きそうだから、『万能薬』とでも呼んどくかねえ」
梅ばあさんは、カラカラと呑気に笑っている。
龍也は、その手に残ったわずかな「万能薬」を、宝物のように大事に懐にしまった。これで、明日のゴードンとの地獄の特訓にも耐えられる。彼は、老婆の善意と、とんでもない偶然に心から感謝しながら、明日への決意を新たにするのだった。
あくる日、万能薬のおかげで完全回復した龍也は、自信に満ち溢れていた。いつものように太極拳と朝食を済ませ、午前中のスライム討伐も軽快にこなす。そして午後、彼は意気揚々とトレーニングルームのドアを開けた。
「来たか、おっさん!言い訳は聞かんぞ!」
「望むところです、ゴードンさん!」
その日から始まった特訓は、まさに地獄そのものだった。ゴードンは龍也が一日で回復したことに驚きつつも、その分、一切の遠慮なく追い込んでいく。しかし、もう以前の彼ではなかった。疲労が溜まれば、懐の万能薬を少量口に含む。すると、たちまち気力と体力が回復し、再びゴードンに食らいつくことができた。
その地獄の特訓が一週間続いた頃、梅ばあさんがとんでもないことを成し遂げていた。
「龍さん、できたよ。例の薬」
なんと、あの偶然の産物であった万能薬の量産に成功したというのだ。梅ばあさんは、秘密の庭の片隅に小さなカウンターを設け、いつの間にか「梅ばあちゃんの薬局」を開店していた。その万能薬は、討伐に疲れた者たちの間で瞬く間に評判となり、飛ぶように売れていった。
それから三ヶ月。
龍也は毎日ゴードンの地獄の特訓に耐え、万能薬を飲み続けた。その結果、彼の身体能力は飛躍的に向上した。体力と気力は増幅され、ついにあのゴードンの動きと互角のスピードを身につけるに至ったのだ。筋力も、もはや以前の比ではない。
そして、梅ばあさんの薬局の売上が好調だったおかげで、龍也にも臨時ボーナスが入った。彼はその金で、ついに武器を新調した。ただの木の棒から、長く、しなやかで、それでいて頑丈な「竿竹」へ。もはやスライム討伐時代の彼ではなかった。
準備は整った。万能薬を懐に詰め込み、龍也は再び、あの橋の向こう側へと足を踏み入れた。
前回、あれほど苦戦した赤いスライムが、目の前に現れる。龍也は冷静に竿竹を構え、一気に間合いを詰めた。放たれた一突きは、赤いスライムの核を正確に捉え、一撃で仕留めてみせた。
さらに奥へ進むと、ゴブリンの斥候と遭遇した。前回は逃げられた相手だ。だが、今の龍也は違う。ゴブリンの素早い動きを、彼の目は完全に見切っていた。スピードはこちらが上だ。翻弄し、竿竹で二度、三度と的確に打撃を与える。ゴブリンは悲鳴を上げて倒れ伏した。
己の進化に、龍也は確かな自信を得た。これならいける。万能薬が尽きるまで、ここで稼ぎ続けてやろう。そう思った矢先、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。夢中になるあまり、食料を一切持ってきていないことに気づいたのだ。仕方なく、その日の討伐は切り上げ、彼は意気揚々と帰還した。
まっすぐゴードンの元へ報告に行くと、彼は鼻を鳴らした。
「フン、ゴブリン程度で浮かれるな、おっさん!貴様の筋肉は、まだ喜んではいない!明日も、その次も、己の限界を超え続けろ!」
いつもの叱咤激励が、今の龍也には心地よいエールに聞こえた。
翌日、新たな計画を立てた。このエリアを抜けた先にあるという、次の町を目指すのだ。
彼は休憩所にいるベテランたちに話を聞いて回った。街までの道のりは、やはり野営を挟んで丸二日はかかること。道中には、ゴブリンの他に、さらに二種類の強力な魔物が現れること。それらの魔物はゴブリンよりタフだが、幸いスピードは劣ること。そして、夜になったら絶対に動かず、息を潜めているべきだということ。
身を隠す方法としては、穴を掘るか、テントを張るかの二択。テントは売店で三千円もする。とても買えない。龍也は迷わず、二百円で丈夫な「スコップ」を購入した。
そして、けして安くはないパンを、買えるだけ買った。
スコップと、竿竹と、たくさんのパン。そして、懐には梅ばあさん特製の万能薬。
全ての準備を整え、決意を新たに、再び橋の向こう側へと渡っていった。次の町を目指す、本格的な冒険の始まりだった。