第六八話 温泉郷の詩編 その二二
夕暮れにまだ遠い木漏れ日の林の中。
背後から迫り来る、数匹の、しかし、殺意に満ちた、蛇たち。
それは、逃走というよりは、狩られる側の、絶望的な、状況だった。
「はあ……はあ……っ!」
龍也は、ひたすらに、走った。
しかし、悲しいかな、その身体は、五十七歳の、おっさんだ。
もう、横腹が、ナイフで抉られるように痛い。足はもつれ、視界が霞んでくる。
その時だった。
木の根か、石か。何かに、足を取られ、盛大に、つまずき、転んでしまった。
「いっっ!」
もはや、後ろを、振り返る気力もない。
迫り来る、恐怖。その、緊張感の中で静かに、死を覚悟した。
(……ここまでか)
目をつむった。
(……ゆうこ!)
その時。
すぐ背後で、ザシュッ!という、肉を切り裂く、鋭い音と、短く、甲高い、蛇の裂帛の音がした。
恐る恐る、振り返ると、そこには、中くらいの大きさの蛇を、一撃で仕留めて立っている、シンジの姿があった。
そして、その遥か向こうで、じんたが、こちらに向かって、猛スピードで、走ってくるのが見えた。
「……立てるか」
シンジが、手を差し出してくる。その手を掴み、起き上がると、再び、走り出した。
やがて、じんたが、追いついてくる。
「タツヤ~!大丈夫かぁ!」
「ああ、なんとかな!」
しかし、まだ、残りの蛇が、執拗に、追いかけてくる。
「うりゃっ!」
じんたが、振り返り様、煙玉を、地面に叩きつけた。
パン!という音と共に、視界が、煙に包まれる。
三人は、その隙に、方向を変え、近くの岩陰へ身を隠した。
しばらく、息を殺して、様子を伺う。
煙が晴れると、蛇たちは、まんまと罠にかかり、まっすぐに走り去っていった。
「……ふう……」
龍也は、膝を見ると、転んだ時に、ひどく、擦りむいていた。
懐から、非常用の薬草を取り出すと、それを、唾で練り、傷口にこすりつける。
じんわりと、痛みが引いていった。
呼吸が、落ち着いてくる。
三人は、顔を見合わせた。
そして、誰からともなく、笑い出し、汚れた手で力なく、ハイタッチを交わした。
「……い、生ぎでだ〜!」
じんたが、空に向かって叫んだ。
その、あまりにも、素直な魂の叫びに、龍也も、シンジも、腹の底から笑った。
そして、龍也が、言った。
「……急ごう!……仲間たちが、待ってる」
沼田の街へと、向かう、道すがら。
川へと、出てい
「……流れて、きてるかな」
龍也が、心配そうに、呟く。
もし途中で、何かに引っかかったり、あるいは、川の魔物に持っていかれてでもしたら、今日の命懸けの潜入は、全て水の泡となる。
三人は、川岸を、歩きながら、目を凝らした。
「……あった!あれだべ!」
じんたが、指さしたその先。
川の流れが、少し、緩やかになっている淀みに、見覚えのある革袋が、ぷかぷかと浮いていたのだ。
龍也が、ヤリを、巧みに使い、その袋を、岸へと引き寄せる。
中を確認する。青白く輝く、神秘的な草。
そして、まだ、ほのかに温かい、源泉の水。
間違いなく本物だ。
「……よーし、やった……!やったぞ!」
思わず、ガッツポーズをした。
その、あまりの喜びに、じんたも、シンジも、顔を綻ばせる。
これで、役者は、揃った。
あとは、この、希望の光を、研究部隊の、仲間たちの元へと届けるだけだ。
三人は、その重い、何よりも価値のある革袋を、交代で背負いながら、一直線に、沼田の街を目指して歩き始めた。
その、足取りはもはや、疲れなど微塵も、感じさせないほど力強く、そして、希望に満ち溢れていた。
一方、研究部隊の三人。
決して、穏やかな時間を、過ごしていたわけではなかった。
龍也たちが、出発して、まだ、三時間も、経っていないというのに。
ゆうこは、もう、そわそわと、落ち着きがなかった。
部屋の中を、意味もなく、歩き回り、窓の外を、何度も、何度も、確認する。
「……まだ、かいな」「……遅いのう」
その、あまりにも、分かりやすい態度。
ミミィはその様子を、面白そうに眺めながら、隣に座るかすみに、そっと囁いた。
「……ねぇかすみちゃん『居ても立っても居られない』ってのはねぇ、まさにアレのことを言うのよォ……」
その、ミミィの、一言が聞こえたのだろう。
ゆうこが、ばっと、振り返った。
「そんなこと、あるかい!わしは、ただ、作戦の、成功を、祈っとるだけじゃ!」
そう、言い返すが、その顔は、少しだけ、赤い。
かすみは、その、微笑ましいやり取りに、ただ、くすくすと笑っているだけだった。
「……もう!じっと、しとられんわい!」
ついに、我慢の、限界が来たらしい。
「おちつけぃ」
ミミィが、冷静に、ツッコミを入れる。
「落ち着いとるわ!」
そう、叫ぶと、ゆうこは、ようやく、持参してきた研究道具を、テーブルの上に広げ始めた。
薬草を、すり潰すための、乳鉢。液体を、調合するための、ビーカーや、フラスコ。
そして、成分を分析するための、簡易的な魔道具。
その、姿はもはや、恋する乙女ではない。
未知の、物質を、解明しようとする、一人の、研究者の、顔だった。
ミミィと、かすみも、それに、続く。
彼女たちの戦いは、まだ始まっていない。
しかし、その準備は、すでに始まっていた。
仲間たちが、持ち帰ってくるであろう、希望の光を、最高の形で迎え入れるために。
三人の、静かで熱い時間が、ゆっくりと流れていくのだった。