第五話 進歩と挫折
松葉杖がようやく外れた二週間後、気まずい思いで中間空間へと戻ってきた。現実世界での療養期間は、ただただ惨めなだけだった。妻の冷たい視線から逃げるように自室に籠もり、早くこの足が治ることだけを祈る日々。彼にとって、もはや心安らぐ場所は、過酷ではあるがあの中間空間しかなくなっていた。
足の状態を確認するため、おそるおそるトレーニングルームのドアを開けた。すると、中からガシャン!という轟音と共に、野獣の咆哮のような、しかしどこか歓喜に満ちた奇妙なうめき声が聞こえてきた。
「ぐっ……おおぉぉ!効くッ!この乳酸が溜まる感覚……最高だァ!」
覗き見ると、そこにいたのはゴードンだった。彼は、電話帳ほどの厚さのプレートを何枚も重ねた、正気の沙汰とは思えない重量のバーベルを担いでスクワットを繰り返している。その顔は苦痛に歪み、全身の血管が浮き出ているが、その口元は恍惚とした笑みを浮かべていた。自分を徹底的に痛めつけることに、至上の喜びを見出すタイプの人間――ゴードンは、他人にはドSだが、自分自身に対しては究極のドMを貫く、生粋のマッスル馬鹿だったのだ。
龍也の存在に気づいたゴードンは、何事もなかったかのようにその巨大なバーベルをラックに戻すと、汗を拭いもせずに振り返った。
「治ったか、中年。だがそのザマは何だ。怪我ごときでたるみきっている。お前の大胸筋が泣いているぞ」
「は、はあ……」
その異様な光景に若干引きながらも、今回の失敗について正直に話した。イメージ通りに体が動かず、足を挫いてしまったこと。実践経験がスライムしかないこと。
するとゴードンは、鼻で笑い飛ばした。
「当たり前だ。スライムを何千匹狩ろうと、それはただの作業。筋肉にとって、対人、いや対シャドー戦の実践に勝る刺激はない!お前の敗因はただ一つ!圧倒的な実践不足だ!」
ゴードンはニヤリと口角を上げると、龍也の目の前に仁王立ちになった。
「いいだろう。俺がシャドーの代わりになってやる。お前がもう一度あの門の前で無様な醜態を晒さないよう、俺の筋肉がお前を鍛え直してやる」
「え?」
「ただし、手加減はせん。お前のその貧弱な木の棒で、この俺の鋼鉄の腹直筋を満足させてみろ。もし俺を喜ばせることができなければ……」
ゴードンは近くにあった鉄アレイを、リンゴでも握り潰すかのように、いとも簡単にぐにゃりと曲げてみせた。
「……こうだ」
こうして、地獄のマンツーマントレーニングが始まった。ゴードンはシャドー以上のスピードとパワーで龍也に襲いかかり、的確に急所を打ち込んでくる。なんとか一撃を返しても、それを腹筋で受け止め、恍惚の表情を浮かべるのだ。
「そうだ!いいぞ中年!その一撃、俺の上腕二頭筋が喜んでいるッ!だが、まだ足りん!もっとだ!もっと俺の筋肉を歓喜させてみせろォ!」
ドSな罵声を浴びせられながら、ドMな肉体に攻撃を叩き込む。この奇妙で過酷な模擬戦は、龍也の精神と肉体を、良くも悪くも、かつてない速度で鍛え上げていくのだった。
自宅療養による二週間のブランクは、龍也が思っていた以上に大きかった。一度落ちた筋力と体力は、そう簡単には戻らない。焦る気持ちを抑え、彼は再び地道な日々を積み重ねることから始めた。
スケジュールは、以前にも増してタイトになった。
夜明けと共に起床し、梅ばあさんと共に太極拳で身体の気の流れを整える。これは怪我の再発防止と、身体の柔軟性を取り戻すための重要な日課となった。
朝食は、梅ばあさん特製の不味いが体に良さそうな薬草茶と、食堂の黒パン。筋肉のためにはわんぱく飯を食べたいところだが、今はゴードンとのトレーニング代を捻出するのが最優先だ。
午前中は、ひたすらスライム討伐。怪我をする前の感覚を取り戻すように、一匹一匹、丁寧に、しかし確実に仕留めていく。
昼食を挟んで、午後からは地獄のゴードンタイム。
「遅い!その程度の踏み込みで俺のハムストリングスが喜ぶか!」
「なんだその貧弱な突きは!俺の腹斜筋が笑っているぞ!」
罵声を浴びながら、必死に木の棒を振るい続けた。模擬戦で打ちのめされ、筋力トレーニングで追い込まれる。毎日が疲労困憊だった。
そして夜。夕食は、わんぱく飯と漢方スープ。
焦りや絶望に駆られそうな時もあった。しかし、龍也の心は折れなかった。現実世界での妻の冷たい視線、診療所でのドSナースの罵声、そして何より、あの門の前で無様に転がった自分の情けない姿。それらが悔しさとなって、彼の心を奮い立たせた。
そんな生活が、二ヶ月続いた。
身体は、ついに怪我をする前の状態を取り戻していた。いや、それ以上かもしれない。過酷な模擬戦を繰り返したおかげで、身体にはスライム相手では決して身につかないであろう、実戦的な動きが染み付き始めていた。
体重は落ちたが、全身の筋肉はしなやかな鋼のように引き締まっている。
その日、模擬戦を終えた後、珍しく彼が口を開いた。
「……フン。ようやく見れるようになってきたな、お前の筋肉がようやく戦うための準備運動を終えたようだ」
それは、ゴードンなりの最大限の賛辞だった。
汗を拭い、強く握りしめた木の棒を見つめる。二ヶ月という長い回り道だった。
しかし、決して無駄ではなかった。今の自分なら、きっと。
彼の視線の先には、再びあの川にかかる橋と、その手前で揺らめく黒いシャドーの姿が、はっきりと見えていた。
忌まわしき敗戦の日とは違う、確かな手応えをその身に感じていた。彼は二ヶ月かけてこつこつと貯めたなけなしの金で、売店へ向かった。
「親父さん、これをくれ」
カウンターに置いたのは、武器でも防具でもなく、一枚の「鍋の蓋」だった。みすぼらしい見た目だが、新聞紙や布の服に比べれば、その防御力は絶大に思えた。薬草をたんまり持って、通行料の五〇円をポケットに強く握りしめ、彼は三度、あの門の前に立った。
シャドーとの再戦。ゴードンとの地獄の模擬戦を思えば、もはや恐怖はなかった。揺らめく黒い影が襲いかかってくる。龍也は冷静にそれを見据え、身体に染み付いた動きで対応した。鍋の蓋で攻撃を受け流し、最小限の動きで懐に潜り込む。そして、渾身の一撃を叩き込んだ。
手応えは、驚くほど軽かった。シャドーは一撃で霧散し、あっけなく消滅する。あまりの簡単さに、龍也自身が拍子抜けしてしまったほどだ。
「……行ける」
彼はついに、あの石橋へと第一歩を踏み出した。眼下では巨大な魚がうようよ泳いでいるが、もう怖くはない。一歩、また一歩と橋を渡り切り、向こう岸の門をくぐる。未知のエリアに、龍也はついに到達したのだ。
高揚感を胸に、偵察がてら、ほんの少しだけ辺りを散策する。空気も、生えている植物も、こちら側とは明らかに違っていた。と、その時。草むらがガサリと揺れ、一体のモンスターが姿を現した。それはスライムだったが、色が違う。血のような、鮮やかな赤いスライムだった。
「スライムの仲間か。大したことないだろう」
そうたかをくくったのが間違いだった。赤いスライムは、今まで相手にしてきた青いスライムとは比較にならないスピードで突進してきた。龍也は咄嗟に鍋の蓋でガードするが、その衝撃は凄まじく、腕が痺れる。木の棒で殴りつけても、青いスライムのように簡単には怯まない。激しい攻防の末、なんとか一匹を倒した頃には、龍也は肩で息をし、全身汗だくだった。
倒した赤いスライムの跡には、コインが数枚落ちていた。拾い上げて数える。……三〇円。
「……安ッ!」
思わず声が出た。あれだけ一生懸命、命懸けで戦って、たったの三〇円。自分の身体を見ると、腕や足にいくつも切り傷や打撲の跡が残っている。持ってきた薬草を三束も消費し、口の中に広がる苦い味を噛み締めながら、なんとか痛みを和らげる。傷は完全には塞がっておらず、次の一撃を受ければ、またすぐにでも開きそうだった。
深刻な現実が、龍也に重くのしかかる。
二ヶ月間、スパルタで鍛え上げて、その結果がこれだ。色違いのスライム一匹に辛勝するのがやっと。この先に待ち受ける敵は、さらに強いに違いない。どうすればいいのか。想像を絶する恐怖が、彼のやる気を根こそぎ奪っていく。
「……帰ろう」
しずしずと橋の袂まで戻り、門番に声をかける。すると、門番は無感情な声で右手を差し出してきた。
「通行料、五〇円だ」
「え?来るときに払ったぞ」
「この橋は渡るたびに料金がかかるシステムだ。現実世界の有料道路と変わらん」
どこまで行っても、この世界は金がかかる。嘆きながらポケットを探った龍也は、血の気が引くのを感じた。手元にあるのは、先ほど手に入れた三〇円だけ。足りない。
「金を払わなければ、門は開けん。夜になれば、どうなるか分かっているな?」
門番の言葉が、死刑宣告のように響いた。夜になれば、この危険なエリアで、たった一人。確実に死ぬ。
探し回ること十分。焦りだけが募る中、川の近くの林の中で、動く物陰を発見した。赤いスライムか。そう思い身構えた龍也の前に現れたのは、今まで戦ったことのないモンスターだった。
ゴブリン。子供のような大きさだが、その目は狡猾な光を宿し、明らかに知性を感じさせる。人型であるというだけで、龍也の心臓は嫌な音を立てた。
ゴブリンは奇声を上げ、素手で殴りかかってきた。その動きは、やはり赤いスライム以上に素早い。龍也はかろうじて鍋の蓋で攻撃をカバーし、カウンターで木の棒を叩きつけた。すると、ゴブリンは思った以上に痛がった様子で怯み、そのまま一目散に森の奥へと逃げてしまった。
倒せなかった。だが、今は安堵している暇もない。息は切れ、ゴブリンの爪で手に作った切り傷と、先ほど赤いスライムにやられた傷口が、再びパックリと開いていた。薬草をさらに消費して応急処置を済ませ、必死で辺りを探す。
そして、ようやく一匹の赤いスライムを発見した。もはや満身創痍だったが、ここで死ぬわけにはいかない。ありったけの力を振り絞り、なんとかそれを倒すと、龍也は震える手で三〇円を拾い上げ、門へと駆け込んだ。
通行料を払い、ふらふらの状態で橋を渡りきる。その足で、まっすぐ診療所へ向かった。
「あらあらまあまあ!橋の向こうへ行ったとたん、このザマかい!学習能力のないおっさんだね!」
いつもの罵声を浴びせられながら治療を受け、風呂で泥のように汚れた体を洗い、食堂でパンを無理やり胃に詰め込む。
戦闘で負った傷は診療所で塞がったものの、筋肉の芯に残る疲労と、精神的な消耗はまるで回復していなかった。
今日のトレーニングは無理だ。休ませてもらおう。
そう決意し、重い足取りでトレーニングルームへと向かった。ドアを開けると、案の定、ゴードンが巨大な鉄塊と戯れながら、自身の筋肉に愛を囁いている。
「いいぞ…俺の広背筋…!昨日の追い込みで、さらに成長しているのが分かるぞ…!」
龍也の存在に気づいたゴードンは、滝のような汗を流しながら振り返った。
「来たか、中年!随分やられたそうだな、その分、今日は倍しごいてやる!お前の泣き顔を想像するだけで、俺の三角筋が喜んでいるぞ!」
「あ、あの、ゴードンさん…」
龍也は意を決して口を開いた。
「初めて橋の向こうへ行って…その…ボロボロにやられてしまって…。今日は、一日だけトレーニングを休ませていただけないでしょうか」
その言葉を聞いた瞬間、ゴードンの顔から笑みが消えた。そして、次の瞬間、雷鳴のような怒声がトレーニングルームに響き渡った。
「休むだとォ!?貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!満身創痍!?それがどうした!筋肉というのはな、破壊と再生を繰り返してこそ、より強く、より美しくなるのだ!お前のその傷だらけの身体こそ、最高のトレーニング教材ではないか!それを休むだと?お前の大胸筋は、そんな惰弱な主人の元にいることを恥じているぞ!」
ドSな叱咤が、容赦なく龍也の疲弊した心に突き刺さる。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「で、ですが、この状態ではまともなトレーニングになりません!怪我を悪化させるだけです!」
「それがどうした!悪化させて、また治せばいい!その苦痛こそが、お前を新たなステージへと導くのだ!さあ、立て!まずはバーベルスクワット100回からだ!」
ゴードンは本気だった。その目は、獲物を前にした肉食獣のそれだ。絶望的な気分になった龍也が、しかし、ふと気づく。ゴードンは罵声を浴びせながらも、その実、どこか嬉しそうに見えるのだ。
(まさか、この人は…俺がボロボロになって助けを求めている、この状況を楽しんでいるのか…?)
その考えに至った時、龍也は最後の賭けに出た。
「…分かりました。ですが、ゴードンさん。今の俺を鍛えても、あなたを満足させることはできません。あなたのその鋼の筋肉を喜ばせるには、俺はあまりにも貧弱すぎます。一日だけ…一日だけ休養をいただければ、必ずや回復し、あなたの期待に応えるだけのトレーニングをしてみせます。あなたの筋肉を、最高に歓喜させてみせますから!」
ピタリ、とゴードンの動きが止まった。彼は龍也の言葉を、まるで極上のワインを味わうかのように、ゆっくりと反芻している。
「……フッ。フハハハ!面白い!いいだろう、中年!その言葉、忘れるなよ!お前のその心意気に免じて、一日だけ、この俺の慈悲を与えてやろう!」
ゴードンは高らかに笑い飛ばした。
「だが、勘違いするな!これは休息ではない!明日の最高のトレーニングのための、戦略的インターバルだ!もし明日、俺の筋肉を満足させられなかった時は…分かっているな?」
そう言うと、ゴードンは近くにあった鉄の棒を、いともたやすくUの字に折り曲げた。
龍也は背筋に冷たいものを感じながらも、深々と頭を下げた。こうして彼は、散々な叱咤激励の末に、地獄のトレーニングからの一日だけの解放を、なんとか勝ち取ったのだった。