第五六話 温泉郷の詩編 その十
龍也は、そっと部屋に戻った。
そして、眠っているであろう、二人の様子を伺いながら、じんたばりの、抜き足差し足で、自分の布団へと滑り込む。
その、背後から、静かに声がした。
「……大変だな」シンジだった。寝ている素振りで話しかけてきたのだ。
「……聞いてたのか」
「途中だけな。後半は、寝たよ」龍也は、苦笑いを浮かべながら、横になった。
「……俺より、よっぽど、男らしかったよ」
そう言って、目をつむる。シンジが、ふっ、と、鼻で笑った。それで、会話は終わった。
隣ではじんたが、気持ちよさそうに眠っていた。
眠れないまま朝が来た。
じんたが、ようやく起き出し、一行は、宿の食堂で、朝飯をとることにした。
龍也は、なんとか普通に振舞おうとしたが、やはり、皆の顔が何となく、見づらくなっており、目を合わせることができなかった。
食べている時だった。
急に、ゆうこが箸を置き、皆に宣言した。
「……皆に、言いたいことがある」
そして、彼女は、龍也を、まっすぐに指さした。
「わしは、このおっさんに、惚れとる!以後、お見知りおきを!」
ぶふっ!
龍也が、口に含んでいた、ご飯を、盛大に吹き出した。
ゴホゴホと、むせ返って、止まらない。
シンジが、差し出してくれた水を、なんとか、飲み干し、やっとのことで、一言、絞り出した。
「な、何を、言い出してんだ、お前は!」
ゆうこが、「なんじゃ、文句あるんか!」と、言いかけた、その時。
シンジが、手で、それを、制した。そして、静かに、こう言った。
「……ゆうこ。……みんな、もう知ってるよ」
その、一言に、今度は、ゆうこが固まった。
じんたも、かすみも、こくりと頷いている。
「誰も、その件で、嫌になったり、やっかんだり、しねえべや」
「不倫、というのは、どうかと思うが。……二人を、応援はしている」
シンジが、続ける。
ゆうこは、狐に、つままれたような顔で叫んだ。
「はあ!?なんで、知っとんじゃ!」
「とっくの昔に、知ってたど」
「ああ。いつだったかな?」
かすみは、ただ、にこにこと、笑って、見守っている。
「なんじゃと!?とっくの昔!?一体、いつじゃ!」
「忘れた」
龍也が、知らん顔をして、飯をかきこんでいると、ゆうこの、鋭い視線が突き刺さった。
「あんた!知っとったんか!」
龍也は、ばつが悪い感じで、頷くしかなかった。
「……ああ。……二人とも、応援してくれた」
開いた口が、塞がらない、ゆうこ。
その、あまりにも、面白い顔に、シンジ、じんた、かすみの、三人が、同時に吹き出した。
やっと、食事が終わり、今夜例の酒場に、情報収集に行くことを告げ、それまでの時間は、買い出しに充てることになった。
店を出て、歩き出した時。
急に、ゆうこが、恥ずかしくなってきた。
今まで、自分だけの、胸に、秘めていたと思っていた事が、皆にバレバレだった。
しかも、自分だけが、そのことを知らなかったのだ。
今もし、鏡を見たら、顔が、真っ赤になっているのが分かるだろう。火照って仕方がない。
「どうした、ゆうこ?」
龍也が、心配して声をかける。
「……アホ!」
ゆうこは、そう言うと、龍也の尻を、思い切りひっぱたいて、さっさと先に行ってしまった。
龍也は、何が何だか分からず、ただ???となっている。
誰もそのことには関与しなかった。
店に行こうとした時だった。
じんたが「ちょっと、自由行動、したい」と言い出した。
そして、シンジも「俺も、二十分くらい、別行動したい」と続く。
龍也と、かすみは、先に店に向かう。
「どうしたのかな?」
龍也が、かすみに、尋ねるが「さあ?」としか、返ってこない。
さすがに、かすみも知らないらしい。
店の前で、先に、着いていた、ゆうこに追いついた。
じんたたちのことを伝え、三人で水上用の、買い出しを始めた。
武器や防具は、まだ買えない。それ以外の消耗品を、持てるだけ買った。
三十分ほど買い物をして、宿に帰ろうとした時、ちょうど、じんたとシンジも戻ってきた。
宿に着き荷物を置くと、いよいよ、酒場へと向かう。
その道中。
「……で、あんたら、どこ行っとったん?」
ゆうこが、二人に尋ねる。
しかし、二人は、何かごまかすように、目を逸らし答えようとしない。
しびれを切らした、ゆうこが、水晶の杖を取り出した。
「……杖、天に、掲げるか?」
「で、電話してた!」じんたが白状した。
「同じくだ!」シンジも手を挙げた。
電話?どこに?
ゆうこが、不思議がる。
龍也も、今まで二人が、電話をかけているのを、見たことがない。驚いた。
「……麻衣子さんの、ところに……」
「……新宿に……」
二人は、渋々、答えた。
その、答えに、ゆうこは「ふーん」と、含み笑みを浮かべた。
「……新宿、ねえ。……なーるほどねえ」
彼女は、それ以上、意地悪く、何も、言わなかった。
そのやり取りを、かすみが、興味津々の顔で見ているのが、誰の目にも明らかだった。
ゆうこは、そのかすみの頭を、ぽんと撫でた。
「……ええよ。今夜宿に帰ったら、ゆっくり教えてあげるわい」
そう言って一行は、目的の酒場の、ドアを開けたのだった。
その重い木の扉を開けた瞬間。一行は、それまで経験したことのない、異質な空気に包まれた。
中は薄暗い。ギルドのような、陽気な喧騒はどこにもない。
そこにいるのは皆、一癖も、二癖も、ありそうな、歴戦の猛者たち。
彼らは酒を飲む手を止め、一斉にこちらを見た。
その、鋭い視線は新参者である、一行を、値踏みするように、じろじろと見つめている。
緊張感が張り詰めた。
その沈黙を、破ったのは龍也だった。
彼は動じることなく、まっすぐにカウンターの前へと進み出る、黙々とグラスを磨いている、マスターに声をかけた。
「……少し、聞きたいことがある」
マスターは、ちらりと龍也を一瞥すると、顎でしゃくった。
「……何か、頼みな」
龍也は、バーボンを、ロックで頼むと、単刀直入に切り出した。
「……水上温泉から、逃げてきた、という、討伐者の話を聞いた。……そのことについて、何か知らないか」
その一言で、店中の空気が変わった。それまでただ、値踏みするだけだった視線に、敵意と警戒の色が混じる。
店の中が、完全に静まり返った。
その時だった。
テーブル席にいた、一人の大柄な男が、椅子を、蹴立てるようにして立ち上がった。
「……てめえら、何しに来やがった」
男は、ゆっくりと、こちらに近づいてくる。
「……俺たちは、逃げてきたんじゃ、ねえ!」
そう、叫ぶと男は、龍也に殴りかかってきた。
その瞬間。
男の巨体は、床に寝ていた。
そして、次の瞬間にその腕を背中に押さえつけられている。
シンジだった。男が、立ち上がったその瞬間から、全てを予測していたのだ。
龍也は、その、騒ぎを一瞥しただけで、再び、マスターへと向き直った。
「……もう一度聞く、水上の話が、聞きたい……」
マスターは近くにいた数名の男に目配せをした。そして、店の奥の部屋を指さした。
一行は、その部屋へと案内された。
奥のテーブルに、腰掛けて待っていると、やがて、数名の男たちが入ってきた。その中には先ほど、シンジにのされた、大柄な男の姿もあった。彼はまだ痛むのか、肩をぐるぐると回している。
「……水上に、魔物が、住み着いたそうだが、その、詳細が、知りたい。……どんな、些細なことでも、いい。教えては、もらえないか」
龍也の、その、真摯な問いかけに、男たちは最初渋っていたが、やがて、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
そして、その口から語られたのは、想像を絶する、恐ろしい現実だった。
一通りの話を聞き終え、龍也は、深々と頭を下げた。
「……ありがとう。……参考になった」
そう言って、店を出ようとしたその時だった。
先ほどの、大柄な男が、シンジの背中に話しかけた。
そして、彼は、少しだけ、照れくさそうに、言った。
「……あんた、強いな」
「わるかったな…」
そう言って、シンジは肩を、ぽん、と一つ叩いて、去っていった。
不器用な、男たちなりの和解。
龍也はその光景に、少しだけ、口元を緩めると、この、沈黙の酒場の、重い扉を再び開けるのだった。