第五四話 温泉郷の詩編 その八
鋼鉄の鱗を持つ、巨大なワニの魔物を、見事な連携で、打ち破った一行。
その勝利は彼らに、大きな自信をもたらした。
しかし同時に、この先に待ち受ける魔物たちの、強さのインフレを、予感させるものでもあった。
「……それにしても、見事だったな、ゆうこ。お前の、あの雷」
龍也が、そう言うと、ゆうこは、まだ少し、興奮気味に、手にした水晶の杖を、見つめていた。
「わしもよう分からんのじゃ。なんかこう、身体の奥底から、力が湧いてくるような、感じじゃった」
彼女自身も、まだ、新たなる力に、戸惑っているようだった。
「……そういえばあの時、わし、無意識に『ヴォルト』って、叫んどったのう。……よし、決めた。わしのこの雷魔法の名前は『ヴォルト』じゃ!」
どうやら彼女の中で、必殺技の名前は、すでに決定事項らしい。
その、どこかで聞いたことがあるような、しかし、力強い響きに、皆も異論はなかった。
そんな、他愛もない会話をしながらも、歩みを進めていく。
しかし、だんだんと、日が暮れてきた。
西の空が茜色に、染まり始めている。
だが、まだ目的の地である、熊谷の街の面影は、全く見えてこなかった。
「……まずいな。このままだと、野営になるかもしれん」
龍也が、地図を確認しながら呟く。
そしてその不安は、すぐに現実のものとなった。
辺りが完全に夜の闇に包まれた頃。
道の両脇の土の中から、にょきり、にょきりと、青白い腕が突き出てきた。
一体、二体、三体……。
気づけば一行は、おびただしい数のゾンビの群れに、完全に包囲されていた。
「ひぃぃぃ!で、出たべー!」
「うわっ!こっちにも、おるわい!」
じんたとゆうこが、悲鳴を上げる。
しかし、以前の川口での恐怖に、ただ怯えていた彼らではない。
「かすみ!」
龍也の、鋭い声が飛ぶ。
「はい!」
かすみは、冷静に杖を構え、詠唱を始めた。
彼女の手のひらから、小さな灼熱の火の玉が生まれ、ゾンビの一体へと放たれた。
火の玉は、ゾンビに命中すると、その乾いた身体を、瞬く間に燃え上がらせた。
「よし!燃えるぞ!」
龍也が、叫ぶ。
「シンジ!じんた!火を、他のゾンビに燃え移らせろ!」
シンジが、燃え盛るゾンビを、蹴り飛ばし、他のゾンビへと叩きつける。
じんたも、勇気を振り絞り、近くの木の枝を、松明代わりに火を移し、それを、ゾンビへと押し付けていく。
じゅうじゅうと、肉の焼ける不快な匂いと煙が、辺りに立ち込める。
しかし、ゾンビの数は、減らない。
倒しても、倒しても、次から次へと、土の中から湧き出してくるのだ。
「……キリがない!このままじゃジリ貧だ!」
シンジが、歯ぎしりする。
その時、ゆうこが叫んだ。
「……タツヤ!道、開けえ!」
彼女は、あの、水晶の杖を、天へと高く掲げていた。
「……まさか、ゆうこ!?」
「ええい、ごちゃごちゃ、言うとらんで、はよせんかい!」
龍也は、覚悟を決めた。
「全員、ゆうこの後ろへ、集まれ!道を開けるぞ!」
龍也とシンジが、最後の力を振り絞り、前方のゾンビの群れに突撃し、わずかな隙間をこじ開ける。
その、隙間に向かって。
ゆうこが叫んだ。
「くらえ!ヴォルト!」
天から迸った、一筋の雷。
それは、ゾンビの群れのど真ん中に着弾し、凄まじい閃光と轟音を撒き散らした。
感電したゾンビたちが、黒焦げになりながら吹き飛んでいく。
その、圧倒的な威力で、ゾンビの包囲網に、ぽっかりと大きな、穴が空いた。
「今だ!走れ!」
一行は、その突破口から、一目散に走り出した。
背後で、再びゾンビたちが、うめき声を上げながら、集まってくるのが聞こえる。
しかしもう振り返らない。
ただ、ひたすらに前へ。
熊谷の街の明かりを信じて。
五人は、夜の闇の中を、駆け抜けていった。
十分ほど、走っただろうか。
もはや、誰の息も限界だった。足は、鉛のように重く肺は焼け付くように痛い。
それでも彼らは、走るのをやめなかった。
背後から迫り来る、死の気配。それが、彼らの足を、突き動かしていた。
その時だった。
「……あっ!」
かすみが、前方を指さした。
闇の中にぼんやりと、確かに一つの、巨大な影が浮かび上がっている。
そして、その中央に、わずかに漏れ聞こえる温かい光。
「……門だ!……門が、見えてきたぞ!」
龍也の、そのかすれた声は、もはや叫びに近かった。
しかし、その、希望の光は、無情にも少しずつ、閉ざされようとしていた。
街の閉門の時間なのだ。
巨大な木の扉が、ギイィィと、重い音を立てて、ゆっくりと閉まっていく。
「待ってくれー!」
龍也が、最後の力を振り絞り、叫んだ。
その声に、気づいたのか、門番が一瞬だけ、門を閉じる手を緩めた。
そのわずか、数十センチの隙間。
一行はそこに、なだれ込むようにして転がり込んだ。
そして背後で、ゴン!という重い音と共に、門が完全に閉ざされる。
その音は彼らにとって、何よりも美しい、勝利のファンファーレのように聞こえた。
外の世界から、完全に遮断された、安全な場所。
その安堵感に、張り詰めていた、最後の糸がぷつりと切れた。
「……うわああぁぁん!怖がったべー!」
じんたが、その場にへたり込み、子供のように声を上げて泣き出した。
その隣で、ゆうこも、
「えれぇこわかったんよぉ……わし……でも……助かって、よかったんじゃぁ……」
と、涙と、鼻水で、顔を、ぐしゃぐしゃにしている。
そして、それまで気丈に振る舞っていたかすみも、その、瞳から大粒の涙をぽろぽろとこぼし始めた。
「……怖かったです……。本当に、怖かったです……」
彼女も、まだ、旅に出たばかりの、若い、女の子なのだ。
龍也とシンジは、そんな、三人の、肩を、抱きながら、ただ、荒い息を、整えることしか、できなかった。
命からがらたどり着いた、新たな宿場街。
『熊谷』
その、最初の夜は、涙と安堵と、そして、極度の疲労と共に、静かに幕を開けるのだった。