第五二話 温泉郷の詩編 その六
丸一日が、完全に潰れた
夕方。
ようやく、シンジが目を覚ました。
彼は、一人だけ、全く二日酔いの様子もなく、すっきりとした涼しい顔で、リビングに現れた。
「……ようやく、起きたか」
その声には呆れと、そしてほんの少しの、優しさが含まれていた。
その夜の夕飯は、まだ本調子ではない、仲間たちのために胃に優しい、野菜たっぷりの水炊き鍋を作った。
四人は無言で、その温かい鍋をつつく。その、滋味深い出汁の味が、疲れ果てた五臓六腑に、じんわりと染み渡っていく。
ようやく、人心地がついた一行は、近所の、スーパー銭湯へと向かった。
熱い湯に身体を沈めると、全身の骨の髄まで染み付いていた、酒と疲労が、ゆっくりと溶け出していくようだった。
そしてその夜。
五人は、これまでのどの夜よりも深く、そして、静かな眠りについた。
旅立ちの、朝が来た。
いつものように家の前で、太極拳を始めるとそこへ、ゆうこがやってきた。
「うちも、やる」
そう言って彼女は、隣に並び、見よう見まねで、そのゆったりとした、動きを真似し始めた。
二人の影が、朝日に照らされ、長く伸びていく。
日課を終え二人は、そのまま気分のいい、朝の空気を吸いながら散歩に出た。
静かな住宅街を並んで歩く。
その穏やかな空気の中、龍也は少しだけ、気まずそうに口を開いた。
「……なあ、ゆうこ。……あの、宴会の夜のことなんだが」
「……ん?なんじゃ?」
「俺、最後の記憶が、ほとんど、ないんだ。……ゆうこに、無理やり、酒を、飲まされたような、気がするんだが……。あれは、わざとやったのか?」
その問いにゆうこは、ぷいっとそっぽを向いた。そして少しだけ、頬を膨らませながら言った。
「……当たり前じゃろうが」
「……先にずるいこと、言うたんは、タツヤの方じゃ。『綺麗だ』なんて、あんな騒がしい中で、耳元で囁きおって……。反則じゃ」
ちらりと、上目遣いに見つめる。
「……だから、わしも、仕返ししただけじゃ。あんたを、誘惑して、酔いつぶしてやろう、思うてな。……ちょっとだけ、意地悪、したかったんよ」
そして、彼女は、小さな声で、付け加えた。
「……すまん」
その、あまりにも素直な、そして、可愛らしい謝罪。
龍也は、思わず、吹き出してしまった。
「……まあ、いいさ。お互い様、ってことだな」
そして少しだけ、真面目な顔で言った。
「……ただ、一つだけ。……あの時、お前に言った言葉に、嘘は何一つないからな」
その、ストレートな言葉。
一瞬、足を止めた。そして、龍也の方を振り向くと、カッと赤くなった顔で、しかし、まっすぐな瞳で言い返した。
「……わしだって、嘘は何一つついとらんわい、この朴念仁!」
そう言い捨てると、ぷいっと前を向いて、今度こそ本当に、さっさと歩き出してしまった。
その、強気な言葉の裏に隠された、照れのようなもの。
その、あまりにも彼女らしい反応に、心の底から愛おしいという感情が、込み上げてくるのを感じていた。
そして、その小さな背中を、少しだけ慌てて追いかけながら、思わず笑みをこぼすのだった。
旅立ちの朝は、少しだけ甘酸っぱい、空気に包まれていた。
家に戻ると、ちょうどシンジが、朝のランニングから、帰ってきたところだった。
その額には、うっすらと汗が光っている。
リビングでは、かすみが、すでに旅の身支度を完全に整え、すっきりとした清々しい顔でお茶を飲んでいた。
部屋の奥からは、じんたが、大きなあくびをしながら、まだ寝ぼけ眼のまま、のろのろと這い出してくるところだった。
「……おはよう」
「おはようございます!」
「……おはよ……だべ……」
三者三様の、朝の挨拶。
昨日の惨状が、嘘のようにそこには、いつもの我が家の、日常の光景が広がっていた。
台所に立つと、手早く丁寧に軽い、朝食の準備を始めた。
昨夜の、鍋の残りで、作った、雑炊。
その、シンプルな、心のこもった朝食を、五人は静かに、そして、どこか名残惜しそうに味わった。
そして食後。
昼の出発に向けて、最後の身支度を整える
荷物を背負い、武器を手に取る。
そして五人は、この短くも濃い、思い出が詰まった我が家の、玄関に立った。
龍也が、ゆっくりと振り返る。
仲間たちの顔。
その一人一人の、信頼に満ちた眼差し。
「……よし」
龍也は、短く、しかし、力強く言った。
「……行くか」
その一言を合図に、五人は、浦和の朝日の中へと、その力強い、第一歩を踏み出した。
本当の旅が、今、ここから始まる。